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観劇後に気合があったときだけ書きます

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』①

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』①

 

 

 プレサヨナラなら望海さんが男役として役を演じている姿を一作でも多く観たいと不安を抱いていたころの自分に伝えたい、未来の私、めちゃくちゃコンサート楽しんでたよ。そういう感想です。

 一幕の洋楽、邦楽を取り混ぜた「宝塚以外」の楽曲、特にバブルメドレーと銘打ったコーナーで歌われる往年のヒットソングの数々やその構成にすっかり魅了されてしまい、特に観劇後半は、終始はくはくと高揚する心が飛び出でないよう堪えながら、赤い座面にじっとおしりを張り付けていました。

 

 私は正直、斎藤先生の作風がジャストミートするタイプの宝塚ファンではないという認識でいたし、その証に(?)、年始に募集されたリクエスト曲へ選定理由として添えるメッセージにも「宝塚の、ミュージカルの楽曲をメインにコンサートを構成してほしいです」と、叶えられないことは知りつつも一曲のリクエストにとどまらない、コンサート全体に関する要望を入力した不届きなファンのうちの一人です。

 

 そんなに身構えていたのになんでこんなにのめり込んでいるんだろうと言葉にしたくても、結局は人それぞれの好みの話にしかならない、私自身がプレサヨナラとして望海風斗さんに提供された舞台はこれですよ、と目の前に差し出されたものにのっかるしかない、役者にずぶずぶの都合のいいファンであるから、という可能性がめちゃくちゃ高い。私はずぶずぶの一ファンなので、フラットな視線でものを語っている自信はマジでゼロだけど、それでも望海風斗さんという男役の集大成の形を魅せるコンサートとして(もしかしたら違った内容のコンサートもあったかもしれないと仮定しても)(いやそれはそれで見たいが)これもまたひとつの答えとして、素晴らしいものではありませんでしたか? 望海さん、すてきだったでしょ?ねえ?と聞いて回りたい。

(なお、この「素晴らしいもの」からは2幕頭のコントを除きます。個々の役者のパフォーマンスではなく脚本へのあれこれ)

 

 望海風斗さんという男役の魅力について考えたとき、

 

・宝塚愛が強く、自分の持つ熱いファン目線を見せる側としてパフォーマンスに落とし込む力がある

・宝塚のクラシカルな男役が似合う

・歌で魅了する力

 

などなど、すみれ先生のように上げだしたらきりがない(ファンなので)。けれど、それゆえに奇を衒った内容ではなく「宝塚らしい」場面構成のコンサートが見たい、と願ったときの、自分が念頭に置いていた「宝塚らしさ」って一体なんだったんだろう? それはそれで悪くはなく、見たいものであったけれど、かなり限定的なものであったのでは? と今振り返ってみて思います。

 

「宝塚らしさ」ってそのときどきの演出家が、演出家自身の好みと生徒の魅力を引き出せる要素を考慮して、宝塚というおでんの汁に投入したい出汁要素とタネの兼ね合いで、生み出され続けてきたものでは? おでんとか言っちゃったけど、五目めしでもごった煮鍋でもなんでもいい。いろんな変わった味はするけど、これはおでん、五目めしあるいは鍋である、という枠組みはある。

 

 そう思うと「らしくない」と思う自分の想定する「宝塚らしさ」についてもっと考えたほうがよい気もしてくる。一定のコードはあって、そのしばりがあるからこそ遊べることの意味については常に念頭におくべきとは思うけれど、新しいタイプの作品と思っても過去の映像を遡ると同じ要素は繰り返し使われていたりする。

 

 こうやって望海風斗さんの魅力について考えると宝塚らしさに立ち返るというのは、望海さんの部分の名前を自分の好きなタカラジェンヌに置き換えるとファンあるある話とは思うのですが、結局今回、宝塚ゆかりの曲はもちろん、宝塚以外の楽曲を歌う望海さんを見て「これもまた自分が見たい望海さんだった」と思えたのが、私がコンサートを楽しく観劇した大きな要因のうちの一つだと思います。斎藤先生の選曲が望海さんの男役としての、芸名のタカラジェンヌとしての魅了を引き出すものとして、とても好みだった。

