TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

『星逢一夜』再演

劇場で一回、ライブビューイングで1回観劇。

宝塚作品に抱いていた認識を揺さぶられた初演も、登場人物らのやさしさが身にしみるからこそよけいに苦しい再演も、それぞれに心に残る作品。

宝塚で初演再演と観るのは初めて。しかもあの星逢一夜。同じ演目を同じキャスティングで上演しても、同じ作品にならないのは知っていたけど、今回は脚本に手が入ったというのもあって、同じ内容を時間を経て再演した作品というのとはまるっきり異なった。紀之介は後半はもう別人といえるくらい変わって、そんな紀之介に応じて源太も変わった印象。紀之介はむしろ初演の方が、江戸務めが案外性に合っていたのか、あるいは苦労の連続で心を閉ざしてしまったのか、大人になるっていつまでも星ばかり眺めて過ごせないってことかもな、という様変わりぶりだったので、今回の方が「変わっていない」。幼少期からの人格に連続性が見える。
そのせいで、江戸務めをしながら里の民にも心を置いてきた彼の立場は、いっそうつらいものとなる。

星逢祭りでの邂逅場面。
源太と「晴興さま」の再開、前回はもっと身分の差におどおどしていた印象。今回はもっと純粋に喜んでいる様子が伝わるはくはく具合。高いところに置かれて距離をおぼえる紀之介のさみしさはそこまで変わらない?
そして源太の「泉はおまえにやる」のカットですっきりしたなにか。そもそも普段は私は「泉をもらってやってくれ」という言葉じりにもねちねち物言いするタイプなのだけど、時代的にも源太の語彙的にもそういう言い方をするほかないし、なにより言葉や態度から伝わるのは彼の二人を思う気持ちなので、もう黙るしかない。黙るしかないといいつつ、「やる」は自分の手の内にあるものに使うけど、この場合の「もらう」は現在の所有権が自分にあると思って言っているわけじゃないから使っているんだろうなあという印象。こちら側の言葉遊びの範疇かな。
上記台詞カットのためか、時間をあけて観たせいかわからないけど「あんたを幸せにする!」と叫ぶ泉の激しさが「相変わらずの負けず嫌い」も作用しているのだとしたら、彼女にとってはつらいことだなと思った。10年間、源太との間に3人の子をなした泉は、紀之介を心のどこに置いていたのか。

晴興が髷を結って登場する最初、郡上藩騒動の沙汰を吉宗公の言葉として皆に言い渡す宮中の場面。
「この度の騒動」についての皆への報告役が、晴興からにわにわさん演じる久世に変わっているところ。前回厳しい処分を言い渡していた側と、その人に意見をしていた側があべこべになっている。政策に則って裁きを下したのはあくまで吉宗公で、晴興は年貢の納め方の変更云々ついてアイディアを出しただけ。彼は自分の口出しがここまで民を厳しく取り締まる政策に繋がるとは、想像していなかったんだろうなとわかる。なすすべもない様に彼の苦しさが伝わり、施政者としての吉宗公の厳しさにひりひりとする。

貴姫が晴興と吉宗公の元にやってくる場面。
「その顔」と晴興の浮かべる表情について指摘をするのが、貴姫から吉宗公に変わっている。表情の裏に隠している感情も「痛み」から「迷い」へ変更。施政者として情を断ち切る者の「痛み」と、施政者としては情が濃すぎる者の、自分がやっていることに決心がつかない「迷い」か。
貴姫を「みだりに立ち入らぬように」ととがめるのも晴興から吉宗公へ変更。ちっとも家に帰ってこない夫婦関係が初演より緩和されているのか、単に晴興の立場が弱まっているのはわからない。でも再演の晴興の雰囲気だと、泉を心に残していても一応結婚までした相手を無下にすることはなさそう。

ごちそうさん
「湯じゃのう」のタイミングが前回は両脚入れ終わってからで、桶から出した足を土間に置いていた気がするよ!?という台詞と動作のタイミングのずれと足を置く場所(草履の上)が変更に?閑話休題気づいたところ。ごちそうさん、の深さがさらに増している気がするよおっとぅ……
ちぎみゆの陽と陰だからこその割れ鍋と綴じ蓋、互いが守りつつ守られているようなコンビ感はもちろん大好きだけど、みゆちゃんとのぞみさんのしっとり、じっとりとした、二人が芝居上で絡んだときのなまなましさの同質性、みたいなものもとても好き。星逢とコルドバで観られたのは幸せだった。

晴興が源太に一揆をやめさせるよう言う場面。
台詞の細かい変更ももちろん、声音や表情から伝わる二人を取り巻く空気が違う。前回ほどに袂をわかった、敵対した者同士、という雰囲気がない印象。一揆の場面もそうだけど、源太の晴興へかける言葉は、怒りにまかせているというより、優しく強い突き放しにも聞こえる。年貢について自分たちの要求がのめないのなら、情ゆえの迷いを見せるな、と彼の苦しい立場をわかっているようにすら聞こえてくる。源太はどこまで理解している人だったんだろうか。強いからやさしくなれる人。

