TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

『ファントム』おかわり

 

 

新幹線で身体だけ運ばれてきたので魂は宝塚で輝いています。
思い込みの激しさで書いたので、次回見たら考えが変わっているかもしれない感想。

 


・愛情さんと息子の話
さきちゃんのジェラルド・キャリエール(またの名を愛情さん)は肉体も精神もマッチョさがないのがとても好みで、個人的にはちょびやすをかわいいな、いいなと思ったのとどこか地続きの感覚でいる。上背はあるのにひょろっと弱っちい。息子に銃をやすやす奪い取られるのが似合う。眉毛のせいかいつもちょっと困ったな、というような表情で静かにほほ笑んでいるイメージ。どんな事態もおろおろしつつうけいれてくれそうな彼は、かつて最愛の人が自分たちの息子の顔を美そのものと思うのに耐えきれなかった。顔を隠す仮面を作ってやって一番ほっとしたのは自分かもしれないという認識をしている、自分を弱い人間だという自覚がある人だ。同時に、その弱さを時間をかけて見つめ続けることができる、辛抱強さも備えた人でもあったのかな、と思う。ほっとしたと言いつつ、息子の仮面をつけた顔を見ることは、覆われていない顔を見るのとはまた違った意味でつらいこと、自分の弱さと向き合うような思いもあったかもしれない。でも彼はすべてを放り出すことはせず、付かず離れずの距離で見守り、世話し続けてきた。「彼女は君の顔を美しいと思っていた」と伝えることは、その事実を受け止められなかったジェラルドにとっては口に上らせるだけでもう、相当な勇気がいることだったと思う。あるいは大きく踏み出す準備はもうずっと前からできていて、息子側のタイミングをはかっていたのかもしれない。加えて「母さんがそう思ってたのはしってる」と息子が彼の言葉を当然のように受け止めたとき、ジェラルドはずっと背負っていた重荷をひとつおろすことができたのかもと思った。

ジェラルド・愛情さんが銀橋でエリックに呼びかけたときの声の響き、しみしみ具合がすごくて、ひとがひとの名前を呼ぶ声だけでこんなにジーンとすることがあるんだなとびっくりした。エリックからの「証もなく信じていた」という歌詞もフレーズも大好きだけど、この銀橋の歌詞、実はいろいろ言葉が足らないのではと思うときもある。でもようやく気持ちが通じあっていると確認できたふたりの間に漂う空気のおかげで、なんとなく行間が埋まって唐突感が薄れているような気もしている。「ぼくの居場所はどこにある?」だなんて口にしておいて、もしかして打ち明けてくれない父の態度に拗ねていただけだった?と勘繰りたくもなるような息子・エリック。「お前は私の生きがいだ」と伝え、伝えられた親子の、互いの面映さを隠す、小さくやさしい照れ笑いのさざなみ。ひたひたと満ちるあったかさが客席までよせてくる。
銀橋に進む直前、特に「いいのさ」以降のジェラルドおじさんからは、息子の話を全身全力で受け止める前のめりの姿勢がびしばし伝わってくるのに、暑苦しさがゼロなのはさきちゃんの得難い持ち味か。押しつけがましさがまったくない。親子のデュエット歌い終わり、腕を広げて自ら歩み寄りつつも、最後の最後は息子側が寄って抱きつくのにゆだねている。迎え入れる側のそのひと呼吸の静止に、彼の人柄や息子への思いがあふれんばかりで、こんなものを無条件に差し出されるのはひどく幸せだし、一方で苦しいことだなと思う。渇望していた愛情のかたまりに崩れ落ちるように抱き込まれるエリックの背中の頼りなさ、かすかに見える虚勢がほどけ落ちた横顔も記憶に刻まれている。
彼らが親子の名乗りをする直前のやりとりも思い出す。生まれた意味なんて考えない人生のほうが気楽で幸せかもしれないのに、それでもエリックが意味はあったと恐る恐る自分を肯定し、肯定を相手に請う言葉を口にして、ジェラルドが当然と肯定する、そういう思いを確認する細かなやりとりがあのときのふたりには必要だったんだろうなと思う。

