TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

エリザベート 8/25マチネ





●日替わりキャスト・敬称略
春野・マテ・岡田・大野・杜


2回目にして名古屋マイ楽でした。そして来週はもう大阪初日に。
直前まで悩んでいたのですが、悩んでる時はだいたいゴーサインをおのれに出す、といういつもの選択は誤っていなかったです。あとからよくよくキャスケを見返してみたら、大野ルドはこの日を逃したらもう観られなかったのと、杜さんのゾフィー初観劇の日が早まった、という意味で。

8/25マチネは杜ゾフィー→岡田フランツ→春野シシィ、のハプスブルク家の負の連鎖、因果のめぐりをひしひしと感じた日でした。
しかし大野ルドルフは個人的に上記お三方とは少し質感が異なっているようで、清史郎くんの子ルドが大野ルドルフになるという流れはとてもうなずけたし、大野ルドルフは春野シシィのことを唯一無二の理解者、母親としてとても大好きそうだけど、鏡同士かと言われると少し疑問かなと。春野シシィと岡田フランツからは大野ルドは生まれないように感じて、春野シシィと禅フランツの子どもなのかなあとも、瀬奈シシィと鏡同士のような気もします。
以下個別の感想です。


●岡田フランツと杜ゾフィー
前回の記事にも記したのですが、実は今まで杜ゾフィーとはご縁がなく、10回連続で寿ゾフィーでした。どうしても岡田フランツと中心に捉えて観てしまっているがゆえの感想ながら、岡田フランツと寿ゾフィーとは、こういう教育をしたらこういう子ができてしまうだろうな、という意味での「親子」を感じていた二人だったのですが、杜ゾフィーとは彼女もまた「強く厳しく冷静に冷酷に」を息子だけでなく自分にも言い聞かせている人だな、という意味で「親子」だなあと、今回の初見でしみじみ納得しました。杜ゾフィーは、息子は自由と〜の母親が駆け込んでくるところで、強く厳しく〜と執務机に手を置いて身を乗り出して岡田フランツのほうに迫るように言い聞かせていたのに、ご慈悲を!と 訴える彼女の様子が目に入って、はっしたような顔をつくるんですね。すぐ顔を背けて身体を下手のほうに向けてから「冷静に〜」と歌う姿に、自分の動揺を息子に、周囲に悟らせないためなのかしら、とそこからゾフィーもまた「強い皇太后を演じている」「狂える勇気を持てない」ひとなのかな、とそう思えてならなかったです。まだ若すぎるわ、あたりは、これはあなたが嫁いできたときに言われてきたことじゃないの…?と穿ってしまうほど、杜ゾフィー→岡田フランツ→春野シシィ→ルドルフ、の負の連鎖なの…?と。強く厳しく〜と言い聞かせるうちに、仮面が張り付いて取れなくなってしまった、一皮むけば人間味のある揺れやすい人。

そんな杜ゾフィーの最期では、この手だけで育てたわ、と歌い出した時に前述の執務室での、岡田フランツに身を乗り出して、皇帝としてどうあるべきかを言い聞かせている姿がぱっと浮かびました。微笑ましい場面ではまるでないし、フランツにとって幸せなことではなかったのだろうけど、ああやってひとつひとつ教え込んで彼女なりに手塩にかけて息子を育てていたんだな、彼女なりの愛し方をしていたのだな、というのがひしひし伝わるようだったので。やはり息子の教育がゾフィーの人生のなかでかなりの割合をしめていたことは事実で、そのことにある程度誇りを持って生きてきたであろう彼女の人生そのものが、フランツの「もうあなたの意見をきくことはないでしょう」という言葉によって打ち砕かれたのかなと思うと、あのはっと胸を突かれたような表情が痛ましくてならなかったです。自分の生き方そのものを疑いを持って振り返ってしまっただろうし、きっと「いささかひよわ」であっただろうルドルフとよく似た、岡田フランツのちいさいころの姿を思い浮かべたかもしれない。

小さな頃のルドルフ、といえば、「もうあなたの意見を」を口にする前に、杜ゾフィーの杖を持つ手を握る、というよりは人差し指と親指でそっと触れる岡田フランツの姿が「ママにあわせてください」とゾフィーおばあさまに縋っていた子ルドに重なってびっくりしました。ふたりともなんだか頼りなくちいさく思えてしまった場面。 清史郎くんの子ルドだったから、というのもあるのかもしれませんし、杜ゾフィーだったから、という可能性ももちろん考えられるなあと。

