TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」のヌードルスと望海さんについて

ヌードルスと望海さんヘのくすぶる想いが熱を帯び赤く燃えている人の感想(こわい)

 


・やんちゃかわいい少年期

星逢以来の少年、どうなる?!と思っていたけど特になんの問題もなかった。くるくるした前髪が額と眉を覆って顔まわりの直線を和らげている。もともと地声は高い方なのも知ってた。「デボラァ〜」そんなこと言うなよと拗ねてくちびるをつきだした表情のあどけなさにむりがない。「はあーい、マダーム!」「ありえねえ」「そーだそーだ!」「おまえウソがちょーうまいな」の耳をひっぱりたい腹立つくそがき感。背伸びした少年が等身大に見えるくらいのびのびとした姿。


「ビックビジネスの勝利者」「勝利者への第一歩!」彼がと口にする度、台本上のミスチョイスの可能性を思いうつも、こまっしゃくれた少年がいかにも使いそうな大仰な語彙にも聞こえて、なじんでいないのになじんでいるのがおかしかった。はやく大人になりたくて大きめのコートをわざと着ているように、ぶかっと浮いている言葉。「皇帝と皇后」ソングでの、ポケットに手を突っ込んだままおどけてみにくいアヒルの真似をするポーズ、戴冠式のふたりのやりとりの、年相応のかわいさといったら!ピアノのイントロに、セピア色のライトと稽古場の床の色に、ダディ・ロング・レッグスのミスター女の子嫌いのイントロを毎回思い出して胸をときめかせている。


生きるために裕福なおとなからくすねることに、ほしいものにさっと手を出すことに躊躇はない。仲間を出し抜いて気になる女の子とふたりきりになることも、キスをさらうことも抜け目なくやってのけるヌードルス。心配なのはおとなに怒られることじゃなく、デボラに嫌われること。そんな少年でも仲間を守るためとはいえ、人殺しにまで手を出す気はさらさらなかっただろう。持ち前のすばしっこさで、気づいたら彼は境界線をとびこえていた。

薔薇を差し出せば好きな女の子の心を惹きつけられた、仲間たちとはねまわっていた少年時代はあっという間に奪われる。彼が奪った2人分の人生と、それが等価かどうかは誰が決めるのか。

 


・ギラギラとした野心あふるる青年期

「おれもムショに入ったらヌードルスみたいにかっこよくなれるかな」

ヌードルス!あんたいい男になって〜!」

「マックスが言っていたとおりだわ」


帰ってきたヌードルス、いきなりがしっとした成人男性になっていて度肝を抜かれる。あつらえたみたいにぴったりなスーツを用意したマックスのおかげかもしれないけど。白みがかったグレーの生地の明るい色味とスーツの形のクラシカルさがマッチしすぎて「往年の」「お父さん(概念)が若い頃着てた」等の形容詞をつけたくなってしまう佇まい。腕を組んで眉根を寄せて、思慮深げな光を瞳にこもらせていてほしい。

ヌードルスの7年あまりは、あの仲間たちと隔離され、外の世界で得られなかった教育をうけられた(詳細な描写はないけど)という意味では、得られるものがなにもなかった時間ではないとは思うけれど、それは外野の意見でしかない。久々に対面した仲間たちのはしゃいだ様子(彼をもり立てる気持ちもあろうが)と、眩しさに目を細めるようなヌードルスの表情、落ち着いたふるまいの対比に過ぎ去った時間の大きさを見る。しかしパッツイのかわらなさに救われるのは観客だけではないと思う。

コックアイの肩に肘を乗せた「コンビ…?」の、コミカルに傾かない、動揺を押し隠しきれないけれど大仰でない声音と表情が、真面目だからこそおかしくせつない。初恋の女の子の大事な舞台初日に間に合わなかったあの日から7年以上の時を経て、ようやく彼女に対面できた男の言葉は、積年の思いをのせるには余りにシンプルだ。鏡に向かって散々に悩んで練習したあげくの、ありふれたー言だったのかもしれないと思うと、どうにもたまらなくてその恋の行方に手に汗握ってしまう。ダンスに誘う男、首を横に振りつつも落ち着いて語らえる場所ヘ誘う女の無言のやりとりに、ティーンのときにこんな光景を目撃してしまっていたら、大人になったらみんなああやって距離を縮めていくんだと勘違いしていたかもしれないと冷や汗をかいた。もう間に合わないのでほっとしている。


