TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

2112時間続く夜にポルンカの兵士は地球の夢を見るか

宙組『FLYING SAPA -フライング サパ-』の主に難民ブコビッチについての感想

 

※8月11日ライビュを鑑賞したきりなので、認識に誤りがあったらやさしくご指摘ください

※観ている人が読む前提でネタバレをわっさわっさする

 



観た9割ぐらいの人が思いつくベタなタイトルにした。

もとい「難民船に乗れた人と乗れなかった人の話」。


「FLYING SAPA』は、SFものとしてはかなりポピュラーな発想に基づいている作品だと思っているので、宝塚作品として物語を面白く鑑賞しつつ、「サパ」の謎が解き明かされる過程自体に私はそこまで新しさは感じなかった。今の地球が滅びた後に生まれた全体主義国家の監視社会という設定に、土地の選択、監視の方法、国民に許された生活の内容etc. バリエーションはいくらでも生み出せると思う。(未読の人は『1984』のwikiを読んで欲しい)でも舞台はなまものなので、いつやってもその時の上演タイミングによって「今」の社会の状況がすくい上げられ「今だからこそ」という意味付けが生まれるのかもしれない。私が『1984』『侍女の物語』それぞれを数年前に初めて読んだとき、どちらに対しても(これ「今」を想定して書かれた作品じゃないの!?)と衝撃を受けたのと同じように、出会うタイミングに出会ったディストピアものは、得てして一定数の人たちにそういう印象を与えるものとも思う。


また、同じくディストピアSFだと捉えている、同作家前作の「BADDY」は、宝塚だからこそ生まれる作品として、宝塚の枠をなぞりながら宝塚をメタ視点で分解、再構築する発想自体に驚嘆した作品だった。こちらはショーなので、芝居であるサパと同一には語れないものであることを踏まえつつ比較すると、サパはSFとしての発想はオーソドックス、脚本自体は一見他団体で上演できそうにも見え、でも人間の愛や正義について繰り返し描いてきた宝塚という劇団でこそ、いま上演する意義がある作品とも思える。

冒頭のクランケたちへの「治療」の場面一つをとっても「黄色い猿」という言葉の使い方は「核兵器核家族化」を、サパの世界観に合わせて「ダメッ!ダメッ!」という茶目っ気なく差し出した感。


しかし、あらゆるジャンルの様式を取り込む試みがなされている宝塚の懐の広さを考えると、私が知らない過去作品で同様の発想から生まれた作品はすでにあるのでは?(小池、マサツカあたりを想像)だとしたらそれらとの違いとは?と有識者に話をしてほしい。


そんな、いろんなひとがいろんな感想を書いているサパについて、私は総合学習のグループワーク分けで、総統01=難民ブコビッチについて発表したいと挙手する人になります。


過去回想で、本来ならポルンカに来られない身分のブコビッチが、過酷な環境のポルンカでも人類が生存できる仕組みを発明できる可能性がある科学者であったために乗船がかない、と判明した時点で「ポルンカに生きる人の現在の話」ももちろん興味深いけれど、作品内でほとんど描かれていない「ポルンカで生きる人の地球に残してきた人への思い」や「ポルンカに来れないことが確定した人の地球での余生」が気になってしまい、これは難民ブコビッチ=総統01の話でもあるのでは、と思ってしまった。ポルンカで生きている人は言語や文化、宗教等の「違い」を持つことを禁じられていて、禁じられれば焦がれるもの、と人々はクレーターの中で、めいめいが持っていた「違い」について想いを馳せ、他者と共有するけど、地球に残された人たち=自分たちが切り捨てた人たちのことについて想いを馳せ、語る人はいない。

「持つ者」は初めから「持たざる者」だった人たちのことについては思い当たらない。オバクが記憶を失ったことを教えられても、初めからなかったことになっている人間にとって、喪失した記憶自体になんの感慨も持てないことと近しいかもしれない。


「持つ者」と「持たざる者」という切り口に着眼することには慎重になるべきだと思うし、誰しも複数の属性を抱えて生きている、「持つ」「持たない」それぞれの部分が一人の人間の中で混じり合っている。そもそも「持つ」「持たない」という判断、「持つ方の優位性」を決定している価値観、今の社会の状況への批判もなしに、その内の一つだけをピックアップして比較する行為は間違いが起こりやすく危険が伴う。ひとりの人と向き合うことはその多層さに目を向けることだ。