岡田フランツが突然変異でハプスブルク家に生まれた子ではなく、杜ゾフィーから生まれた子だなあというのがひしひし伝わってきたので、すべての不幸が岡田フランツ一人にのしかかっているものではない、すべて彼の責任ではなくもうあの血筋が、という流れに思えて悪夢の孤立無援感は薄れたかわりに、ハプスブルク家という家系樹全体から見れば、現在長だとしても一葉でしかない彼ひとりに、この瞬間だけすべてが押し付けられてしまっているなんてそんな!という感はありました。あくまでフランツひいき目線はくずれません……。


●岡田フランツと春野シシィ
執務室で後退りしつつ机上の手袋取るところが、8/25マチネは結構危なくて、うっかりゆきすごして忘れかけそうになったのをハッ!とすんでのところでさらった感。ちょっとハラハラしました。まさかのときには\めでたいですなー!/と笑いながら追いかけて手袋渡す役やりたいなあとじっと見つつ、それからいつものバートイシュルターンでしたが、常に先を憂えているいまの岡田フランツもすてきだけど、春野シシィと手をつないでまん丸に目を見開いて輝く笑顔を見せたり、あなたがいる、でふわあっと笑う彼をもう一度見たいなとわがままを思ってしまうくらい、ほんとうにどんどん常になにかを諦めたような表情のフランツになっているなと。それでもあなたがそばにいれば、の岡田フランツと春野シシィはかわらずかわゆいふたりで、いつものようにおそろしいほどの多幸感をおぼえました……。いつかわたしの目で見てくれたなら、の春野シシィのまばゆい笑顔と対比するような、岡田フランツの、あのなんとも言えない微笑んでいるような諦めているような表情がとても好きです。この時の春野シシィはなんの憂いも知らない、まさに最大級に「人の世を知らなすぎた」頃の彼女。
そこからの結婚式、そして舞踏会では、あのこに似合う似合わない、と品定めをされているのをまるで知らずに、岡田フランツに手を取られ白い階段を降りてきた春野シシィの笑顔がまばゆく、かわゆくも、彼女の表情が曇るのはそのあとすぐのことなのだなと思うとかなしいなと。しかしワルツを踊る場面はお衣装のすてきさもあいまって、あいかわらずマイベストな二人です。こんなかわゆいお二方を目に焼きつけられるこの両目は祝福されている!網膜にこの光景よ焼きつけ!と心の中で必死に唱えていました。

そんな二人の幸せのクライマックスを経て、皇后の義務、で「でも母の意見は〜」は抱きしめて耳元でささやくように「…わかるね?」は身体を離してから、言い聞かせるようにするずるい岡田フランツ、それに対する「あなたも私を見殺しにするのね」と涙を瞳にいっぱいにためてくちびるをわななかせる春野シシィ、さらに思ってもいないきりかえしに「シシィ…!」と取り乱す岡田フランツ、彼をはねのける春野シシィ、と最初からあった見えない溝はどんどん深まってゆくわけです。
シシィ…!の声音の動揺ぶりもさることながら、1年目〜での敵だわ!と言われた岡田フランツの表情から伝わるかなしみと衝撃の最大瞬間風速達成感ははんぱなかったです。おめめまんまるでぷるぷるしている感じがとてもチワワで寒そうなので、誰か抱きしめてよ…と思ってしまった。