しかし自分から間合いを詰めて相手の隙を見逃さない手口はいっちょまえなくせに、デボラから手を握られただけで、その手をぐーぱー確かめて呆然とした後「シャバの空気にのぼせちまった…」という、押して、引いてのバランスの危うさにこちらが呆然とする。自分の好きにー分の迷いはなくても、相手発信の心が感じられるスキンシップを与えられると戸感うのはわからなくもないのだけど。「真夜中にひとり」での、感情の高まりとともに、厚みを増して朗々と響く声、熱、色っぽさが歌詞以上に雄弁で、共感覚の人ならここでどんな色が見えるんだろうなんてことを思った。ヌードルスはひとりで苦悩しながら歌う曲が多く、観客には彼の気持ちの高揚や痛みがひしひしと伝わっているけど、他の登場人物、彼が気持ちを伝えるべき人たちにはもしかしてそこまで感情を表にする人間だと思われていないのか?と今更ながらに。

人を待たせているデボラの心ここにあらずな表情をもっと読み取って欲しかったけど、初恋が成就する予感に浮かれたヌードルスにはその思考力がない。天を仰いだゆるやかなガッツポーズに詰まりに詰まった喜びが透けて見えて(なんてかわいいやつなんだ!)(彼の会の行く末を見届けたい/見たくない)がせめぎ合ってー騎打ちする。

どんな事情があるにせよ、「たとえおまえに拒まれても」を実行してしまったヌードルスに伝えたいー言は「合意」の2文字のみと言い切りたいんだけど、彼の叫びがあまりに悲痛なので願いを叶えてやりたくなる。しかし見捨てる覚悟を持ちたい/持てない。一幕ラストの彼女の名を呼ぶ押し殺した声にすべてが詰まっていて、ここで叫ばれるよりも、彼の鬱屈した思いの行き場のなさ、背負った業の捨てられなさに揺さぶられる。

この場面も、2幕での友人たちを失う場面も、阿片窟も、なんでそんなに何もかもを全て失って挫折感に満ち溢れた望海さんをみんな自分の作品内で観たいのか?そうだよね観たいよね、仕方ないね、解散!となってしまう。


アポカリプスの騎士たちの場面では、れっきとした犯罪を、部活のロッカールームのやりとりよろしくはしゃぎながら実行に移す姿が、男の子たちのどうしようもない悪のりっぽくて心底たまらない。盗んだ宝石の入った鞄を押しつけることで、初仕事が成功した高揚感に酔わせて自分たちのペースに巻き込んでいこうとするマックスのやり口。罪の重さをちよっとしたゲーム並みに軽く見せてから、彼らを殺人犯ヘとあっさり蹴落とす、連続した場面、ヌードルスとマックスたちとの心の温度差がすごく鮮やかに目に焼き付いて、悪趣味かつ効果的な流れ。


それにしてもマックス、出所したてに用意したスーツがぴったり事件や、親友をキャロルへ説明するときの表現、ハバナでの酔っ払い介抱時等、ヌードルスのことをかなり好きだよなと思う。それぞれに女がいることをあたりまえに捉えつつ、女はいつでも入れ替え自由だけれど、おまえは違う、と言いたげな親友(?)ヘの重ためな感情に、宝塚歌劇におけるホモソーシャルのー事例をまた発見した気持ちになっている。ハバナで酔っ払ったヌードルスを抱き上げながら、くだを巻く彼に迷惑をかけられることを喜んでいるような様子がちょっと念が強そうでいやだ(好きだ)。ヌードルスもマックスのことを好きだとは思うし、逮捕されてもいいと決意するほどには愛情に応えているんだけど、あんまりねちっとしていない。望海さんの持ち味として、男役として役を演じているときに、男(男役)ヘの愛は適度な湿度を保ってからりとしていて、暑苦しくあったりはするけれど(ボリス)、あくまでプラトニックの範囲に見えるところが面白いなといつも思っている。


・いい具合に枯れた壮年期

宝塚の男役の男らしさ、かっこよさを「大成し、何者かになること」と捉えたら、「皇帝」になる夢破れて、何かも失ったのち、田舎でひっそりと暮らしている壮年の男は、宝塚のトップスターが演じる、男らしい男役に当てはまるのだろうか。何かを失って華々しく散る、あるいは王冠を手にするところで終わる物語は、成功・失敗問わずカタルシスがあるけれど、物語において、生きながらえてしまう、というのがいちばんの「かっこわるさ」だとしたら? 

でも多くの人たちがそちらの、特にかっこよくはない人生を選ばざるをえないということを考えたとき、大きなものを失った後も、ひっそりと生きている人の物語に、何かを見出したりすることはできないだろうか。

コートを肩にかけたままカウンターの上に鍵を置く、コートを脱いでから襟元にかけていたマフラーを引き抜き、合わせて畳んで椅子の背にかける、一連の流れに見とれる。帽子を取った後の髪のなでつけ方や、椅子ヘの腰掛け方、トランクを机上に置くときの、その重みに堪える声に、重ねた25年の歳月を感じ取る。

あまりにもおじさんが似合うトップスター、その名は望海風斗さん。手負いの獣感がだだもれている役も好きだけど、成功体験ばかりでない人生を歩んできたことがうっすら透けて見えつつ、自分の中ではそれをいちおう飲み込んで今は地味に堅実に淡々と生きています風のおじさんもたまらない望海さんだ(男役として)。