 

 望海さんは直近の大劇場のワンスや、それ以前の作品でも、苦みばしった表情に魅力がある役を演じることが多い人です。私もそんな望海さんの男役像が好きで追い続けているのは確かだけれど、それは同時に、宝塚おとめでご本人が演じたいと願っているような「底抜けに明るい役」がなかなかまわってこない男役さんという意味でもある。

 テリー・ベネディクト以前の望海さんの役もひっくるめた全てを把握できているわけではないけれど、そもそもコメディ自体がない中で、底抜けに明るい役を演じた直近と思い返したとき、早霧さんトップ時代のショー「La Esmeralda」でのホープくんというキャラクター(?)を思い出しました。女の子大好き!ぼくのために争わないで、みんな仲良くしよ~!というある意味底抜けに明るい役(?)は、物語のキャラクターとして深い設定を背負わせにくいがゆえに芝居の役としては向かないかもしれないけれど、確実にファンが望海さんで見たかった役どころの一つだと思う。コンサートという時点で「役」も何もないと思うのが普通かもしれませんが、宝塚の舞台上では芸名という役、「男役」「娘役」という役を常に背負う人たちの舞台として、もし自分のプレサヨナラ公演の演出家を生徒側が選べる余地があるとしたら、望海さんの選択理由のひとつとしてそれもなくはないのかな、と想像しました。望海さんもまたBLUEMOONBLUE魅了されたファンのひとりだからでしょ、という線が濃厚なのは知りつつの勝手な妄想です。

 

 そんなホープくん再来場面は別にあるけれど、男役として人生の責任を(時に自分の命で贖い)重くとる男を演じがちな望海さんが、斎藤先生の選曲により、人生の責任を全然取らなそうなちゃらっとした男の歌をちゃらっと力を抜いてうたう姿がとても好きだ。いや、腹には力入っているはずなんですが、力を入れて力を抜いているというか…… 悲壮感と無縁で他人の人生を全力でめちゃくちゃにしたあげくごめんなおれのせいでって悪びれずにグラサンずらしてくるほうの望海さん、お会いしとうございました!すでに人生をめちゃくちゃにされている、というかしていただいている。

 

 サザンも松崎しげるチェッカーズも、原曲のニュアンスがそういうものかどうかは、制作背景や歌詞の意図を熟知しているわけではないのでわからないのだけど、おれは男だからこんなやり方しかできないんだ、ごめんな、って踵を返してゆく背中(イメージ)がかっこよく、しかしその肩に力が入った男を、ご本人が肩の力を抜いて演じてくつろいで歌っている様子が魅力的で、かっこいいのに時々面白くてくすくす笑ってしまう。

 今を生きるリアルな男性が歌ったらジェンダーバイアスがややきついかも、という確かな認識を踏み台として、そういうある意味「旧い」歌を男役が歌うときに引き出される男役の魅力と、現実の男に求めるものとの乖離のバランス。「男役」と「男性」が同じところを目指しているわけではないことも大前提として。どんどんアップデートされている宝塚の芝居の中でももはや新作としてはお目見えできないかもしれない価値観を、一周回って新鮮さとして受け止めてしまう。アン・ルイスの「あゝ無情」はダメな男に焦がれる女目線の歌詞を歌う男役の魅力に、演じている人は女性だけど男役として、自分の性とは異なる目線の歌詞と認識して演じて歌っている、その歌声や姿に観客が見る「男」や「女」、というメタ構造を突きつけられてくらくらする。

