TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

眠れぬ雪獅子 10/29マチネ、30マチネ

10/29マチネ、30マチネの2回観劇してきました。アルターで華のある方だなと認識し、板の上に立つお姿を拝見したのはCLUB7以来の東山さん、テニスラケットを振りまわすお姿を3年ほど前に拝見したきりの伊礼氏、そのカンパニーのOBとしてお名前だけは存じ上げていた小西さん、そして今井さんや、同じくアルター以来の小林さん等々、役者さんと演目あらすじから想像する重厚な雰囲気に惹きつけられての観劇でしたが、実際その期待を裏切らない、とても素敵な舞台でした。

舞台美術・演出効果としては、ターラ菩薩の背景に煌めく虹色の光、山奥で見上げた満天の星、何枚もの布を重ねてつくられた(?)場面場面で緑濃くなったり雪を被ったりする天をつくような山脈などに、シーンの転換ごとにはっと目を惹きつけられることが多かったのですが、そういった見える部分でのきらきらしい華やかさはまた別として、演目ごとに「色」というものがあるならこの舞台は人間の手で加工された成分を使用していない、素材そのものの色で染まっているのかなと。草原の緑にそれらを育む大地の黄色、東から昇り西に沈む太陽の赤、どこまでも高い空の青、というような。そんな自然の豊かさと厳しさを矛盾なく持ち合わせる土地で、生きて死に、また巡る人々の生命賛歌。といかにも綺麗にまとめてしまうのはどこか違う気もしつつ。一本中心を貫くテーマは大きく括れば「生命」だとしても、そこに「兄弟の絆と血は繋がらなくともなによりも濃い家族(仲間)の絆」「ひとところに止まり続ける、もしくはその土地からいったん離れようとも故郷を愛してやまない人と、そういった根を持たない人」「肉体を伴う行動の力と言葉の力(動と静?)」が複雑に、それこそ心の鎖と命の鎖ではないですが、連綿と続く鎖のように絡み合って、過去から今へ、そして未来へと伸びているような印象を受けました。全てではなく、二人両方に共通するところもありますが、詩人であるドルジェと旅芸人であるテンジンにそれぞれ振り分けられている部分が多いそのテーマ、要素を数えあげ確認してゆくと、どうしても「言葉の人」であるドルジェに共感を覚えずにはいられない。共感、だとか口憚られるぐらい、物語を読みとく上でそこに自己を投入することは必要なのかな、とできるかぎり客観的視点で捉えたいとだいたいの場合思ってしまう人間であるのに、彼が親を残して自分の愛する故郷を後にしてまで執着し、信じ愛していた「言葉の力」に対する疑い、悩みが、ひとりの文字を愛する人間として痛いほど胸に迫ってきてしまってどうしようもなくなってしまいました。外部に向けているようで、その実自分の内側に分け入って深淵に佇みそこをじっと見つめているひとが好きなので、役柄として惹かれるのはラルンとドルジェのほう、というのはあらすじを事前にきいて大体予想がついていつつも、まさかこんなにとは想像だにしなかった。東京楽である2度目はそれでもだいぶいろいろ考えつつ、落ちついて観ることができたのですが、初見の「星が、降るようだな」は(あ、だめだだめだ)と思いながら思わずぐっと胸に手のひらを当ててなにかが溢れだすのをおさえながら見るというありさまでした。ぽたぽたとおなかの底に水滴が滴り落ち、じわじわ浸透してゆく舞台だなと思いつつ1幕を見ていたのが、その溜まったものがあの場面で零れてしまった。悪いことではないのだけれど、受け取ってため込んだものはひっそり持ち帰りたい派なので。
彼のいっぺんの笑みの為に人々はこぞって命を投げ出したでしょう、じゃないけれど東山さんはほんとうに使いどころ要注意人物だとテンジンを観て改めて思いました。ひとを惹きつける魅力があるってすばらしくも大変に恐ろしいことです。あて書き要素が多分に含まれているとはきいておりましたが、テンジンはほんとうに彼の魅力を引き出す役柄だなと。「心が喜べば皆が笑顔だ」かつ「テンジンが微笑めば皆も笑顔だ」と歌いたくなった。歯をむき出しにして顔がゆがむのも頓着せず力いっぱいにほほ笑む、と表現すると先日の石井マキュの話と被りますが、まあ全然違う笑顔ですよね。東山さんのおめめは切れ長ですし、というか私の笑顔の表現方法のバリエーションが足らないだけである。寺院の前に捨てられていたところを寺の僧に拾われ育てられた親なし子、寺での経験ではないだろうけれど殴られたり蹴られたりすることなど日常茶飯事だった、と彼自身語るのに、そういった困難な過去を経て溜まった澱などなにもないかのように、綺麗な純度の高い笑顔をテンジンは浮かべることができる。彼の心には濾過装置がついているのかもしれません。そんなテンジンは僧になるのを拒み、旅芸人一座の一員としてあちこちを転々としながら芸で人々を喜ばせることを生業としています。
