TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

6/11『エリザベート』を観て

2011年の東宝版ロミジュリ初演以来、小池先生(の演出)に翻弄されている身です、とはじめたら身の上相談のようになってしまった。

2012年で岡田さんのフランツに落ちた東宝版、マイ初見エリザでは、この作品をハプスブルク家の物語と思い、トートを基本的に家庭崩壊を促す邪魔者扱いしていました。2014年で望海さんのルキーニと出会った宝塚版では、タイトルロールであるエリザベートでなくトートを主役に据える演出とあまり水が合わず、そもそもエリザベートの自我の目覚めを通じて描くべきこの物語の核となるものと、男役至上主義の(そうでなかった時代があることも知りつつ)いまの宝塚ってまったくもって相性が悪いのでは?と東宝版と演出家が同じであることのわけのわからなさに愕然としました。そしてどちらの演出でも根本的なところでトートという役にそこまで惹かれず、トートっていったいどういう存在なのよ?と思っていたところに、ごひいきにすべりこんだ芳雄さんがトートとして登場なさるエリザベート上演(イマココ)という状況です。

新演出プレビュー初日を観劇して、やはりフランツやルキーニの彼ら彼女らに感じたほどにはトートという役に衝撃的な魅力を感じず、けれどひとつの役ではなく新演出の物語運びの新しさとして、今回のルドルフとシシィの死の演出は物凄い衝撃でした。ルドルフに、シシィに「キス」される受動的なトート、言い換えれば能動的に死を掴みにいくルドルフとシシィ。冷静に考えると大きな物語の中の動きとしては些細な変更で、なぜ可能性を考えていなかったのかと言われると受け手としての自分の想像力の貧困さを悔やむところなのかもしれません。トートはシシィのうつし鏡だから、トート側から仕掛けたことでもそれは彼女が望んだことと思っていたのもあるような。
それでも改めてトートという存在について考える上で(別にトート論者になりたくてみているわけではないけれど)、選ぶ側の死ではなく、選び取られる側としての死である、とラストシーンが明確に示しているのであれば、シシィやルドルフを誘惑する場面や、彼が能動的にふるまっているように見える場面すべてが、やはり彼女ら彼らが望むがゆえにそう「見えている」だけなのかもしれないなとすら思うわけで。特にシシィが「私だけに」と歌う意味が、その意志が一本通って成し遂げられていてわかりやすいなと。

まあトートの後頭部を片手でむんずと掴んで唇を貪りにいくルドルフなんて構図が見られると思っていなかったので、正直目に飛び込んできたもののセンセーショナルさに唖然として一瞬思考が停止したのですが(そのあとトートからも後頭部に手が回り、一度顔が離れた後、再度おでこか鼻がくっつきそうなほど顔を寄せる、という。目の中をのぞき込んで意思を確認していたのか)、遅れて、イコールルドルフの死への渇望なのかと思ったら、別の意味で眩暈がしました。最後のダンスや私が踊る時や、煽って煽っての様子は能動的に見えるけど、最後の最期で自分の手の中に落ちてくるのを待つ、受動的なトート。受動的というと静かにただそこにたゆたっていたようなゆうさまトートを思い出すけれど、あの泰然自若ぶりとはまた違った静と動の割合が面白いなと思います。これが芳雄さん独自なのか新演出のトートがそうなのかは、城田くんのをまだ見ていないのでわからないのですが。
という部分が多分にありつつ個々のキャスト感想を。手持ちチケットを見返したら全部花芳育香で当時の自分を殴りたい(ルドルフは両方見られる)。

