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観劇後に気合があったときだけ書きます

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感④

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感④

 

・fffで描かれる「暴力」


 fffにおけるナポレオンは、ベートーヴェンの政治的立ち位置や作曲姿勢の変化を描き出すための存在でもある。ナポレオンの「理想」を実現するための手段をベートーヴェンがどう捉えるか、ナポレオンの進退とともにベートーヴェンの立ち位置、心境も変化していく。


 物語序盤のベートーヴェンは、交響曲第三番「英雄」をナポレオンに捧げていたことからもわかるように、ナポレオンが革命の手段として戦争を用いること自体は否定しない。この頃のベートーヴェンは「武力」を肯定している。後にナポレオンが皇帝の座に収まり「権力」を握ることによって、ベートーヴェンは「権力」を否定するだけでなく、「武力」を「権力」を握るための手段としての「暴力」と捉え、その手段自体を否定する。同時に彼は自分の「手段」で皆をより遠くへ連れていくことを決意する。
 「武力」はいかなる時も「暴力」である、という認識は、物語の中で改めてメッセージとして差し出されなくとも、多くの観客が共有しているものだと私は信じたい。けれどその認識を、私たちは宝塚を観劇するとき、どれだけ意識しているのだろうか。そしてそれは物語を鑑賞する上で意識する必要があることなのだろうか。

 ベートーヴェンの頭の中身が鮮やかに映し出されているようなナポレオン戦争のナポレオンは、その言動と佇まいでリーダーとしての存在感をまざまざと兵士たちに、観客に見せつける。逃げ惑い、建物の陰に隠れるシトワイエンヌを目の端にとらえながらも、宝塚ファンとして、咲ちゃんの男役に魅力を感じる一観客としての高揚感は否定できない。対峙する側の王族らを煽るベートーヴェンの歌声に導かれての場面転換にまんまと乗せられ、彼に似た熱視線をナポレオンに注いでしまうほど、この戦闘は暴力の側面を持つ、という事実のみを頭に置いて観ることは難しくなる。宝塚においてはその格好よさや美しさが何ものにも勝るのでは、という心から沸き起こったポジティブな感情を、自分一人で否定することはたやすくはない。

 けれど、そもそも軍服姿の戦闘シーンをあのように格好良く見えるものとして描く舞台作品は宝塚以外に今あるのだろうか? 民衆が革命に燃え、立ち上がる姿を戦いの場面として描くことはあっても、軍服を着た名もなき兵士たちの、それぞれに統率者がいる組織と組織がぶつかり合う戦闘を、後のネガティブな伏線回収なしに、ただポジティブな場面として成立させるのはかなり難しいのでは? この戦闘シーンは、宝塚の男役2番手が下級生を率いるかっこいいい見せ場としての意図しかないのか?
 そう考えたときに、冒頭のナポレオンの戦闘風景は、BADDY冒頭の男役がそろって煙草を咥える群舞に近い意図があるのかなと思った。
 宝塚でポジティブに扱われることの多い、ある要素を「過剰」に用いて、その要素自体の是非を問う、というおおざっぱなくくりの話なので、以下のようにざっくり分けて語る必要はある。

 

・煙草というモチーフの取り扱い、表現方法を巡る議論(外部)
・宝塚の男役の男性性を底上げする効果があるアイテムとしての煙草の意味(宝塚)
・戦争描写全般を用いた「男らしさ」を魅力的に見せる表現(外部)
・軍服を身につけ武器を手に戦う男役を格好良く描くこと(宝塚)

 

 上記を踏まえると、あの場面のナポレオンは、リーダーシップのとり方があまりにも理想的、典型的すぎるように感じられる、というのはうがったものの見方だろうか。
 兵士たちへ「共に来るものには幸福を約束する!」と口にするナポレオンの場面単体ではなく、ロシアの雪原で「それで皆を幸せにしたかったと?」とベートーヴェンに問いかけられ「どうかな」とワンクッション置き、自らの理想の実現に付随するものとして「皆の幸せ」を語るナポレオンを並べて考えたとき、この物語における「理想」と「現実」の描き分けをそこに見たというのもあるかもしれない。


 この作品で慎重に扱われているはずの「幸不幸」という人間の状態を表す言葉の使い方として、前者は後者に比べ、かなりの大盤振る舞いかつ解像度が低く設定されているように思える。戦場で兵士たちの士気を高める統率者としての効果的なフレーズと、直接一人に語りかける言葉は別である、という可能性はゼロではないと思うけれど、どちらもナポレオンにとっては「我が兵士」であることに変わりはない。あるいは流れた歳月が無謀な理想を燃やしていたナポレオンを変えたのか。いずれにせよ、彼がもたらした「不幸」を思えば、この作中での「武力」=「暴力」の取り扱いは明確だろう。