彼が身を置く旅一座がまたとてもすてき。幼い頃からの読書傾向によるものかもしれないのですが(上橋菜穂子の『守り人シリーズ』、村山早紀の『はるかな空の東―クリスタライアの伝説』があたりがぱっとあがる)元々ひとところに止まらない根なし草、旅を続ける流浪の民のような人たちへの憧憬の念のようなものが根深くあり、今回テンジン率いる彼らを見ていてその気持ちを思い出しました。もしかしたら単なるスナフキンが嫌いな女子なんていません!説によるものかもしれないけれど。朝日が昇ると共に起き、昼間は往来で芸を行ってその時々に立ち寄る街の人を笑顔にし、暮れなずむ空の下で夕餉の支度をしたり、興がのればまた誰ともなく弾き出したダミネンの音色にあわせて踊りだす。財産や地位はなくとも、貧しくとも、血より濃い絆で結ばれた家族との豊かな暮らしを送っている様子がほんの短いシーンの端々から伝わってくるようでした。作中では、恐らく保存食として持ち歩いている干し肉食べようぜ、ぐらいで食事の場面というものはなかったけれど、絶対に口に入れる食料もお肉なら野で駆けてるものを仕留めるところからだろうから、剥いだ直後の毛皮のあたたかさも彼らはきっと知っているのだろうなと。命を「いただく」ことがなんたるかわかって手を合わせる彼らの祈りのかたちはけして形骸的ではない、ということをテンジンが手をあわせて祈りを捧げる姿からも感じました。先日まで十字を切って祈りを捧げる人たちの話をしていたので「信じるなにものかに祈りを捧げる」という行為について、それを習慣としている人達について再度考えたくなってしまいまして。何かを信じてそれの為に乗り越え難いものを乗り越えてしまう、信じる力の強さ、一人の人間からそれだけのものを引き出す対象への恐れ、をテンジンの前世であるラルンの仏への信仰心を見ていて感じたけど、信仰というものに懐疑的すぎる見方なのかもしれず。なにかと問われればいわゆる「八百八の神」派の人間ゆえ、そこのさわりがわからないし安易にさわっていいものではないという気持ちは十二分にあります。しかしやはりTSミュージカルは国産としたって、普段観ているものは原作輸入ものだらけなわけです。日本で上演されている限りある程度伝わるように演出上で変えてくださっているとわかってはいても、根底に当然のものとして流れる宗教観を端っこだけでも捉えたいが為に、ここ1年ほどその周囲をぐるぐるまわってしまっている。アルター、レミ、三銃士、ロミジュリ等々。
手をあわせてこれから自分の血となり肉となるものに感謝を捧げる、という行為はその気持ちの入れようは別として、常日頃行っていることですので、そこから入っていけば僧であるラルンの考えまではまったく及ばなくとも、テンジンの言うことはそれなりに飲みこめる気がしました。
あいかわらず横道にそれるのが得意です。そういうわけで、困難ながらも日常を逞しく生き抜く旅芸人一座の皆の、それこそ「生きようとする、強烈な希望!」がとても眩しく愛おしくてなりませんでした。踊りのカテゴリ分けをできるほど知識がないのですが、バレエやヒップホップといったものではなく、もっとずっとはるか昔に人間が初めて身体を動かした時に、自然に生まれた踊りの系譜をそのままふんでいるような。たぶん色々なジャンルが混じっているとは思うのでそれは正確な表現ではないのですけれど、あくまでイメージとして。大地を踏みしめているのが、仲間同士顔をあわせて一緒に踊るのが嬉しくてたまらない、といった彼らの踊り。誰かひとりにものすごく入れ込んで見ている、というわけではないのに、あの彼等ひとかたまりが仲良く踊っている姿を見て、自然に笑みがこぼれてきてしまうのをおさえきれない、というこの感情は今までなにかを目にして覚えたものとはまた全く異なる思いであったと思います。

