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観劇後に気合があったときだけ書きます

雪組公演 レビュー・アラベスク『シルクロード~盗賊と宝石~』の国や文化の表現について

雪組公演 レビュー・アラベスクシルクロード~盗賊と宝石~』の国や文化の表現について

 

 これといった結論が出せていない内容なので、シルクロードを観劇した人に一緒に考えてほしいと思い、記録に残しました。具体的な国や文化を引き合いに出して、このショーの中での表現として比較してこうだ、と語っている記事ではありません。その意味では議論のための知識、視点が不足している文章です。ご了承ください。

 

 宝塚のショーは、実在の国や文化をモチーフとしていても、その国や文化の具体的な表現の追及には主眼がないものが多いと認識しています。あくまで宝塚の世界観の中で美しさをどう表現できるか考えた結果、そのバリエーションを豊かにするために国や文化がモチーフとして選択され、一種の懐かしさを感じさせるような様式美に落とし込ませたのだろうな、と感じる作品が多い印象です。

 あるいは過去に似たモチーフが登場するショーの一場面でそのモチーフはどのように表現されていたかを関連付け、再提示するための手段として使われている場合もあるととらえています。

 

 私自身も「懐かしさ」を宝塚歌劇の好きな要素の一つとしてとらえており、「シルクロード~盗賊と宝石~」もそうした好ましさを感じる「懐かしさ」がふんだんに含まれたショーだと認識しています。けれどその「懐かしさ」の中には、そのモチーフとなった実在の国や文化を過去に外側から見つめた人間が、「この国、この文化はこういう要素が美しい」と勝手に押し付けた認識をどこからか借りてきて、こちらの都合で認識を更新せず、ずっと採用し続けていることからくる「懐かしさ」も含まれているのではないか、という疑問もあります。

 

 オリエンタリズムに基づいた宝塚の表現についての話ではあると思うのですが、私自身、エドワード・W・サイードの同タイトルの本を読み込んだわけでも、体系立って該当する表現について学んだわけではない立場のため、いったんコトバンクのリンクを貼りつつ、もう少し自分の言葉で考えてみたいです。

 

オリエンタリズム」(コトバンク 2021/3/19参照)

https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-169824

 

 

「東洋」の側でありながら、西洋の視点を自分の中に取り込んで、「東洋」の文化を他者のものとして見つめ、一方的、画一的な表現を押し付けること。宝塚においては、世界の文化すべてを宝塚の中の様式美と化した表現に落とし込んでしまっているという見方もあると思うのですが、最終的に宝塚独自の表現に落とし込むこと自体の是非というより、宝塚の表現しかない世界で考えるのではなく、同モチーフが2021年現在、宝塚以外の芸術作品でどのように表現されているか、旧来の表現がどう批判されているか、その評価を参照したり、批判的な視点を取り入れたうえで「宝塚らしさ」を追求する検討はなされているのだろうか、という疑問についての話をしたいと思います。

 全部を「宝塚化」してしまうという表現は面白さばかりが強化されてしまいかねない表現かもしれないですが、その「宝塚」の視点にはいったいどういうものが含まれているのかという見方を、観客も制作側の方々も、宝塚に関わる人たちが共有し、見つめ直すタイミングがきていて、それはじわじわと現在進行形で行われているものではないでしょうか。

 

 上記のようなことをぐるぐると考えながら「シルクロード」を見つめると、宝塚の望海さんファンとしてはとても惹かれてしまう部分も多いショーですが、タイトルの選択が「シルクロード」にちなんだ実在する国や文化を扱うためであったとしても、各モチーフの解像度が宝塚のお約束の範囲にとどまっており、これまで度々宝塚として扱ってきたモチーフを新たな演出家の美的センスで見た目(衣装や舞台セット)に主に焦点を当て、こだわりを尽くしているだけのように見えるところ(宝塚ファンとしての私は、基本的にはとても好みと感じてしまうとしても)、「道」を退団するトップコンビの宝塚人生、軌跡、お披露目公演の「ひかりふる路」にかける意図に収まっている、という点をどう捉えたらいいのか、諸手を挙げて「好き」ということにためらいを感じ、個人的にずっと考えを保留し続けています。シルクロードの作・演出の生田先生のことは、おもに過去作品内でのジェンダー観からかってに信頼していたし、これからもしたいと思っているのですが、各国の文化を宝塚でどう扱うかという部分においてはわりと楽観的というか、現在どういう表現があやぶまれているか、というところの意識はあまりないんだろうか、と期待があっただけにがっかりもあった、けれど突き放しきれない、という立ち位置です。