ジェラルドが最期にエリックの望みを叶えてやったことについては、軽々しく口にしていいのか迷うけど、息子の人としての尊厳を守ることでもあったのだと思う。衣装掛けの影で父に守られてぎらぎらとけものの目をして怯えていた、鎖に繋がれて人間の言葉が通じないような扱いを受けた彼は、詩集を愛する情の細やかな人でもあって、その本はきっと父が息子に与えたものだ。
ああいう選択肢しか選べない状況自体がそもそもに何か違うのかもしれない、でも彼らにはそれしかなかった、という前提で物語を見つめるとき、エリックが父に懇願する様子と同時に、散々にためらいつつも、最後は銃口を向けた息子から目を背けなかったジェラルドの横顔に吸い寄せられる。人間同士として約束を果たすこと、親として子に責任を持つこと、全部ひっかぶる彼の覚悟か。
彼らを肯定したいあまりに、この選択に言葉を重ねて意味づけすることはなんだか趣味が良くない気もして、やっぱりどんな形でも生きている方が良くて、きれいに終わらせようとするのはどこまでいっても、子が望んでも親のエゴかもしれないとも思うからだ。でもそれこそ、そういう考えの方が綺麗事かもしれない。わかりようがないことに想いを馳せようとしている。でもいいとか悪いとかは置いておいて、選択しきる前の彼らの苦しみはものすごい重量で迫ってくるから、もうどうしようもなく感情が組み伏せられる。
クリスティーヌに抱きとめられる前、撃たれてよろめきながらも笑みを浮かべるエリックは、望みを叶えてくれた父のほうに歩み寄ろうとしていたように見えてならなかった。息子の棺に寄り添い、深い笑みを浮かべながら亡骸を見つめるジェラルドの心にうずまいている感情は一種類だけなのか、想像してみる。


・エリックくんはおとな?こども?
わからなくなってくるし、そもそも「おとな」「こども」ってどこで判断するものだろう?
エリックくんのお召し物の立派さが気になる。無粋なことを口にすれば、物語における必要性というよりトップスター仕様というのもあるのでは、と思う。一見お似合いだけど、それはエリック演じるのぞみさんの着こなしの寄せかただ。物語が進行するにつれて見え隠れする、純粋培養で育った彼の魂の入れ物が身につける服としては、ややぴったりしていないようにも思えてくる。恋をするのが初めての少年、思い人と目があっただけで動揺するような内気さ、自分からキスをしておいて瞬時に身を引くときのおぼこい様子と、あのフォーマルスタイルのギャップを埋めるものとは。中身と外見のちぐはぐさ。エリックみたいなひとがつやつやストールイケメンがけするかな?? でもそれも背伸びしたかったから? 上にいる人たちの様子を盗み見て、これこそがみんなに溶け込むための正装と思い込んだのかも。言い回しの大仰さは詩集がお友だちだったから?と考えながら、一生懸命飾り立てたハリボテのお庭でひとり、緑の布を引っぺがえして握りしめて背中を丸めて泣く姿を思い返す。おとなの泣き方じゃない、と見ている側に思わせてしまう様子。
見た目は成長した肉体に合った服を着ているだけ、たぶん中身も厳密には「幼い」というわけではない。みんなが大人になるにつれて割り切っていく部分、備えてゆく分別がエリックにはなかった。いろんな考えを持つみんなとうまくやってゆく方法なんて、彼にははなから必要もなければ実地もできないのだからあたりまえだ。従者たちの食べものは自分が用意してあげなければというけれど、実際にひとりで生きられないのはどう見ても彼のほうだろう。従者とどの程度意思疎通を図っているのか謎だけど、エリックが深くものを考えたり、言葉を覚えたりするのはきっと主に、父から与えられた本のなかで出会う人たちによってだったんだろう。
彼は神さまに会ったことがあるんだ、と喜びに光り輝く表情を見て、置いてけぼりを食らうかドン引きするか、はたまたピュアさにのたうちまわるかは見るひとにゆだねられている。ウィリアム・ブレイクの詩の内容を作者自身の実体験と捉えているのか、はたまた信仰心の深さゆえに比喩として口にしているかはわからないのだけど、どちらにせよ、自分が大事にしているけど他人には大したことがないかもしれない話を打ち明けるまでの距離の詰め方がややせわしない。見た目と外見のギャップだけでなく、ジェラルドにしおらしい態度をとった直後にクリスティーヌに走り寄る、行動の制御できなさ、感情の起伏の激しさも、エリックという人をおいそれと近づけない人にしている。
のぞみさん演じるエリックくんが時折見せるいじらしさの求心力のはんぱなさが、途中途中の彼の様子のおかしさをリセットしてしまいがちだけど、かわいいかわいいと飴を差し出すには難しい、ものすごく不安定な人だ。しかも私たちは客席で、エリックくんの一部始終をすべて追えている、神の視点を持っているから彼の事情を斟酌することができるけど、ジェラルドといるときの息子の顔をクリスティーヌは知らなかったし、ジェラルドもクリスティーヌといるときの先生の顔を知ることはなかった。そう考えるとあたりまえだけど、父さん!と叫んだときのエリックの様子を、クリスティーヌや、彼をおそろしい怪物と思っている人たちはどんな風に見ていたんだろうと今更ながらに思う。
私たちに全て伝わるように作品は構成されているのだから、どの情報を誰が知っていて、なんて考えなくても良いのかもしれないけど、ふと想像してしまった。
彼の心のなかを覗いてみたいと言っていた人の演技は内に内にぐっとしずんでいくようなのに、みているとおいてけぼりにされるどころか、一緒にうねりに引きずり込まれて内面世界を旅しているような気持ちになる不思議さ。
なまやさしく攻略できる相手じゃないんじゃないかとうがってみつつ、結局全面降伏してしまうのは、エリックくんだけでなく、彼を取り巻く人、(といってもそんなにいなかった…)特にジェラルドおじさんがラストスパートで魅力をぐっと引き出してくれるからだよな…と思いながら、次回までにぐるぐる考えたい。


