TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

8/24マチネ、27、28『テン・ミリオン・マイルズ』






テンミリオンマイルズ観劇期間です。

岡田さんきっかけで劇場に足を運んでいるこの作品ですが、なんだかあまり遠い人たちの話に思えないせいか、観終わった後、いつも以上にじぶんの実生活を振り返って、色んな事を考えてしまっています。
盛り上がるところも、悲しみに沈むところも、ドラマチックさがすべて多くの人の身にふりかかるくらいの大きさで、ぜんぶ日常と地続き。煌びやかな世界の人じゃなく、バスで乗り合わせたり、高速でさっきすれ違った車のなかのカップルみたいな、ありふれた人たちのお話です。
だからこそ、なのか、このひととは絶対に交差しないだろう、と決めつけていたひとの人生をそっと覗き込んでみたくなるような、じぶんのことを含め、ぐるりのことにもっと目を向けたいと思う様な、そんな気持ちにさせられました。

主人公である若い男女、数ヶ月前に知り合ったばかりのデュエインとモリーが「ショットガンを持っていて、ガソリン代と高速代を折半できる気の合う相手」と、彼らがいうところの条件をはじまりに意気投合し、フロリダからニューヨークまで旅に出るところから始まる、このお話。出会った当初は関係を持っていたものの、あれから少し間が空いていまは恋人同士と言い切るにはなにかが足りない状態。デュエインのおどけた、半ば冗談のアプローチにも、モリーははじめはその都度受け流していくものの、モリーのお腹の中に、デュエインが父親かもしれない子どもがいる、という状況が明らかになってから、次第に、急速にふたりの距離は縮んでいきます。

トークショーで岡田さんが、脚本読み段階で時代背景がわからず戸惑うところもあった、というようなことを仰っていたように、やはりあの時代と場所に生きている人の慣習や考え方、道の選択という意味で、初見、主人公の二人に寄り添いづらいなあと思う点はありました。前述の、モリーがはじめに話していた、おなかの子どもをどうするかの決断、そもそもの事態の発端となる、複数人と関係を持っていた事実、それに対するデュエインの対応等、オフブロードウェイ作品ということを考慮すると(RENT、ALTAR BOYZくらいの知識しかないのですが)当時のアメリカの実状に即しているのだろうかと納得させながら、観てゆくほかはないのですが。それでも、そういった状況を全部噛み砕いて飲み込む、ということはしなくとも、デュエインとモリーが、前述の対応、決断をする根拠、恐らく周囲の友達とじぶんはかなり違う環境に置かれているんだ、という考えから多くのひとにさらけ出せずにいた部分について悩み苦しむ姿、その思いを徐々に、本当の意味で歩み寄ることで、互いにさらしてゆく過程を目の当たりにすることで、ああ、彼らもまた私たちの隣人なんだ、という気持ちがぐっと迫ってきました。