それでもあるフィクションの中で「持つ」「持たない」の割り振りが強調して描かれていると感じたとき、現実における自戒を前提として、その「違い」を注意深く見つめることで、作者の意図、物語から取りこぼせないものが浮かび上がってくることはないだろうか。この物語は「違い」を重要視する物語だから。


冒頭で名前をあげた『1984』は、とてもざっくりとたとえるとポルンカで生きている、選ばれた人の視点で語られている物語で、けれど彼らが「被支配階級」と認識している人々の多くを占めるぶ厚い層として生きる人の方が、読んでいる私たちの多くに近いんじゃないか? と思える瞬間がある。「被支配者階級」はサパでいうところの、ポルンカに来られなかった人と考えると、私は「へその緒」を与えられず、監視される立場にすらない、置いてゆかれた人たちへの思いを一方的に募らせてしまう。


そういった背景を踏まえると、ブコビッチという人の肩には船に乗る前に亡くなった人だけではなく、命が助かる見込みはあったにも関わらず乗船できる身分でないために地球に置いてゆかれた人も含め、多くの人の人生が乗せられている。ポルンカにいる人全員の肩に乗せられるべきものを、彼が肩代わりしているともいえる。(この重責を担えるのはそりゃあ汝鳥伶さんクラスの人になるのでは…)

その上で「へその緒」を発明したブコビッチが、もともと乗船可能な身分と思しき妻子ともに健やかなロパートキンに、君の才能を神に感謝すると目の前で祈られ、怒る理由をあのように設定する久美子先生の脚本に信頼を寄せている。「神々の土地」のドミトリーのジプシー酒場で見せた寛容さにも同種の感情を抱いたことを思い出す。

 

「持つ者」だからこそ精神に余裕があり、他者を尊重できる。あなたが正しさを選択できることは、あなたの生来の性質によるものなのか、だとしたらそれは努力して手にいれたものではなく、生まれながらの特権ではないのかと。特権を持つことが悪いわけではない、でも「持たない」ために選択できない者へ不寛容さを説く前に、自分が「持つ者」だから選択できるということを、顧みたことはあるかと。ノアのような人に、あなたの正義を押し付けないで、と鋭い言葉を投げつけるイエレナの場面もまた、同じ意図を感じた。(久美子先生の描く娘役は意思がはっきりとしていてとても好みであることが多いけど、イエレナは特によい…)


物語の中だけの話ではなく、これは日々、いつだって思いがけないタイミングで自分にも跳ね返ってくる話だと思う。ものすごく卑近なたとえで考えると、ある情報を見て「トイレットペーパーやイソジンを買い占める人」がいて、同時に自分が「違う情報」を手に入れることができたために「買い占めない人」になれたとき、「違う情報」にアクセスできるということはある種の特権である、ということを認識するということ。ささいな違いに見えて特権である、ということもまたありうるのを知っておくこと。その上で「違う情報」にアクセスできなかった人とどう付き合っていくかということ。


科学者だから、人類の役に立つために乗船がかなったブコビッチには失敗することが許されていない、それは一緒に船に乗っている他者が彼のことを許さないからではなく、だれよりも彼自身が、自分が乗船した意味をそこに見出しているという意味で。選ばれた人類のための「へその緒」の開発を、ブコビッチが「選ばれた」者の使命として果たした後、それに人類を監視するようなシステムを付与しようとしたのは、地球での「違い」による諍い、自分の妻子やミレナの身に起こったことへの再発防止の方法の一つであると同時に、これからポルンカで不自由なく生きながらえることができる人たちへの復讐でもあると感じた。なんの枷なく彼らが生きることを許していいのか、否、という。

一方で、総統01=ブコビッチ自身がオバクへ語ったように、そうすることでしか人類の滅亡は防げない、という彼の絶望から生まれた愛の形のひとつでもあり、そこに矛盾はないんだと思う。

 

ポルンカに限らず私が生きている社会でも当たり前のものとして「違い」を掲げて生きることはとても難しい。みんなそんなに違いがあることを欲望してないでしょ?一つになれたらいいと思ってるでしょ?ということを「違う」ことを認められない社会でトゲのようにちくちく感じるひとならば、総統01の言い分はすごくよくわかると思う。一方で、総統01=難民ブコビッチほどの頭脳もなく、思い切るほどの一貫性もない自分は、多様性を標榜しながら、すぐ他人の「違い」を非難するような考えが頭に浮かぶ。

