TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

fff千秋楽のアドリブから考えたこと

fff千秋楽のアドリブから考えたこと


 男役・望海さんという贔屓の退団後の手負いのけもののようなファンの考えを文章にしました。歓喜に至りたいと思いながら雪原でくだを巻いているような内容ですが、どこまでもともに行こう(贔屓が座っていない空の椅子とともに)という気持ちに嘘はありません。

 

 fffという緊密な世界を見つめる観客にとって、自室におけるベートーヴェンの執筆風景は、ある意味ではひととき、肩の力を抜いていられる場面でもあると認識していました。

 物語を最後まで見届けた観客が振り返って咀嚼した際、あのベートーヴェンと謎の女の掛け合いが、台詞一つ一つが、役者にある程度の「遊び」を許容する以上の意味が付与されていることに気づく仕掛けが込められたものであったとしても、リピート前提の観客が、今日はどんなふうに彼らが掛け合いをするか、という期待を持って見つめる、そのこと自体は否定されていない場面だと思います。

 一方で、その「遊び」はどこまでも自由に広がってよいものではなく、あくまで脚本に基づいた決められた台詞や動作がある中でアレンジと呼べる範囲まで、ということを、役者が暗黙の了解としていることを彼女らの演技から感じ取り、その塩梅に一観客として、私は居心地の良さをおぼえていました。毎回お互いの演技を受けて返す中で生み出されるある程度の幅は決まっているやりとりと、脚本になく物語の世界観にそぐわない言動、アドリブは別であり、この場面は前者としてとらえていたからです。

 

 宝塚のアドリブには、アドリブを考えて入れるよう演出家から指示がある場合(あるいはしなくてもいいが入れてもよいとあえて演出家が余白を作る場合)、役者が自分の判断でアドリブをする場合があり、前者の事例としてはエリザベートのルキーニの2幕冒頭がわかりやすいと思います。後者は正直、公演期間中に一度きりで打ち切られたものならある程度の確証を持ってそう(役者が自分の判断で入れたが演出家に止められた)と判断できますが、公演期間中のある時点から発生し、継続しているものであれば、最初は後者だったけれど、前者に近いケースとして演出家の許可が出た、あるいは見逃されている、と理解するより他ないと思っています。

 

 後者のようなアドリブが許可される余白のある作品も宝塚にはあって、そういったおおらかさも宝塚の魅力の一つであるとも思います。しかし私は、fffのような作品には後者のようなアドリブはあまりそぐわない、という考えで作品を鑑賞していたため、ベートーヴェンの家政婦のアドリブを後者の事例としてとらえており、個人的にはアドリブを継続し続ける姿勢に疑問がありました。公演期間途中から始まった(おそらく)アドリブであるため、演出家のチェックがどこまで働いているかわからず、けれど継続している限りは許容されているものだろうということ、また、あの役のキャラクターから大きく外れたアドリブではないこと、その後のベートーヴェンとのやりとりにまで大きく影響を与えるものではないことという理解から、もやもやとした気持ちはありつつも、そういうものなんだろう、と考えを保留していました。

 

 そんなことを考えていた中でのfff千秋楽、ベートーヴェンのアドリブにおける家政婦の容姿に関する言及は、個人的に、鑑賞中の心構えを崩し、私をひどく動揺させるものでした。

 あの段階のベートーヴェンが女性の容姿を形容する言葉を使うと、のちの謎の女に対する「かわいいようだな」で初めて彼が女(の形をとっているもの)の容姿について興味を持つ、という描写がぼやけてしまうように感じます。ベートーヴェンという人の「仕事」以外にほとんど興味がないという設定がやや崩れてしまうのです。

 

 あるいはfffは、ベートーヴェンが女性をどんな視線で見ているかどうかの内実を、作品内で女性に対する彼の言動を謎の女について以外は描かないという選択で、あえて見せていない作品というとらえ方もあります。

 女性の容姿に言及するという行為は、ナポレオンと違って「モテない」ベートーヴェンという人の性格を「妻や子を持つ人並みの幸せが欲しかった」平均的なシスヘテロ男性として解釈すると、かなしいかな、ありうるかもしれない発言に思えますが(その前提を持ってしまうこと自体が偏見かもしれませんが)、その発言を取り入れることで、発する男役の役を「男らしく」見せるという選択を、この作品はあえてしていないように見えるのです。このことは二人の女性に振られた際、ベートーヴェンが自分を振った相手へのネガティブな言動をせず内省に沈んでいたり、雪原での自分が「モテない」ことにくだを巻くベートーヴェンへのナポレオンの返答が、「女を持つ、持たない」という軸から外れたものだったから、という部分や、その他の描き方からの個人的見解です。

 

 fffは冒頭の、モーツァルトテレマンヘンデル3人のベートーヴェン、ナポレオン、ゲーテに対する言及に見る「ヨーロッパという溶鉱炉の中で鍛えられた鋼の男たち」という比喩や、直接的には描かれていないにせよ、フランス革命によって成立した人権宣言においても平等な権利を得る主体は「健康な成人男性」に限られていたという事実があること、語られる哲学・思想等を考えた時、物語としてのテーマは非常に男性優位主義に寄っている、と見ることもできる作品だと思います。

