TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ロミオ&ジュリエット 石井マーキューシオ総括として

まとめのつもりで書いたのですが、既に幾度も言及している方のことゆえ、以前の記事と重複する箇所もあります。ご容赦ください。
それ以前に恐ろしく散文。




全体の総括というものが大変苦手です。かといって私以外の誰かが書いているからいいや、という発想もあまり好きではありません。どんなに似通ってしまったとしても、自分の言葉で自分が感じたことだ、ときっぱり言えるものをしたためたい。

相対化できるほどに数を観ていないので物語、本の場合も入れて話すと、大体において入れ込んでしまう舞台や物語はひとりの役やキャラクターに恐ろしく傾倒してしまって、そのひとを中心に据えて物語を読み解く、という見方をしてしまいがちです。なにかひとつにどうしようもなく惹かれてしまい、そこから周囲に眼を向け出す場合が多いからか。かといってその好きな役やキャラクターの出番がなにか大いなる意図のせいで必要以上にあったりするのは好きではありません。あくまで物語の流れのひとつのピースとして収まるべき場所にしっくり収まっており、その場所でその人に与えられた役割をこなすことで輝きを放つ、という人を好きになることが多いからかもしれない。与えられた枠の中でそこでできる最大限の働きをして、それでもどうしようもなくそこから溢れこぼれ落ちてしまうほんの一滴に眼を奪われるということ。個としてしっかり立つのは当たり前で、それ以上に、周囲の役柄との唯一無二の関係性を築き上げている、見ているこちら側にその部分を訴えかけてくるひとにどうしようもなく弱い。

石井さんのマーキューシオが、私にとっては今回のロミオ&ジュリエットでまさしくその位置に該当するひとでした。

劇的にすべりこんできたダークホース以外のなにものでもない。だってらちマキュしか観るつもりはなかったんです。らちマキュがいる初日も気になりつつも、育ロミオとりおティボにしぼって定めた9/8の個人的初日では、りおティボの咆哮に雷に打たれたように隣席の友人と震えつつも、石井さんのマーキューシオを真剣に追ってはおりました。その週の土曜日に観るらちマキュも同じことをやるのだ、と思いながら。彼を観ながらも、彼の後ろに透かして違うひとを夢想するような状態で、たいへんに失礼な観劇姿勢だったと己を諌める為に、改めていまここで懺悔いたします。
そうやって石井さんとらちのマーキューシオを1度ずつ観てからの、次の観劇日、9/17ソワレでした。あの公演で落とし穴に落ちるように唐突に石井マキュに転んだのはその時書いた記事を読むとよくわかるのですが(翌日18日の時点で書いた感想に加筆修正してアップしたものが10/1更新のこの記事なので http://d.hatena.ne.jp/trois_reve/20111001)読み返すといまとは受ける印象がだいぶ変わっている事に驚きます。
なにかのっぴきならぬ状況に陥って、あるいは何の気なしに道端に転がっているところを、どうしようもないやつだなあ、と悲しみつつもため息をついているベンヴォーリオに引っ張り起こされる、ぐらいのまっとうに生きる人たちとはどこか恐ろしくかけ離れた印象を彼に持っていたのですが、観劇回数を重ねるごとに、言動の奇抜さをもってしてもなお、寧ろそれを通して、他の何を置いてもロミオとベンヴォーリオに寄せるひたむきな友情、愛情が切々と伝わってくるようなその様子に、大変愛おしい存在だなと思えるようになってしまい、いまに至ります。赤坂ヴェローナが終盤に向かうにつれて、大分気持ちが傾いではいたのですが、それでもやはり完敗だ、と思ったは大阪公演に入ってから、梅芸ヴェローナでの石井マキュ初日、9日マチソワ観劇時でした。
http://d.hatena.ne.jp/trois_reve/20111010/1318236028
赤坂から梅田へヴェローナが遷都するその間にいったいなにがあったのでしょう? その時の記事にも書きましたが、具体的にこれ、というのではなく個々の場面での少しずつの違いが、結果的に全体として大きな変化を生みだしているような。個別シーンでの詳細は記したので、いま振り返ってみると、ヴェローナ〜憎しみ/世界の王〜綺麗は汚い/街に噂が〜マーキューシオの死、で大きく三つに分けて、それぞれの転換部分を考えたときに緩急のつけかたがより顕著になっていたような。根底に流れているものは一貫して「(キャピュレットへの、あるいはもっと大いなるものへの)憎しみ」「(ロミオとベンヴォーリオへの)愛情」二つで、きっとそこが揺るぐことは東京初日からなかったのだろうと思うのですが、憎しみを印象付ける部分はよりその感情が強く伝わってくるようになるのに相反して、世界の王〜綺麗は汚いでは最初感じていたジャンキーさが薄れ、石井マーキューシオのどこか放っておけないチャーミングさがより表に出るようになっていたと思います。それゆえに冒頭のヴェローナで舞台上に現れた瞬間から既にひとつの結末へ向かって突き進むしかないように見えるマーキューシオという存在がただひたすらに切ない。誰にとってもそう見えるというより、恐らく私が親友二人の目を通して彼を観ているせいなのだと。おどけた態度でひた隠そうとしてもきみのひたすらに彼らを慕うひたむきな瞳は誤魔化せないよ、と。友情だとしても一方通行の想いというものはありますし、ベンヴォーリオはきちんと応えてやっているどころかいちいち気にかけてやっている様子が端々で見受けられましたが、二人のロミオはそれぞれの意味で想いに完璧には応えていない「兄弟よりも親しい共に遊び笑い青春駆け抜けた」仲間だと認識してはいても、どこか石井マーキューシオが求めているそれとはすれ違っているように思えてならなかったので、なぜそこに気づいてあげないんだろう、とじれったさすら感じました。彼等が「マーキューシオ!僕を置いていかないでくれ」で欠落したものの重みにようやく気付くときにはもう遅いのです。抱きかかえ、額をこすりつけるようにして顔を伏せたその胸があたたかく脈打つことはもうありません。妙な節をつけた友の名を呼ぶ声すら彼には既に慕わしい。
2幕冒頭の「街に噂が」で最後のパズルのピースを拾い上げてはめ込んでしまったマーキューシオは「もう終わりだ」の時点で、大公に禁じられたキャピュレットとのいさかいに自ら飛び込むほど自暴自棄になっていたと思うのですが、死に向かう覚悟を決めながらもあれは彼なりの決意を持って、喪いつつあるものを全身全霊をかけて取り戻すための、逃れられない儀式であったのだろうか、とすら梅芸ヴェローナ終焉間際では感じました。もう取り戻せないことは知っていて、それでも彼が闘いに己を駆り立てなければならなかった理由。ロミオがマーキューシオのなかでどれだけの存在であったか。
「憎しみ」のかたまりとかたまりがぶつかり合う様なそれだったとしたら、あまりにもマーキューシオとティボルト、ふたりの姿はかなしいです。どちらがどちらを刺してももはや関係ないし、結局両方亡くなってしまったけれど、万が一片方が生き残ったのだとしたらその側は己の半身を殺してしまったような罪の意識に一生苛まれてしまいそう。りおティボがマーキューシオが完全に死んだと認識した瞬間に己のしてしまったことによろめく場面も、単に「人を殺した」とそれだけの後悔ではないように見えました。
決闘に触れて少し脱線したのですが、それまで混ざり合いつつも「憎しみ」と「愛情」を表現する場面はわりときっちりわかれていたのが、決闘シーンでティボルトと胸倉をつかみ合いながら目をむき、我を忘れた恐ろしい表情を浮かべていても、ロミオに間に割って入られればとたんに途方に暮れたようなこちらの胸まで痛くなるほどの悲しい顔に変化しますし、その間に殴られていたベンヴォーリオが倒れたのに気付けばすぐさま必死に駆け寄って半ば縋りつくように抱き起した後、また親友をそんな目にあわせた相手への憎しみの色を鮮やかに浮かべて立ち向かってゆく。客席で観ているだけで目まぐるしい感情の波に巻き込まれ攫われてしまうようで、息をつく、瞬きをする暇さえもありませんでした。喉が裂けるようなどころではなく、全身から振り絞るかのごとく、あの悲痛な叫び声のような歌声。
伝わってきた一生懸命さは石井さんが一生懸命に演じている、という類のものではなくて、そんな段階をとうに乗り越えた「板の上で魂を燃やしつくそうとする石井マーキューシオの一生懸命な生き様」です。突然あの舞台の上に現れたのではなく、舞台の尺として切り取られた枠の外、それこそヴェローナに生を受けてからきちんと今まであそこで年齢を重ねている。成長した青年の姿のマーキューシオとしてほんのいっときだけ私たちにその姿を見せてくれていたけれど、見えない間も今まで彼はマーキューシオとして生きてきたし、これからも生きてゆく筈だった人。そういったバックグラウンドをきちんと内包しているように見えました。