オバクと総統01が対峙してやりあう会話は人類に与えられた普遍的なテーマなので、ひとりの人間が分裂して激論を交わしているのを見ている気持ちになってしまう。成熟には程遠い社会で私たちが見る物語の決着が、二人の対峙する男ではなく、ミレナの行動に委ねられたのも納得がゆくのだけれど、その行動の意味するところはまだ深く理解できていない。ポルンカに生きる人たちの意識を流し込まれたミレナってそんな平然としていられるの? 発狂するのでは? と思っていた。あれは総統01の試みが失敗したからではなく、仮説と異なる結果が出たようなものなの? 彼らの結末の意味はまだ飲み込めていないけれど、「持つ者」であるロパートキンや、イエレナにその「正しさ」を問いただされるノアのような人物がとても理知的で人間味があり、信頼に足る人物であると描かれているからこそ、わかりあえなさが際立つと同時に、二人で生きていくことを決めたイエレナとノアの選択に、彼らに見出だすことができる未来に、希望を預けてしまいたくなる。ミレナに、少女に開かれている可能性を差し出すロパートキンの言葉にもまた、久美子先生が描く世界へ込められた希望を感じる。ブコビッチが人類への愛と憎しみを両方抱いているのと同じように。カオス・パラダイスのカタルシスが無い世界もまた、ぐるぐるぐちゃぐちゃしている。

男役=理性、娘役=情動、みたいな役割分担になっているきらいはある…? でも動ける方が主人公になれる? などともう一度観ることができたら、理解が深まるのかもしれない疑問は山ほど。


幕間にロビーに走ったらパンフレットは売り切れで、しょんぼりとしつつ急いでキャトルに注文した。月末か来月頭に一緒に届いたルサンクと合わせてまた考えたい。生で観られることを祈りつつ、この状況下で東京での上演を祈ってよいのか。舞台が上演できる日常が素晴らしいものであることと、その素晴らしい日常は当たり前の日常であることは同時に成り立つのだ、という認識は譲れないものとして持っていたい。

 

 

総合学習のテーマとはずれるのだけど、余談として、オバクの「男と寝るなら金を取れ」という台詞、「壬生義士伝」を書いた石田氏も好きそうでありながら、氏が自分の作品のなかで意図するのとは全然違う効果を発揮するタイミングで発されている台詞だと感じた。銃声を聞きつけてあすこに集まった人たちが、ミレナがいろんな男と「自分の意思で」寝ているのを知っていて、襲おうとした男に部屋に押入られたことに対して「ミレナ自身に隙があったんじゃないか」「いろんな男と寝ているなら誰でも同じだろ」というような最低の言葉を投げつけない場面になっている、「自分の意思でいろんな男と寝るのと無理強いされるのは全然別」という認識が当たり前にあることに、そういうことを「わかって」書いている、と思えることに「その意味」ではとても安心して観られる作品だと感じた。そんなの当たり前でしょ?なんでそんなひどいことを思うの?と私の発想自体に怒る人は、あなたのような人が正しいとされる社会で生きたいのでそのままでいてください、と祈り続ける。


「自分の意思でいろんな男と寝るのと無理強いされるのは全然別」という認識が「日本の現実に即して」当たり前に「ない」けど「ない」と思う人やそう認識させる社会の加害性を観客に伝わるよう描く方向性をとるような、そういう意味で信頼できる作品もある、でも後者のほうが作り手受け手に求められるハードルが高いので、いまの描き方のほうがサパのバランスとしてはよいと感じる。と思っていたけど、普通にサパは前者後者両方の場面がある作品では…?「ない」世界で生きていると、ひとつ「ある」ことがありがたすぎて、たくさん「ある」ことに気づけなくなってしまう…という言い訳。


しかしそういう、サパが女性への加害を描きながら信頼がおける作品である理由について考えると、加害を加害として観客に認識させるようきちんと描く、宝塚での表現を探りながら、というのが「男役の格好よさ」に含まれる加害性に見て見ぬ振りをしない唯一の方法かもしれない、と改めて感じた。宝塚で「いまの時代にあった作品を作る」って「物語の舞台を現代にする」以外にもあるんだと思う。わたしは宝塚でもそういう作品をもっと見られるはずだと、宝塚に夢を見ているし、これからも見ていたい。「宝塚らしさ」についてますます問われる機会が多くなる時代に生きているけど、「宝塚らしさ」は時代時代で柔軟に変化できるものだと信じ続けていく。