TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

8/29『テン・ミリオン・マイルズ』


当機はまもなく世界の掃き溜めから離陸いたします!







下記記事では、モリーとデュエインにきつめなことを言っていたのですが、記事を書いてから観た4回目にして初めて、モリーの気持ちがすっと入ってきて、おのれの読解力のなさを思い知ることになりました。
迷いながら見ていた箇所も、ぜんぶするする落ちてきて、とてもしみる回でした。やっぱりテンミリオンマイルズは、岡田さん自身もパンフレットでおっしゃっているように、のちのち振り返ったときにもひとつの転換期に思えるような、代表作のひとつになるような作品になるのでは、と思います。

リピート前提で舞台と親しんでしまう心を律したい気持ちが最近とてもわいてならなくて、回数を重ねるごとに見えてくるものも、そこに捧げているじぶんの沢山のものが、しがらみのように絡みついてくるからではという思いもあって、それでも重ねて見て、あるときふっと、あっいま、となることが確かにある。
物凄く矛盾することを言ってるようで、でもそういう時ってなまのものが好きなひとなら誰でも経験があると思うんです。自分と、その向き合う舞台作品とのベストマッチの回、それがこの回だったのかな、と。

以下、さらに考えたことをぽつぽつと。

モリーとデュエインについて。
モリーはたぶん、迎えにきてくれなかった父親が横断歩道で自分を無視したその日から、相手にとって重たくなりたくないし、迂闊に心を許して寄りかかったところで、するっと身をかわされたらどうしようという気持ちを常に根底において、人と接してたんじゃないかなと思います。だからこそ、あのときいなくなってくれてよかった、5年後にいなくなられるよりは、は心からの本心で、でもデュエインを拒絶する意図というより、切り裂かれて血を流す傷跡をそのまま見せつけるような言葉だったのかもしれない。
海をみながら、5年後の私たちよ、とデュエインのそれよりも現実的な未来のじぶんたちについて語り出すモリーの声がいつも硬質で、いっそ滑稽なほど真剣なのが毎回とても気になっているけれど、たぶん意図的なものなのだろうなと。マリアさまが産んだ子は私生児だった、けど生まれよりそのあとなにを成したかだわ、というモリーはいつもマリアに祈りながら生きてきた女の子。

デュエインはモリーを置いてきてしまったとき、じぶんもモリーの、そしてもしかしたら自分自身の父親と同じことをしてしまった、という意味でも後悔の念に苛まれたのかもしれない。
デュエインもモリーもじぶんたちで家族をつくりたかったし、そうすればいろんな問題が解決するだろうとたぶん思ってたんだろうけど「過去のことはなかったことにはできない」
だからこそ、病院でのデュエインのうろたえようがひどくしみました。
互いにびくびくしながら大丈夫かな?このひとでいいかな?って歩み寄ってるくせに、顔に出さず、一方は気丈さで、もう一方は調子良さと作り話で誤魔化してたから、漆喰がぽろぽろはがれてむき出しになってからの加速がこわかったのかなと。
それでも、いつも都合のいい作り話をしてどんどん先に進んで相手を置いてけぼりにしてたデュエインが、モリーのありのままを肯定しようとしたり、君のしたいようにするから!というのって、単なる調子の良さだけじゃぜったいにない腹の据え方があったと思います。「もういくよ、いなくなるよ」の静けさに、彼女を慮って、毎回未練を断ち切ろうとするデュエインの本気を感じました。
しかし捨て猫拾うみたいにたちの悪い男とばっかり付き合ってしまう母親のことを忌み嫌いつつ、じぶんも結局そういう問題を抱えたひとを放っておけない種類の人間だってことにデュエインは気づいてなさそうだなあと思います。デュエイン少年がお母さんを助けるために父親の足にしがみつくところ、ジャイアンの足に必死にしがみつくのび太みたいな光景が簡単に浮かぶ
岡田さんはデュエインにとってモリーは母とは対照的なひと、と書いていらしたけど、やっぱりデュエインはモリーに無意識下で母と似たところを見出していて、逆にモリーは父親に求めたかった父親の持っていない部分をデュエインに見出してたように思えてならないです。

土居さんがパンフレットでおっしゃっていた、「人生が変わる時に出会う人々は、もしかしたら別の人間の姿をした同じ魂だったりするのかもしれない」を思いだした箇所。
デュエインとモリーが出会ったカップルのかたわれ、ガスリーが「あんたにもわかるだろう。一人でぜんぶ決めるのに、もう飽き飽きしてしまった」と言い、 デュエインの親友レボンが、別の相手と結婚したかつての恋人と、一度だけ再開し、サンレイを買ってあげてキスして別れた日を「人生最良の日」と言うところ。
全く別の決断をする、この二人ともひとりのひと、戸井さんが演じている、同じひとの声でつむがれる言葉だということ。

ペニーおばさんとパイ工場のある街。
「パイを作って」が、やっぱりどうしてもツボで泣きそうになるのがなんなのかじぶんでもよくわかっていない。
ブリッジを水曜日の夜一緒にやるメンバーだったのに、街を出て行ってしまったローズマリー、ペニーおばさんが亡くなって5年たっても辞めさせてもらえないくらい、と軽口を叩くほど人手の足らない工場、という言葉から感じる街のゆるやかな過疎化。そういう街で猫を家族に静かに暮らすこと。歳を重ねていくこと。
ペニーおばさんもパイを作るのに心底生きがいを感じているひとではない気がします。 あれっ気がついたら私まだこの歳まで働いてた、と苦笑するくらいの気持ちだと思うんだけれど。最初のI'm Making Pie Making Pie Ah…から笑うところは、また、の部分に重きを置いての、そういう意味の苦笑なんだろう。
でも、爆弾を落とすのよ 世界で、からの笑い、繋がるため息はもっと深い深い響きで、俯いて佇む姿に胸が塞がれてしまう。
それでも「気づけばまたパイをつくる」ペニーおばさん。
レミの「毎年子どもは生まれてる」のあの曲と少し抱えているものが似ているのかもしれません。



宝塚も好きで、ストプレも好きで、帝劇日生のミュージカルも好きで、クリエや新国小劇場でやるようなミュージカルも好きです。軸が移動することはあっても、どれかひとつでも完全に切れてしまうことはないと、少なくともいまはそう思えます(と、書き留めておく)
同じひとりの人間の好きなものなのに、観ているとき使う部分よろこんでる部分が違うのは、舌の真ん中と先と両端とで辛さと甘さとにがさを味わう部分を分けてるようなものなのかなあと考えています。