 

 BADDYでの煙草は、煙草を用いた表現方法については宝塚以外の舞台でも議論が進められており、私もSNS上でのとある演出家の問題提起を目にしたことがあったこと、宝塚においてもその場に登場する男役のほとんどが煙草を手に踊る場面はおそらく今までなかった(少なくとも私はBADDY以前に生で見たことはない)ことから、目の当たりにした瞬間、その意図を考えずにはいられない場面として作られているように思える。
 一方、今回のfffの武力、戦闘描写は、あの段階では作中における「武力」の扱いを即「暴力」と断定できるほどの情報が与えられていないので、疑いつつも保留するしかない。目撃した時点での違和感は、同演出家の過去作品内での「武力」の取り扱いについて知識があること、私自身が持っている「武力」へのイメージに由来するものだ。

 

 一つ前の記事で、この場面はベートーヴェンの想像の中の「理想」のナポレオン像では、と書いたけれど、同時にこれは、戦闘シーンで男役を格好良く描くということの強調、宝塚が「理想」とする男役の表現の一つとも思える。もう少し踏み込んで考えるのならば、その「理想」を提示した上で、私たちはこの危険な魅力とどう付き合っていくべきか、を問いかけられているのではないか、とも思う。ナポレオン戦争のナポレオンに、雪原で隊列を組む兵士たちに格好よさ、美しさを感じたときの高揚感は、注意深く物語を追っていく中で芽生える違和感、心地よさ一辺倒ではない感情にとって変わられるかもしれない。それを宝塚で「良い」とされている既存の表現への挑発、転覆させる行為と捉える人もいるかもしれないし、ともに考えていこう、という緩やかな投げかけに思える人もいるだろう。あるいは、格好良く見える表現自体は否定されていないことに、そういった効果をむしろ意識的に用いる演出ととらえ、その判断に疑問がわく人もいるだろうか。

 

 私自身、物語として必要であるならば、そういった場面を一切描いてはならないとは思わないけれど、今回のような表現について考えるとき、宝塚の「美しさ」がある対象を肯定する勢いを、その力の凄まじさを宝塚はうまく扱えるんだろうか、私たちは安全に楽しみ続けられるのだろうか、と思うことがある。
 目の前の表現が即時アウト、ということではなくとも、それでもこの美しさの肯定は、グラデーションの先にある恐ろしい何かを肯定することに一役買ってはしまわないか、何かに加担することでは、と立ち止まることがある。どのような表現も文脈次第であり、受け取り手の私たちファンもまた、劇場の構成員の一部、共犯者である、と自戒しつつ。

 

 「武力」=「暴力」を格好良く、美しく描くことについて考えると、「暴力」と男役を結びつける「男らしさ」とは何か、というところにまでたどり着く。個人的に、男役が演じる「男らしさ」の表現は、私たちの社会での「男らしさ」の取り扱いとともにどう変化していくか、変化するのだろうか、ということに元々興味があり、それは「男役の加害性」を「加害性」として描くことへの興味でもある。フライング・サパやBADDYを見て、上田久美子先生は宝塚のなかでのそういった表現に対して意識的な演出家だと認識しているので、fffのなかにも同種の描写を見出したくなった。

 

 ナポレオンは生きることは不幸だと口にするけれど、謎の女がベートーヴェンの前で口にする不幸の羅列はナポレオンが理想を実現させるための手段、戦争の負の遺産でもある。本作品内でナポレオンが担う暴力性が産み落とした不幸は、人の形をとると女の顔をしているということに、作品内での対比のさせ方に、これも演出上の意図なのかと呆然とする。ベートーヴェンと対になる謎の女のことしか考えていなかったけれど、ナポレオンと謎の女の方が、バッディとグッディのように対比される存在なのかもしれない、とも思う。


 また、ナポレオンが謎の女に形見として銃を渡すという行為は、彼女のその後の行動を考えればやはりポジティブにはとらえられず、形見を残したナポレオンの身に巣食う不幸と彼自身の向き合い方、その決着に思いをはせてしまう。

 民衆の身の丈に合った「そこそこ豊かな暮らし」を想像できる人が「手足のない傷病兵」の存在を認識してなお、武力で解決するしかない、という方へ舵を切る、その思い切り方が恐ろしい、というところまで意識して描いているだろうなと想像するのは、この作品を信用しすぎなのだろうか。

 

 ナポレオンは言葉と精神によって多くの人々の心を時間をかけて耕すことを「まどるっこしい」と拒んだ。ベートーヴェンはそんなナポレオンに勝手に魅了され、勝手に失望し、けれどナポレオンによってベートーヴェンの心の一部は確かに耕された。まっすぐな長い畝を作ったエピソードに、その希望が託されている。