 芝居の中にだけ役として息づく人を観るのとはまた別の方法で、たくさんの望海さんを堪能できる。歌われるそれぞれの歌の中に、その歌でしか見られないたくさんの男役望海さんが、芸名としての望海風斗さんがそれぞれ存在して、一曲歌い終わるごとに、それぞれの望海さんが生まれて消えていくのをじっと見つめていた。万華鏡をちょっとひねるとまた違うきらめきが現れるけど、さっきのきらめきは一瞬で消えてしまうように(生田先生は「イメージの万華鏡」って言いたかったんですよね)。

 

 望海さんが男役として歌い、調子に乗っている姿に乗っかってはしゃぎたい気持ちも、荒ぶる感情の行き場のなさを抱えておろおろする身としてはなくはなく、しかしもともと息を詰めて見つめるのが性に合うタイプなのでよかったのかもしれない。「世界で一番熱い夏」のクソデカフォントにのる客席のクソデカ感情、みたいな雑な表現をしたくなるくらい、ぱっかーんとこみ上げる感情が疾走した時間。

 千秋楽の挨拶で、今このタイミングのために作られたわけではない歌に気持ちをのせることで、言葉では届けられない今の感情を客席に伝えられたし、何より自分が励まされた(ニュアンス)ということを話す望海さんを見ながら、ワンス東京千秋楽から半年以上望海さんが舞台に立つ姿を見られなかった私たちファンも望海さんを渇望していたけれど、同じくらいに望海さんも観客がいる舞台を切望していたんだなということを改めて深く実感した。ペンライトが綺麗で、と何度も嬉しそうに口にする姿を目の当たりにしながら、私一人がどうというわけではなく、それでもたくさんの観客のひとりとして求められる側にいる奇跡のような時間を噛みしめた。

 こちらの方が美しいものをたくさん見せてもらって、永遠に驚き続けているし驚き続けたいと思っているんですよ、わかっているとは思うけれど。

 

 

【バブルな場面中心に、望海さんの男役の軽妙洒脱な魅力を味わったナンバー】

 

・ごめんよ僕が馬鹿だった / サザンオールスターズ

 メンバー紹介はどの男役さん、娘役さんも個性豊かで見ていて楽しいし、映像と併せて見るのも楽しい。後半からは真ん中でそれぞれのポーズを真似する望海さんも見逃せなくなったので目が足りない。上級生になるにつれて自分の立ち位置と紹介メンバーが近づくので、観客の目線被りを慮ってか(?)しゃがみこむ望海さんもポイントだった。ちょいSの釣り師の翔くんのぐいぐいと誘い込む仕草からのキメポーズを目撃して何度でも恋に落ちてしまう。曲の途中で望海さんの肩に手を置いて、もう片方の手をぐるぐる回す翔くんも、一緒にぐるぐる心がかき回されます。

 望海さんが歌っている途中でカリさまに途中で絡まれるところ、カリさまにグイグイ引っ張られながらのかなりくずれた姿勢で歌う姿が、仲の良いメンバーとやんちゃしながら歌うボーカル(概念)を見ている感覚があった。しかしそれでもブレない声よ。

 男役さんって指、手の使い方にめちゃくちゃこだわりがある人が多くて、そこに注目してしまうファンの中のひとりなのですが、この曲だと「かわいいぼくのエンジェル」で、おどけたように下手で踊る娘役さんたち(めちゃくちゃかわいい振りとかわいい表情)に両腕を伸ばして指先だけぱらぱら動かすような手つきがめちゃくちゃ好きだった。「髪を梳かせて」の両手の指を重ねて揺れる仕草も好きになっちゃいけないボーカリスト(概念)だなと思う。「Ah…」で胸に軽く手を当てて、肩を揺らして吐息を漏らすように歌う歌い方とか、自分の男役のあり方を完成させた人の、もう型ができているからこそ、計算して力を抜けるその姿に惹き寄せられる。

 