そんな彼らが上演した、僧侶ラルンが仏教を弾圧する王ランダルマを暗殺する際に利用した「黒い帽子の踊り」(正確には黒い帽子の踊りからランダルマ暗殺までの一連の流れ)を見て激昂するのが、テンジンの前世の弟であるペマの生まれ変わり、詩人のドルジェであるわけですが、彼はラルン役を道化の仮面をつけて滑稽に演じたテンジンに、そうやってラルンを軽んじるなと演目自体を取りやめるよう強要しつつも、後から自分に黒い帽子の踊りを教えてほしいと頼みにやってきます。後々それは圧政を強いて父を殺し、民を苦しめるワンドゥの暗殺に用いる為と発覚するわけですが、何故俺に踊りを教えてほしいと請いにきたんだと尋ねるテンジンに「多分、お前が怒らなかったからだな」(黒い帽子の踊りを取りやめるよう強制したことに対して)と口ごもりながらも伝えるドルジェの姿に、単なる仇討という目的からくるものだけではないなにかを感じました。その佇まいだけで強烈に陽の存在であるテンジンに、陰のドルジェが少しの会話を交わしただけで惹きつけられてしまうのはもうまったく理解に苦しむことなく飲み込めるのですが、ではなぜテンジンがドルジェに歩み寄ったんだろうと初見では考えるべき事が多すぎて深くは読みとれず、そこが一考すべきところだな、という思いがあったというのが2回目の観劇に臨んだ理由のひとつでもあります。はっきりした結論は出ていないのですが、自分に激昂したドルジェが立ち去った後のテンジンの「あの男、かなしい目をしていたよ」が2度目にしてくっきりと印象深く、あまりにも彼が陽の空気を発していたせいでうっかりしがちだけれど、彼もまた本来ならばかなしみをもっと露わにして生きていても頷ける人なのだということをその場面で思い出しました。痛みを実体験として身に刻んでいるからこそ、自分以外のひとの痛みが手に取るようにわかり、かつそれを放っておけず欠けた部分を埋めるように、傾きかけたものを支えるようにすっと寄り添ってしまうテンジンもまたある種どうしようもなく生きづらいひとなのかもしれない。
前世の兄弟の絆だけでなく、三日間の踊りの伝授期間内でお互いが「現世」で培ってきたものを汲み取り合って、その上でのドルジェがテンジンへ自分の詩を綴った本を手渡す、という行動に繋がるのだと。強烈に惹かれあうものがあったとしても、本当の奥底はどうであれ一応現世しか信じない、と口にして憚らないドルジェがある程度の交流なしに(どれだけテンジンに唐突に思えたとしても!)彼なりの納得なしに自分の人生の意味であるあの本を手渡すとは考えにくい、と私は思います。彼が言葉の力などないものだ、自分のつまらない人生、と本当は捨てがたいものをなにかを振りきるようにして否定する姿が胸に迫ってならないけれど、本当の本当に「言葉の力」を否定し自分の綴ったものを意味ないものとしたいならば、そこらに投げ捨て踏みつけるもしくは破り捨てればいいわけですから、テンジンに託した時点で彼がまだ未練を振りきれていないという事実は明明白白なわけです。紙の厚み分の重さだけではないその本。テンジンはその重みをきちんと受け取り理解したからこそ、彼にその本を返しに戻ってきたのだと思います。「生きる意味まで失っちゃうからね」タイミング良く戻ってきた彼はドルガの示唆によりドルジェがなにをしでかそうとしているかに気づき、彼のワンドゥ暗殺を阻止しますが、何故俺を助けた、とテンジンを恨みに思う台詞を吐きつつも、同時に計画が失敗した事に安堵する自分を責めるドルジェに、迷い子の目をしていたから、というような言葉で返します。誰だって道に迷うさ、世の中こんなに暗いんだから、というテンジンの一言はそれだけでどれだけ彼の心を照らす光となったことでしょう。更に何故戻ってきた、と問うドルジェに大切なものを返しに来たと、これは自分が持っているものではないと告げるテンジン。そしてドルジェの魂といっても過言ではない詩を、彼は大好きだと、微笑みながら口にする。あの本に綴られた詩のいっぺんいっぺんはドルジェの人生で心で、だから「あんたの人生そのものが大好きだよ」ってまるごと受け入れてぎゅって抱きしめたってことに相違ないわけです。ドルジェはどれだけ嬉しかったのだろう。今まで彼の前にそういってくれるひとがひとりだっていたでしょうか。子どものように泣きじゃくりたかったに違いない。それを受けての「星が、降るようだな」初日から比べ楽に近づくにつれてその言葉に籠った思いが増しているようだったと友人からききつつ、私自身は29、30と楽間際の公演しか観られなかったのですが、最初の方の旅芸人一座とドルジェの初対面後の「山の男は情に厚いけど気も濃いからねえ」という言葉や、ドルジェのストレートな言葉にのせて感情を伝えるのが難しそうな様子を考慮に入れると、詩的なたったワンフレーズに込められた思いが滴らんばかりの伊礼氏の言い方で、そこを切り取っただけでドルジェというひとのひととなりがわかかるようなそんな一場面になっていたのではないかなと思いました。テンジンという太陽のあたたかさで、ドルジェの凍てつく氷がぴしぴしと割れ、溶けてゆくようなそんなイメージ。
ドルジェというひとをうっすらと理解してくるにつれ、重たい思いを胸に秘めた人を受け止める、そういう覚悟を持つって恐ろしく生半可な気持ちではできない、容易でないことに思えるのだけど、軽々しくテンジンが行っているのではなく、彼はそういった大事な覚悟、つまり決断が頭で深く考えるのでなくできるひとなのかなと、そう思い直しました。
ドルジェとテンジンを祝福するようにまたたく満天の空のうつくしさといったら。まさに「星が降るよう」です。しかし夜空を見上げる彼らを挟むようにして前後にラルンとペマが行きかい、前世と現世が一瞬交差したような構図、それもつかの間、その幸せな場面を吹き消すかのように、ひとり取り残されるペマ。兄ラルンの王ランダルマ暗殺という行為を讃える言葉を撤回し、己の言葉によって汚せば二人を許してやろうという言葉を彼は承諾します。己の身を差し出す、言葉にはなんの力もないと腹の底からしぼりだすような声で自分の大切なものを自分で踏みにじるペマの「暗殺者となりましょうぞ!」
そうして弟に命を贖われ、また王を暗殺する事で自らの「眠りを殺した」安寧な日々は二度と訪れまいとわが身を呪う兄ラルンは、生きながらえることにより、己の罪を償おうとします。ラルンが一度は否定した弟の言葉の力を再度信じ、そうして来世では必ず、と願ったという経緯を考えれば必然ではあったとしても、すぐ前の場面でラルンの生まれ変わりであるテンジンが弟ペマの生まれ変わりであるドルジェの言葉の力を強く肯定したというのは、魂の救済といっても過言ではない行為だったのだなと。それでも「未来は自分で起こすもの」「運命なんてものを信じたがる人間は馬鹿だねえ」というドルガの言葉を考えると輪廻転生とは…?という大きな疑問に突き当たる気もするのですが。

