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観劇後に気合があったときだけ書きます

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感③

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感③

 

「雪原のベートーヴェンはナポレオンの夢を見るか?」

 

ルサンクのト書きに記述があったら、一発で想像の意味がなくなる話をしています。

 

 政治思想への共鳴や失望で、他者を偉大な人間と崇めては勝手にファンになったりファンをやめたりする惚れっぽいベートーヴェンですが、彼が惚れ込み幻滅したナポレオンが、劇中で姿を現す場面には、戴冠式の場面のような、ベートーヴェンの頭のなかのナポレオン像に見えるものと、ゲーテに面会を求める場面のような、ベートーヴェンの想像が関与していない、実在の意思を持った人間・ナポレオンが登場しているもの、2パターン存在すると思って見ています。

 

 前者のパターンはナポレオン像の「英雄」や「エセ皇帝」としての側面が強調されていて、ベートーヴェンは一方的に仕入れたわずかな情報から、自分の頭のなかで作り出した像に胸をときめかせたり憎んだりしているように見える。彼らは同時に舞台上に登場するも、同じ空間に存在しているようには描かれていない。彼らの間に対話はない。

一方で後者のナポレオンは、自分の描いた理想の世界に確信を持ちつつも、実現のための手段に迷う、人間らしい懊悩も垣間見える存在として描かれている。

 

 実際のベートーヴェンとナポレオンが顔を合わせることはなかったというのは事実、ではこのfffという作品内でも、彼らは出会うことはなかったのでしょうか。作家・演出家の久美子先生は二人を意思疎通ができる存在として、描かなかったのでしょうか。

 

「もしも」を描いたロシアの雪原の場面も、ベートーヴェンの頭の中の出来事にすぎないの? という問いかけに、否!と答えてみたい。とはいってもあくまでこれは私の一見解で、いやいやベートーヴェンの妄想だよ、という見方もあるだろうなとは思います。逆に、いやいや一見解どころか当たり前の見方でしょ、今更書き連ねる内容でもなんでもないよね、という人もいるかもしれない。

 

 もちろん、ロールヘンの死を知ってふらふらと倒れ込んだベートーヴェンが、いきなり実存するロシアの雪原に飛ぶ、というタイプの飛躍はfffの世界であっても発生しない気がするし、すでにナポレオンがロシアで負けている世界にいたはずのベートーヴェンが時間軸までも遡ってしまうことまではないかな? と思うので、もしかしたら死んであの世(??)に行く寸前のナポレオンと死にそうなベートーヴェンが精神世界(??)で邂逅し魂の交感ができた、寒さは感じているようだけど雪原はイメージだよ、くらいの認識です。直前にいた場所とは異なる非実在の空間に魂がワープすることはあっても、過去の実在する空間への肉体を伴う移動は謎の女でもない限りできないよ、という理解でいる。

 

 いや、倒れた兵士は起き上がるし雪の精は出てくるし、もうなんでもありなのかもしれない、と弱気にもなりつつ。ナポレオンがべートーヴェンとは異なる意思を持った存在でありさえすれば、細かい設定は違ってもいい。

 

 上記のような妄想をしつつ、なぜ私がこの場面のナポレオンをベートーヴェンのイマジナリーフレンドではないと思っているか、いくつか理由をあげます。

 

・ナポレオンとベートーヴェンの会話のキャッチボールが成立している

 彼らが一方通行でない会話をするのは、この場面が最初で最後です。

 この場面以前の、ベートーヴェンの妄想上のナポレオンと思しき人物の登場場面では、彼はベートーヴェンと言葉を交わしていなかった。つまり妄想上のナポレオンであれば、ベートーヴェンは会話ができないのではないか、という仮定。

 