望海さんは華奢だけど、肩は存在感がある(肩幅はない)タイプだ。腰から上は顔も含めてすべての輪郭がまっすぐなので、直線の部分に合わせて補正をすると、男役としてものすごく身長があるわけではないけれど、スーツを着こなすのに適した体型になる人。そして花組育ちが影響しているのかご本人のくせか、わりと胴体にがしっと厚みを持たせる補正をしがち。それゆえにもともとおじさんを演じる体格の準備(とは??)はできている男役さんだ。

発声や、歩き方、手の掲げ方、ちょっとしたしぐさ。見た目だけの話ではなく、実際はおじさんではない女性をおじさんとして認識するとき、私たちはさまざまな要素から「らしさ」を汲み取って、年齢や性別を判断していることを知るのだなと思う。

にわにわさんがとても自然にファット・モーおじさんとして存在している場面は、こんなになめらかに受け答えする宝塚の芝居があるんだ、と驚くくらい、2人が無理なく同世代として舞台上で会話していて、見ていて心地よい。(「いいって」の一言がとても好きだ)


サナトリウムで車椅子のキャロルに目線を合わせてかがみ込み、ハバナの歌を歌うヌードルスのワンフレーズ歌い終えたと同時に拍子を取るように宙に振られた人差し指よ!デボラとのやりとりは、あんなにしっとりしたあやきほの会話を小池作品で聴けるとは思っていなくて、初日は目を(耳を)疑ったし、すでに愛し合っていないふたりのデュエットが、シチュエーションもメロディも本当にたまらなく好きだ。昔に人生を違えてしまったひとたちの一瞬の邂逅が生み出すハーモニーが反比例して美しいことに、しみじみとする。シェルブールの雨傘(舞台の方をみた)で、ジュヌヴィエーヴとギィがガソリンスタンドで再開する場面を思い出してしまう。一生にこの人だけだ、というくらい熱烈に心を傾けた相手と別れても、人生はあっけなく続いていってしまうこと。「君と会うときはいつも赤い薔薇を持っているな」のときに、デボラのほうをまともに見られないヌードルスが好きだし、「私が誰と愛し合っていようとあなたには関係のないことよ」ときっぱりと口にするデボラがいい。振った相手と振られた相手であっても、25年前にヌードルスがしたことはデボラにとって深い傷を残した、許容できる範囲ではないことだと私は思っているけれど、歳月は何かを緩和させるのだろうか。ここで薔薇を受け取るデボラを描くことは宝塚の作品としてありうる甘さだとは思うけれど、受け取るのを拒む、あるいはうやむやのままに人が集まってきてしまう、というのもみたかったなと勝手に考えている。受け取る、という選択は、ギャツビーの墓に一輪花を投げるデイジーの場面を追加する演出家のさじ加減だなと思った(そこが不要だと思ったというのではなく)。

ベイリー長官になったマックスに自分の立場を思い出させようとするジミーの歌がたまらなく好きだけど、その話はまた別でしたい。

「ハッピーバースデー、ベイリー長官」って入ってくるヌードルスおじさん最高では?と何度でも思いつつ「俺を見捨てるのか」と膝をつく親友の問いかけに答えず、唐突に昔語りをしだすのが、すごく人の話を聞かないおじさんみがあって、なんだかとてもいい話を聞いた気持ちになるけれど、だまくらかされている気もする。これはパンフレットの演出家のコメント冒頭に書いてあるまとめと一緒では…? 時代がズレてる若者台詞を書くおじさんはつらいけど、おじさんがおじさんの台詞を書いているから許してしまうのか…? とても総括的な台詞ではあるんだけど、ヌードルスが日々考え続けてきたことを、25年経ってようやくかつての親友に伝えられたのだなと思うと、これでよかったのか、という気になってしまうヌードルスおじさんへの甘さ。。ベイリー長官としては、結局俺を見捨てて帰っちゃうの?!案件だけれど、親友にまた殺人罪を背負わせるつもりだなんて大概なので却下可。「何もしてやれないけれど、諦めるなよ」に毎回突然のマサツカ?と思う(とても好き)。

この場面のことを考えていると、さきちゃんは頼まれたら望海さんを殺してあげるけど、望海さんはさきちゃんを殺さない、それがそれぞれの愛のあり方なんだなと思う。もちろん役の上での話だけど。(なお、望海さんに殺してもらえないさきちゃんは自分で死ぬ)

 


カンザスから来たヌードルスにとって、25年前にいた街はいまはとても遠くて、懐かしいものではあっても、彼にとっての日常は別のところにある。つかの間だけの時を過ごして、彼はまた彼の街へ帰ってゆく。

トランクの代わりに銀の懐中時計を手に入れた、自動車修理工場を営むおじさん(従業員1人の可能性を想像)の日々がとても気になっている。