○花總シシィ
少女時代の冗談のような何も知らない子どもの可愛さから、老年のどんどん内にこもっていくシシィまでのシームレスさ。東宝版のフランツとの描き方がとても好きなので「まちがいでしょ」「君がいい」「姉さんはおしとやかよ」のくだりを約3年(!)ぶりに見ることができた嬉しさに叫びたくなる。でも振付の違いなのか、おはなさま独自なのか「ささやかな幸せもつかめない」「私がつかめる」をフランツの方を向かずに、正面を向いて溢れる笑みと共に口にしていて、彼女の得たい幸せとは彼女だけの幸せなのか?と二人の視線のずれをその場面から既に感じました。
そして「あなたは私を見殺しにするのね」の震える声音からの「私だけに」を経て、鏡の間で登場時の顔つきの変わりようといったら。それまでの少女然としていたところが一変、毅然とした近寄りがたさを放つシシィへの変貌ぶりに目を見張りました。そこからの快進撃というか、シシィの勢いがある時代のおはなさまもとても好きで、「勝ったのね」の勝ち誇った表情からしてたまらない「私が踊る時」の「人形のように踊らされた私が自分の道を見つけた」というフレーズは、元娘役さんが歌うからこそ伴う重みと、ぴたりとはまる気持ちよさ(とんでもない皮肉と共に)もあるのだなと。階段を降りるシシィが、下で跪いて手を差し伸べて待つトートを軽やかにやり過ごしてしまう、その構図にもたまらなさをおぼえます。
宝塚版のように一度抗ってからトートの姿が目に入って、ではなく、静かに静かに、刺されたことにも気づかなかったように倒れるルキーニとの一瞬のやり取りからの、ラストシーンの自分からトートの首にかじりつくようにしてキスをする、彼女のやり方によって訪れるカタルシスといったら。選ばれる人ではなくて、彼女はいつだって選びとる人だった。
彼女のシシィの振る舞いを見ていて「わたしはわたしの王女様である そしてその民である」という大島弓子の漫画のフレーズがふと浮かびました。春野シシィにも永遠の少女性を感じたけれど、またそれとは違うなにか。「この女正気のふりをしている」というフレーズもなぜだか響いた回。

○芳雄トート
基本的に人間の芳雄さん(ex.多喜二さん、ヴォルフ、カートンさん)が揺らいで揺らいで揺らぎまくるところが好きなので、トートさんの動じなさ余裕綽々っぷりが腹立たしく思えるところ多々、なのですが、トートという存在の、芳雄さんという役者の新たな魅力開拓のターンとしてじっくり四方八方から拝見したい気持ち。
視覚的にはおはなさまシシィの腰を軽々片手をまわして引き寄せられる体格差や、好戦的な振る舞いにときめかなくもないのですが。何を考えているかわからない人に興味を持てないってあまりに共感主義すぎやしないか自分、とトート閣下の魅力発見の旅よと腰を据えつつ。しかし改めてトート名物「二人で踊った婚礼の夜を覚えているか」(自信満々の笑み)に、君は迷惑げな彼女をただ振り回してただけだろうがーと、ひとりよがりなあんちくしょうぶりに反抗したくはなりました。芳雄トートのドヤが極まっていたものだから…。どちらかという一方的な1幕より、2幕の私を踊る時からの、力関係が拮抗しだしたシシィとのやりとりがたまらない。跳ね除けられてもごきげんななめというより、そうだそれでこそだ、というような笑みを浮かべている謎の余裕。SWANの真澄がオディールの解釈を、王子の欲望が高まると共に大胆になっていく、心のうつし鏡としていたのを思い出すような。その結実の場面がルドルフの死でありシシィの死なのか。最初ルドルフの場面では唇を奪われたトートが、初めは唐突さに驚いた後、焦るなよ、とルドルフの瞳をのぞき込んでいるような流れにも思えて、いろんな意味でおののいたのですが。でも彼は口をあけて待ち構えていたのかもしれない(こちらは比喩)。
また、ヴォルフのときから芳雄さんは手つきがセクシーだなと思っていたので、シシィの肌に触れる寸前まで近づけた手を撫でるように動かしたり、ドクトルゼーブルガーさんがシシィのタイを、コルセットを外してゆく指先に色気を感じました。新演出ではシシィと接近する場面が増えているようなので特にその機会が多いのかも。でもふれあっている場面だけではなく、愛と死の輪舞曲の座り込んでいるシシィと立ったままのトートの視線がすっとかち合う構図に、少女漫画的なたまらなさを感じたりもしました。
最後通告の「ゆこうよ二人で」のトートが机にシシィを押し倒していく流れでは、あなたはシシィをどこにつれてゆくんだよとつっこみつつ。

