TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

9/2 ミュージカル『シェルブールの雨傘』


シェルブールの雨傘』を見てきました。

背景のぼわぼわした輪郭ややさしい色づかい、しとしとと銀色の雨がいつも降り注いでいるところ、暗転時に時折流れる郷愁をそそるオルゴールのようなメインテーマの音色、舞台上にいくつも置かれたくるりと回るまあるいそれぞれの舞台セットの部屋の、内装のチープな可愛さも、子ども部屋のペンキのはげかけた木製のおもちゃか、文字が薄れた絵本、はたまた移動遊園地のようなおとぎ話が語られそうな空間なのに、できすぎているくらい身近な、隣人のこととしか思えない話でした。

原作映画は未見であるものの、あらすじを知ったときは、フランス映画の代名詞のような、出会って愛し合って別れる恋人たちのよくある、よくあるからこそ無味無臭と感じる、自分とは縁遠い話だと思っていたのに。生身のひとが目の前で演じることの意味や演出効果が多分に作用しているのだと思います。もしかしたら街のどこかですれ違っている、隣人かもしれないひとたちの人生の一番濃い数年を2時間少しにさらに濃縮して垣間見る、というより並走してしまった気持ちで観劇後はどっと疲れてしまいました。遠くから想像する、ではなくて、もっと体当り的に、自分の意志と関係なく舞台の上の人の気持ちに心が近づこうとしているような体感で、いまでも作品との上手な距離がつかめていないのかもしれない。

傘屋の娘ジュヌヴィエーヴと自動車整備士のギィが出会い、恋人同士として愛し合いながらも戦争によって引き裂かれてしまう一幕。ふたりの意に沿うものではなかった別れは、ジュヌヴィエーヴの妊娠の発覚、そして彼女が宝石商カサールからの求婚を受け入れたことにより、決定的なものになってしまう。帰ってきたギィは事実を知り自暴自棄になるものの、マドレーヌの支えにより立ち直り、ふたりもまた結婚することに。それぞれの人生を歩みだしたジュヌヴィエーヴとギィが数年後、ほんの束の間邂逅するラストを迎える二幕。

さらりと説明しようと思えば簡単にできてしまうありふれた物語、ギィとジュヌヴィエーヴの関係も、シェルブールの街ではまったく特異なものではない、ということをあらわすかのように、ふたりの逢瀬や、それぞれの家族の会話の合間合間に舞台上を歌い踊り横切っていく、アンサンブルさんら演じる仲睦まじい恋人たち。彼らの存在が、ギィとジュヌヴィエーヴもまた、彼らと同様にごく普通の恋人たちのうちの一組であることに気づかせ、また同時に彼らの総意、代表者なのかとも思わせる。

一幕半ば過ぎまでは、ほんの短い時間をやりくりしては逢瀬を重ねる、その熱にあてられるほどの仲睦まじさを見せつけるふたり。オペラ鑑賞後ダンスホールで身を寄せて踊ったり、唐突に子どもがほしいと言い出したり、いぬねこのようにじゃれあい、おでこをくっつけ笑いあうふたり。砂糖菓子みたいなあまたるい光景は、胸焼けしそうです後生ですからもっとください、ととなえたくなるくらいかわいい。

芳雄さんのギィは、二十歳の青年らしく、おばさんにめいっぱい愛情を注いでもらって育った甘ったれで、だからこそ自分の身に受けたものを、自分の目の前の大事だと思う人にきちんと注げる愛情深さを備えていることが端々から伝わってくる。もともと彼が他作品でも見せる、愛情深いしぐさや表情に心底弱く、最初に小さく呻いたのは、おばさんの頭を抱え込むみたいに抱きしめるところでした。髪の毛が乱れるから、とたしなめられて、椅子に座るおばさんに向き合うよう屈んで、丁寧にウェーブを直してあげる指先のやさしさ。もちろんすみ花ちゃんのジュヌヴィエーヴ相手の掌や甲を食べるようなキスも、ベンチでの抱え上げてのくちづけも、頬を愛おしげに撫でるしぐさも、花束を買うとき、手渡す時のそわそわとした様子にも心をぎゅうぎゅうとしぼられたけれど。