・ナポレオンはベートーヴェンベートーヴェンという人物と認識していない

 ベートーヴェンが軍服を着ていない点をスルーしつつ、彼への呼びかけである「我が兵士」がナポレオンジョークでなければ、ナポレオンは雪原に倒れていたベートーヴェンを、自分と一緒にロシアに進軍した、まだ助かる見込みのある一兵士として認識している、恐らくは。ベートーヴェンの想像上のナポレオンであれば、(ファン人生の濃さが邪魔をして相手との心理的、物理的距離をひどく遠くに設定していたため、認知されていない前提で妄想してしまった、ということでなければ)さすがにベートーヴェンベートーヴェンと認識して呼びかける、はず。

 その場合「今までいいことなんかひとつもなかったろ」は自分のせいで戦争に駆り出され続けた、名もなき「我が兵士」に向けての言葉という理解でいいのだろうか、と想像しています。

 

・ナポレオンはベートーヴェンが知らないはずの事実を彼に伝える

 ナポレオンの戴冠式の場面と同時にベートーヴェンがその事実を知ったことを思うと、この基準もぐらぐら揺れ出すけれど、あの時は彼が外からのニュースを耳にする可能性がある状況だったこと、あるいは謎の女の導き(?)があったから、と思いたい。ベートーヴェンの望む「不幸」がこの雪原の場面ではナポレオンの形をとった、という設定でもない限り(ナポレオンが消えたとたんに謎の女が出てくることを思うと、可能性はゼロではないが)、謎の女を介していないはずのこの場面では、ベートーヴェンが知らない事実を、イマジナリーフレンドのナポレオンは口にできないはず。

 

 というような理由から、この場面に出てくるナポレオンはベートーヴェンの妄想ではない、己の意思を持ったナポレオンである、と私は認識しています。

 

 上記を前提とした場合「私が救うはずだった!」はもう自分では世界を救えないことを知っている立場のナポレオンが発した言葉。もっと虚しく響くと思いきや、彼の声音はまだ巻き返しがきく人のそれのように、傲岸不遜で湿りっけがない。

 同じ場面で彼が口にする、生きることは苦しみ、誰かといても孤独、と自分が見つけた真理を分けてやるともったいぶるのでもなく、事実としてさらりと口にするナポレオン像とブレがなく、彼はそういう人生の荒波を堂々と渡る、あるいは組み伏せることを心底おもしろがってるひとだよね、とも思える。とことん理詰めで考えて行動したことだから、これ以上できることはない、とすっぱり諦められるのか、あるいは後に続くものを信じられるのか。後者だったら「まどろっこしい!」とロシアに進軍したりはしなかっただろうけど、それを決断した時と、この場面の彼の心境は異なるのか。

 

「ヨーロッパ全体がそこそこ豊かになれば」という世界を理想とする彼の、理想の実現方法や「ヨーロッパ」という範囲のみで「理想の世界」を語ることで取りこぼされるものを現代日本に生きる私たちは知っているけれど、彼の口にする「そこそこ」という感覚や、皆の幸せを第一に考えているわけではなく、それは理想の世界のおまけであるというような口ぶりを、ベートーヴェンのようにうっかり信じてみたくなる。「誰も思いつかなかった、法則と正解を探せ!」という号令に乗せられたくなる。

 

 一つ前の記事と同じようなところをぐるぐる回りかけたので、ひとまずここまでにしたい。

 

 fffの劇中、三人の男たちを称する言葉や、彼らが目指す理想の世界の表現について「高さ」はまだ腑に落ちるとして「ヨーロッパという溶鉱炉で鍛えられた鋼の男たちがいた!」「硬さ」「大きさ」をよいものとする物差しの使い方には、男性性を飾り立てる言葉としてとても的確ですね!くらいの距離感で、内心面白さを感じている。終始マッチョな話だな、と思わせる要素が多分にあるところを、うまくやり過ごしているような、逆にそれを逆手にとっているような話だなと思う。

 リアル男性が描いた脚本・演出で演者も男性だったら、また違う受け取り方をしている、この作品を女性の作家・演出家が手がけて、かつ女性が演じている、というところに肝がある、と言い切ってしまいたい気持ちを残しつつ、そうであっても鼻につく場合はあると思うので、どうして?のはてなを常に頭の片隅に置いていたいです。