モリーとデュエインについて。
すぐに複数のひとと関係を持ってしまうだらしなさと頑なさを持ったモリーと、会話をじぶんに都合のいいように持ってくためにすぐに作り話をしてしまうお調子者のデュエイン。というとなんだかよいところのない二人組のようにきこえてしまいますが、それもそれぞれ抱えている過去が由来するもの。ある意味肉親の呪いから逃れられないようなところがある彼ら。父の娘としてのモリー、母の息子としてのデュエイン。異性への愛を求めるやりかたを、反面教師のように習ってしまったふたりなのかもしれない。そこから逃げ出そうとしてまた同じところをまわっている。
二人を見ていて、言及は一切されていないけど、デュエインはモリーより年下なのかなあと思いました。彼ってどうしようもないし、いいとこ全然ないけど、作り話をして鼻の穴をふくらませてる、それで気づかれないと思ってるところがなんだかにくめないし、仕方ないわね。笑った顔もかわいげあるし、というようなムードを、冒頭からモリーがぷんぷんにただよわせている。それが現れているのが先に眠っているデュエインに子守歌のように歌いかける「気をつけて」で、あの曲の「女の子には気をつけてね わたしにもね」というフレーズが何故だか好きです。モリーの曲では他には、祈りを捧げるような「マリア」も好き。「女の子」って相手が異性の場合、時に「お母さん」や「娘」や「姉」や「妹」の役割を演じさせられてしまうことがあるな、とそんなことを思いだす。
デュエインだと歌詞のシチュエーションに盛大につっこみたくなるのにノリのよさについ見入ってしまう「マッド・ミッション」そして、ハイスクールのフォーマルダンスを踊る白いドレスの女の子たちを見ながら「君は踊らないの」と語りかける「そのままの君」。あのデュエインのモリーにとっての安心毛布っぷりは、彼の生来の本質なのか岡田さんのもともとのものがにじみ出てしまったのか、いまいち判断にくるしむところなのですが、デュエインの基本的に甲斐性がないところは、おじさんの年相応でない責任のなさではなくて、きちんと若気の至りっぽく見えるので、役として、だと思います。もちろん見た目だけじゃなくて、板の上でのあり様という意味で、です。
彼のなけなしの甲斐性と、モリーの前でそうなりたい作り話の延長線上としてのじぶん、モリーのデュエインをそう思いたい気持ちがあわさった、奇跡のような場面、歌なんだろうなと前後の流れを見ていて思いながらも、やはり「星のようなきらめきになりたいのかい?だいじょうぶ今もそうだよ」とモリーを背に腕をまわして抱きしめながら歌うデュエインの「大丈夫」と繰り返すその響きの深さやさしさは反則だなあと思いました。
病院にモリーを置いてきてしまうデュエインの時点で、もうこれはモリーわかれて正解よ、と理性では思うのに、徐々にひとりぼっちの車の中、運転席でじぶんはなんてことをしてしまったんだ、と気づいてじわじわ俯く、ハンドルにもたれかかってちいさくまるまるしょもくれた姿を見せつけられたら、客席にいる側としては、モリーにこの姿を見せてやりたい、と思ってしまっても仕方がない。

最終的に彼らは結婚というひとつの結論を導き出すわけですが、あれはこれから彼らが繋いでいく点のうちのひとつにしかすぎず、日常はこれからも続いていく、ということがお話のなかで随所に示されている様に思います。作品時間の枠の外、その後一週間を描いても同じような物語になるんじゃないか、というような、これもまた岡田さんがトークショーで仰っていた内容にとても納得して、それからその点に気をつけて観るようになったという理由もあります。切りとられているのは、日常のほんの一節。
そしてだからこそ、彼らがどこで、どういうひとたちと出会って、どういう影響をうけたか、どういう経験をしたか、というところが、この物語という、いったんの結末までの線を結ぶ上で、とても大事だなと感じました。

デュエインとモリーが、一度目の盛り上がりからチャペルに一気に向かった際に、あのカップルに水をさされなかったとしたら、彼らの結末までの線は最短ですんだかというとそういうことは絶対にないと思います。3回目の観劇時、「許し」から「愛を信じて」のモリーとデュエインの思い詰めた顔に、傷をなめあえる二人だと互いが理解し合って、だからこそ両手を目の前の相手とだけ結んでしまったような、よくないものを感じました。どれだけ愛し合うひとと出会っても、片方の手は他の人とも触れ合えるよう開けておいた方がいいのに、あのままギアを思いっきり踏んでチャペルまでどころではなく、崖からそのままとんでしまいそうなひとたちに見えて本気でぞっとしてしまった。前述の表現はあまりに極端だとしても、なにかムードにのまれて酩酊しているような様子はやはりどこかおかしく、抱えている問題を見ぬふりをしたままのふたりは、はりつめた風船のようで、あのままだとどこかでぷつんと弾けてしまっていた気がします。
生まれてくる子どもがなにもかも解決してくれると考えるのは間違いだし、それはその子にとってもあまりに不幸、と静かに諭すロイスもまた彼女の過去を抱えていて、モリーたちにどうしても口を挟まずにはいられなかったひとですが、彼女だけでなく、デュエインとモリーの道ゆきの途中で彼らに関わってくる、それぞれのひととのやりとりは、お互いの役どころを浮き彫りにしていく箇所で、観ていてとてもひきつけられました。

今回全員で4人の御出演者中、戸井さん土居さんおふたりはそれぞれ6人もの役を演じられていらっしゃいました。つっぱしっていく主人公二人と対照的に、場面場面で重大な影響を及ぼす役どころはもちろん、入れ替わり立ち替わり一場面しか出てこないひとの言葉でも深く響くのは、おふたりのいままでの経験の豊かさなのだろうか、とおこがましくも口にしたくなるほど、印象深く、心に残るやりとりが多かったです。