そうやってドルジェの懐にするりと入り込んで大きな存在となったテンジンが、ドルジェを庇ってワンドゥの銃弾に倒れ、息絶え絶えながらも旅芸人一座の仲間ひとりひとりに遺言を告げる場面では、「星が、降るようだな」からおさえているものがありつつも、もうとどめることが出来ずうっかり泣いてしまって自分でも驚きました。こみあげてくるもののあるなしが、観て受け取ったものによる心の揺り動かされぶりのバロメーターでは決してないと、イコールだとは全く思っていないのですが、ある種きもちわるい言い方が許されるのであれば、たぶんあれはわたしじゃなくてドルジェが泣いていたんだということにしたい。それまでにぽたぽたお腹の底に滴ってきいていた水滴が一気にぶわっと溢れてしまったような気持ちになりましたが、基本受け取ったものはそのままひっそりお持ち帰りしたい派です(2回目)
あんなふうにドルジェに希望を与え、「一緒に旅をしよう」と未来すら予感させたテンジンがここで逝っていい筈がない。どうしようもなく運命的に惹かれあった、たとえ来世から約束されていて、またいつの時代かで巡り会える二人だったとしても、そのことを現世に生きていたドルジェとテンジンが理解していたわけではないですから。この世で報われてほしかった。これから先どうやってドルジェは生きてゆくのだろうと考えると胸が詰まる様ですが、彼にはテンジンが大好きだと肯定してくれた詩を紡ぐ、言葉の力が残されていて、そのことが大きな希望であり、彼のこれからの生きる意味なのかなと。テンジンの事をドルジェが綴った詩に曲がつけられ一座の演目として各地で演じられるようになれば、それが黒い帽子の踊りのように後世に残れば、いつの時代かの二人が流れ流れてどこかの村でそれを目に耳し何かを感じ取ることがあるかもしれない。そう思いたいです。

ドルジェが書いた、最後にテンジンによって歌われた詩がとても印象深くて大好きだったのに殆ど記憶にとどめられていないのが非常に残念です。本作全編を通じて使われている歌詞や台詞はとても好みだったのですが、その歌詞がのった曲がそれほどキャッチーなメロディとは言い難いので2回程度の観劇では、私の記憶力ではとてもとても。「血の中を風が吹き抜け」「赤い頬をした子どもたちは雪獅子のように駆け廻る」ぐらいで、それすらうろ覚え。





おそろしく長い記事を書いていたら二時間分ほど保存を忘れて消失して、呆然としてなんとか記憶を遡っての書き足しなので、メイン4人以外に触れる気力が尽きました…
今井さんとか保坂さんとかジルソンくんとか小林さん中塚くんいろいろもう少し書いていたのに!
明日以降なんとか思い出しつつ書ければ。