TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

7/17 18 宝塚『星逢一夜』2

○紀之介について
みそっかすで育てられて、放り出されていたくせに兄がいなくなったとたんに代用品として都にのぼるよう命じられる。あなたの選択にお家の存続がかかっていることを忘れぬように、というきっぱりとした彼への母の言葉は、そうならない道をただ過たず選ぶようプレッシャーを与えているようにも見えるけれど、真実は今一度、村の子とはどうしたって違う道を歩んでいる、彼自身の立場を考えさせることにあるように思える。結局お城にあがるものの、兄の代わりという意識はどうしたって拭えないままのまったく乗り気でない紀之介は、初めて代用品ではなく、自分という人間に価値を見出してくれた吉宗のことを、厳しい上司というだけではなく、父のようにも慕うようになっていったのでは。
だから自分の都での地位というのもあるけれど、仕事というだけではない、重用してくれている大事な人を裏切ってまでして愛する人と駆け落ちするように結ばれることはできなかった、というのが7年後の祭りの晩の再開で、お泉の手を取れなかった大きな理由のひとつなのかなと、紀之介の頭の中での再現として吉宗が現れるあの場面を見ていると思います。
あいつがいちばんかわいそうじゃ、と源太にいう紀之介は、自分が寂しい分、人一倍他人の寂しさをくみ取れる子で、別れの晩にお星さまに自分の大好きな子が泣かないようお願いをする人で、そういう人が諦めようにも諦めがたいものを諦めなければならなかった、その決断の重み。
しかし食うものにも住む場所にも着るものにも困らない身分とはいえ、その身分に流されるようにしてしか生きられなかった、この物語の中で一番かわいそうな人だなと思います。幼いころの星見が身を立てるきっかけになったとはいえ、政に関わるようになってからは本物の星を見る時間すらなくなってしまう皮肉。いつも現状は、本当は私が選んだことではない、一番やりたいことではない、という思いもあったのかもしれない。30代になって、故郷の一揆の鎮圧を命じられ、帰ってきた紀之介が村人の一揆の様子を見ながら高みから呟く「これが私の選んだ道か」という言葉には、納得して道を選んだ人の覚悟というより、こんなことを望んではいなかったというただただ呆然としたものを感じました。それゆえ源太との一騎打ちも、決着後の策があったわけではなく、このまま全員を無駄死にをさせるよりは一旦頭同士で、というその場しのぎ的な判断に見えます。源太は決められたルールのもっと先を見ていた。自分が勝てるわけはないし、負ければ結局獄門で全員殺されることには変わりない。刀を持った二人が最後に背中合わせになったとき、にやり、と笑いあう様が、小さい頃遊んだかもしれないチャンバラごっこのときと同じ笑みに思えて、綺麗ごとかもしれないけれど、紀之介は源太に望みを託されたのだと、そういうふうに見えてしまいました。崩れ落ちた源太に駆け寄ったお泉は叫び声ひとつ漏らさず、この死の静かなあっけない描かれ方に、見るべきものは人の死そのものではなく、そこへの帰着の仕方や、それがきっかけとなって動き出すものにある、という物語の運び方を見ます。彼が死んだことが誰にどのようなインパクトを与えるかということ。
関連し、今後吉宗さまの期待に沿うように生きられないという罪によって、陸奥へ永蟄居を命じられた紀之介と、お泉の最後のやりとりでの、源太の死についての紀之介の表現が、観劇中どうしても気にかかりました。自分がその手で殺した人間を「死んだ」という言い方をつかうのはあまりに引いた目線かつ責任逃れでは、という見方について。もはや許しを目の前のお泉に言葉で請う段階ではないということ、じっくり話し合ったわけではないにせよ、源太とのやり取りの中での「自分の選んだことを最後までちゃんとやる」という約束のうちに含まれるものとして承諾済みの行為であったから、あるいは、彼を裁く立場として使命を全うした、そのことが正しい行いであったと捉えることが自分の責任と認識しているから(不要な行為であれば、源太の死は無駄になってしまう)なのかなという見方。単に、そうと知っているふたりの間で「殺した」という表現を用いるのが野暮で、お泉もわかっているという大前提で「死んだ」という表現を使ったのかな、とも。そうでなければ「(蟄居だけでは)足らぬな」と自分に向けられている刃をさらに近づけるような真似はしないと思うのですが。
しかし紀之介が兄の代わりとして都にあがることで免れたお家取り潰しを、結局自ら願い出てしまったという皮肉。お役目を降りたことについて、逃げ、という捉え方はできて、けれどお泉がいう通り、辛そうで苦しそうな彼をあのままにしておいたら、彼は壊れてしまったかもしれない。もう限界にきていたのかもしれない。また紀之介自身が、村の中心人物ともいえる源太を殺した自分を、村民らが殿様として今後敬うわけがないだろうと判断したこともあるのかなと。たったひとつの最後の願いすら叶えられず、愛する人と隔てられて、星も見えないような遠くに旅立たなくてはならない。ロミオとジュリエットのロミオになれない、それでも続いていく彼の人生の先行きを考えると息苦しくなります。

・お泉は源太を愛していたのか
紀之介がお泉にとって心の真ん中を占めるようになってから、彼女の心の中には紀之介と並び立つほどほかの男への気持ちが入る隙間はなかったように思います。愛情がないわけではないけれど、源太はあくまで幼馴染としての好き。元々親がいないお泉は、源太の母が祭りの晴れ着を作ってやるくらい(晴れ着は息子の嫁になる、という前提があったからかもしれないけれど)、家族のような付き合いを源太としていて、だから本物の家族になることもそんなに違和感がなく、男と女の愛や恋というよりも、最初から家族の愛にむかっていったのではないかなと。紀之介への愛の湿度の高さと、源太への夫婦としての穏やかな愛はまた別種というか。プラトニックな浮気なら許されるというわけじゃないけれど、わかりやすい意味での、男二人の間で揺れる女心のような、よくある三角関係として、この三人の関係性は描かれていないと思いました。祭りの夜の「あたしはあんたを幸せにするんよ」からもう、次の登場場面では三人の子どもがいる母になっているお泉なので、源太に男として惹かれているという場面が設けられていないのもありますが、なくてもそういう気持ちがあればみゆちゃんは表せるだろうし、そもそもはっきり設けていないこと自体が尺の問題というより久美子先生が確信的に描いていないという事実を表しているのだと。その方がより、お泉という娘の強情さ気の強さ、一筋縄ではいかなさが出るというか、逆にお泉という娘がそういう性格であることが、紀之介一筋であることの証拠というか。だからこそ、じゃあなぜ源太と夫婦になったのよ、というところに誰かひとりのせいというわけではない残酷さが出る。
「そんな星の見えないようなところにあんたを行かせん」というお泉の激しさ、じっとりぐあいは一観客として見つめる物語の一登場人物として震えるほど好みですが、そんな女を愛してしまった源太の人生とはなんだったのかということについても考えてしまう。お泉のそういう激しさは、紀之介と出会わなければ出てこなかった部分かもとも思います。結ばれる結ばれないは横に投げて、どこまでもただ好きが相手へ向かってのびていくような、その思いで相手をがんじがらめにしてしまうような強烈でやっかいな恋情。
そういう部分を知らない筈はない源太も、べつに聖人君子ではないので、彼なりに複雑な思いを抱えて、それでも彼女との間に三人も子をなしたのか……と思うと、あのおうちの壁になって30年くらい過ごしたくなります。