 

 ファン時代からターバンが好き、天海祐希さんトップの時代に手錠デュエダンがあった、バウ公演2番手として演じた印象深い役を再び、という宝塚の文脈から見えるものと、「シルクロード」と実在の交易路の名前をタイトルに用いたショーとしての観点から見えるものは異なり、前者を形にしたものとしての評価と、後者としての評価は全く異なると感じてしまいます。たとえば、いわゆる「アラビアンナイト」の世界観を「シルクロード」と名付けたショーで展開するとき、千夜一夜物語をモチーフにしているおとぎ話であって、現実的な表現とは乖離しているから、と検討を保留したまま楽しみ続けていいのか、インドの場面で実在の宗教の神様の名前だけ引っ張ってくるような使い方をして良いのか、等々。

 宝塚の美しさを追求すること、「美しい」表現であれば「敬意」になる、という考え方が基盤になっているように見えて、その「美しさ」を好ましく思う自分と、「美しい」と感じる表現であれば、ある国や文化の画一的なものの見方として長く使用されてきた表現を安易に取り入れ、その流れを強化してしまってもいいのか、と感じる自分が一騎打ちを始めてしまう。「西欧とアジアを結びつけてきた交易路」を扱うショーという名目は、西欧の視点を内面化した日本の宝塚の表現を肯定するためにあるのか?という見方をしてしまわなくもない。それとも「シルクロード」に関わる国や文化をモチーフとする表現は、国内外で現実に即した描写が十分になされているから、宝塚内で今回のような様式美的な描き方がなされても、その表現は「遊び」としてお目こぼしされる、という認識でもよいのでしょうか。スカイステージで作品の舞台、モデルとなった実際の人物についての紹介番組があるのはファンの啓蒙が目的だと思っていたけど、おそらく作品の舞台やモデルへの敬意を表明するという意図も含まれていて、しかし後者の意図が観劇だけで伝わらないのなら、それはないのと同じなんだろうなとも思えてしまいます。

 

 様々な表現が再考され、大きく動いている世の中で、自分自身の価値観も日毎移り変わっており、舞台芸術の世界にある宝塚だけを独立させて考えることはできないと感じていること、宝塚で美しいととらえられ何の疑問も持たれない表現が、一歩劇場の外に出たら他者やある文化を踏みつける可能性があるとされていた時、宝塚の美しさだけを考え続けることは、長期的な視点で考えたとき、結局宝塚の美しさを損なわせることに繋がる場合もあるのではないでしょうか。

 

 先日、モデルが地面に敷いた着物の帯をヒールで踏み付けるという表現を用いたあるブランドの広告が批判を呼び、「日本文化へ敬意を込めた表現として選択したが誤解を招くような内容だった」と広告を取り下げた際、その弁明文に対して、日本文化への「敬意」が込められているとは思えない、と多くの人が発言していました。私も日本国内での広告ならば、その文化を共有している人たちの視点についてもっとリサーチした方が良かったのではと感じた出来事でしたが、同様の内容で欧米向けの広告を作ったとしたら、それは日本向けの広告ではないからあり、とみなされるのでしょうか。何かの販売を目的とした広告とはまた趣旨が異なるのは承知の上で、ある国の文化を用いた一表現という共通点で考えたとき、国外に今回のショーを持っていって、この作品はモチーフとした国や文化に「敬意」があります、と表明したら、そのとおりに「意図」が受け入れられるか、私はとても疑問です。また、必要なのは「敬意」というふんわりした誰かの心の中に立ち入る感情ではなく、ある国で共有されている文化のコードを明確にする表現だと認識しています。

 

