TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚版『エリザベート』について

エリザベートって何なんだろ、と思いながらあてのない旅を続けている気持ちです。

前回はフランツに心を寄せていたので、物語の枠の中でくるくると踊るひとたちの視点で話を理解していたつもりになっていたけれど、たぶんその見方だと劇中劇部分に重きを置きすぎて、作品全体の細部構造についてはわりとうっちゃっておくほかなかった気がします。視野がとても限定的だった。その見方がだめだった、とは思いたくないし、そうではないだろうけれど、今回はルキーニという一語り手を中心に見ているので、この物語の構造につっこんで考えながら見ざるをえなくなってしまったような。登場人物ら誰かひとり、もしくはそれぞれにあまり深入りはせず、ああなのかな、こうなのかな、と客席あるいはあの世の裁判の傍聴席にいる人間として、舞台を見つめています。
劇中劇で起こっていることは、かつて起こったことであっても、いまそれを演じているのははるか昔にこと切れている亡霊たちで、思い返してその視点を強固にすれば、ねじまき人形のようなかくかくとした振付のコミカルさよりも不気味さが際立つ。あのひとたちは生きている人間が思うような意思を持った存在ではなく、話の通じないひとたち。東宝版でも黄昏時の結婚式〜最後のダンス手前当たり前の振付がそれを主張していたなと思い出しました。結婚は失敗だ〜♪のイントロが、過疎化している遊園地の壊れたスピーカーから流れる、陽気な筈なのに半音ずつずれて不安を掻き立てるメロディで、その後の流れとマッチしていて不気味でとても好き。


大枠のある意味で非常にキッチュ!なところに気づいてわくわくしつつも、宝塚版でそんなこと言っても仕方ないのですが、皇后は死に愛されていた、という部分はあくまで過剰にロマンチックかつ皮肉たっぷりの比喩であってほしい派なので、全部男と女のラブロマンスに落とし込まないでよ、と抵抗してしまうのと(最終答弁でがつんと直接対決してしまうほど、フランツはいつ自分の奥方が死に魅入られているのだと気付いたのか?)そもそもルキーニのいうことを全部鵜呑みにしていたら、ラブストーリーとして話に一本筋が通らないことに気づいてしまうのと。

ルキーニはトートといつであったのか、殺すのは誰でもよかった、という言及はないにしてもシシィのことを新聞で(初めて)知った「にわかアナキスト」のはずの彼が、無差別殺人ではなく、トートに偉大な任務を与えられた使徒として、皇后を殺害したように言い訳をするのか。皇后の幼少期からいままでについてなぜ知っていたのか。劇中劇の案内人兼演出家としてシナリオを組み立てているかのように見えるけれど、あの場で亡霊たちの証言を初めて聞いて、同時並行で物語を追っていることとするのはやや苦しいし、知らなかったのならばun grande amoreが動機と以前から知っていたようにふるまうのはなぜか。
舞台上で劇中劇として再現されているものと、実際に彼らの生前に起こった出来事(史実ではなく、ルキーニが囚われている死後の世界の牢獄から、時間軸を百と数十年ずらした「ミュージカル エリザベート」の世界の過去の事実)はおそらく齟齬がある部分が確実に存在する。たとえば最終答弁は現実のものとしてあるわけがないし(トートが出てきたことに違和感なく対応しているフランツ(存在する次元が隔てられていたひとが出会ってしまった感)、死という概念が実体を伴っていたとしてもフランツが若返るような魔法が起こる類の世界観ではない、我ら息絶えし者どもの場面と同様に白い彫像らが出てくるetc.)、それならばその流れからルキーニがトートからナイフを受け取ることもあり得ない(物語の外の語り手としてではなく、内に関われる人間として新聞を読む前のタイミングでルキーニがハプスブルク家に介入してくるのはおかしい)

はじめは動機なんかない、誰でもよかった、と主張していたルキーニが、百年近く牢獄に閉じ込められ、その答えでは納得しない裁判官に尋問され続けているうちに、妄執にとらわれてしまったのではないか。エリザベートは美しい実体をもった「死」という存在に愛されていた、という妄執。

