TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ロミオ&ジュリエット 10/8、9

大阪初日、9日マチソワと3回観劇してまいりました。当初は8日と9日に一回ずつの予定だったのですが、9日マチネも石井マキュだよ、という悪魔の囁きのせいでチケットを増やすはめに。しかし結果として全キャストの大阪初回を観ることができましたし、東京公演時よりいっそう、演技に凄味が増した石井マキュを予定していたより一回多く観ることができて大満足の遠征でした。マーキューシオ狂いに拍車がかかっているようです。次の19、20日遠征でラストという事実に直面したくなくてどう折り合いをつけたら観劇回数を増やせるか頭を悩ませております。

マーキューシオの死は、やはりこの作品において「転」の部分であり、ロミオ&ジュリエットがああいった結末に至るには欠かしてはならない重要な場面だという思いを今回の観劇で新たにしたのですが、そこに向かうまでの石井マキュの演技プランの一本筋の通りっぷりもさることながら、2幕冒頭の決闘シーンでのマーキューシオのキレっぷりが素晴らしすぎてですね。今までも石井マキュの演技はとても好みだなと思っていたのですが(以前の日記参照)今回大阪9日マチネを観て、マーキューシオの死の石井マキュのあまりの迫真の死に様(という日本語もいかがとは思いますが)に胸を突かれて、満足しすぎたあまりにもうここで帰ってもいいかな、とすら思ってしまいました。あくまで比喩ですが、マーキューシオの死がこれからの展開にどうやって関わっていくのか、そこここに散らばっているであろう彼の死がモンタギュー、ヴェローナに与えた影響を掬い取ろうとするのに集中する事でその場に止まっていた、ぐらいの気持ちになったということで。ソワレに至っては石井マキュが鬼気迫る演技を見せつけながら死んでいった下手と逆の、上手ではりおティボが前のめりになりながら白目を剥いて倒れていて(りおティボが東京後半からやるようになった、マーキューシオを殺してしまった罪の意識で額に手を当ててふらふらと前に傾ぐ演技も好きです)、彼らの演技にお腹いっぱいになりすぎたあまり、自分はマーキューシオ&ティボルトを観に来たのかとすら、その場面を観た限りでは思いました。東京の時点でもふたりの決闘シーンは注目すべき箇所として特に集中して観てはおりましたが、二人が死んでからも最後まで見届けようという分別くらいは意識しなくても持てましたし、そもそも観たいという気持ちはふんだんにあったので、そこまで気持ちを惹きつけるなにかが大阪公演からプラスされていたのだと思います。
大阪では何かひとつ大きな変化があったというよりも、場面場面での台詞の間の取り方、動きが些細ながら変わっていて、全体で見るとどこがどうとは言えないけど確実に何か違う、という印象でした。
以下、マキュを中心に今回改めて気づいたところや大阪から変わったかな?と思ったところについて。

★1幕
ヴェローナ:「愛おしいヴェローナ」で右手を頬にそわせてやや頭を後ろにそらす、どこかうっとりとした表情。ヴェローナという街を彼なりに愛しているということを表現したかったのか、はたまた皮肉か。

・憎しみ:らちマキュの一貫して、何を世迷いごとを「女達の言葉に耳を傾け」るつもりはない、という様子に対して、石井マキュは腰を下ろして最初爪は弄りながら流し聞いていたのが、歌の途中で夫人を見つめてちょっときょとんとしたような、あどけないとさえ感じる表情を浮かべ、「耳を傾け」だす。「一体なんの力が」あたりかどこかのタイミングで、ハッと何かに胸打たれたかのような顔になって自分の胸元をぐっと掴むも、暫くの後、その感情をなんとか振り払って「失礼!」夫人に奪われたスカーフを取り戻して例の、身を必要以上に屈めた一礼、戯けた笑い声を残して下手にはけてゆく。
スカーフが東京での光沢のあるものからやや違う柄に変わっていました。しゅるしゅると鉄パイプを降りてゆく前のベンヴォーリオとのアイコンタクト、ここ以外にもちょくちょくあるそうしたコミュニケーションから彼らの信頼関係、はたまたマーキューシオのベンへの依存具合がちらりと透けて見えるような気がするのです。マーキューシオからロミオへのそれは見返りを求めるものではないけれど、ベンヴォーリオへのそれはもっと具体的に手助けを求めているような、無意識に心のよりどころとしているような印象を受けます。浦井ベンヴォーリオの面倒見よさげなところと相まってそう見えるのかもしれないですが。

