TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚の「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」≒「ONCE UPON A TIME IN TAKARAZUKA」?

宝塚を見過ぎて「アメリカ」すら宝塚という大きな貝が吐き出す蜃気楼に見えてきている人の感想。

 

 

 

 


"昔、ふたりの貧しい少年がいた。ひとりは日の当たる道にたどり着いたが、もうひとりはつけなかった。けれどふたりとも、このアメリカで懸命に生きていたことに変わりはない。どちらが勝ったわけでも負けたわけでもない。それでいいのさ。"

 


宝塚は、そこに生きている人たちの誰かから誰かへ向けられた感情を増幅させて、生っぽく普遍的に描くことはできるけど、ある国でかつて存在した、いまも続いているその社会固有の問題を、そこに生きる人の困難を、リアリティを伴う描写をもって舞台上に存在させるにはあまり向いていないと思うことが多い。

 


舞台の背景をどうやったらより多くの宝塚の観客にわかりやすく伝えられるか、と考えたときに、登場人物たちが置かれている過酷さをある程度見やすく整えることももちろん必要だと思う。直接的な表現、そのままを描くことがイコールもっとも伝わりやすいわけでも、作品として適切な表現ではないこともある。でもその過程で削ぎ落とされたもの、選択された方法によっては、もはやその国の、そこに生きる人の物語として受け取るには情報が足りず、観客が頭の中で補完すべきものが多い作品へ姿を変えてしまうことがある。あるいは情報が記号化されることによって、現実にあった具体的な時代や国は後退し、とても普遍的な、教訓を含んだ物語に読み替えられる。

 


宝塚の舞台上で、ある国の描写、その国に存在する問題を、どれくらいリアリティを、厚みをもって描けるんだろう。そしてそこにリアリティが欠けていることは、はたしてどれくらい非難されるべきものなんだろうか。

 


原作にどれだけ、どのような描写があるかは未確認なのだけど、宝塚のONCE UPON A TIME IN AMERICAでは、アメリカという国で彼らユダヤ系移民が置かれている状況について、彼ら自身が語る言葉以外に推測する材料がほとんどない。偶発的な出来事の積み重ねから観客に推測させるのではなく、台詞、歌詞でもって、情報として語られる。

きちんとした教育を受けられず、幼くして働き手になることを迫られる少年たち。彼らは彼らの親と同じく、豊かな富を得るような職にはつけない。貧しさは連鎖し、「日の当たる道」を選択できない少年らは悪事に手を染め「アメリカ」への憎しみを募らせる。

ヌードルスをはじめとする少年たちへの、警官の態度の悪さは、単に悪ガキだから何かしでかすだろうと、はなから疑ってかかっているだけにも見える。少年鑑別所から刑務所に移送されての7年余りも、ヌードルスのルーツゆえなのか、全体的に司法がうまく機能していないのか、あの描かれ方では判断がつかないところがある。

その後も、アポカリプスの四騎士となった彼らが、成功報酬を交渉する場面での「ユダヤ人はこれだぜ」取引相手がぼやきにこめた揶揄くらいでしか、彼らのルーツは取りあげられない。

彼らが真っ当な職に就こうと試みる場面、あるいは移民ゆえに差別をうける場面は、明確には描かれていない。彼らの選んだ仕事がうまくいかなかった背景に彼らのルーツがあるのだとしても、のし上がってゆく過程でユダヤ系移民という要素はほとんど絡んでこない(それがネックにならない仕事だから選んだ、という意味合いもあるのだろうが)。


彼らが少年の頃から一貫して背負っている、前面に押し出されているのは「貧しさ」という根っこだ。それこそがこの作品で描かれる「移民」の最も大きな要素であり、この曖昧さは「移民」の「固有性」をあえて詳しくきちんと描かず、より一般化、皆がその言葉から漠然と想像するイメージに寄せることで、宝塚として見やすくするための処理に思える。観客の基礎知識を多めに見積もって、信頼している、というのともおそらく違う。具体的なディテールは、宝塚で描くには重すぎる政治的要素をはらんでしまいかねない、という処理。その処理が適切かは別として、貧しい少年たちが這い上がろうとする過程で困難にぶつかる話は、わかりやすく、かつ感情移入しやすい。感情移入を阻むほどの、重たいエピソードは、舞台上にはあげられない。

(それならばユダヤ教を表す「固有の」わかりやすいモチーフとして、六芒星を背景に輝かすことについても控えるべきだった、という見方もある。そこまで固有の属性に重きを置かない作中で、あのセットの使い方は、ある特定の宗教の扱い方としてはどうなのだろう?とは思っているけど、それも「わかりやすい」処理の一つなんだろう。ヌードルスが友のために祈ることが大事なのであって、その神がだれであろうと、観客の多くにとっては大きな問題にはならない)


