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観劇後に気合があったときだけ書きます

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感①

雪組公演 ミュージカル・シンフォニアf f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感①

 

 

 

ーーーーネタバレがない感想ここからーーーー

 

 

<本作品をおすすめしたい人>

・面白いお芝居が見たい

・エモいオープニングが見たい

・宝塚の座付き作家は物語のフラグ回収だけでなく、番手が付いている生徒の見せ場をきちんと作ることにも注力すべき

・盆がぐるぐる回ってセリがバンバン上げ下げするところを見ると興奮する

 

・政治と音楽の関係性、その描き方に興味がある

・武力のみで成し遂げられる革命の肯定的な描き方に懐疑的

・抽象的な存在が人の形をとって主人公に関わってくる作品が好き

・歴史的事実と作家の思考実験エピソードによる飛躍、両者のバランスがうまくとれている作品が見たい

・より多くの人間がそこそこ豊かに生きられる社会になるには何が必要か考えている

 

・男同士の絆が好き

・でも娘役の役もないがしろにしないでほしい

・娘役と男役の関係性が深く細やかに描かれていれば、彼女らの間をつなぐものは恋愛でなくてもいい

 

<この感想を書いている人>

・贔屓が本公演をもって退団

・よって本公演を複数回観劇予定

・本公演の作・演出家の作るものに期待している

  


<ネタバレのない雑観序文>



lp.p.pia.jp

 

『フライング・サパ』上演時に上記インタビューを読んで想像を膨らませていたことを思い出し、改めて再読したのですが、

フランス革命後のヨーロッパを舞台に、ベートーヴェン交響曲第九を生み出すまでの過程を、同時代のナポレオンやゲーテの生き方と絡めて描き出す

という説明はとても端的にこの作品をあらわしていて、でもこの筋書きから宝塚の芝居を一本作ってくださいとお題を出された時、もっと彼の人生をそのままなぞっただけの作品になることも十分にあっただろうなと思います。そして、それはそれでベートーヴェンのスタンダードな偉人伝として見所はあり、音楽家としての才能を持ちながら、耳が聞こえず苦悩する彼という人の悲劇的人生の悲劇をさらに重々しく演出した、トップスターの退団公演として観客の涙を誘う作品になっただろうなと思う。

 

 贔屓の役者の男役人生最期の公演としてはそこそこ満足していたことを架空の作品を描いて想像しながら、しかし同時にその場合は、宝塚ってこんなタイプの作品もあるんですよ、といろんな人に見てほしいというわくわくが沸き起こる作品ではなかった気がしています。部分部分を思い返すと、多分ものすごく目新しいことをやっているわけではない、久美子先生がヒントを得たのかな?と思わせる作品がぽつぽつと浮かんでくるけれど、その取り入れ方、舞台上での表現の巧みさに、この作品のおもしろさをもっと理解したい、味わいたいという気持ちが焚きつけられ、観劇が能動的行為であることを改めて噛み締めたくなる作品です。

 

 ベートーベンがナポレオンに曲を捧げたエピソードは有名な話だけれど、該当エピソードを知らないまま見たとしても作品内で十分に説明されているので、ものすごく人や時代背景を予習しないと理解できないような作品ではないと個人的には思う。もっと知っていれば理解が深まるかもしれないと知的好奇心が焚き付けられる内容ではあるけれど。

 

 有名なエピソードを導入として、彼らがそれぞれの才能を使ってなし得たこと/なし得なかったことを並べて比較することで、あの時代に求められていたこと/早すぎたかもしれないことが浮かび上がってくるし、それはあの時代だけではなく今にもつながる話だ、と気づくおもしろさがある物語だと感じています。

 

 

ーーーーネタバレなし感想終わりーーーー

 

 

パンフレットの生田先生の文章を全く笑えないような雑感がだらだらと続くので折りたたみます。

 

 

 

 

fffの具体的なおもしろさについてねちねちと書きたい

 

 

・「音楽は誰のものか?」(天上界の人々の存在)

 パンフレットを読まずに初日に挑んだので、「作品の流れをわかりやすく解説するために主軸の物語の外枠に位置する人々」という、宝塚あるあるな役どころ(をうまく動かせていない作品)に痛い目にあった記憶を思い出し、一瞬身構えました。加えて、ベートーヴェンを失聴させるため、耳に天上界の雲を詰めるというのは、ぼろぼろのギィを回復させる都合のいい薬~!?(金色)的なややおとぼけ(?)要素なのかな?と認識しているけど何か由来があるのだろうか。天上界に高く遠く響かせるほどに大きな音楽、けれどその音楽は神のために作曲されたものではない、うるさいから塞いでしまえイコールうるさく感じる自分たちに耳栓するのではなく音を鳴り響かせている相手の耳を塞ぐ、という発想はあまりなかった。天使たちや智天使ケルブではなく、彼らの顔色を伺わないと自分たちが天国にも地獄にもゆけない、モーツァルトヘンデルテルマンがしたこと、というのがポイントなのかもしれない。

