TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

8/22、23 花組『エリザベート』



2012年に岡田さんのフランツという役と出会った特別な作品、エリザベートを今度は宝塚で、そして特にひいきとしている組で観ることになるとはまたなんというめぐりあわせだろう、と演目発表時に目を見開いた公演の初日、二日目と観てきました。

役者さん個々、それぞれの発するエネルギー量的にもんの凄いものを見た……!という気持ちと、エリザベートという作品単位の筋の通りという意味で宝塚版もよく飲み込めないし、東宝版のこともたいしてわかってないことに改めて気づいてしまったもやもやとで半々で、現在消化不良を起こしながらも、いったいどうしたら読み解くことができるのだろうこの物語、と首をひねるのがもはやおもしろくなってきているような、そんな段階です。
2012年東宝エリザでフランツびいきだった人間にとって、この話は「幸せ家族計画が死神により大破綻」(曲解)くらいのどうしようもなくカタルシスのない話で「愛や死だの夢物語はよせ!」ってこっちが叫びたいほどなのに、宝塚版はそもそもに、フランツとシシィのあなたがそばにいれば筆頭にゴリゴリ削られている。ルドルフとフランツのやりとりの際の台詞の微妙な違い、けれど大きなニュアンスの差異に驚き、ゾフィーの「義務を忘れたものは滅びてしまうのですよ!」からの最期の歌がすっぽり抜けていることに肩を落として(一花様のあれが聴きたかったのです)ようやく、東宝版よりもハプスブルク家のひとびとの関係性の描かれ方が希薄になっていることに気づく。これはシシィとトートの物語なんだなあと思う。
歌い出しがシシィだったところが全部トートかフランツになっているところ(嵐も怖くない、私が踊るとき、夜のボート等)に男役優位社会を見たり、冒頭から演出の違いを思い知らされたり、それでも日本初演はこちらなのだということを改めて思い返し、主軸に据える人物、関係性、宝塚的なきらびやかな物語に仕立て上げるための小池先生の場面の取捨選択、大鉈のふるいようにため息をつきました。それがいや、という意味ではなく見事な手腕への感嘆。

死という概念、シシィの望みの写し鏡のようなトート、という設定に拘るならば承服しがたいまとめ方なのかもしれないけれど、逆にシシィとトートの大恋愛ものです!と押し通すならそれはそれで筋が通る描き方なのか、とぐるぐると考えていた時に見つけた、ひっかかりの大きな一つ。
「語っておくれ」とルキーニが裁判官殿の前ではじめた劇中劇の筈なのに、途中でシシィを刺殺した彼はフェードアウトしてしまうところ、光の中から現れたトートとシシィが結ばれるお花畑シーンになってしまうところ。語り手が語っている現在軸でぐるりとくるんでエンドマークをつけるのなら、最後にお辞儀をして幕を閉じるのはルキーニでなければ。彼が放棄しては舞台は宙ぶらりんになってしまう。
けれどルキーニがシシィを刺す再現をあすこでした時点で、トートにアドバンテージが渡ったのなら、演出家がバトンタッチしてしまったというのならまだわかる。指揮棒はむしろシシィに?とくるりと中と外が入れ替わってしまったような奇妙な感覚をこちらは味わうわけだけど。
あるいは最初っからすべてを掌握していたトートの盛大な茶番だったのか、ルキーニ演出の再現ドラマに出演してくださる意外と付き合いのよいトート閣下、というのはポーズだったのか。

全部つなぎ合わせて星座にする能力がこちらにないのかそもそも全部つなげるとしっちゃかめっちゃかになるのかわからないけど、10のうちの3つや4をつかって勝手に筋道立ってるような話を考える。小池先生しかしらないような解釈をぐるぐると。こんなに考えても何の意味も持たせてないかもしれないけれど、でも意味があるって信じてこねくり回した方が絶対に楽しい。とても情報量の多い作品であることは確かで、それは考えることがたくさんあるということで、2012年に一度脱したあの渦にまたぐるりと取り囲まれてしまった気持ちです。

死後の世界という、生きている人間には、まじで??やっぱりあるの??くらいのふんわり世界に存在するらしい裁判官殿にすら「闇の帝王トート閣下またの名を死」という存在は、んなのあるわけねーだろこいつ頭がおかしくなったのか、みたいに扱われるのだなって設定のおもしろさに改めて目をむけたのは、今回この演目に出演するひいきがルキーニを演じていらっしゃるからだと思います。