それぞれ一番好きな役について。
戸井さんはデュエインの親友レボン。彼もまたデュエインの作り話ぐせについて慣れてる人だなと思います。軍隊での彼らの交流自体が詳しく語られることはないですが、デュエインに自分の人生最良の日について、きっかけがなかったのか、単純に久しく会っていなかったのかわからないですが、まだ話していないくらいの距離感で、けれどそんな大事な話をして、冬のコートを貸して彼女の元へ背を押してやるくらいの親しさ。戸井さんの声の響きが作用しているのかもしれないけれど、レボンはそう口が軽い方ではないように思えるからあの話も誰かれ構わずにはしていないでしょう(しかしアーニーのようなひともできる不思議)。恐らく最愛であった恋人が、じぶんの退院後はもう別の人間と結婚をしているという事実を受け容れて、会うだけ会って、またここに戻ってきた、というその日を「最良」と、ああいうふうに語ることができる彼の人生について考えてしまう。「サンレイを買ってやった」のあの響きがなぜかすごく好きで繰り返し頭の中で再生してしまう。
説得力のある、岡田さんとはまた違った種類の深みの素敵なお声だなあと毎回ききほれています。

土居さんはBWML2011でポカホンタスの曲をきいて、なんてすてきな歌声の方なんだろう!と以来ずっと記憶に残りつつも、いままでミュージカル作品で拝見する機会に恵まれていなかったので、今回思いがけず念願かなってとてもとても嬉しいです。
歌声もですが、台詞の響きのあたたかみもとても好きで、デュエインのお母さんも印象深かったのですが、いちばん好きなのはモリーのおばさんであるペニーでした。
毎朝半マイル歩いてむかった工場でパイをつくって、帰ってきたら猫たちが迎えてくれるおうちで暮らしている、戦争で恋人をなくした過去を持ちながら日々を粛々と生きている彼女。モリーのおばさんの人生をあらわしているような、あのパイをつくる曲がすごく心に残ります。たんたんと毎日を同じリズムですごして、これまで歳を重ねているのだろうなと、そんな雰囲気がにじみ出ている佇まいが素敵です。
独身で、こどもを持たず、という選択をあの時代のあの場所ですることがどういったことを意味するのか、感覚がまたわたしたちがいる場所とは異なるのかもしれないけれど、そうは違わないだろうな、という空気も感じていて。久々に連絡をとったであろう、じぶんを頼って会いにきた姪っ子を受け容れて、泣き伏す彼女にその場では細かい事情は何も聞かないで、ただ背を抱いてさする様子。あのときの「水曜日の晩にね、皆でブリッジするの。あとでやり方教えてあげる」や、先に帰るモリーに、振り返って 「誰かが家にいるって、素敵なことね」と一言かけたあの言葉の響きのあたたかさが大好きです。

そんなペニーを演じられた土居さんのよく通る声で、高らかな響きの歌いだしではじまる、表題タイトル曲「テンミリオンマイルズ」は、タイトル通りこの作品の要となる、それぞれの登場人物の思いを歌った曲だなと思います。示されるのは、強制ではなく、合わない靴でもじぶんの足でテンマイルミリオンズ歩く、というのびやかな意思。

個人的に好きな須賀敦子という作家さんの随筆『ユルスナールの靴』のなかで「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。 そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする」という一節があるのですが、この「テンミリオンマイルズ」からは、合っているときもあるし合っていないときもある、いつもきれいな洋服をきていなくても、ときにはボロでも、それでも、わたしたちはいろんなものを抱えていても歩いていけるんだ、という、つよくはないけれど、ひとつのやわらかく照らしてくれる光のようなものを感じました。靴が合ってなかったら、合ってないなあと首をひねりながら、合ってないまま歩いていってもいいし、もちろん合ってない靴をはいたまま歩きながら、合っている靴を探してもいい。
この表題曲はわりとメッセージがはっきりとしていましたが、他の曲は明確なメッセージ性があるようで、歌詞が比喩にまみれていて、そこが素敵な訳詞だなあと思います。
主人公のふたりの結末だけでなく、関わってくるひとびとのありよう含め、いろんな選択があることがゆるやかに示され、受け容れられている作品だなと感じました。