だからといって最期の瞬間マーキューシオが失意のうちに逝ってしまったかというとそうではないと思います。刺し違える勢いに見えたとしても、殺そうとしていた相手の刃が愛する友の腕の下から一方的に刺しこまれるだなんて思いもよらなかったでしょうから、やはり無念といえば無念に違いはないと思いますが、それでも克明に最期の瞬間を思い描いていなかったとしても、うっすらと悟っていた死に向かう瞬間、ああこの時だったか、とどこか諦念して身を預けるのは愛しい友の腕。マーキューシオがその瞬間助けられ、そしてある意味彼に死を与えた腕、と考えれば恐ろしく皮肉です。清濁併せのむのが人間であるので、刺された瞬間劇的になにか今までの考えが変容した、ということはないと思いますが、しかし文句の一つも言いたくとも、見上げれば友は泣きそうな、自分の方が死んでしまいそうな表情でこちらを見下ろしている。満足ではけしてないけれど、ああもう、これでいい、と同じく泣きそうな表情を浮かべマーキューシオは思ったのかもしれない。
しかしひとの今際の際に発される言葉の重み、呪術のようなその力、「くたばるがいいどっちの家も」はまさにストレートにその意味をなしていましたが、「愛する友よ別れの時だ」は一瞬にしてロミオを狂おしい思いの渦に取り込み、蝕んだとしか思えません。復讐など恐らく望んでいないマーキューシオ本人が意図したかしていないかといえば後者なのでしょうけれど、ロミオを憎しみの黒い炎に取り込むには十分なものだったのだと。らちマキュは天国で早々にロミオに会ったら絶対に怒りますし、石井マキュはかなしげに地上では饒舌だったその口を閉ざしてもの言わぬ瞳で語るかもしれない。

喪われて久しかったり、どこにあるのかわからなかったり、手が届く筈がないと諦念しているものをそれでも理屈ではなくなお追い求めてしまう人たちの狂おしい生き方に心惹かれてどうしようもないです。

石井さんのマーキューシオが大好きだったしこれからも反芻してしまうぐらい現在進行形で大好きなんだ、というただそれだけのことをいうために恐ろしい文字数を費やしてしまったけれど、まったく語りつくせている気がしません。この消化不良感は来年3月のCD発売日まで解消される事はないのかな、と思いつつ当分はひたすらに反芻を繰り返そうと思います。
我が街ヴェローナはきっとまだ眠らない街





死について書きたい、といいつつ書ける日は果たしてくるのか。