 しかし同時に、女性であるタカラジェンヌが演じる物語であるから、という単純な理由だけでなく、彼らが語る理想の中の「人間」に「女性」は、私たち観客の多くを占める「人間」は「人間」としてきちんと含まれているのか?という疑いの眼差しを、何を描く、描かないかの選択の積み重ねによって、物語のマッチョさの配分として慎重に避けることで、女性が多い宝塚の観客に違和感を覚えさせることがないよう、成功している作品だと認識しています。冒頭の群舞で、軍服の男役らを従えるナポレオン、ゲーテとは異なり、ベートーヴェンが娘役が演じる女性市民らを率いている光景に、単なる人員配置以上の意図を感じています。言及した場面以外にも、端々に感じる「配慮」が観客側を向いているだけでなく、作品として描きたいテーマとして必然性を伴っており、役者の魅力も当たり前に引き出していることにも、観劇のたびに客席で静かに興奮していました。

 

 宝塚には容姿端麗の人しかいません。だから家政婦役の生徒さんが「美人」であることも観客はわかっています。あの台詞は、公演期間中アドリブを続けてベートーヴェンである望海さんにボールを投げ続けた家政婦役の生徒さんへの餞別である、ということもコアなファンには伝わります。また、それをわかった上で頭を切り替えて、一瞬だけ役を離れた彼女らに視線を向け、また作品内へ視線を注ぐ、という非常に高度な切り替えが求められる場所こそが宝塚なのだろうとも思います。

 しかしその切り替えが難しい人間は、前述の理由から立ち止まり、作品の流れが崩れたことに動揺し、薄々わかっていたけれど、ベートーヴェンという人はやはり非常にマッチョな人間であるのでは?という事実を思い出し、彼が口にする「人間」とは、と考え込み、他の場面にも、彼のその視点が及んでいるかどうか確認する必要があるか、ということにまで思いを馳せてしまう場合もあります。

 

 退団公演の千秋楽にそんな厳密さを求めなくてもいいのでは、という結構な年数ファンをやってきた人間の思いに振り切れないのは、望海さんという男役の、中の人を前面に押し出すのではなく、演じている役を通じて作品の質を保持するという姿勢自体に敬意と尊敬の念を持つファンであるから、作品としてどうかという視点で鑑賞することによってその作品を成立させる作り手の一人としての役者の力に拍手を送りたいから、という思いからです。

 また、千秋楽で普段と違うことをやる、というのは宝塚という複数回見る非常に濃いファンが多いと想定されているジャンルであるから許容されることであって、ライブビューイングや配信で初めて鑑賞する層の参入を期待している状況で、宝塚という文化を知る一機会としてはよくとも、作品の評判を耳にして、純粋に鑑賞を期待していた人にはやや不親切ではという気もします。

 

 一方で、ハードリピートをしている一ファンとしては、作・演出家の意図があっても実際に演じるのは役者の身体で、あれだけの期間役として表現を続けていたら、脚本の意図とは離れたところで役がかってに動き出してしまうことはある、それを許容するのが宝塚、という見方も自分の中に否定しきれないものとしてあります。そしてその動きを想定して、作品の着地点の幅をとっておくのが宝塚の作品に求められること、という認識を持っているファンも多く、その認識内におさまる作品の中には私が好きなものもおそらく含まれるであろうこともわかります。

 一方で、自分がファンとして「○○さんはこういうことはしない」というような過剰な期待を寄せた見方をして、わかった気になっているのだったら、それはそれで怖いことだな、と一歩立ち止まりながら、「エリオにだって道を外れる権利がある」「自分の弱さをエリオにぶつけるな!」(@コルドバ)を思い出しています。こんなにぐだぐだと意見を書き連ねてしまうのは、私が大好きな男役望海さん、が演じている宝塚の作品を、正当に評価してほしい、より多くの人に良いものと思ってほしい、などというおこがましさ210%の思いがはみ出しているからです。

 

 また、宝塚のスターファーストなところと作品主義の両立の難しさ、それを針の穴に糸を通すように成立させようとしていたfffという作品の得難さについて噛みしめてしめると共に、ベートーヴェンという役について、その役を演じた望海さんという男役について改めて考えています。

 fffにおけるベートーヴェンは、才能の面が強調されるがゆえにその意識を薄れさせがちですが、宝塚以外で描くとすれば、自意識としてはKKO(キモくて金のないおっさん)(ex.ワーニャ伯父さん)に近い存在になる可能性もかなり高いキャラクターだと思っています。まがりなりも宝塚のトップスターの役にそう思わせてしまう、望海さんの男役の、社会に求められる「男らしさ」を得たいけど得られないともがく、その自意識のねじくれた様子をさらけ出しても宝塚の見せ方として成立してしまうバランスって本当に希少性が高かったのでは?と回想しています。

 「美しくない」人間が地べたを這いずりながら生きていく様子が宝塚で主役の物語として描けるんだ、というおもしろさが、宝塚の大ファンである望海さんによって切り開かれていった面白さ。(もちろん望海さん以前にも近い持ち味のスターさんはたくさんいたと思うのですが)宝塚にどういうものを求めるかは人それぞれだとしても、最後にfffのような作品の中で生きる望海さんの男役が見られたのは、一ファンとしてとても嬉しく、忘れられない体験でした。