・世界の王:「ロミーーオーーー」の後の特徴的な笑い声がいつも好きです。「ロザラインに〜クラウディアに〜」で、一瞬名前を忘れた?と疑うくらいの間をちょっと開けてからの「シルヴィア〜〜〜」
友人とDVDで鑑賞した宝塚BOYSの浦井くんはそういう印象がなかったから、ヒップホップ系よりクラシックな踊りの方が合っているんだろうね、という話になったのですが、浦井くんのいつも力いっぱいな元気すぎる動き方が毎回ツボに入ってしまいます。いや、あの独特の動きも大好きなのですが! しかしそこに+城田ロミオ、石井マキュの時は、誰もダンスの指針になる人がいなくて大丈夫かしら?と少し心配してしまう。良知マキュがそちらの畑のひとなのでずば抜けているのは大前提として、その次にうまいのが育ロミオなのかな、という順序つけ具合でいいのだろうかと。石井マキュはソロシーンはともかく基本に忠実に踊ろうとしている感はあると思います。誰のときであろうとあの場面が大好きであることに変わりはありません。

・マブの女王:「恋の火遊びを〜”そろそろ覚えろよ”」でロミオの頬を「そういった遊びを知らないおぼっちゃん」とからかうようにさっと撫でたのは育ロミオの時だったと。細かいどこが、というのではなくマーキューシオの見せ場として好きです。既に死の影は迫っていますが。

・仮面舞踏会:全体的にアドリブをきかせた動きと、ここでも出てくるベンヴォーリオとのアイコンタクトがかわいい。何度目かの上手階段を駆け上るシーンで先にベンが上がった時、石井マキュに手を差し伸べて、上り切る前の最後の数段を引っ張りあげてました。9日マチネは最後の段に両足揃えてぴょんって飛び乗っていた。

・綺麗は汚い:東京後半にかけて、大阪でも石井マーキューシオのチャーミングさが増しているなと感じたこの場面。乳母に「(ロミオはやっぱり)あんたたちとは違う!」と罵られて泣き真似をしたり、あのおばさんひでえんだけど〜というようにモンタギューダンサー男子に慰めを求めて抱きついたり、ダンサーの振りを真似て腰を振ったり。かわいい。

★2幕
・街に噂が:ひとつ前の日記でも書きましたが、「まだまだ君たちを愛しているんだ でも彼女への愛はもっと深い」の絶望を帯びた表情ったらなかったです。「じゃあ自分の喉を刺すんだ」のロミオへ向かってナイフを向ける顔の本気度合いも。「もう終わりだ」の意味を何パターンも考えてしまう。