 宝塚が様々な指摘を受けないのは、作品や劇団の素晴らしさではなく、社会への影響力がほとんどなく、何をやっても中身に気づいてもらえていないからなんだろうなということを、最近ことあるごとに感じていて、知名度の高さのわりにやはりすごく狭い世界なんだということを思い知らされる日々です。加えておそらく「宝塚歌劇団の作品」を、他の演劇・ミュージカルとして一段低く見るような空気も舞台芸術全般を愛好するファンコミュニティの中に存在るように感じていて、一ファンとして、そんなことないよ、いろんな作品があるんだよ!と主張したいのと同時に、けれどやっぱりこの要素があるとオススメしづらいよねと思ってしまいます。

 

 この話を突き詰めていくと、宝塚から差別につながる他者化のまなざしを徹底排除することはできるのか、という非常に困難な話に繋がっていくとは思うのですが、花組のラテンショーでのブラウンフェイスの廃止(どのような検討がなされたかは不明だけれど「キャストボイス」(公演前、稽古中の生徒からファンに向けたメッセージ)から「黒塗り」という文言が消えたことから、ブラックフェイスに類するとみなされるものの再検討がなされたのだと信じたい)や、誠の群像での同性愛嫌悪の要素を含んだ加納惣三郎の場面のカット、NOW! ZOOM ME!!の寸劇でのナショナリズムを想起させる台詞の変更等、宝塚内部で様々な検討がなされているんだなと一ファンにも伝わる舞台表現の変更は確実に増えてきているように思えます。ここ8年程度のファンかつ様々な表現について気になりだしたのは3年程度のことなので、体感でしかないのですが

 

 また、ショーで「東洋」を扱うにあたっては、戦前~戦中の宝塚歌劇において、日本とアジアの諸国を明確に切り離し、「大東亜共栄圏」に組み込むような表現をあからさまに取り入れた作品があったということも、忘れてはならない事実だと思います。詳細について興味がある方は、下記資料の「第三章 帝国を舞台に」をご覧ください。

 

ジェニファー・ロバートソン著,堀千恵子訳『踊る帝国主義

http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN4-7684-6773-3.htm

 

 劇団ホームページの年表では「世界に忍び寄る戦争の足音、暗い時代を勇気づける作品を世に送り出す」という見出しでふんわりとしか説明されておらず、戦争のため宝塚歌劇も上演中止を余儀なくされました、という常套句もありますが、当時戦意高揚のために作られた作品も数多く存在したことは事実です。

 

宝塚歌劇の歩み(1934年-1950年) | 宝塚歌劇公式ホームページ

https://kageki.hankyu.co.jp/fun/history1934.html

 

(1)宝塚少女歌劇に戦争の足音(朝日新聞社

http://astand.asahi.com/entertainment/starfile/OSK201208130035.html

 

 前述したように今、宝塚歌劇団がどのような内容の作品を上演しようと、戦中当時ほど、社会に影響を及ぼすことは全くと言って良いほどないと思います。当時のような意図をもって作品を作っていないことは明らかで、それならなおのこと、過去の経験に学ばず、他の国を他者化した視点でもって作品を作っていないかどうか、もっと表現について検討してほしいし、その知識の蓄積も、技術も宝塚にはあると私は信じています。

 

 誰かを踏みつけにしている表現自体に賛同できないという立場をとりたいのは大前提です。でも私は結局ダメなファンなので、後からその事実に気づいてしまったとき、誰かから指摘を受けたとき、その作品の映像自体見返すことが辛くなってしまう、そのときその作品を楽しんでしまった思い出を消したくなる、という事態をできる限り少なくしたいという気持ちもあります。また、作品に出演されている大好きなタカラジェンヌの皆さんに、差別に加担してほしくない、という思いも強くあります。

 

 いまは望海さんが宝塚にいるから、この心から切り離せない痛みを伴う立ち位置自体が、ある意味自分にとって、社会で生きる自分を意識しつつ作品や宝塚へも誠実さを保てる最適な距離だと思っているのですが、望海さんの卒業とともに自分の立ち位置が変化した時、そのバランスは変わってしまうとは思います。これからも宝塚は見続けるだろうけれど、絶対に突き放した視点で見ることのできない望海さんの退団公演として「シルクロード」が上演されたこの機会が最後だと思い、あまりにざっくりとした内容ではありますが、今思うところを記録に残しました。