・ワンダフル・モーメント / 松崎しげる

 全く知らなかったので、男役のための歌じゃん!と思いました。あのつばの広さのハットは本来は望海さんを一番魅力的に見せる形ではないかもと思いつつ、スパニッシュな場面で顎の下で結ぶタイプの帽子をかぶって、二階席からだとかなり隠されがちな表情をちらりと覗せながら心をわし掴んでくる男役、という役回りと望海さんの相性はいいと思っている(スパニッシュといえば夢眩のびっく影ソロの美声が響く中、抱き寄せたゆきちゃんのしなやかに反る背中に顔を近づける望海さんの構図は、二人の色気がものすごかったですね)(コルドバ冒頭の柴田先生渾身めちゃ長プロローグで、ちぎちゃんソロの背景に望海さんが踊る構図もよかったです、帽子は投げるけども)。全部見えるより一部だけちら見せされる方が、全体像を想像するしかなくて、その余白にドキドキしてしまう、というのもある。あの斜めのつばから覗く眼差しにうっとりと憧れを抱いてやまない。

 見てる人たちぜったい全員俺のこと好き、という確信を持った男役の酔ってる仕草にノックアウトされたい。その肝の据わり方にこちらも身を預けて大丈夫だと確信して酔える。待て、待てよ、という振りを重ねるくささと、ゆったりと構えた豊かさ。待たせておいて悠々歩いてくるよねこれは。

「そこから一歩も動くんじゃない」ってそのまま読んだら尊大でしかない歌詞に、もともと歌う人の魅力に身がすくんで動けない側に(客席に座っているからとかそういうことではなく)、自分がそれを強いたからだ、と理由をあえてつけてくれたような優しさを感じてしまって、これはぜったい男役のショーの一場面のための曲だと思った(2目)。人生の責任取ってくれるのか取ってくれないのかよくわからなくなってきちゃったな……。結局謎の包容力を感じている。

 そこ、と示される伸ばした指先や、帽子のつばを撫でる指先を食い入るように見つめていたい。

 

I love you, SAYONARA / チェッカーズ

 曲のイントロとともに舞台奥から登場して両腕を広げてどうだとばかりにくるりとまわる、撫で付けて整えた髪の毛と青みピンクの口紅とナポレオンジャケット、細身のパンツにギラギラブーツの組み合わせがめちゃくちゃ好きで、その格好で、俺ったら女に放って置かれない色男だから弱っちゃったな……風うざったい男目線の歌詞をやりきって歌うのがほんとうにたまらなかった。あなたこそが掴めない蜃気楼だ。

 改めて歌詞を読むと歌い方によっては誠実な男になるのかもしれないけど、低音を吐息交じりに聞かせるムードたっぷりな酔った歌い方と、歌詞に描かれるような一途な彼女像のファンタジー感が強目に前傾化してきて、これは男の妄想だな、と思ってしまうのかもしれない。「アンダルシアに憧れて」をアンダルシアに憧れてるハマのチンピラ(概念)に置き換えて見てしまった、望海さんにそういうイメージを押し付けている私の妄想と割と地続きです。

 

 そして望海さんの歌い方と持ち味はもちろん「バブルメドレー」と題した場面ゆえ、背景のスクリーンに映る映像効果はかなり大きい。斎藤先生と組子めいめいのイメージの中の「バブル」に近づけた服装とメイク、場面構成はかなり物議が醸し出されていた印象です(SNS調べ)

 バブルの場面に対する真っ二つの感想を見て、批判があるとしたら私はカラオケ披露か歌番組のように宝塚のコンサートの一場面を設定してしまうことへの違和感かと思っていたけど、そうではなく、その文化への各々の認識と宝塚としての表現のすり合わせに何らかの違和感を覚え、批判していた人が多かったのかなと思う。バブルの描き方がどうではなくそこからわい雑さや品のなさをイメージし、それは宝塚にそぐわないと思う拒否感と、あれはバブルじゃないだろうという批判はそれぞれ別物として捉えている。