 この段階で色々引っかかる人はいるかもしれないし、私自身もまだ完全に消化しきれてはいないのですが、失聴させる仕組みに固執するような作りではなく、音楽を神のものとしたい立場の者からはベートーヴェンは危険視される存在、というところが大事なのだと思う。ベートーヴェンが第九で人間の喜びをうたうに至った物語を描く上で、彼をモーツァルトヘンデルテルマンの後継者と示したこと、先駆者の3人を「貴族のための音楽を作った作曲家たち」とし、では「音楽は誰のものか?」という物語を一本貫く問いが冒頭で立てられるという流れは物語のとっかかりとしてとてもおもしろく、また結末をスムーズに予感させる作りとして私は好きです。

 音楽を貴族のものとしたことに苦言を呈されたモーツァルトの、そんなルールがあるならどこかに書いといてよ、という文句に対して、智天使ケルブの「察するものだ!」という尊大な応答、地上と意思疎通ができないから当然かもしれないけれど、そればかりではない忖度を要求する縦社会の縮図を見出してニヤッとする。問いを立てた側は最初から一つの答えしか求めておらず、その答えにはまるように現実をたわめなければ、答える側の安寧は約束されない、でもきっとそんなふうにことはうまく運ばないだろうな、と思わせる始まり方。

 そして引っかかり要素として耳栓雲(??)の話から先にしてしまったけれど、モーツァルトヘンデルテルマ3人が自分たちの後継者は誰だ?と首をかしげたところに予兆として雲を切り裂く爆発音、映像効果、からの満を持して現れる主人公ベートーヴェン、という演出にわくわくが止まらない。空いてる空間はオーケストラピットでも使え!生オケの時はファントムの時のように実際のオケの方々が演じる(?)予定だったのかな?と思うのですが、のちにコロスとして、市民として登場する時と同じオレンジと黄色の衣装を身にまとった役者たちの、音楽のうねりを可視化したようなオケピからはみ出すほどの大仰な動きはとても効果的に見えます。

 「ナポレオンのように!」「ゲーテのように!」と指揮する彼の呼び声に応えるようにして、左右の花道から現れる二人の巨人たち。何も知らない初日、二階から俯瞰の観劇で、オケピに突如現れたさざめく奏者たちの波と、彼らを指揮するかの人の姿に興奮した記憶も忘れ難いのですが、1階センターに近い位置に座った際、左右の花道と銀橋が一本繋がって弧を描いているように一望できるここからの景色が一番演出として意図されているものでは?と感じ(宝塚歌劇エモOP演出家ナンバーワンは久美子先生では?)と血が燃えたぎった時のことも書き記しておきたい。花道に立つナポレオン、ゲーテそれぞれの背面の壁に筆記体で刻まれ光る名、銀橋ゼロ番に躍り出たベートーヴェンと彼の背後の幕に映し出される雲を突き抜けたような、海に沈んだ泡のような、音楽のほとばしりを思わせる映像効果。そして朗々と響き渡る声。

 全部の美しい光景を文字に起こしたくなるけれど、きりがないし足りてないし観た方が早いのでこのくらいにしておきたい自分の次の観劇までのよすがです。

 言葉で巧みに説明され、誘導されているなと知的好奇心がうずく場面もあれば、視覚聴覚から即・脳にダイレクトに刺激を与えられているなと目を見開く場面も多々あって、常に揺さぶりをかけられている。

  

・「醜い不吉な女」「強くて綺麗な人類のー」(ベートーヴェンと謎の女)

 貴族の前での粗相を叱られ家から締め出された時、耳が聞こえなくなった時、ベートーヴェンの傍らにはいつも彼女がいた。彼の孤独に寄り添うように、その悲しみを深めさせるように振る舞いもすれば、怒りを焚き付け発奮させたりもする。ベートーヴェンがその時々で抱いた感情の増幅装置のような役割を果たしているようにも思える。