人間として地に足つけて悩み苦しむ役が好きで、舞台の上では好きな人にはとことん苦しんでほしくて、2012東宝からこの作品を知った身として、できることならば好きな人にはフランツを演じてほしいという思いが強くありました。この業界のそれぞれの役がまとうジンクスは知りつつも、それでもよけいなしがらみ関係なしに、フランツを見てみたいなあと思っていたのと、ルキーニという役について、前回のブロンソンさんと同系統の一本キレてしまったひとだ、という認識だったので、勝手に想像がついてしまったような気持ちで初日を迎えたのですが、幕が上がって上手端から現れた「彼」がく、と正面を向き、しゃべりだした途端、なんて浅い想像しかできていなかったのだろう私は、と天を仰ぎ見るはめになりました。

舞台メイクがどうのこうのという話ではもちろんなく、なぜルキーニとして現れた瞬間から徹頭徹尾ギラギラした下卑たおじさんになれるのか。なにも抱えていないわけではなく、けれどブロンソンさんのようなわかりやすい鬱屈はなく、心の余裕があるように見えるのは生来のものか、もう死んで100年近く(シシィ暗殺から100年だから、ルキーニの自殺から100年ではない)経っているからか、じぶんが筋書きを知っている舞台の導き手だからか、全部かはたまた。
もっとうつくしい感じに、ひげつけててもより宝塚ぽくきれいにやる道もあったのではないかなあと思うのだけれど、望海さんのルキーニはやたらとおじさんに見える。いやらしいおじさん。ここでのいやらしいというのは、よからぬこと(性にかかわること以外も)をはたらいても、悪びれなさそうなしたたかさがある、という意味をさします。ひょうひょうと、軽やかだけれど泥臭い。血が通っている。
裁判官殿に再現ドラマを結末まで見せるため、筋書き通りの進行を亡霊たちに指示して、そのなかでやるべき役割を自ら演じているはずなのに、自分の気の向くままに動いているように、基本的にすべての場面において楽しそうで見ているほうも楽しい。亡霊たちはあんなに苦しそうなのに。くたびれた帽子を振り回して変な節つけてぴょんぴょん歩くバートイシュルの一場面や、頭にかぶって片手で押さえたり、とって帽子でぱたぱたあおいだりするところがさいこうにおじさんくさくてとても好きです。
性にかかわること以外も、と記しましたが、宝塚版が東宝版より直接的な演出をしているなと思う唯一の箇所、マダム・ヴォルフのコレクション(食堂にデリバリーってあなた)にて、がりんちゃんのマダムヴォルフから大きな音を立てたキスを受け、後ろにそらされた首を戻した後の、こんなの慣れっこだけど据え膳的に、まあ受け取っとくぜあんがとよと言わんばかりの、あぶらぎったちょうぜつゲスい顔もぐっときました。マダム・ヴォルフの脚を撫でる箇所とあわせ、ここは回を増すごとにエスカレートしていくと信じている。求めているものがすみれコードに抵触しているのは存じておりますが、なまなましいのは好きだけど、汚いのを求めているわけではない、というこの伝わりづらさ。いいように受け取っているのだという自覚はありつつ、私はこのルキーニのギリギリ感がとても好き。

また、品性の卑しさが出ている感じの笑い方がすごく好きというこちらの人間性を疑われるような感想を抱きつつ、旅を続けて憔悴しているシシィにいきなりフラッシュ浴びせるシーンが東宝版のときからすごく好きで、宝塚版でも好きでした。泣きっ面に蜂というか、血も涙もない描き方をしながら、あくまで一場面としてさらりと流れていくところに肌が粟立つ感覚が、なんでかいやではない。
ナイフ(というかやすりのはずだけれど)を渡されたときの頬ずりする勢いのよろこびようと恍惚とした表情をみると、ルキーニもまた「死」に魅入られた人だったのかなあと思うけど、再現している彼はシシィのことを隣人のように見守って(?)いたように見えても、生前は新聞記事等々で漏れ聞くしかなかったわけで、このエリザベートという作品の中でルキーニがシシィを刺殺したのは現実と、舞台の流れのなか一度ずつの計二度なのか、後者はいままでも何度となく繰り返されてきたのか、そのたびにつき合わされてきたのかもしれない亡霊たちにはどこまで意思があるのか、再現は単にルキーニの無実(ではないけれど)を証明するため、という意味以外にも彼にとって意味があることではなかったのでは、等々、そういうことも改めて気になってきます。

何か事件が起こると普通の人とはかけ離れた点を犯人に見出して、私たちとは違う種類の人間なんだ、って安心するのが人間の心理であるように思うので、いままで話が通じてた相手がいきなり凶行に及んで、理由が全くわからないのはとても怖い。ゆえに、ルキーニはとても怖いひとだ、とぞっとすることもあるなと思いながら、ひとまずペンを置きます。




言葉に残せていないことだらけで、だから消化不良を起こしているんだ!