 私は「バブル」についてある時代を象徴する日本の風俗として完全にぼんやりしたイメージしかなく、かつその時代を体感していない人間として自分とは遠いものとして捉えています。ある種宝塚でよくある、地名は具体的ながらもただ「異国」であればいいんだろうな、という設定と近しいファンタジーと認識していたこと、そのぼんやり感ゆえにショーアップするための手法として宝塚お得意の派手さに寄せれば、どうしても表現として解像度が低くなるだろうなと思ったので、割合決められたテーマをやりきる彼女たちを楽しく見てしまった人間です。しかし楽しめたもん勝ち、というわけではなく、特に後者の理由を突き詰めたとき、他のモチーフ、文化に対する斎藤先生の、意図があるか推測しきれない解像度の低さを各種作品群を思い返して考えると、楽しめなかった人はNot For Meだったのね、と捉えるだけで良いのかどうかはちょっと引っかかる。楽しんでいるときにこそ、いろんなものを見落としがちだなと思うので。楽しく見たことには変わりはなく、つまらなく思わなきゃいけないと思っているわけでもなく、こういった表現について考えることも、宝塚を見続けたい人間としてまた興味深いことの一つ、と捉えている。

 

 これまでもバブルではない、そもそも日本のものではない文化をポジティブな文脈であっても、リスペクトが感じられるかかなり微妙なラインだと個人的には思う表現で、モチーフとして用いているショーや一場面は毎公演そこここに見られると感じていて、そう思う/思わないのライン引きってやっぱり思う人とそのモチーフが近しいかどうかなんでしょうか。宝塚の作品の中で描く文化への解像度の低さは、これからアップデートされていくのかどうか、どうやって、どの程度まで引き上げるべきなのか、というところは作り手が頭を悩ませるところなのかなと思っている。同時にその意識は、見る側にも問われていると思うので、うかうかしていられないのだけど。

 今回の「バブル」はアウトだと個人的には思わないけれど、今後考えるべき表現について考えるきっかけにはなる表現方法、解像度だね、という話です。下品、内輪ネタと捉えるのは匙加減一つなんじゃないかなという認識。

 しかしそんなことを思いつつ、楽しんでしまった自分の記憶も記してしまう

 

 この曲の場面、冒頭ではセンタースクリーンのみ、サブスクリーンは曲名が映し出されていた映像が、サビに入った瞬間に、サブスクリーン、サブサブスクリーンをぶち抜いて映し出されるんですよ。ご本人が映るセンター以外のスクリーンにも、キラキラすずらんテープ(??)を裂いて作ったカーテンが映されているので、キラキラをかき分けて出てくる会員カードをくわえたサングラスのど金髪赤い口紅の男、連載漫画で満を持して見開きぶち抜きで登場したバリバリ最強ナンバー1の男の迫力が壮絶で、その映像を背負って立つ望海さんの構図が面白いやらかっこいいやらで、絶対にオペラグラスを外して見たい場面だった。「もう俺のためにhey…」の「hey…」の吐息は、毎回耳にした途端、実在しないだめ男に一瞬で恋する瞬間を味わうけど、数秒後にさよならされる。尺の関係かもしれないけど、「馬鹿だね男って」も似合う男役に「馬鹿だね女って」だけ歌わせるところに想像力を働かせてしてしまうけど、決して嫌いじゃない自分の心の動きに戸惑う。この曲の中にだけ息づく男役望海さんの歌い手人格(?)に「馬鹿だね女って」と憐憫を持ったニュアンスで言ってほしい、という欲望が確かにある。

 

・学園天国 / フィンガー5

 1度目の中詰。黄色いふわふわジュリアナ扇子の滑らかな動きに手首の柔らか(?)にびっくりし、前の曲と比べての声の高さにびっくりする。銀橋での「あー」の身体をくの字に追って腕を振る仕草に心を掴まれる。メインのキーもだけど、途中で跳ね上がる声がいちいち高い。おちゃめでチャーミングで、ホープくんの時の望海さんってイメージ。エアーギターと一緒に心が掻き鳴らされます。