対するすみ花ちゃんのジュヌヴィエーヴは、登場した瞬間のウェーブがかった背の中ほどまであるブロンドや、時代に即したクラシカルなワンピースの似合いように息をのみつつ、かわいらしいのはその見た目だけではないことにもため息を。母親への犯行の仕方や、十代の半ばの少女らしい、目の前のものへの好き! の気持ちだけでどんどん走っていって、顧みるのを疎かにしてしまうところ、同じく母親から注がれたたっぷりの愛情をかわいらしくギィに向けるところ。すみ花ちゃんのジュヌヴィエーヴが、下唇をんーっと突き出して泣くのをこらえるようにする表情がほんとうに、十代半ばの子どもみたいにかわいくて、そんなこと甘ったれの明るい青年ギィとの、ままごとめいた恋愛のかわいさと同時に、ふたりの前戯めいたスキンシップ、ちょっとした肌のふれあいから体温が伝わってくるようななまなましさとが共存することにも、関係性への現実味をおぼえていたのだろうなと。

一幕終わりのふたりの、別れを嘆くデュエットへの影コーラスがいっそう、彼らがシェルブール駅で同じく別れた幾組もの恋人たちのうちの一組に過ぎないことを示しているようで、けれど彼らはそんな考えは思い浮かびもしていないかのように、過去も未来もないいまを噛みしめるように抱き合い、口づけあっている姿が濃く焼き付きました。招集命令が出たと告げるギィに子猫のようにしがみついてだだをこねていたジュヌヴィエーヴは、別れの瞬間までその顔を刻み付けておくためか、彼だけをひたすらに見つめている。みつめないで、と別れのつらさにジュヌヴィエーヴの顔を見ぬまま肩口に押し付けるように抱きしめるギィが、旅立つ前に自分の着ていたコートもマフラーも、全部彼女に与えて、ありったけの残り香に置いてゆくところ。この別れがどういう意味をもたらすか、気づいていないふたり。

一幕の仲睦まじさがあるからこそ、引き立つ二幕の無常さとはいっても、戦争から帰ってきたギィに落された影の濃さの際立ちようは一幕の彼とは別人に見えるほどで、目を見張りました。話の本筋とはそれると知りつつ、彼の人生に倦んでしまった感、やさぐれた佇まいから色気がだだ漏れているようで、ものすごくあてられた気持ちに。こんなすれっからし、みたいな振る舞いが様になる人だっただろうか、ルドルフで煙草を吸うところはお坊ちゃんが悪ぶっている感じにとどまってはいなかったかと混乱しつつも、制作発表で芳雄さんがおっしゃっていた、初演から経た歳月のなかで得たものを戦争から帰ってきてからの後半に、というお言葉を思い出し……。煙草の火をねだる娼婦との絡みや、マドレーヌの首に顔をうずめるようにして、自分を独りにしないでと懇願するギィからは、情けなさと同時に彼をとても捨て置いてゆけないような、ひとを惹きつける色っぽさをひしひしと感じました。壁の端にギィが寄りかかるところ、頭身バランスと横顔の美しさが宝塚の男役さんのように思えたり。

少し時間軸を戻し、衝撃という意味で一番胸に迫った曲は、脚を撃たれた直後のギィが歌うメインテーマです。歌というよりも慟哭のような。脚を引きずりながらも、ただ彼女への愛のために生きて帰りたい、再び彼女とまみえたい、という彼の魂の叫びがダイレクトに響いてきて胸が押しつぶされそうになるほどで、だからこそ、なぜあんなにも心の支えにしていたものをひとはあきらめてしまえるのだろうと、そうでなければ長い道のりを歩んでいけないのを知りつつ、またよるべなくもなるラストまでの流れなのですが。戦場で地を這う彼の背後では、美しい花嫁となってカサールの隣に立つジュヌヴィエーヴの姿が、というこれまた恐ろしい皮肉な対比。