「聞こえないのね」「あなたはたかだかミュージシャン!」「私、みんなのところにいたわ」きいちゃんの歌声が素晴らしいのはいうまでもないことだけれど、張りがあるのに耳にキンとこない、まろやかでぼわんと包み込む、すっと忍び寄られ気がつけばそこにあるような声の持ち主がこの役を演じる説得力といったら。望海さんの歌声も高く遠い世界を見せるベートーヴェンにふさわしいけれど、きいちゃんの声・歌声はハーメルンの笛吹きの笛の音のように人をふらふらとどこかへ誘っていく不思議な魅力がある。

 

 人生の節目節目で彼の神経を逆撫でする言葉を投げつける、謎の女とベートーヴェンの関係は常に緊張感が伴うもの。二人の間に漂う空気はこういう感じだな、とある程度心構えができた頃合いに、二人の会話の応酬バリエーションとしてそんなのあり??というやりとりが登場した時は完全にいっぱい食わされた気持ちになりました。

 

人間ならざるもの、概念を擬人化して主人公の傍らに寄り添わせる手法といえば、クンツェ・リーヴァイ氏のM!あるいはエリザベートがお約束として即浮かぶ観客ばかりの界隈。ミステリー仕立ての部分が主眼の話ではないと理解していたので、謎が明かされると同時に新鮮な驚きを味わいたい、という類の期待をしすぎてはいけないとは思っていたけれど、まさかベートーヴェンと会話ができるどころか、謎の女が家政婦・秘書まがいの役目を担わせられる場面があるとは思わなかった。そのイマジナリーフレンド、現実にある物体を握れるんだ?? ゴミ?洗濯桶?を押し付けられた謎の女の動揺と共に目をかっぴらいてしまい、新作を見る醍醐味はこれでは(?)というなんとも言いがたいそわそわした気持ちを味わった初日の記憶。シシィはトートにフランツの手紙読み上げて、みたいに雑用頼まないじゃん。爆発的な笑いを巻き起こす場面としておそらく作られていないと思われる彼と彼女(?)の噛み合わない会話のズレを、ニヤニヤしながら見つめていたい。多分漫才もできるけど謎の女の声はみんなに聞こえないから、ベートーヴェンだけがウケとる光景を見つめる羽目になる(閑話休題)。

 

 あんこちゃんの掃除婦が怒って出て行くまでの様子ですでにわかるように、ベートーヴェンという人の人となりが、彼が自由に創作活動に勤しむプライベートな場での振る舞い、謎の女とのやりとりを通じて明らかになっていくおもしろさもある。「ペンよりもパン!」「体調悪い人に会えない結婚できない耳聞こえない、不幸について考えすぎない一番の方法は仕事に没頭することだ!」(ニュアンス)の畳み掛けるようなテンポの良さ。実際はどうだったのかわからないけれど、作曲家として身体に決定的な病を抱えながらも、精力的に創作活動を続けた彼のような人を描く上で、その様子を「体に相当ガタがきているけれど仕事にのめり込んでいる」というふうに描くのは、天才である彼の人間らしさを感じさせるエピソードに思え、個人的には好みのバランスです。人生を続けていかねば自分のしたいことはできない、とどこかで割り切っている人のある意味でのポジティブさを見てとる。

 また、奇妙な共同生活(?)が始まった謎の女との二人きり、2度目の場面、久美子先生が他の娘役に選んだ衣装と比べて、謎の女が2着目に身にまとうピンクと黒のドレスは絶妙な悪趣味さを醸し出しており、そしてそのドレスはベートーヴェンが彼自身の想像上の存在である謎の女に「かわいい」と思って着せている服(無料)であることが判明する。女性の服を選ぶセンスのなさに加え、謎の女へ「俺の才能では?」と問いかけるベートヴェンの続けざまのセリフ「それならば、俺の恋人は才能ということになる」、胸を張った彼のどこか照れたような仕草から滲み出る勘違い男ぶり、そのポジティブさがこの物語を完璧な悲劇に落とし込まなせないブレーキになっているのかもしれないと感じた。ジュリエッタに「身分は気にしない!」と一方的に言い切ってプロポーズしていた姿からの一貫性。

 女性の服を選ぶ才能はさておき、ベートーヴェンは常に苦悩しつつも、自分には音楽の才能がないのか?という悩み方はしていないように見える。自分の才能には確信を持っているけれど、それを他人に理解できるようこの世に具現化する方法に苦心している、という悩み方こそが、根本的に彼はポジティブな人では?と思ってしまうポイントのひとつだと思う。気難し屋だけれど、自分のことを理解してほしい、同じ言葉で語り合える相手が欲しいと切望する心が、その対話の手段としての創作活動へ彼を駆り立てる。結婚したい、子が欲しいと平凡な幸せを口にする時もあるけれど、謎の女に読み上げられなかったロールヘンの手紙にあるように、作曲はベートーヴェンが選択した他者との関わり方なのだ、という描き方が好きだ。(だからこそそのことを理解している様子のロールヘンの、音楽を介さなくても私たちはあなたが好きよ、という言葉がしみるのだけれど)

