TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル『マリー・アントワネット』について

(つまらなかったで流すにはいろいろと考え込むテーマが織り込まれていて、でもやっぱりいまいちぴんとこなかった理由を少しだけ掘り下げてみた感想)

 

 


個人的には、なんで私はこれを観に行ったのだっけ…?と終演後に若干ぼんやりしてしまうくらい、ものすごく面白かったとも、反対にすごくいやだったなあとも思わない後味だったのだけど、確かマリーとマルグリット、ふたりの女性が前に押し出されていることからミュージカル作品では珍しくシスターフッド要素があるのでは?と期待してチケットをとったような記憶が徐々によみがえってきた。楽曲と演者目当てだったのもある。
フランス革命はミュージカルで取り上げられがちな題材である上、宝塚ではことさら多い印象。
さらに直近にはひいきの組の演目(ひかりふる)として年末年始さんざんフランス革命ものをみていたので、うっかり「フランス革命なら任せろ!」(市民としてでなく)みたいな錯覚を起こしていた。でも冷静に考えると義務教育後にその国や時代にフォーカスした資料をさらったわけじゃなかった。加えて革命直前直後、どこを起点としてどこまで描くか、主人公は国王側の人間か平民かで歴史の切り取られ方、物語運びがかなり変わってくるから、本来は同じような時代を扱っていても作品によって全然違う印象になってもおかしくない(どの国でつくられたミュージカルか、も切り取り方、描かれ方に関わってくると思う) 。

本作では革命の扱い、というより、その運動に関わる市民たちに懐疑的な目を向けているのが印象深かった。個人個人に革命への強い信念があるわけではない市民は、お金や権力によって容易く煽動される。歴史は強者によって上書きされる。ひかりふる路もひとりひとりの声が重なるカについて、多面的に描いている作品だったと思うけれど、本作のほうがより、その力の使われ方についての警告を強く、ややあからさまとも言えるくらいに発しているような印象。

また、女性ふたりがメインに押し出されていることもあってか、他の、無意識にアウトな扱いをしている作品とは違って、あえてミソジニーを誇張して描いているのかな?と思ったのですが、主演キャラには試練を与えるという意味での男女平等さ… ? かってにそう思っただけでべつに意図されてない ?

これは諸説ある事実の内ひとつを、歴史は後から容易くゆがめられる一例として示すためなのかと思ったのだけど、1789やひかりふるで見た内容と違っていて、特に衝撃的だったのは、史実として女たちの成し遂げたことと認識していたヴェルサイユ行進の扱いだった。
マルグリットが現状を脱却するために立ち上がろう、声を届けようと呼びかけても、そんなこと興味がない、やってもむだと手にした洗濯物にかかりきりな女たちが、オルレアン公がちらつかせるコインによってあっさりその布を放り投げる、しかもその布をスカートとして身にまとい女に扮した男たちが列に加わるという一連の流れ。みんな生活に必死で思想なんかないけど金がもらえればやるよ、水増し要員に男もなるよ、そしてそれをあとから女が率いた行進として美談にするよ、という描かれ方は現代日本で生きる人間がみるとこっちがリアルでは… ?!と一瞬思ってしまうものだったのだけど、この行進の成功が生活と密にリンクしているという意識が当時の女性の感覚としてふつうにあったかどうか知らないから浮かぶ考えなのかも知れない。
原作を読んでいないので、原作にある場面なのか、あったのなら参考文献が存在するのか気になった。なくて作者が、本当はこうだったかもしれない、と書いたものならそれはそれでいろいろ考え込んでしまうっていうかそれこそミソジニー由来なのか…?

そして日本と違ってフランスではこの革命時期から女性の声が当然に取り上げられていたのだなあなんてのほほんと考えていたけれど、『人権宣言』でいわれている「人間」に女性、入ってないじゃん!!って皮肉ばりばりきかせた『女権宣言』を書いていたオランプ・ド・グージュのことをめちゃめちゃ遅まきながらに知って頭を抱えたり (ひかりふるでは舞咲さんが演じられていた )、そこから200年以上経ってるのに「女性の権利って人間の権利よね?」といまだ皮肉をきかせて弾を撃ってかないといけない世界でなにをいっているんだという話だった(フランスだけの話ではなく)。

 

じゃあなんでそんなにぴんとこなかったの、というところなのだけど、憎しみの連鎖とパワーゲームに駆り立てられる人間のむなしさを軸にして、革命の本質、もっと大きなものを問う作品としてはなんだか中途半端に感じてしまったからかな…

終盤、仲間(?)に釘をさされていたのにも関わらず、ギロチンにかけられる直前のマリーを助け起こして、身をかがめてお辞儀をしてしまう、彼女に敬意を示すマルグリットの構図は好きだ。
でもそこにいたるまでのマリーのあまりのおばかさんかげん(フェルセンの話もう少し聞いて )とテンプレVERY妻っぽさ (ひとりの人間として共存するのかも知れないけど、しかしあまりにもフェルセンの前→子どもらと夫の前→フェルセンの前の態度の切替がぱきぱきしすぎた印象)と、その言動への罰と捉えるにしてもあまりにも露悪的な市民の王妃たちへのふるまい(初演からもろもろ変更があって緩和されているとはききましたが)、市民らの原動力が強い思想ではなく空虚なものとして描かれているがゆえの革命万歳場面へのむなしさ(でも観客の心の盛り上げどころとして挿入しているようなタイミングに見えた)、安易に感情移入させないつくりにしたいのか、引いてみせて観客に気づきを与える作品として捉えるには各場面のバランスの取り方がちぐはぐしているように感じた。

観客に安易なカタルシスを与えずにじっくり考えさせる作品なら「歴史から何が学べるか」みたいなあからさまに現代人視点のまとめを最後に大合唱してしまうのはどうかなと思う (花組メサイアの「改竄」という言葉が唐突に出てきた場面を思い出しつつ) (マリーの罪状として、当時はなかったであろう「共謀罪」という定義、言葉が出てきたのも違利感があったけど、聞き間違いかな…) 。見終えた後、よくもわるくも考えることの多い作品でした。