TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』⑤

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』⑤

 

 

 雪組パロディコーナー、楽しみましたか? 私は正直面白かったところもなくはないのだけれど、諸手を挙げては楽しめない場面でした。アヤナギ先生の映像もアヤナギ先生も、アヤナギ先生を演じきるサラサラストレートのめちゃくちゃ癖になる翔くんも大好きだし(び、びんぼうを引っ張るのはやめてくれ~~!)と心の中で叫びつつも、すみれ先生との阿吽の呼吸に不意をつかれてふきだしたり、ホワイトボードを毎回楽しみにしてしまったり、千秋楽でのまさかの風子ちゃん(可憐でしたね)登場に度肝を抜かれつつ無言で目に焼き付けたりしていましたけれども。そういうところではなくお芝居の中身です。

 

 初日に感じた強めの怒りは、回を重ねるごとに呆れのほうが強くなってきて、コンサート全体を通じて、素敵だと思う、感動する場面構成もたくさんもあるだけに、こんなしょうもないことでがっかりさせないでよ、というかなしみが深くなってしまった。

 

 ずっこけ要素がいくつかあった中で、望海さんが今まで演じた役をごたまぜにした主人公「吉村・ロベスピエール・貫一郎」がそのルーツを問われて「純日本人」と連呼する場面は東京公演で手が入っていて、そこはさすがにまずいと思ったんだな、とびっくりしつつも納得し、少しだけホッとしました。「貧乏」は脚本の根幹に関わる、かつ「演じている自分たち自身を笑っている」と押しきれなくはないけれど、客席にも舞台上にも様々なルーツを持つ人たちがいる場所で(たとえいなかったとしても)その表現はまずいと、舞台に上げる前に気づいて欲しかったと思った。

 

 「押し切れなくはない」と書きつつ、私は「押し切れる」とは思っていないですが。

 

 望海さんは「貧乏」な吉村をやり切っているけれど、その前のアヤナギ先生でメタ視点を入れて見てね、と注記されることによって、個々の役以上に、演じている中の人たちの背景が前面に見えてきてしまって「役として貧乏を生き切っている人たちの強さを笑う」という視点だけでは乗り切れないと私は感じた。中の人を透かして見るのは「役」をやりきっている人たちに失礼なのかもしれない、でも「純日本人」や「ババア」や吉村の接待をする女性陣や、しづ・クリスティーヌの描き方から、そもそも演じている人の問題というより、そうした笑いを描き切る力がある脚本と思えず、その笑わせるための要素の用い方を信頼しきれなかったのもある。

 

 宝塚ってお金がかかったゴージャスな芝居をやる劇団というイメージが強いのに貧しい人が主人公の場合もあるんだよ、そしてその手の演目が同じ組で続くのって意外性があるよねという点を面白く見せたいのはわかる。でも同じ演目が続く、という部分ならともかく「貧しさ」をピックアップすると、貧乏からはおよそ遠いところにいる人たちが活躍する劇団が、貧乏で遊んでいるふうに見えてしまいかねない、と私は思う。回数を見ると慣れてしまうところもあるんだけど、その慣れは全然よくない慣れだ。「純日本人」と比べると、そこまでしつこく指摘する箇所ではないかもしれない、とも思うけれど、やっぱり思い切り笑うには、かなり微妙なネタだと思う。

 

 笑いって何かを「嗤う」ことに加担する場合もあるから、信頼に足らない要素が見えてしまうと笑っていいとは思えない。脚本のうまくなさだけでなく、宝塚の立ち位置を強く意識して見てしまう自分の意識の問題もあるかもしれないし、社会における宝塚の位置付けが中の人とずれているのかもしれない。

 

 貧乏で呆然としていると、女性の扱いがひどいことにも気づいて、英雄色を好む、という味付けのおもしろさは、かなり扱いが難しいが、もしかして演じる人が全て女性の宝塚に、ジャンプ編集部的な価値観を持ち込むつもり?とも思ってしまう。これは残念ながら、サイトー先生の脚本・演出だけに言えることではないんだけれど。右を見ても左を見てもおじさんばかりが目立つ社会に生きていると、舞台上に女性しかいない世界に夢を見てしまう。そこで見る夢の中でおじさんがでしゃばる世界と同じ価値観の表現を見せつけられるのは本当に勘弁してほしいと思う。

 そして、このコンサートを通じて、パロディ場面の脚本・演出で嫌だと思った部分と私が好きだと感じた部分を構成した人は、確かに同じ人だなと線で結ぶ要素をうっかり見出してしまって勝手に落ち込む。

 

 今この状況にある人たちに届けたい歌を歌うといつもとは違ったふうに観客に響くのと同じように、宝塚の舞台上の表現すべては社会と完全に切り離されてはいない。いま上演することで今の価値観を持った観客がどういうふうに感じるか、という視点なく作っているものなんてないとは思うのだけど、でもいま一度、さまざまな表現について再考してはもらえないだろうか、私も一ファンとして受け取り方を考えたいから、と思っている。

 

 

色々言いつつ見ていたところ

・今回の吉村貫一郎のビジュアルがやたら美しく好みだった()。和物化粧ではない状態での和物扮装という新しい扉

・いちいちショー・ストップがかかりそうな歌、あまりに直前直後の場面とのギャップが凄まじくて録音かと思った(ファン)

・風呂に入ったまま「そうじゃあ」を繰り返す声が全部やさしい、かつ娘息子たちへとおばあちゃんへ、それぞれ関係に応じた違ったやさしさを含んだ声音に聞こえて、心のなかで、とと~~!と叫んでいた

・泉がなんで盛岡藩にいるのか謎だけど、あゆみおねえさんと望海さんの並びの夫婦、割としっくりくる

・出っぱなのマシンガン持ったあみちゃんの重心が低い反り返り

・芸妓さんみんな可愛いけど特にはおりんがめっちゃ好みです、というか今回のはおりんどの場面もツボです

・ピンクのうさぎ?のぬいぐるみ埋めてる下級生の子のかつらがとてもかわいくて毎回見てた

・おにぎりをもらえない土方さんと吉村のやり取りはおもしろいけど、しづ・クリスティーヌにおにぎりを配らせるな!!(酌をさせるなー!!)

・ケン坊をネタにするの結構しんどいけど、ケン坊まちくんの旗を持つ下級生たちがコロスみたいになってたのはちょっとおもしろかった

・「お前にやったら、わかるやろ」(サイテイ!)(おもしろくない)

・雪の精の度胸とそれを受ける望海さんの度量

・歴代の女たちに仮面を一つ一つ捧げるの、タイムズスクエアの前で落ちぶれたオスカーおじみもある(リリー・ガーランドに捧げるところだけでなく)

・死んでなかった!生きてた~!が蒲田行進曲に集約されて、土方さんかっこいい!ってやっぱり「銀ちゃんかっこいい!」なんですか?