そして、彼らを貧しさに追いやったものへの怒りは、具体的な制度や自分たちを差別する人間ではなく「アメリカ」というとても漠然とした対象へ浴びせられる。国への怒りという分かりやすさの前に、その怒りの細やかな内訳を描くことはもはや求められない。必要なのは怒りの強度で、それを裏打ちするのはディテールではなく役者の身体と熱量。


禁酒法撤廃と同時に暗礁へ乗り上げる彼らが歌うアメリカへの呪い。感傷的な叫びは、彼らが生まれた時から与えられず、奪われ続けていることへの正当な怒りから生み出されたものなのか、はたまた事業が失敗したことへのただの八つ当たりか。自分たちを中途半端に育て、放り出した養い親への怒りのようでもある。

「おれたちの青春が終わる」なんて言葉を持ち出されることで、漠然とした「アメリカ」はさらに伸び縮みし、物語ごともっと身近に、観客の手の届くところに迫ってくる。これは貧しい少年たちがのし上がろうとする話、観客に味わったことのない青春を追体験させる話だ。

人を躊躇いなく殺して金を稼いでおきながらそれを「青春」とのたまうどうしようもなさ、いつまでも男の子たちのゲームを気取っていたいのか君たち(というか特にマックスくん)は、と苦笑いをしながらも、彼らの人生を賭けた青春ゲームの舞台「アメリカ」に引き摺り込まれている。舞台の上で生きている個々の人間の厚みと、物語の切れ目がわからなくなってしまう。


宝塚ではある国固有の事情や苦難を細やかに描くことはまったく求められていない、とは思っていないし、そこを観客を惹きつけるように描いている作品もあると思う。

でもこの作品はそういったタイプのものではなく、「アメリカ」や「移民」を想起させる場面を、いままでの宝塚で描かれたなかから掴み取ってきているように見える。宝塚のアメリカ、組み合わせパックのような。ある意味周到でずるい。(原作に忠実だったらごめんなさい)(というかこの原作が先にあって、過去に作られた小池氏の宝塚作品は、その原作のかけらが散りばめられたものでもあるのだろうが)


もともとの「アメリカ」の包容力がでかすぎるので、ディテールをたいして描かなくとも、皆の心の中にそれぞれの「アメリカ」がふんわりと存在してしまうことを逆手にとっているずるさもある。そしてアメリカの同時代が散々宝塚で舞台化され、描き尽くされ、宝塚内で一般化しているのもあるけれど、もはやここに描かれようとしているのは、具体的なアメリカですらないのかもしれない。ローリング・トゥエンティも、禁酒法も、スピークイージーも、連邦準備銀行も、耳に馴染んでゆくほどに、具体性を失ってゆく。移民は貧しさの象徴で、カンザスは田舎、モグリ酒場は娼婦宿、なんとかと煙は高いところが好き、人を殺すのは悪いことだ。

全部タカラジェンヌたちを魅力的に見せるための魔法のエッセンスで、装置にしかすぎない。


ある国のある場所で懸命に生きた貧しい少年たちの話であって、同時に彼らのルーツもまた、はるかかなたへぼやけていってしまっているように思えてならなくなる。

そこで展開されているのは男女の恋愛、すれ違い、男同士の友情、喪失、人生が続いてしまうことのやるせなさと希望、私たちの人生の中にも存在する、よく見知ったもの。その体験の生々しさは目の前の役者の演技の熱量によって沸き起こるし、観客それぞれが持つ体験の記憶が、観劇の助けとなる。


でもこの、ディテールがぼやけているところこそが、昔の少女漫画で描かれたパリのように、すでに皆の頭の中にしか存在しない国の物語としての味わいを生んでいて、それこそが宝塚の醍醐味なのかもしれない。ワンスアポンアタイムはアメリカではなく宝塚にかかるのでは? 演出家のコントロールの範疇なのかはもはやわからないものをそこに見出してしまう。


一観客として、作品をそういうふうに受け取ることを普段だったら恐ろしく思うはず、思うべきと思うはずなのに、宝塚であることを免罪符にしたくなっている自分に気がつく。それは外の舞台と比べて、宝塚の物語自体にある強度を軽んじた見方なんだろうか。

そういうふうにこの作品の物語り方を「醍醐味」といってしまうことはものすごく危険なことではないか、という警告と、単にいつもの宝塚の話をしただけでしょ、という声が同時に聞こえている。