・エリックの最期
初日、クリスティーヌに抱きかかえられるエリックくんの仮面は最初から外れていた。仮面に守られていない右半分の顔を必死に手で覆い隠そうとする彼の、そのいじらしい様子にはぐっと引き込まれるばかりで、それが段取り通りではない、ハプニングだったと知った後も、初日の仕様でいいのでは、と思ってしまうほど。でも二度目の観劇時に予定されていた(という表現もなんだか無粋だけれど)通りの流れを初めて見て、やっぱりこちらのほうがクリスティーヌというひとがエリックに与えたものがあきらかになるいう意味でしっくりくるなと感じた。
瀕死の状態でなお、仮面をとらないで、と震える声で懇願したエリックは、一度拒絶したはずの彼女がこの後どういう行動に出るか想像できていたんだろうか。彼が仮面を押さえる右手を掴んでそっと移動させた後に柔らかく握りしめる手つきと、仮面を外す前にはらりと額に落ちた髪の毛をなでつけてあげるしぐさのやさしさが記憶に焼き付いている。顔にキスするクリスティーヌを見ながら、「領地」の「庭」でエリックは、母の愛を感じていた、と歌ったけれど、カソリックの信仰が下地にある世界観で、彼のような環境下で生きる人にとっての「母の愛」は、一般的に母性愛と呼ばれるものにとどまるものではない、もっと大きな愛と捉える考え方もあるのかなと思った。あるいは母の愛と感じていたものが、自分の認識とは違うものだったと気づくことが、彼を成長へと導くきっかけだったとも(彼女に対して怒っていないことを話す親子のやりとりから)。そしてクリスティーヌが取った仮面をまたエリックの顔に付け直すのをみると、本人以外の、彼が愛した人間が仮面を外す・つける光景の印象深さに、仮面の下の顔は彼にとってそれを受け入れてくれる人にだけ見せるもので、誰彼構わず開示したいものじゃない、という事実が指し示す意味についても改めて考えてしまう。この物語で描かれている愛や苦しみはこの物語に固有のもので、安易な一般化、普遍的な読み解きへと繋げることは難しいとも思う。一方で、エリックにとっての仮面の下の顔は、この物語においては可視化されて描かれている身体の一部だけど、もっと別の、他者に打ち明けがたい、隠しておきたいなにかのメタファーでもあるのかな、とも思う。
自分と関係ない特殊な人の人生なんだ、と突き放すことも、自分に都合の良い型にはめてみることも、どちらも避けてとおりたいけど、いまかけているめがねの形を自覚することしかできないのかもしれない。

 

・クリスティーヌとパトロンは恋に落ちた?
ミュージカルでデュエットするとき、声のハーモニーがぴったり合わさっていることが、イコールそのふたりの役としての感情がぴったり合っている、というわけではない場合がある。同じ舞台上、数メートルの近しさに見えても実は遠く離れた場所にいるという物理的障壁がある場合もあれば、反目し合っているふたりのデュエットも(お互いが憎いという感情は共有しているとも言えるが)、幸福な気持ちを分け合っているようで、その感情の発生源はそれぞれ微妙にずれているデュエットもある。それってとてもおもしろい。
そんなカテゴリの一曲とも考えられるHomeは、クリスティーヌ、エリックふたりの夢が叶う歌だけれど、クリスティーヌは夢見た場所にいられること、エリックは夢みていた声の主に出会えたことを歌っている。彼らはそれぞれ別の場所にいるし、そもそも互いの存在の認知はエリックからの一方通行だ。まだであったばかりだということ、あるひとの夢が叶うことがもうひとりの夢の実現にも繋がる、感情は共有してはいないけれど、今後の関係性の発展を予感させる序章の歌という意味では、決定的なずれがあるふたりの曲とはいえないかもしれない。

