TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚 ミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』一幕ラストについて

ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)一幕ラストの話をします。

 

 

 

一幕ラストは何度見てもつらい。


つらいの内訳のひとつは、ヌードルスの慟哭があまりにも直接的に伝わってくること。どういう事実への嘆きか、具体的な彼のいまの気持ちに同調できるか、というこれまでの物語の文脈をいったん横に置いてしまうほど、目の前の人の感情の迸りに豪速球を腹に喰らったような衝撃を味わうつらさ。あまりにも心が剥き出して裸で、服がビリビリになっていないのが不思議。確かに歌なのに叫んでいて、叫んでいるのに心地よい。ずっと聴いていたいけどいますぐやめてほしい。皮膚を突き刺して心臓に食い込んでくる。音が痛い。


もうひとつはヌードルスという人の巡り合わせの悪さがだめな意味で身を結ぶ光景を目撃してしまう気まずいつらさ。これが居間のテレビで流れていたら、思わずチャンネルを変えるかその場から立ち去って自室に篭りたくなる。他人と共有したくないけど約2000人とシェアしてた。こんなにド派手な場面を自分でセッティングしておいて、フラれて泣き叫ぶ人を見るのつらすぎるだろ。しかしこれが私の好きな男役です。

デボラとヌードルス、双方ともそれぞれのサインを拾えていなかったでしょとお互いのイーブンさを主張してヌードルスをかばうにしても、以前からデボラが彼の「皇帝への目指し方」を批判していたのをもっと重く受け止めて欲しかったと思ってしまう。あとまさかあんな薔薇の部屋を用意してくるとはだれも思わないから。

だれよりも素晴らしい贈り物を差し出したら、愛している人の心を掴めると思うのは子どもの発想で、それで女の心をモノにできるのしないの、という考え方は男様の発想だ。そもそもデボラはショービジネスの世界でのし上がるという、皆に笑われた野望をヌードルスに肯定されたこと、同じ高みを目指すある種の同志として、彼をいいなと思ったのであって、別に彼の手によって皇后にならせて、とは一言も言ってない。

それでも目の前にお前のため、と用意された宝石にぐっときてしまう人もいるとは思う。でも私のためにここまでしてくれてという感動と、私のために突然こんな高価なものを買えるほど稼げる仕事に手を出してしまえるのだという恐ろしさは同時に沸き起こるものだと思うし、前者が後者を上回って、手にしたチャンスをふいにするほど、デボラは馬鹿ではなかった。そしてヌードルスはそんなクレバーな彼女を好きになったのだから。

ただ同じ地区に住んでいただけで、彼らはスタート地点から違ってた、ということをお互いにわかっていたのだろうか。

デボラは、彼女らがいうところの掃き溜めの中でも、幸運にも努力の方向性が合っていて、選択できた人だ。ヌードルスが万が一まともな仕事についていたとして、初めは褒めてもらえたとしても、デボラと並び立つような世界の住人には一生なれないコースで、そういうことを彼女は考慮していないと思う。ヌードルスがマックスらと同じ仕事を選んだのは、友情に報いるためだけではなく、彼の人生にはいつも選択肢がなかったからだ。

でもそれはヌードルスの人生であって、デボラがそこまで面倒を見てやる必要はまったくない。


ヌードルスが刑務所送りの罪を犯す、ふたりを刺し殺す場面では、ロミジュリの決闘を思い出す。彼が成したことではあるし、裁かれるべきものではあるけれど、あれは彼だけでも彼らだけの問題でもないと思う。ベンヴォーリオの「あなたたちの憎しみが、僕たちを駆り立てた」を歌ってしまう。

そういうものが積み重なった結果としての二人の破局であり、それが基盤にある、彼自身の力を求める思考が成した一幕ラストへのつらさ。すれ違いによるすれ違いで、人生が本来なら重ならなかった人たちが、間違って親密になってしまった結果の惨事を見てしまったのかもしれない。


最後のひとつは、一方の同意がない行為に無理やり及びそうになる光景を舞台でみるということ。

原作映画は見ていないけど、これがだいぶマイルドにアレンジされているものだということは聞いています。ヌードルスという人のデボラへの愛憎を見せるため、彼の「男らしさ」が向かうところの攻撃性がおろかさと繋がった描写としては、タイを解く、押し倒しかける、けれど一度拒まれてやめる、という流れはまったく不必要なものとは私は思わない。思わないけれど、物語上必要であっても、無理やりそういうことをする人、される人を演じる姿を見るのは個人的には何度見ても、慣れることなくけっこうつらい。お互いの要求をお互いの事情ゆえにのめない口論までは、世間の基準に照らし合わせた言い分の真っ当さ、真っ当でなさはともかく、一方的に片方が悪い、という判断は保留にできる。でも一方が力でねじ伏せようとした瞬間、それはただの暴力になってしまう。

もともとの「愛」の中に見え隠れしていた、好きな相手を手に入れたい、屈服させたいという欲求が前面に出てしまって、それを「愛」の一言でねじ伏せようとするのはとても怖い。それを「愛」の名の下に行使するのは、宝塚以外の世界でも男側が圧倒的に多い現状、外の世界の暴力性と宝塚が切り離されているとは言い切れない。そのあんばいを理解して、ギリギリを見定められている演出なのかどうか。暴力性を描くために入れた場面であるかどうか。役者の魅力でただのかっこ良い場面になりすぎてはいないか。私は有りと思ってしまっているけど、それは役者に肩入れして見てしまっているから、といわれたら全否定できないところはある。


そしてさらに、逃げ去った女の感情はさておいて、逃げ去られた男の嘆きを一曲ド派手に入れて幕、という流れを作る、その男の苦悩を「愛ゆえに」として魅力的に見せてしまえるのが宝塚で、男役で、それってとても罪深いことだとも思う。


ジャッジは人によるとは思うのですが、私はたぶん、どんなに好きな俳優さんでも、同じ場面をリアル男性がやったらだいぶ受け入れがたい。これをなんとなく受け入れてしまえるのが宝塚の不思議さ、恐ろしさなんだと思う。


男側に言い分があるように見えてしまう、「愛」を拒んで逃げ去った女が悪様に言われる可能性がある世界で生きているのに、夢の世界とはいえこれをありってことにしていいのか、いや彼をおろかに描いているからいいよ、でもデボラを欲望するギラギラしたヌードルスは魅力的だよ、それが彼の暴力性と紙一重だとしても? あまりにも真っ直ぐに、屈折して、放つ光をギラギラと乱反射させながら「愛」を歌う人が、舞台上で真剣勝負に挑んでいるので、こちらも不純物が混じっていないかのように思いたくなってしまうけど、全部ごった煮のどろどろとして、腹の中に落として休憩に向かうしかないのかもしれない。


いろんなつらさが混じり合って、それでもひとりの女の「愛」を乞う男のおろかさ、醜さをああやって魅せるものにしてしまう望海風斗さんの男役に、私はとても魅了されています。