一揆後の吉宗公と晴興のやりとりの場面。
「源太一人の命と引き替えに」
源ちゃんが村向こうにまでその名を響かすいい男なのは知ってるけど、流石にあの時代の九州の農民一人の名は都まで届いてないと思うので「首謀者一人」とかにした方が吉宗公には伝わるのでは。でもお客さんが耳にしたときの印象や、物語の、晴興のなかでの彼という人間の重さの方をあえて久美子先生はとったのかな、とも思う。
「年貢は特別に今年は半分」
結構な温情だなと思ったけど、源太や紀之介の思いが少しは報われたことを、里のみんなに伝える方法はこれしかないのか。元々「一揆など成功した試しはない」という認識も史実的には微妙なところなので、むしろこっちのほうがリアル? やっぱり手厚すぎる裁きだとしたら、作劇のために曲げた箇所が、初演はより過酷な設定にするため、再演では宝塚的やおとぎ話にまとめるために作用しているのかも。

泉と晴興の最後の櫓の場面
「私が愛したのはおまえだけだ」
「泉はなぜこんなにあなたが好きなのでしょう」
まさかの初見は気づいていなくて、ライブビューイングで認識した箇所。
愛した好きだと口にしなくても十二分に伝わる思いのやりとり。
ただ、利己的な人たちの、自分と相手だけを燃やし尽くすような関係性も物語としては好きなので、初演のその要素が変わってしまったのはそれはそれでさびしい気も。でも泉の「あなたを閉じ込めたりせん」と言いながら過ぎる執着で蛇に変化してもおかしくない、彼女が発する炎には好ましいと思っていたけど、紀之介の言葉は本心ではあっても真摯さというよりむしろ男としてのダメさが伝わる……という印象だったので、ばっさりなくなってよかったのかも。愛情の対象を言葉で限定しないことで、ある意味彼の人生に貴姫という妻があったことを否定していない、フォローにも繋がると考えるのは広げすぎか。
むしろ言葉には収めきれないほど大きな気持ちに変わってしまった二人の罪深さのあらわれかも知れないし、男女の愛を超えたものへ変化していった清らかさかもしれない。でも、愛している、と口にしない方が泉への対応としては誠実に見えると思った。言葉にすると「けじめ」「甲斐性」みたいな文字がでんと見える。今回の方がシチュエーションに流されていない、と感じる。「言わずともよい」の重みが違う。という個人の意見として。

とりこぼしも多々あると知りつつ、そんな変更点を踏まえながら見ると、初演と変わっていない箇所の言動も、受け取る意味合いが変わってくる。一揆を起こすかつての仲間を見下ろしながらの「これが私の生きる道か」も、初演は仕事人間にここまで徹しておいてなにを今更、と思わせるところ、再演は「迷い」を抱えていた晴興ならばやむなし、と心を寄せてしまう。
紀之介は「晴興様」になっても「山の案山子」の心を持ち続けている。初演でも、きっと彼の心の中に小さい子どもは棲み続けていたと思うけど、再演では緑深い蛍村や、その里で一緒に燕星を見た子どもたちのことを大切に思い続けている紀之介のことがより観客に伝わり易くなっている。ように、私には感じた。性質は変わっていない人たちをも別つ「立場」や「運命」の苦しさに、物語にするすると乗って、するすると運ばれた再演だった。回数を重ねた初見のときのように、余計な思考の寄り道をしなかったという意味で。

私が今まで生きてきた範囲で理解可能な文脈に引き寄せるとこういう意味だけど、どうやらそれだけではない気持ちが彼らの間にはたゆたったりキャッチボールされているようだ、みたいなやりとりを見ながら、自分は生きられない人生を味わう醍醐味を、ありがたみをわしわしと噛み締める。
お芝居でも本でも、他人の物語を水のように欲しているし、これからもおいしい水をかぎわける五感を養いたいと思った、心に残る沢山のうちのひとつの公演。

久美子先生作品は心にいつもとても響くけど、身分差の話でない「翼ある」であっても、女性側にしんぼう役を振ることが多い先生という印象。舞台上での献身、耐え忍ぶ姿を美しく消費することに、意識的に一歩立ち止まりたいと思う。宝塚であっても。
そういう前提を踏まえると、時代設定×場所×身分という三重苦の星逢一夜も、描き方によってはただただ受け入れがたい話と捉えていたはずなのに、設定だけ並べたてては伝わらない、言葉では集約できないなにかが見るたびに心のひだに入り込んでくる。初演は好きと言い切りがたいけれど、やっぱりとても大切で、再演は好き、かも、、、と口にしてしまうし、もちろん同じく大切な作品。


真面目に物語のことを考えると上記の通りで、源ちゃんの、ちいさいころの愛らしさ〜青年になってからの村一番のいい男ぶり〜さらに歳を重ねた守るべき妻子あるどっしり構えた男ぶりの、あたまから尾っぽまで食べられます感に胸を一突きされたということも書き添えておきたい。舞台を降りた姿の女性としての美貌をいやというほど知っている身として、こんなにある種理想の男を、幻のように舞台上につくって見せてしまう罪作りさを思った。公演期間が終わった今「もう、会えん」わけだもの。宝塚って、お芝居ってすごい。