(「初めてきた場所をHomeって…」「初めて宝塚大劇場に来たときの気持ちを思い出すんだ…!」というやりとりを友人とした)

 

この作品で、気持ちの微妙なすれ違いがおもしろいなと一番印象に残ったのは、クリスティーヌとシャンドン伯爵のデュエットだ。ビストロでのオーディションに成功して気持ちが高揚しているクリスティーヌと、そんな彼女の姿を目の当たりにして、初めて会ったときとはまた違った意味で彼女に惹かれかけている伯爵。次の場面で白い薔薇を手に登場したエリックくんは、ふたりの仲が良い姿を見てひどく落ち込んでいるようだったけど、そんなに先走らなくても大丈夫かも知れないよとストップをかけたくなった。ふたりの「恋に落ちた」気持ちって、若干ずれているようにも捉えられる。伯爵の気持ちは目の前の女の子に注がれているけれど、「本当に 夢じゃない!」と歌うクリスティーヌは、どちらかというとオペラ座で歌えるなんて夢みたい!というほう、憧れていた劇場に立てること自体に恋の始まりのようなときめきをおぼえている(ように見えた)。もしかしたら、クリスティーヌははじめはそんな気持ちではしゃいでいたのに、ヒートアップの初動が少し落ち着いてきたら、目の前の男の人は劇団員としての登用おめでとう!じゃないことを歌っているようで、あれ…?という気持ちが、私なんだか混乱しているみたい…と口にさせたのかもしれないなとも思う。ずっと前からの夢が叶ったと同時に突然現れたイケメンからも好意をよせられるなんて、人生急展開過ぎて一度に消化しきれなくても無理はない。やさしいあなたに見守られて歌いたい、はたぶんクリスティーヌというひとのつくりかたがもっとあざとく見える仕様だったら好意をペンディングしておくやり方としてあまりに絶妙で、パトロンキープ台詞に聞こえていた。思い込みがやや激しめなきほちゃんのクリスティーヌの、夢の達成目前にして浮き足だった心では目の前の人から注がれる気持ちにまで頭があんまりまわってません、という雰囲気と合わせると、そこまでのいやらしさは感じ取りづらい。
伯爵とはパトロン〜親しい男友だちのあわいくらいの関係性にとどめていてほしい、無意識下でもエリックとの間をふわふわ揺れているように見せて欲しくない私の願望強め推測かもしれません。なぎしょはエリックが衝撃を受ける次の場面にきちんと繋げられるようにって突撃レポートでいってたけど、その解釈はエリックくんの思い込みの激しさゆえの取り違えも加味されているのだと信じて… !
それぞれの役と演じている役者さん両方への好感度が高いので、伯爵にも勘違い男になってほしくないと思っているのもある。彼はクリスティーヌのああいうふわふわ状態をどれほど把握しているかは不明だけど、直後の場面からカルロッタの陰謀によってあれよあれよというまに物語が展開していくので、クリスティーヌと気持ちの確認を再度する時間はないまま「クリスティ〜〜〜ヌ!!!」×2になってしまうのも、この恋愛模様に正直ちょうどいい流れ。あの見得を切るように微妙にかしいだ姿勢で叫んでせりさがる場面、私が男役なら一度はやってみたいなといつも思う。銀橋渡りソングもおそらく「クリスティーヌ、助け出す!」で用が済む内容なのに、一曲分間を持たせる伯爵のきらきらオーラよ。地位もお金も美貌もあって育ちも良い、臆さないイケメンの強さ…一般的な感覚で考えるとエリックくんに勝ち目がなくてつらい。押さえ込んでいる従者が持っている剣を、対峙する従者に突きつけながらにじりよっていく銀橋の戦いっぷりに惚れてしまう。「あのひと、私だけを愛してくれていると思ったのに〜〜〜」のなぎさまシャンドン・ガールズに入りたいこのごろです。中堅男役をめぐって舞台上でふわっと争う娘役さんたちのほのぼのさが好き。
役替わりでロケットの中の写真があーさに全取っ替えになるんだねという友人の言葉に、あたりまえだけどちょっぴり切ない気持ちになった。あーさもとても好きだし見るのを楽しみにしているけど、えっなぎさまのことは…?みたいにかってに思ってしまっただけです。たぶん変わらないと思うけど、あーさ伯爵に対して好意を寄せる女の子たちの様子に、なにか変化があったらちょっとおもしろいな。

 

余談として、ビストロでの「君がいままで紹介してきた女の子みたいに?」「違う、違うんだ!」のジェラルドおじさんと伯爵のやりとりが、おじと、ガールフレンドが多い甥っ子のちょっとしたじゃれあいみたいで、2人とも茶目っ気にあふれててとてもほほえましくみています。