 

 夢の中の雪原でのナポレオンとの邂逅、問答により、人生は苦しみであり、けれど苦しみと戦って打ち勝つか、負けるか、あるいは別の道を選ぶかは自分で決めることができることを示唆されたベートーヴェンが、謎の女と再び出会う場面。

 フォークソング調の謎の女の静かで達観した歌声にゾクゾクする。兵士、子を亡くした母親、敵に犯された女、その誰でもある謎の女の、ミンナ@サパのような佇まい。そして彼女に対峙するベートーヴェンが、お前は人にあまねく訪れる不幸であり、しかしその名は自分にとっての運命である、と彼女を抱きとめる光景のカタルシスたるや。ある存在の名前を言い当てる、という行為が意味するところは、たくさんの物語の中で描かれていて、『ルンペルシュティルツヒェン』ないし『ゲド戦記』ないし、その名を持つ相手を支配できるという場合が多い。けれどベートーヴェンは彼女を「受け入れる」という。それは支配する、打ち勝つ、といった相手を従属させる意味を持つ行為よりも、権力や暴力を拒み、音楽の力で人々とともに高い世界へ登りたいとうたった彼にぴったり寄り添う選択に思える。

 個人的に、死というさだめを受け入れる、という物語はあまり好きではなく、そんなの生き延びることが何より優先されるのだから、そのさだめから逃げてしまえ、それは少しも恥ではない、と思ってしまうタイプなので、謎の女が「甘美な自由感情」をもって死という自由を選択する方へと手招きする存在にも振れつつ、「死」そのものではなくて安心した。ベートーヴェンという人が自死を選んだ人ではない時点で当然のことではあるのですが。苦しみつつも(苦しまないのが一番だけど)才能を全うし、人間のための音楽を作り、人間として生きる選択を手放さない人としてベートーヴェンという人を描いたこの物語がとても好きです。そして望海さんときいちゃん二人が最後に演じる役の関係として、ベートーヴェンと「運命」の成就の過程が描かれたことに胸を熱くしています。

 

 fff各配役が発表された当時のSNSでの反応を見て、なぜ自分も含めた宝塚ファンはトップ男役と娘役が大恋愛するところを見たいのだろうと改めて考えていました。その答えの一つとしては、宝塚のトップコンビが作品内で演じる、ふたりの異性の深い関係性の描かれた物語イコール恋愛しかないと私たちが思い込んでいるから、ということがあると思います。あるいは宝塚に限らず、男が女に、女が男に人生を賭けるときの理由として、もっとも多くの人に共有され、納得される答えが恋愛だからでしょうか。

 はたまた、そもそも恋愛すらうまくかけていないのでは?と思う作家・演出家も多いので、宝塚におけるきほんのきの字の関係性が描けていないのに、それ以外の描写でおもしろい作品を望むことは無理だと見切っている、という答えもあり得ると思います。恋愛を描くことこそがトップコンビに当てた芝居をつくるときの作家・演出家の役目を果たすこと、誠実さ、であるとすると、その関係性が描かれない/描けない時は座付き作家としての資質が問われる、あるいはその演目のチケットを販売する阪急という企業が、そのコンビの売り方についての方向性を保留・検討している、という意図があると読み取れてしまうのでしょうか。

 

 これという一つの正解は決められないけれど、人間と人間が向き合って、言葉で語り合ったり態度で示し合いながら誠実に関係を深めてゆくたくさんのバリエーションのひとつとして、男役と娘役の恋愛が見たい、という強い思いは私にもあります。けれど久美子先生という信頼する演出家が望海さんときいちゃんの最後の役として当て書きしたものならば、二人の関係の描き方を普通の男女の恋愛に定めない理由がきちんとあるのだと信じたいし、恋愛をおとしめたいわけでは決してないけど、宝塚の男役と娘役の関係を描く上でも恋愛だけが唯一無二のものではないと思いたい、という思いもありました。

 

 fffを観劇した今、望海さんときいちゃんの最後の役をベートーヴェンと謎の女とした久美子先生に感謝の気持ちしかありません。同時に、きいちゃんの役として謎の女という役を作ったからこそ、この作品が深く面白いものになったんだろうなと思うと、この題材と久美子先生、あやきほ二人の巡り合わせについて思いを馳せてしまいます。