TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

8/1 ソワレ 星組『ロミオ&ジュリエット』Bパターン






あの通いに通い詰めた2011年10月ぶりに、『ロミオ&ジュリエット』の宝塚版を見てきました。
宝塚のRJは映像で星組初演、雪組と観てはいたので、死だけでなく愛という役どころが存在すること、ジュリエットと父親の血のつながりがない、という設定はないこと等々、細かな設定は知ってはいたのですが、その違いがこういうふうに変化をもたらすんだ、と生で観劇することで細部をじっくり確認できました。
そして今回星組のロミジュリを観て一番強く思ったのは、この作品はやはり「ヴェローナのこどもたち」の物語なんだ、ということです。
東宝版の印象が2年経っても色濃く残っている身ではいろいろと重ねてしまうかなと危ぶんでいたのですが、設定や演出、役作りの差異の比較を楽しみこそすれ、まったく別のヴェローナとしてじっくり堪能しました。しかし2幕なのに、登場人物の気持ちをなぞろうと必死で見ていたらあっという間に終わるロミジュリ…私はフランスご本家版はきちんと観ていないのでわからないのですが、これは小池先生の潤色であるロミオ&ジュリエットが好みということなのかなとも。

男女混合の東宝版のときから感じていたことだったのですが、ご覧になった方の誰もが恐らく認めるように、この作品の魅力、見どころは、ロミオとジュリエット二人のラブロマンス部分だけではないなと思います。ふたりを取り巻く人間模様、環境からはじまり、それは「ヴェローナの子どもたち」に受け継がれてしまった負の遺産へと繋がっていく。
若さゆえの全能感の絶頂期とそれがぽきりと折れる様、自分の意思の及ばぬところで大いなるものに選ばれてしまうということ、それゆえの孤独、置かれている枠組みのおかしさに気づかないこと、なにものかに向けられた憎しみetc.個人的にはこのあたりのテーマがとても心に残る作品です。ヴェローナという街は、全てがそこで完結しているがゆえに、そのうつくしさをたたえられつつも、物語が終焉を迎えるまではぽっかりとなにもないところなのでは、という印象を新たにしました。魅力をはらんでいるようで、どこかがおかしいところで、でもそのおかしさに気づいているからといって、幸せになれるわけではないのがどうしようもないところ。はじめっからそう思っていたのではなく、2幕の、やはりティボルトとマーキューシオが亡くなったあたりから。

