TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

7/17 18 宝塚『星逢一夜』(正しくは1点しんにょう)

初日、二日目と観劇してきました。
悲しいものだけではなく、美しいものを見ても人は涙がこぼれるんだなと、改めて思いました。美しいといっても遠くに置いて距離を保ったまま美しいと思うのじゃなく、掌に拾い上げてしげしげと眺めたくなる、いつか見た、ありふれているのにつややかな小石や、葉に溜まった朝露に思いをはせるような、そういう美しさです。

紀之介とお泉と源太とに流れた、彼らでなくてもひとの30年ほどを描くのに、宝塚の2本立ての芝居に与えられている約1時間半はとてもじゃないけど短く、それでも描かれているエピソードひとつひとつを空に置かれた星のひとつとして、地上から仰ぎ見たら自然と空白に線が浮かび上がってくるような作品とも思います。日本語が美しいのももちろん、言葉で線を引くからこそ明らかになる余白の部分、言葉より前に目は物事を語るけど、の部分それぞれに、自然に目がいくよう導かれていたと観終わった後に気づく箇所の多さ。役者のことも、観客のことも信用している方でなければ作れない誠実な戯曲、そして演出だと思いました。特別なことじゃないはずなのに、その要所を押さえて作品を作ることの難しさを考えるいま、久美子先生と同じ時代に、同じ言葉や文化を共有する人間として生きることができて幸せです。

例えば描かれないけれど大事な余白、7年間の間、紀之介を思い続けるお泉のそばにいた源太の気持ち。浮かび上がらせる線を引くための星は、邂逅した彼らに出くわしてしまった時の、お泉をじっと見つめる源太のもの言わぬ横顔、にこっと笑ってお泉の涙を袖で拭ってやるその仕草。宝塚で描かれがちな二番手格の男役の立ち位置ならば、お泉をめぐっての決闘が起こりかねないこの場面で、彼はお泉を紀之介に譲ると言います。それは男同士のホモソーシャルな絆を深めるための、女を授受する行為ではなくて、お泉が7年間紀之介だけをずっと思い続けてきたから、とあくまでお泉を思っての、そしてお泉が好きな紀之介を思ってのことに見えます。お泉の描かれ方からして、腹にずっと思いを溜め込んで、彼を好き、と源太に漏らすようなことはなかった筈。ということはお泉の思いを知る源太は、いったいどれだけ彼女のことを見つめてきて、どれだけ小さなことの積み重ねから燻り続ける思いを悟ってしまったのか。その思いを抱えて、彼はどれだけひとりで辛抱してきたのだろうと。ひとりで二人分辛抱する源太は想像に難くなく、それは多分、私が源太を演じる役者さんが好きで、という特別なことがなくても、考えれば誰でもたどり着く思いかと。そうやって、余計な台詞で書き込むことがなくとも、舞台上に滲み出てくるものに任せるやり方は放任という名前はふさわしくなく、役者や観客への信頼によるものと思いました。

すっきりとまとめられていない人物ごと所感

○お泉について
弟を世話して二人で生きてきた、健気なだけでない、芯の強いなんて綺麗な言葉でまとめられない、簡単にうんと首を縦に振らない強情さのある人。好きになった人を十数年も思い続ける、胸に凝ったものを持ち続ける情念の人。男二人の間に挟まれて揺れる恋心、なんてやわなかわいさは持ち合わせていない人。村のことなら「イノシシみたいによう知っとる」女の子から年齢を重ねてゆく、舞台上で息づく彼女の確かさ。
紀之介と出会って、彼のやさしさにふれて、張りつめた糸が切れたように泣き出すお泉に切なさを覚えつつ、それから泣いたり、笑ったり、紀之介や源太や皆と戯れ、奔放に表情を変えていただろう彼女が、紀之介を都へ送り出してからの7年の日々や、その傍にいつもいたであろう源太とのこと。
宝塚の娘役像として求められる、寄り添い型ではない。だって思い続けた相手へ押しやろうとする男の手を払って「あんたはあたしが幸せにする!」と、逆にその男の背中にしがみつく女だから。「いい子」じゃないけど嘘のない子。
幼いころも成長してからの晴れ着姿ももちろん、三人の子を源太との間になした後の、最初の登場場面での銀橋を渡るお泉の、若さや美貌だけが美しさを表すのではないと気付かせるような姿。桔梗を携えて、もう片手で雨除けの笠(細かい枝を紐で束ねて作ったような)を頭上に掲げて、沈んだ色味の着物で雨けぶるなかを歩く、その佇まい。確実に歳を重ねた女性のものとわかる、ぐっとおさえた声音。若い頃の晴れ着は、彼女の義母に娘用の晴れ着へと誂え替えられてしまうほどの年齢。
そんなお泉と、源太との、短くない年月を連れ添ってきた夫婦の連帯感、こなれてしっとりとした空気をはっきりと印象づけるような、一番好きな場面があります。外から戻った源太の草鞋の紐を解くのを手伝いながら、準備していた足湯へ足をつけるよう促すお泉の場面です。ふたりの短い会話から同じことを繰り返してきたであろう家族としての慣れ親しんだ日常、流れ出るものがズシンと腹にくる。「ごちそう用意できないけど、こいがごちそう」「うん、ごちそうさん
紀之介との最後の櫓の場面では、そんな風にしていとなんできた源太や子どもらとの生活を、投げ出してしまえそうなほど強い思いをしまって生きてきた、お泉の静かな激しさに、目の奥に燃える火に背筋がぞっとしました。道を誤った哀しい鬼は一揆を高みから見つめていた紀之介か、それともお泉なのか、というほど。
だからこそ、そんな張りつめた思いを持ってきたお泉が子どもらを捨て置けないのを見てとって口にする、紀之介の「源太の菩提を弔って、この村で幸せに暮らせ」という言葉には、それしかない、という道だとしても、男たちは皆お泉に背負わせて、どこかへ去ってゆくんじゃないかと、やりきれない腹立たしさもおぼえます。
だからお泉に勝手に思いを託して、勝手に泣いて気持ちよくなっては失礼だと思いつつも、子どもらに「おっかぁが泣いてる」と指摘されて「お星さまがあんまり綺麗だからよ」という声のたっぷりとした深さに、夜空を見上げる彼女のこれからを想像せずにはいられない。現実のままならなさをかみしめて、でもいまある全部がかなしみではないことや、振り返る過去のかけがえなさに助けられる日があること。ひっくるめての毎日を確かな足取りで生きてゆく彼女が、いつか源太の母ほどの年齢になる姿さえ浮かぶようで、それは戯曲や演出由来のものと、みゆちゃんの力量全部が合わさってのことと思います。