・決闘:決闘冒頭の「おいキャピュレットの貴公子がいるぜ」登場第一声からの揶揄っぷり。どこがどう、とは言えないのですが確実にここから「ティボルト、ティボルト、息の根を〜」に入るまでの台詞の間の取り方、声音が違っていてぞくっとしました。「知らねえなあ!!」はお前になんか大事なロミオの居場所は教えてやらねえよ、なのか、ロミオなんてやつのことはもう”知らねえな”なのかどちらの意味にもとれそう。
「人間の”くず”だ」の「くず」は意外と平坦で、その乾いた感じがまた恐ろしいのですが、「自惚れたその態度 ”吐き気が!!”してくるぜ〜」の「吐き気が!」で力み過ぎてもう白目むいていたあたりで、ああもう石井マキュは最期の時へと向かっているんだな、彼を止めるものは誰もいないんだな、とティボルトに刺されるまでの道筋が、それ以前よりさらに明確に見えた気がしました。それでもまだ正気を失ってはいないのですが、その後のティボルトの「自分をよく見ろ お前は”ピエロだ!”」でマーキューシオの気持ちは更に煽られてゆきます。顔色をさあっと変えて勢いでパイプを滑り降りてきたのが明らか。
そんなに我を忘れているように見えたとしても、モンタギューとキャピュレットダンサーズ入り乱れての乱闘時の最中であっても、ロミオに首の後ろ掴まれて『こんなことはやめろ』というように説得されたときには悲しげな表情をするんですね。お前はなんにもわかっちゃいない、今更出てきたところでもうこの状況を治めることは、俺を止めることはお前にだってできやしないんだよ、というように首を振るマーキューシオ。それでも決闘で負傷して屈みこんだベンヴォーリオに一直線に走ってゆく石井マキュは、君が大丈夫かと思わせるほどの悲痛な面持ちをしている。東京公演ではわりと、誰の手にも負えないどうしようもないやつでそういうところが憐れでかわいいなと思っていたのですが、あんなにロミオとマーキューシオという二人の親友に対して一途な様子を見せつけられたら、斜めに捉えるのではなくまっすぐに彼のマーキューシオを愛すべき存在だな、と思わざるをえませんでした。
そこからティボに向かってゆく時にまたあの憎悪に満ちた表情にぱっと切り替わるのですけれど。緩急のつけように瞬きをする暇がなかったです。「昔から奴は俺を”蔑み”憎んでた」の熱の入り様が凄まじくて、舞台の大きさは寧ろ広くなったのに、心なしか東京公演より声量がアップしている気がしました。あんなにも爆発的に溢れ出るような憎悪の念を、彼はいったいどこに潜ませていたというのか。そもそもその熱が向かう先は、確実に「ティボルト」一個人ではないわけで(それはティボルトからマーキューシオへの憎しみに対してもいえることですが)。

・マーキューシオの死:素晴らしかったです。実際に歌うほど気力があるなんてことはありえない、といったらお約束をぶち壊す事になりますが、それでも死に向かう人間のいまわの際をミュージカルとしてほぼ完璧に演じ切ったらこうなるだろうな、とそう思わせるだけのなにかがひしひしと石井マキュの演技から伝わってきました。9日マチネを観るまでは「石井マーキューシオ」としての彼の演技が好きで、このロミオ&ジュリエットにおいて、彼と役とのまれに見る一期一会の機会に幸運にも一観客として居合わせることができてよかったな、と思っていたのですが、次回なにかの機会があったら石井さんの他のお仕事も観てみたいな、と思うほどに胸に迫るものがありました。
らちマキュのそれとはまた全然異なるものなのですが、石井マキュも彼なりに置いてゆくロミオの身を案じているというか、石井マキュの場合は具体的になにかロミオの力になってやることはできないだろうけれど(それどころかゆくゆくはトラブルメーカーとしてまた違う件で足を引っ張りかねない)それでも彼の傍で彼の様子を観ていたかった、という無念さと、先ほどまで彼が発していた憎しみとは真逆の、溢れんばかりの愛情を感じました。「謝るのはガキだけだぜ」の場面で浮かべていた表情に慈愛すら感じてしまったのは、別の意味で穿ち過ぎでしょうか。世を斜めに見ている感が強い石井マーキューシオだと思っていたけれど、本来とても愛情深い人間で、けれどその放出させ方もうまく掴めていないし、対象としていい存在もロミオとマーキューシオ以外に知らなかったのではないかな、と。だからあんなに歪んだものとして周囲の目には映ってしまったのかなと思いました。水を注がれる受け皿の少なさ。
「愛する友よ 別れの時だ」は自分からロミオとベンヴォーリオの手を握りにいったらちマキュとは異なって、もう既に脚を半分以上あの世に突っ込んでいる様子で、腕を両者それぞれの方向へ投げ出すだけ、というような。
目を閉じて完全に亡くなった後のマーキューシオの頭に手を置いているベンヴォーリオの姿が皆の涙を誘います。石井マーキューシオの死に様が凄すぎて、確かにこうやって親友を目の前で失ったらロミオも逆上しかねないよなあ、とその後の舞台の上で起こる出来事の流れが納得できるスムーズなものとして捉えられて、改めてこの場面の大切さ、マーキューシオという役者に求められているものの難しさを考えてしまいました、というところで冒頭の感想に至ったわけです。




周さんの死やりおティボやベンヴォーリオについてもなにか書きたいなと思っています。