 暴力、音楽、どちらがうたうか勝利のシンフォニー、と歌わせている以上、ベートーヴェンとナポレオンの道は一瞬交わったとしてもひとつになることはない。勝利のシンフォニーをうたいたい、理想の実現のために武力=暴力を用いる人間としてのナポレオンは、作品内で肯定されていない。けれど同時に、ベートーヴェンに理想の描き方を示し、皆を遠くへ連れてゆく道半ばまでの併走者としてのナポレオンは肯定されているのかなとも思う。


 「戦いの先にある、まだ見ぬ世界」を望むナポレオンの最後の言葉は「戦いの先」と「先にあるまだ見ぬ世界」どちらに比重を置くかで印象が微妙に変わるけれど、おそらく強調したいのは後者ではないだろうか。「あなたも私も許しあえるはず」と同じく、いかにも宝塚らしい大団円とだけとらえるか、その取りこぼしのなさに「第九」の力を見るかもまた、観客に委ねられている。

 

 BADDYでグッディが怒りや悲しみといった感情を知ることで活性化するように、ベートーヴェンは己が不幸と向き合うことこそが自分と向き合いよく生きることであると気づく。後者はそこから個人が社会に接続していく方法を見つける姿まで描かれているように感じる。
 
 よく生きるために人生にまとわりつく不幸、苦しみを引き受けろ、一点の曇りもない幸せは生きていないのと同じこと、ぐらいの壮絶な世界を描く久美子先生が舞台上で実現したい「理想」にかなりの夢を見ているし、個人的には人間の可能性をポジティブに捉えている演出家だと思っている。
 宝塚歌劇は「理想」の「まだ見ぬ世界」を見せて皆の希望を生み出す劇団だと思うので、そういう意味でfffはこれ以上ないほど宝塚にふさわしい演目のひとつだと私は思っています。

 人生は苦しむのが当たり前のもの、ととらえるとしんどさばかりが先に立つけど、人生の無謬性の否定というか、傷がなく生きることを目指す必要はない、とも解釈できるのではないか、と凡人がその理想の状態に身を置く方法を模索してみる。

 

 

以下、fffに関連して読んだ本です。

 

ハーヴェイ・サックス著, 後藤菜穂子訳『「第九」誕生 : 1824年のヨーロッパ』

www.shunjusha.co.jp

 

エステバン・ブッフ著, 湯浅史, 土屋良二訳.『ベートーヴェンの『第九交響曲』 : 「国歌」の政治史』

www.hanmoto.com

 

マーク・エヴァン・ボンズ著, 近藤譲訳, 井上登喜子訳『「聴くこと」の革命 ベートーヴェン時代の耳は「交響曲」をどう聴いたか』

artespublishing.com


ベートーヴェンの音楽自体が革命を起こしたというより、彼は音楽、器楽を「聴くこと」その解釈が大きく転換した時代に作曲を行なっていた、聴衆の耳は「交響曲」に何を聴いたのか、について掘り下げた本。「芸術は政治からも解き放たれて〜」のゲーテの台詞への引っかかりを解きほぐすヒントというか、解のひとつを得た気がする。

 交響曲をモチーフにしたゲーテの著作、理想の国家のあり方を芸術に喩えて語った文章と交響曲の構成について語るときの方法の類似性、シラーの美的国家を民族主義者の観点から書かれたものとしてでなく読み解くことetc.についての第4章「美的国家を聴くーーコスモポリタニズム」は、fffを観た人にとってとてもおもしろい本かも(おもしろかった人の意見)。


 十八世紀後半以降、参加者全体が本質的に対等な関わり合いを求め得ること、多様な音色の統合、音響的多様性から「交響曲は共同体の声の表現」という見方が評論家達から多く指摘されていたし、それ以前の時代も同様の見方はあった、という箇所が特に印象に残った。孫引きになってしまう部分もあるけれど、以下、引用。

 

レッシングは、1760年代の著作で、演劇でのオーケストラ序曲ーーすなわち、シンフォニア交響曲)ーーと間奏曲を、劇中で人間の共同体に声をもたらす役割を果たしていた古代ギリシア劇の合唱(コロス)に比している。1785年に、ラセペードは、この考えを繰り返して、次のように記している。「演劇に合唱を導入する必要があるように、すべてのオーケストラは、とても興味深い登場人物たちから発せられる感情の声に加えられる群衆のどよめきを、見事に、際立ったやり方で表すように演奏する」ことができる。(p.141)

 

そして、ドイツのある匿名の評論家は、1820年の著作で、次のように言明している。交響曲では、大規模な合唱作品でのように、「人間性の普遍」が見えてくる。「そこでは、個的なものの全てが、別々の諸存在として、全体のうちに溶解しているのである」。(p.141)