最後通告の場面では、あまりの動揺からかシシィからの手紙を勢い余ってぐしゃあって握りしめてしまっていて、大事な手紙では……!?と少しびっくりしたのですが、三重唱の「君の手紙何度も読んだよ」で、このひと絶対後からしでかしたことを悔いて、一生懸命手でのばして、読まない時は厚めの本に挟んで押してもとの状態に戻そうとしただろうなあと、その光景が浮かぶようだな、と思いました。三重唱のラストでエリザベート!と階段上にいるシシィに手をのばす姿が岡田フランツというひとをあらわすすべてかもしれない。君なしの人生は耐えられない、の切迫感。
2幕の夜のボートでは、「二隻のボートの様な」でシシィとすれ違ってしまった瞬間に岡田フランツの顔に浮かんだかなしみの色にやはり胸がつまりました。分かり合えなかったことについて彼はこれからシシィを喪ってもなお続いてゆく残りの人生をかけて考えてゆくのか、それともうつくしい思い出だけ反芻することにとどめるのかな、と思いを馳せてしまう様な、彼女を喪ってどうやって生きていけたのかわからないような岡田さんのフランツ。張りつめて張りつめてばかりではどこかでぽっきりと折れてしまうのではないかしらと。
我ら息絶えし〜からルキーニの操り人形のように、シシィの夫であり、ハプスブルクの皇帝という生前の役割を演じていたけれど、悪夢でもがき苦しんで倒れ伏したその瞬間に、お前は100年前に死んだ人間なんだ、そしてそれはお前の妻も同じこと、と事実を突きつけられ闇のなかに溶けてゆくフランツはその時なにを思っただろうなあと考えていたのですが、実際はシシィを喪ってから何十年も過ごしたとしても、この幾度となくルキーニによって繰り返されるお芝居のなかではシシィより先に退場することができ、シシィが殺されたところでお話にエンドマークがつくことでその先をひとりで生きずにすむ、ということはまだ彼にとって救いなのかなとも思いました。目の前で自分の妻が刺されるところを目撃する、という悲しみと天秤にかけたときに果たして、とはなりますが。
すべて与えた!の右目に光る涙やら、トートとの戦いに敗れて(勝ち目などなかったけど)中央前方にべしょっと倒れ伏したぼろぼろの姿にはもうどうしていいかわからなくなるのですが、実際できたかどうかはともかく「すべて与える」ことと、受け取る(押し付けられる)ものにとって「自由を得ること」はそれらをすべて手放すことにも繋がって、フランツはシシィが望んでいたこととはやはり真逆のことしかできていなかったのではなろうか、と思ったら本当にやるせなくなります。もうただ、それしか求めていないような「人生のゴールは寄り添いたい」へのこたえが「二つのゴールよ」なのかと思ったら、どちらか一方が悪い、という単純な話ではないだけに始末に負えなくて呆然としてしまう。
今回の春野シシィの「わかって」は前回より岡田フランツとのわかりあえなさに疲れたのだ、という感じはせず、もっと軽やかで、でもそれゆえに高みから降りてくるような「わかって」でした。あのときの春野シシィはたぶんもう岡田フランツの手の届かないところにいたのでしょう。
春野シシィの、狂えるほどの勇気が私に持てたなら、と 人の世を知らなすぎたわ、が名古屋からやけに刺さります。

春野さんのシシィも岡田さんのフランツもそういう場面が多いのですが、輝く笑顔を見せるはずのところで泣きそうにそっとほほえんでいたり、逆にさめざめ泣きぬれてもいいところでふわっと笑っていたりする、あれ、と首を傾げるようで、よくよく心に落とすととても納得がゆく、役としての自然な感情のあらわれがとても好きです。


●大野ルドルフと清史郎くんの子ルド
清史郎くんの子ルドの、昨日も猫を殺した、がやってやったんだよぼく!ではなくて、自分の行為をどこか悔いているようにしょんもりしてたのと、その時のマテトートの口ぱかっとあけたとても動物的な笑みがとても印象深かったのですが、あの場面での、マテトートが机の上に置いていった銃を見つけてわあっ、と驚いた顔をした後か、歌の流れのなかで胸に拳をあてる敬礼をしていて、その様子が闇広の最後、ハプスブルク!のルドルフを見た瞬間フラッシュバックしました。加えてもうひとつ、銃へのその反応が、大野ルドの自殺直前の銃を手にした時の表情の変化、小さな頃なくした大事なおもちゃをもう一度見つけ出したように握りしめる安堵の笑みにしっかりと繋がっているように思えて、この二人は二人別々のルドルフじゃなく、ひとりの人間である事、清史郎くんのルドルフが大きくなったら大野ルドルフになるんだ、と確かに感じられてなんだか嬉しかったです。

ママと同じ意見が間違いだというの、の大野ルドはそんなことあるはずわけないだろ父さん?というわりと自分の意見を押し付ける感じで、古川ルドの、そこのところパパはどう思ってるの?ただただ必死で問いかける感じと好対照だなあと思いながら観ていました。諸民族は平等だ!と岡田フランツが口にしたときも大野ルドは険しい表情を崩さなかったので、あそこで父とわかりあえるかも!とやや表情を明るくして駆け寄ろうとするのは古川ルドだけなのかなと。
あの大野ルドルフのふてぶてしさの中に少し甘えた感が混じるところが好きです。彼の演技プランプラス顔立ちのせいもあるのだと。
具体的な場面では、ハーケンクロイツの描かれた布を引き摺り下ろしたあと軍服の裾をぐっと伸ばすところと、ハプスブルク!の前に掴まれて乱れた襟をぴっと正すところが印象深いです。馬車の上からのお手振りでの、ぴっと伸ばした腕のまっすぐさがとてもうつくしいのは、彼のはっきりとした意志ががあらわれているから。
世界が沈む時舵をとらなくては、の意識がひしひし伝わるので、大野ルドはママ鏡より闇広がより好きです。