ふたりのラブロマンスだけではない、と書きましたが、今回の観劇で、メインの役どころで一番追いかけてしまったのはロミオとジュリエットのふたりでした。そのままの意味のロミジュリふたりがとてもかわいくて、1幕は終始ふたりを見つめる笑みがきもちわるかった自信があります…。
ちえロミオは「僕はそういう遊びはしない」、ねねジュリは「どうか今夜、約束のひとに出会えますように」がすごくそれぞれしっくりくるふたり。ロミオもジュリエットもさっき恋を知った瑞々しさで、真っ白には違いないのだけれど、確実にちえロミオのほうが幼いように見えるのは、同い年の女の子と男の子なら、女の子の方が先に大人びるような、あの感じなのかなと思いました。神さま、もさることながら「私にありがとうだなんて言わないで」というばあやへのねねジュリの「だって、いままで育ててくれた」の凛としつつ心がこもった口調に、まっすぐ育ってくれてありがとう、と思わずばあやのような気持ちになってしまって、自分の立ち位置を見失った観客は恐らく私だけではない。ねねジュリのふわっふわしてるところと、いい意味で知恵がまわる、地に足がついているところ、芯の強さのあらわれのバランスがとても好きです。対するちえロミオは、神父さまからの「もうお前もそんな歳になったんだなあ」という言葉に思わず一瞬で感情移入してしまう様なところ、それでもやはり結婚式の約束を取り付けてもまだ幼さの残る様子が印象深いなと。
1幕いちばん好きだったバルコニーの場面にて、梯子をのぼる前にねねジュリをみとめたちえロミオが、胸を手でおさえてはあ、と苦しげに息をついている姿がかわいすぎますし、恐ろしく唐突なはずの、結婚しよう!の流れすら、このロミオなら気持ちが突っ走って迸る勢いのままいうだろうし、結婚!?と唐突さに驚きつつもうれしさを隠せないねねジュリの愛らしさにも、このふたりならありだわ、とあたたかく見守りたくなってしまう。ふたりの互いへのときめきようが、鼓動がこちらにひしひしと伝わってくるようで、キスシーンのもどかしさが初々しすぎて、濃厚なラブシーンより逆に赤面ものでした。なんともかわいらしい。
その直前の舞踏会でのふたり、ねねジュリに抱きつかれて、ハッとした表情から笑顔を浮かべるちえロミオが、ワンテンポ置いて右手をねねジュリの腰にまわす流れが、ジュリエットの少女としての行動的さと、ロミオの少年から青年にむかう初々しさ包容力が見えるようで、とても好きです。
この振りはラストふたりが亡くなってからのダンスでも印象的に挿入されていて、やはりふたりの関係性を描く箇所なのだなと思いました。
2幕の幕が下りる直前、頬をくっつけあって笑うロミジュリふたりがかわいくてかわいくて、なにかすこし救われたような気持ちになります。
2幕頭でエメを歌うふたりのかがやかしさに、ああ運命に選ばれてしまった子らだったんだな、とすとんと落ちてきてからの流れ、マキュティボが亡くなってどんどんと物語が加速していってからは、よくよく知ったものながら、もう坂道を転げ落ちるように、ほんのひと呼吸で終わってしまう感覚です。

そんな二人と親友を見送ったベンヴォーリオについて。
紅さんのベンヴォーリオ、というよりベンとマキュのふたりがただしくニコイチでチャラくてかわいくて、改めて2011年の記憶をたぐってみるに、石井マキュもチャラいというのとはまた違ったし、良知マキュは縦社会で育ってきた硬派ヤンキーだったなと思い返していました。
浦井くんのベンヴォーリオは初めから中立でこの環境のおかしさに気づいていないのがおかしいぐらい敏い人でおにいちゃんで、逆に一人で溜め込んでいない?だいじょうぶ?と彼のまわりに誰か気遣うひとの存在がいないか気にしてしまうようなひとという記憶があったのですが、ではこのベンヴォーリオはどうなんだろうと思ってみていたところ、街に噂がでもまだマキュと同じ立ち位置でロミオを責めていた彼は、決闘場面から少しずつ変化してくようでした。
皆と一緒にモンタギューの一員としてキャピュレットに対峙していたベンヴォーリオは、ちえロミオの「この世界は誰にも意味がある」で徐々にこの状況のおかしさに気づき「誰もが自由に生きる権利がある」でロミオの気持ちがわかって、 するんと憎しみの輪廻から抜け出てしまったひとに見えました。それまでは諍いに乗り気で参加しているふうだったのに、ちえロミオに同調してからは、マキュがあきらかにいきすぎていたのもあるだろうけれど完全に止める側に回っていて、だからこそあの大人たちへの「あなたたちの憎しみが僕たちを駆り立てた」がすごくいきてくるのだなと。
「みんな狂っている」と歌いながら、自分側へじりじりと近寄ってくる仲間の姿に違和感を覚えて、そうしてつい先ほどまで自分もそちら側にいたことを思い知らされるひと。やめろお願いだきいてくれ、と口にして、まったく耳を貸さない仲間を目の前に、ああロミオもこんな孤独を抱いていたのかと、いやというほど実感したのだと思う。マーキューシオの喪が明けるまで、ってなんという言葉だろう、と。
どうやって伝えようは、最初はこの手に負えない状況に陥ってしまったことにもはや力なくわらうしかない様子で、それでも最終的に一拍音をおく直前にこくんと唾を飲んで決心して、決意を口に出す、という流れが、歌いながら気持ちをかためてゆく曲だということを改めて感じさせました。それでも、彼のその決心の先に繋がる、担わざるをえない役目を思えば、どうしたってその姿は痛ましい。
霊廟のエメで、ふたりの亡骸を泣きそうな顔で見つめながら、ロミオの頬に触って、そのあとジュリエットの髪に触れて、堪え切れずに石の台に縋って突っ伏してしまうベンヴォーリオの、恐らく特別でない、世の青年並みの脆さ繊細さを表す場面がすごく好きです。
彼はあれからどうなるのだろうか、と浦井ベンさまとはまた違った意味で気になってしまう。