○源太について
優しくて、でも吹けば飛ぶような、流されるような優しさでなくて、どっしりと構えた優しさ。他の男を好きな、惚れた女を7年間見守り続けられる、そのことを自分の煮え切らなさからと周囲にからかわれても、本当のことは腹にため込めるだけの辛抱強さがある人。自分のプライドより守るべき大切な人やものの存在をよくよくわかっている人。口に出すべきことはどんなに言いづらいことでもきちんと口に出せる人。その上で相手の置かれている立場も慮ることができる人。
でも完璧な人間ではない。自然に小さいころから一緒にいたお泉が紀之介に惹かれていく。その事実が源太の心に小さなさざなみを立てていく様はきちんと描かれていて、彼という人間をただのいい人で終わらせなくしている。
見るべきものを見て、耳をそばだてて、判断材料をきちんと手に入れた上で行動をとる、そんな人が主導となって起こした一揆だからこそ、やりきれなさがある。そして泥をすすって這いつくばり続けるのではなく、上を見ろ、星をみろ、と教えたのはほかの誰でもない紀之介という運命の皮肉さ。
最後の決闘の源太からは、紀之介に勝てるとも、勝った上で自分たちの要求がのまれるとも、期待している空気は微塵も感じられません。それぞれの選ぶしかない道を進んだら、最悪の立場で再びまみえてしまった二人。自分が一切を引き受ければ、もしかすると紀之介がどうにかほかの村人の処遇を和らげてくれるかもしれないと源太は少しでも考えたのか。手加減するな、最後までちゃんとやれ、という源太の言葉は一揆直前の二人のやり取りの中での、情に流されるな、とあいまって、自分を今から殺すかもしれない相手にかけているとはとても思えない、厳しさと、思いやりにあふれていました。もはや自分たちの要求を紀之介がのまないことにではなく、のまずに、それでもやり遂げなければならないことがあるにも関わらず、目の前の情に流されて仕事を進める手が鈍っていることを指摘して、静かに腹を立てている。紀之介が投げた刀を太ももで挟んで抜いて、布で手にぐるぐる巻きに巻きつけてなんとか立って構える、そのなりふり構わなさから伝わる事態ののっぴきならなさ、彼の思いのまっすぐな切実さ。
幼少期の源太のかわいさ素直さにも心惹かれつつ、「言おうか言うまい あの子が好き」と祭りの晩に歌う、たくましく成長した源太の村の男衆ぶりにも頼もしさ包容力を感じつつ、やはり歳を重ねた最後の、30代の源太のあたたかさに一番弱いです…

誰にとってのどの正しさを優先するかという話で、ひとりの人が抱える正しさがひとつなら、たぶん誰も迷いはしないのかなと思います。お泉はあの村に生きる妻や母としての道、紀之介を思う女としての道、紀之介はお泉や自分の村を思う道、吉宗の家臣として生きる道、それぞれ二本伸びていて、それらは交わることがないからひとりの人間に抱えるには苦しすぎて、惑う。源太はお泉への気持ちを抱えても、あくまで村に生きる村人としての自分の基盤は揺らがないから、基本線はひとつで、お泉や紀之介とはまた別の悩み方なのかなと。

宿題
・紀之介について
・舞台での登場人物の立ち位置と伏線