そんな、置いてゆく側だったはずが置いてゆかれていたことを知ったときのギィの気持ちに心を寄せすぎて、観劇後も幾度も鬱屈とした気持ちの波が押し寄せてはいるものの、自分もジュヌヴィエーヴの立場であれば不安でそばにいるひとの手を取るだろうと思うので、安易に彼女を責めたてることもできない。そうすることでカタルシスを得てもむなしいばかりだと、この作品については思います。たった二年弱待てなかったのか、とみている側が一瞬思ったとしても、いついつまでに戻る、という期日は確約されていなかったわけで、待っている側の年若い女の子にそのいつまで続くかわからぬ心細い期間を独りで耐え忍べと、誰が強要できるだろう。妊娠という状況も心細さをあおる、ひとつの要因となっていたなら皮肉だなと。カサールがマリアのよう、と称した赤いドレスを着て、紙の黄金の冠をいただいたジュヌヴィエーヴが祈る構図が、絵画のような美しさを思わせたとしても、彼女はまだ頼りない、十代半ばの女の子にしか過ぎない。
重ねて、だからこそ、ギィが自暴自棄から立ち直るきっかけとなった、彼のことをずっと見ていたマドレーヌと一緒になることも、誰に批難する権利があろうかと思う。思いつつも、ギィがすずらんの花束を手渡した後、マドレーヌの頬を愛おしげにくすぐってから、むき出しのノースリーブの二の腕をするする撫でて掌に向かう愛情表現の自然さが心底憎く感じるのはそこに一幕のジュヌヴィエーヴへの愛撫を思い出してしまうからに他ならない。
シェルブール駅での別れの時、ジュヌヴィエーヴの肩にコートをかけたギィの手は、数年後息子フランソワのコートのボタンを留める。彼の愛情の湧き出る箇所や道筋は多分どのときも同じで、だから、それぞれの振る舞いがすべて繋がってしまうのは仕様がないこと。

ジュヌヴィエーヴがカサールと結婚し別の街へ旅立った数年後のシェルブールで、マドレーヌと一緒になったギィはガソリンスタンドを経営している。フランソワーズを産んだジュヌヴィエーヴとフランソワをもうけたギィが再開したとき、ふたりの時がぐるぐると音を立てて巻き戻ると同時に、決して戻らない、ふたりの間に横たわった乗り越えられない大きなものの存在にも気づく。彼らがもう幾年も前に道を別たれた事実を改めて突き付けられて、途方もない気持ちになる場面。
それまでジュヌヴィエーヴは流されるままに一本の道を進んで、選ばなかった片方は彼女の記憶の中でおぼろげになっていただろうに(それは処世術でもあって)、ギィが目の前に現れた瞬間、ぼやけていたはずの輪郭が急にくっきりと浮かび上がってくる。思い知らされてしまう、あのとき自分が選び取らなかった道の先に存在していた未来も確かにあったことを。最初から忘れたかったわけではない、それでも諦めざるを得なかった、かつて身も世もなく慕った相手が幻のように現れると同時に、もう永久に彼の愛を手に入れられない自分を再度突き付けられる。ギィはジュヌヴィエーヴを諦めてからマドレーヌとの結婚を選択したから、また少し意識は違ったとしてもそれでも、もう二度と会えるはずがないひとの亡霊を見たような気持ちになったかもしれない。
ガソリンスタンドや、子どもの名前、ふたりで話し合っていた夢が互いの存在なしに、別々の相手と叶えられてしまった現状、そうしたひとつひとつの要素が、互いのいないぽっかりと空いた穴を黒々と見せつける。
けれど、おさまるところにおさまるしかない、という状況であったとしても、マドレーヌはジュヌヴィエーヴの代替ではない、万が一始まりはそうだったとしても、ガソリンスタンドでジュヌヴィエーヴと再開するまでの歳月で、マドレーヌとの間に培い、積み重ねたものの間に、もはやジュヌヴィエーヴは割り込めないだろう。彼はフランソワーズに会おうとはしなかった。あのほんの少しのやりとりから、ふたりの間に降り積もった時間が見えるようで。ではジュヌヴィエーヴとカサールの間に培ったものは、というところは想像をめぐらすほかないのだけれど。
ギィとジュヌヴィエーヴふたりとも、どれだけの感傷の波に襲われたかはわからずとも、出会ったふたりの交差した視線からなんらかの気持ちが通い合ったのは、確かだと思います。