○育ルキーニ
いっくんにふわふわきらきら王子様ばっかりやらせてたのは誰だ!(A.小池先生)キャスト発表時に一番エッ!?となったのは正直いっくんで、スチールもおめめきらきらの望海さんより宝塚ルキーニになってしまうんじゃ…?と思っていたのですが、蓋をあけたらいっくんのチャラ成分にイタリア男と掛けまして、というようなとてもとても魅力的なルキーニさんでした。直近に見た人とどうしても比べてしまうのはご容赦いただくとして、望海さんのルキーニなんであんなにおっさんだったのというくらい年齢相応の育ルキーニ。ルキーニって別におじさんじゃなかったらしい。ミルクで民衆に一滴も残ってねえんだ、とのうのうと言ってのけて彼らを扇動した後、シシィの女官のミルク入れに缶のたっぷりの残りを流し込むことに良心の呵責がいっさいなさそうな、からりとしたしたたかさ。いい意味での男としてのいやらしさと色気。いっくんの解放ぶりいきいきっぷりに、見てる側もこれは演者としてやったら楽しい役だなというのが伝わってくる。
マデレーネの貞操帯の鍵開けたりかけたり場面ではここまでするか!と思いつつ、あの場面やルキーニというひとの毒々しさを堪能しました。直前の、マデレーネの股の間を潜って寝そべった背中をヒールで踏まれる構図も見ていていっそすがすがしい様式美。トート閣下とも閣下ってのは洒落だなと思わせるような対等感。ヤスリを受け取るところの、トートに歩み寄るルキーニの足取り、鼻歌でも歌っていそうな後ろ姿はトートを敬う気持ちのなさか、はたまた動作への慣れを表しているのか。どちらにせよ堂々たるものを感じました。

○田代フランツ
万里生くんは舞台上でのふとした場面で現れる男性性が顕著なひとだなといつも思っているのですが、今回も若いころの場面「皇后の義務果たさなくては〜」のあたりでそれを強く感じました。岡田さんか禅さんタイプでいったら禅さんよりのフランツに思える。
「幸せになりましょう 二人で馬に乗り」のくだりを微笑みながら見ているフランツは、子どもじみた夢でかわいいな、と叶えられないことを知りつつ彼女も本気ではないだろうと思っていそうな顔で、だから「自由に生きてゆくのよ」まで口にした彼女に、一抹の本気さ危うさを感じ取って、あの強い声音での「シシィ、いやエリザベート!」だったのかなと思うような流れ。
これで宝塚版の最終答弁がくっついてきたら自分の所有物としての彼女への愛なのかなあと思ってしまっていたかもしれないのですが、今回悪夢で、舞台装置上にいるシシィを殺しに階段を上るルキーニに明確に追いすがって止めようとするフランツ、という動きが加えられているので、死してなお彼女への愛に動かされているフランツ、というふうに見えなくもなくて、やはり彼もきちんとシシィを愛していたのかなと思う。
(ここの動きを誰かでもみたかったなと思ってしまう。そして東宝版のフランツのストレスなさに、改めて番手制度やフィナーレの時間の関係で削られた宝塚版フランツの出番を想う)

○香寿ゾフィー
お顔を凝視して気づくまで、続投の方だっけ…?と思ってしまうくらい、200年前からゾフィーやってましたふうのタータンさんでした。「強く厳しく」を人の形に固めたらこうなりそう。
それでもラストの死にゆく直前のあの歌があるので、そのフランツへのしつけの裏に込められていたものの意味が分かる。彼女をして「あなたの国は滅びてしまう」といわしめているその状況の、彼らの足元の危うさにはっとする。そういう要のようなひと。

○古川ルドルフ
ママ鏡でシシィに縋り付く場面や、自分からかぶりつくようなトートへの死のキスの場面で、溢れる激情に身を任せるひとぶりが増している。ゆうたくん続投は本当にうれしいのだけれど、前回は春野シシィや岡田フランツとの関係性から彼という像を結んでいたので、一回きりでしっかりとは見られなかったかも。


不幸の始まりの、中央にいるシシィの四方を上から垂らした2本と横にわたらせた2本のヴェールで取り囲んで、照明の色が赤く照らしたり白くなったり、その周りにいる参列者が彼女を取り囲む、という構図がとても好きです。