視察する前からどの程度シシィについて知識があったか、あるいはまったく知らず後から彼女のことを詳しく知ったかによってことなるだろうけれど(それはどうやって?という疑問もあるけど)、とりあえず後者と仮定して。死に近しい存在という意味で、この作品の中のルキーニはエリザベートに、自分は得られていないものを手に入れていることへの羨望とつよい親しみ、同時に激しい憎しみを抱いていたのではないか(歌劇で望海さんが「究極愛していて究極憎んでいる」というようなことをおっしゃっていた)。それは最終的には、刺殺する、というかたちで彼自身が彼女に与えたものであったのだけれど、という皮肉。
トートからナイフを手渡された場面は、あくまで再現の中でしか起きなかった出来事、ルキーニの頭の中の光景、願望が具現化したことであって、実際は自分で見繕ってきたものなのでは。鶏が先か、卵が先か、みたいな話になってきました。

語り手=地の文はミスリードをしない、十戒に反してしまう、というような考え方がたぶんずっとあったのだけれど、これはミステリじゃないから、その定義を根本から疑うべきだった。ある語り手の証言をすべて鵜呑みにしてはいけないし、そこは疑っていいんだよ、という意味ではスリル・ミーの「私」と同じような部類。裁判官殿は信じてないけどこのおじさん(ルキーニ)の言っていることは本当なんだ!だって私たちの目の前にはトート閣下いるし!じゃなくて、おじさんの頭の中の光景が目の前に映し出されているような状況と仮定している。どうやってそんなすごいことできてんだよ、とかは知らないけど……。「誰も知らない真実」(をこれから教えてあげよう)ではなくて、言葉の意味そのままに「誰も知らない真実」で、あくまでルキーニが彼にとって都合のいいところをつまんで、さも関連があるように意味づけして紡いでいる物語にすぎないのでは。

これはエリザベートとフランツとトートとの三角関係の話ではなく、エリザベートとトートとルキーニの三角関係の話だった。劇中劇の枠の外からの視点を持つと、自分の意志をもって行動している存在は、あのお話ではトートとルキーニだけに見えるのだけれど、本当の本当の意味では、ルキーニだけなのかも。シシィ側からは一切相手にされていないどころか、自分を殺した男以上に個体認識されているかどうかもあやしいが、これは共闘者を自分の手で刺し殺してしまったあわれな男の物語とも?彼が死という妄執にとらわれたのがシシィの刺殺後だとしたら、あの場面は物語の終点ではなく起点といえるのでは。シシィの中にトートを見出して、その存在が独り歩きしてゆくための起点。
既に死んでいるルキーニと、亡霊たちの差別化がどうやってなされているのかと考えたときに、「さっさと天国や地獄」にやられてしまったら、彼もまたおのれの意思をなくした人形のようになってしまうのだろうか、彼にとってはどちらが幸せなんだろうか、とも思いました。

また鶏が先か卵が先か、みたいな話になってしまったけれど、エリザベートとトートの恋愛を一応成り立たせつつ(ひとりのテロリストの妄執の果てによるものであっても)個人的に納得がいく流れはこれかなあという落としどころです。

そもそもトートの容貌が見る者の願望のうつし鏡だとしたら、あんなに好色そうなルキーニにとってトートはなぜいろっぺえねえちゃんじゃなく、肉欲ということばからは恐ろしく乖離したつめたい美貌の麗人に見えているのか。そこを、だからトートの容貌はシシィの望みにそっているからであって、あの中性的な美しさこそが、前述のルキーニの誇大妄想解釈がありえない理由のひとつ、とバッサリ切るのではなくて、ルキーニもまたああいう死を望んでいたんだといいきるほうが、個人的にはおもしろい。おじさんがそういうのを望んじゃあわるいかい、と人知れず夜ごと美しいマリア像を拝みに教会に忍び込む無頼漢みたいで。

死因じゃなくて動機というのが、トートがルキーニを使わせた「動機」とも、ルキーニ自身の「動機」とも思える。自分のトートへの愛を「un grande amore」と表するルキーニだとしたらなんというロマンチスト!

なぜ語り手であるルキーニが最後の場面一歩手前でフェードアウトしてしまうのか(シシィとトートが天上へむかう傍らにロープで首つり自殺をはかる男がいたら宝塚的絵面としてうつくしくない、という理由以外を考えたい)、あんなに抗っていたトートに身をゆだねるエリザベートが不可解というのに加えて、宝塚お決まりの型に見事に当てはまってしまうラストに終始首をひねっていたところ、あの部分はエリザベートを刺殺したあとのルキーニの妄想だよ、という友人の解釈に膝をうって、つらつらと考えていたら上記のような内容が浮かびました。

正解はないのかもしれないし、これだけ繰り返し上演されている作品なのだから、特に新たな説ではないでしょうし。覚書として。