番外編:シュウシオツキ氏
バンドマン(担当:ベース)(お友達談)のような、金髪の長い尻尾を垂らしたモンタギュっこがいるときいて楽しみにしていたのですが、彼(?)がとんだオペラ泥棒でした。幕が開いて一番初めにロックオンしてしまってから、目がはなせないことはなせないこと…。金髪ポニテにこめかみからひと房垂らしてる髪型もさることながら、佇まいや踊りがとても目をひくのはなぜなのでしょう。ヴェローナももちろん、マブの女王は完全に彼ばかり観てしまっていました。ペアの女の子にないしょ話してるふうに手のひらで口元をおおって耳打ちする振りのかわいさやたるや、「その気にならせて最後に捨てる」「むせかえる匂い柔らかい肌に口づけすれば失神する」あたりのペアの女の子のデコルテ、首筋あたりにキスをする仕草の手なれ感たるや。仮面付きにも関わらず舞踏会でのアルバイトも、綺麗は汚いではマキュとわちゃわちゃしてしっぽつかまれてぐるぐる振り回されておもちゃにされている姿に見入り、客席降りぎりぎりまで目を奪われていました。謎の効果音が入るイケメンポーズももちろん。あなおそろしや。


その他。
僕は怖い〜憎しみで照明を浴びずに舞台端で踊るティボルトとマキュの演出もすごく好きで、だからといって男女混合版初演で良知マキュ以外にあれをやらせるのは酷だし、ロミオと死、ひとりとひとつだけのシンプルな舞台上も好きだったので、やっぱりそれぞれの良さがあるなと思います。加えて該当部分の歌詞も意味合いもどうやら宝塚版と東宝版で黒と白ぐらい異なるようで、根本的にあの場面で描きたいものが違ったのであろう小池先生に、差異の意味について詳しく伺いたいなどと無茶な考えが浮かびます。

当時は狂ったようにロミオとマキュ、ベンヴォーリオとマキュの絆に重点をおいて見ていたけれど、今回見ていてロミオとベンヴォーリオの間に感じるほどのものを、ロミオとマキュの間にそこまで感じなくて、逆に2011.9〜10のそれで私はどこを見てそう思ったんだっけと思い返したり、東宝初演は良知マキュのほうがスタンダードマキュ像だと思っていたけれど、いろんなマキュを見ると今までみたマキュの中で良知マキュが一番地に足ついてるなあと思ったり。

フィナーレは、各々の、全員がトップオーラを出す勢いの自己主張の激しさとスパンコールのせいだけではないギラギラぶり(いい意味で)にこわくて泣きました。男役群舞での手の動きが激しすぎて若干追いつけてなかったのと、あの全体ムードとしての大漁ですね…?ぶりと、おまえはおれのことだけ見てろよ…(×男役数)な雰囲気に、あれは星組さんのお家芸なのだろうか…と目がうつろに。とても楽しかったです !


ティボルトもマーキューシオも愛も、死についても、言及箇所の少なさに見きれていないなあ、と思いつつ、よく考えれば前回は石井マキュのことしかほぼほぼ残せていないので大進歩かもしれません。チケット事情ゆえ、Bパターンのみの観劇にとどまりそうなのがとても残念です。
やはりロミオ&ジュリエットという作品にちりばめられた魅力的な要素にとても心奪われるので、秋の東宝再演も楽しみだなと思いつつ、オーブのヴェローナにも思いを馳せています。