 他と比べて短いけど頭の中はだいたい(か、かわ…)で締められており、その「嬉しい楽しい大好き!」と見た目と同じく気持ちも飛び跳ねているんだろうなという様子に終始にこにこしてしていた。芸名の望海風斗さん強め場面。

 

 

・あゝ無情 / アン・ルイス

 イントロだけでぞくぞくする。もともと女性視点の歌詞を男性が歌うことで滲み出る色気に惹かれがちだけど、この歌を男役に歌わせることで生まれるメタ視点もまたたまらなく好きだ。特にチェッカーズの望海さんを引きずったまま見ると(だめな男に惹かれる女目線の歌詞をだめな男(男役が演じる)が歌っている)という勝手な謎バイアスがかかってしまって、チェッカーズのときより歌詞に登場する架空の女性の境遇へ、ファンタジーなりの厚みを持たせてはらはらしながら聞き惚れる。湯川れい子さんの歌詞のドラマチックさが好みだからというのも大きい。だめな男に惹かれているけど、ただいつまでもまつわ、と微笑んでいる女じゃない、自分の美しさに自信があるけどどこか自虐的な部分もある歌詞のバランスが良いのだと思う。何者からか守ってやりたい、ふんわりした男の感傷が入る余地がなさそう。

 しかしキーが高めの「いい女でしょ」の艶やかさに(いい女だよと思ってしまう時の自分は望海さんを一体どういう目で見ているのか。「涙はしょっぱすぎるし」の上手前方に進み出て身を仰け反らすような仕草の色っぽさよ。嘲るような口の開き方に、やっぱり歌詞の女性を笑っている男役視点で歌っているの?なんなの?って意図されてなさそうな部分にまで想像を巡らせてしまう。

 

・世界でいちばん熱い夏 / プリンセスプリンセス

 中詰(2回目)。黄色にピンクの影がついた丸みをおびた特大フォントがサブサブスクリーンをぶち抜いてゆっくりと動くスクリーンを背景に、銀橋センターに立つ望海さんのアカペラがスコーンと抜けるように響き渡る劇場のきらめきを何にたとえられるでしょうか。みずみずしい声の魔法でバンドさんも手を止めてしまったのかな、と錯覚したくなるほど、ただあの歌声だけが響く空間に(あ、これが永遠!)と息を詰めて目に焼き付けた。わん!えん!おんりーだーぁりん!と飛び跳ねる金色の前髪がふわふわとそよぐ様がかわいく愛おしくて、秋風吹く日比谷が世界で一番熱い夏を感じられる場所でした。

 間奏でのテッパン、バンドメンバー紹介ラストの「NOZOMI MEGA ZOOM バンド~~~!」ってジャカジャカ盛り上げた後、銀橋に飛び出してくる直前のジャンプと前方指差しもオペラグラスを外して、引きで見つめたいポイント。きらきらした彼女らを取り巻くきらきらした粒子が見えそう。駆け抜けるゼブラのストライプはコンガの望海さん。

 

 

 

 数年前、望海さんが井上芳雄さんのコンサートにゲスト出演されたとき、アウェイの舞台上のトークでガチガチだった望海さんに「もっと調子に乗ったほうがいい」というようなアドバイスをおっしゃっていたのが今でもとても記憶に残っていて、今回、男役として生き生きと「調子に乗っている」姿を見て、再びその言葉を思い出した。

 共演を切望するファンのうちのひとりだったけど、普通に次は退団後と思っていたので、まさかこのプレサヨナラのタイミングで!?と動揺しているうちに幻のように機会は消え、しかしあの時のトークが嘘のように下級生の言葉をそれとなくすくい上げる望海さんの姿に、きいちゃんへの対応に、芳雄さんの話術の片鱗を見ながら、実現していたら一体どのような光景を目の当たりにできたのだろう、とぼんやりと想像している。

 

 

 正統派男役としての望海さん、ファン時代の夢を叶える望海さん、一体なんだったのかコント、パターン別場面感想等は次回に回します。