トートからのルドルフへキスの場面は、いつもそういうものだものね、と思って特になんらかの思い入れをもって見るシーンではなかったのですが、今回その箇所の大野ルドで少しどきっとしたのは、それまでの意志に満ち満ちた強情そうな表情が影を潜めて一気に相手に身を委ねるようになったから、その急激な推移に目がいったのかなあと。彼の生命力のかたまりっぽさ、なまなましさが由来かもしれません。ゆうたくんのルドルフは死にむかう道筋が初めから見えているようなので、自然な流れとして引っ掛かりを感じないののですが、大野ルドはこのこって不幸にならないようなにかがついて見守ってくれていそう(トートしかついていないけれど)、という気がしてしまうから余計に、何度見てもたぶんびっくりしてしまうと思います。
ロミジュリでたとえると、初めから終わりが見えているようないしいマキュと、直前までまったく死にそうになかったらちマキュのような。

冒頭に記したように、杜ゾフィー→岡田フランツ→春野シシィ、の負の連鎖を大野ルドルフだったら断ち切ってくれそうに思えたので、筋書きははなから決まっていることにかわりはなかったのですが、あれ?と他のお三方との血のつながり、という意味で首をかしげてしまったんです。禅さんのフランツと大野ルドルフがしっくりきていた、という話を伺っていたので、その組み合わせでもやはり見ておくべきだったなあと思いました。
大野くんのルドルフが好きということには変わりなく、役として違和感があったということではないので、たまたま今回組み合わせとして私がそう感じただけ、ということで。

大野くんのデブレツェン民その1はまったく顔を隠す気がなく、旗を横に立ててにっこにこ笑顔を見せているので、おい!とつっこみたくなるのですが、かわいかったからすべてうやむやにしてしまいたくなる。きっとそういうシーンです。


●箇条書きコーナー
・あの謁見する皆様が乗っている台や、カフェの椅子や机が乗ってる台が棺だったのか…透けてる骸骨こわい…ということに観劇二桁ごえして今更気づきました。なんて恐ろしい執務室…カフェ…というより自分が今までどこ観てたのか、というほうがおそろしい。

・結婚式の白い軍服の正装でシシィを抱きしめる時、袖と白手袋の間から手首がちらっと見えるのにぐっときます。「さあ、とくとご覧あれ!」
直前のバートイシュルのお洋服のてろてろ感がどうしても気になってしまうので、お色直し後の結婚式の正装のぴったりあった丈、仕立て具合にいつも感動します。プリンスチャーミングだと思う。

・マダムヴォルフ〜で南海さんばっかり見てしまうし、つけぼくろも目じりにかけてつけまでまつげ増量してるのも色っぽくてそわそわします。

ヘレネと妹(みつあみの彼女)がルドヴィカの両脇にぴったり寄り添って、母のドレスのおなかのところあたりで、ふたりで顔を見合わせて笑いあうのがいつもかわゆい。

・カフェのシーンの中山さんが丸眼鏡で紺地に水玉模様のおリボンタイかわゆいし、口ひげが似合いすぎる。ロミジュリの大公様も好きでしたが、ラウシャー様やらこういうコミカルに演じられる役の時の方がいきいき度が増していらっしゃるのかしらと思ったり。

・毎回トートも、トートも注視したい…と思っていて、よく考えなくとも我ら息絶えし〜と悪夢くらいしかフランツと同時に出て来ないから余裕なはずなのに、今回はより注視していたのにもかかわらず、一度で受け取る情報量が多すぎて覚えていられないという現状です。特に好きなマテトートは結婚式の司教様の衣裳(なんとか見られる)と悪夢(地を這う人間の方を見てしまうので厳しい)と今回ちびルドとのシーンもやっぱり好きだなと思いました。

・やっぱり最後に輝く笑顔で腕のなかに飛び込んでゆくのは春野シシィのほうで、マテトートはあんまりあの結末を喜んでいない気がします。右手をシシィの棺に、左手でルキーニの首にかかる縄をぐぐ、と締め上げる動作をする時もマテトートはわりと淡白な表情をしている。
石丸トートはやってやったぞ!!と意志に満ち満ちた表情だったなあ、と思い出すと同時に\今日も〜エリザベートさんを〜無事黄泉の国にお連れすることができました〜!イェア!!/という挨拶を思い出すのでそういうことなのかなあと。