ガソリンスタンドから立ち去る前のジュヌヴィエーヴが振り返った一瞬の表情はギィの胸に焼き付くのか、それとも雪が溶けるのと一緒に消えてしまうのか。ほんのひと時ながら、一瞬にしてひと一人を取り巻く世界を変容させるような劇的な出来事の後、それすらも飲み込むように降りしきる雪。くすんだ色の郷愁をそそるセットがあいまって、スノードームめいた世界の内側で、ギィの日常は続いている。彼が息子フランソワの相手をするなんでもない様子に知る、彼の日々の生活風景にか、それとももっと別のものが要因なのか、幕がおりた後もなぜだか嗚咽が止まらず、しばらくは拍手もままならぬ状況でした。
涙の量で感情の振れ幅をはかるのは不得手なたちですが、どうにも泣けて仕方がなかったのは、取り返しがつかないものを喪ったウロを抱えながらでもなんとかやりくりして、あるいは取り返しがつくことを自ずと知って、人は生きていけてしまうんだというところに、力づけられるよりも、底抜けのさみしさを感じてしまったからかもしれません。
好きな相手と心中する、ロミオとジュリエットにはなれなかったふたり。圧倒的多数派のひとたち。
劇的なただ一点のために生きるような人生は多くの人は送れないし、ギィはジュヌヴィエーヴを想いつづけてひとりやさぐれた生活をするよりも、誰かと寄り添って、添い遂げる人生を選んだ、ということ。それでももしかしたら、マドレーヌとしか培えなかったものがあるように、ジュヌヴィエーヴとの間にしか生まれなかったものを、彼はひっそりといまでも、心の奥深く大事に抱き込んでいるかもしれない。

作品としては、全編台詞が歌という、ミュージカルが苦手な人からは一番敬遠されるだろう形式なのに、いま噛みしめて味わっているのは余韻と余白の存在だから、とても不思議。同様の、ほぼ全編台詞が歌のレミやサイゴンよりも、もっと歌ってます!というふうのメロディがつけられているのに、言葉以上に相手を想いあう二人の間に生まれるしぐさや表情、目の奥にこんこんと湧く、感情のありかを見出していくような。言葉に押しやられてしまったものを、雄弁なものとして推し量るやり方。

シェルブールの雨だれが余韻となってぽたぽたと落ちてくるからか、いまもギィとジュヌヴィエーヴの別たれた人生のことを思うと、ギィの治らない膝のように(と表するのは軽率かもしれないけれど)じくじくと胸が痛みます。あんなふうにすれ違うためにふたりはであったの、とか、すれ違っても引き返せないほど行き過ぎた後、なぜ放っておかずに、いたずらに彼らはまた人生を交差させられてしまうんだろうと、彼らの濃密な数年間が公演回数分繰り返されることに思いを馳せると、勝手にとてもしんどい気持ちになるけれど、私のしんどさはこの瞬間が最高潮だろうから、一番しんどいのは演者のみなさまだろう、と意識をずらすことでなんとか息をととのえている。


ポスターを見返して、ふたりの視線が絡まない意味を改めて考えながら、口の中に残る苦みを味わいつつ。