TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

エリザベート  6/2 マチソワ 

春野シシィと岡田フランツ 大野ルドルフについて







禁断のエリザマチソワは今回で2度目です。
先日のエリザ感想でも明らかなように、岡田フランツにすこーんと落ちてしまった為、マチソワははじめから頭の片隅にあったのですが、最初はマチネ分しかとっていませんでした。しかしマチネ終演後、気がついたら帝劇窓口で当日券を購入していました。
マチネは瀬奈石丸岡田(敬称略)で、初石丸トート観劇だったのですが、瀬奈シシィと石丸トートはとてもしっくりきているように感じました。黄泉の帝王でなくトートがただの概念としての「死」だとしたならそれはもう生き物の数だけたくさんいると思うので、各シシィにひとりずついてもおかしくない。春野シシィの死はマテトート、瀬奈シシィは石丸トートなのかもしれないと。
しかし瀬奈さん石丸さんの組み合わせだと、岡田フランツはふたりの間にやや入り込めておらずとり残されてしまっている感じがするというか、瀬奈石丸+岡田、のように感じたんです。もちろんうまいへたの問題ではなく、シシィとトートとフランツの組み合わせとして、の話です。そのしっくりこなさゆえに浮かんだ疑問を解消すべく、春野シシィと岡田フランツの組み合わせ、加えて未観劇だった大野ルドルフをぜひ観たいという気持ちで直前に取ったソワレだったのですが、結果的に観劇することに決めてとてもよかったです。
前回5/27に観劇した際にびびっときた、春野シシィと岡田フランツの組み合わせが私は好きなんだ、という勘はやっぱり間違っていなかったのだなと感じました。ほんとうに、なぜそういうふうに感じてしまうのでしょう? 相性ももちろんだけれど、いちばんは観る側の心持ちだと言われればそれまでなのですが。岡田フランツ(なのか岡田さんご本人なのか)はシシィに向けて時々子どもみたいに口ぱかって開けて笑うところがすごくかわいいと思うのですが、「あなたが側にいれば」の前にくるくる手をつないでまわって、ぱっと手を離した瞬間と、「私が掴める」のフレーズでシシィに両手で手を握られた瞬間、あの笑みを見せるときに向き合っているのは、なぜだか春野シシィのほうがしっくりくるんです。最後のダンス後の春野シシィを抱きしめる時の岡田フランツの心配そうな表情、何度もシシィの表情を「大丈夫かい?」って確かめる仕草等々、細々としたそこかしこに散らばるやりとりでそれを感じてしまって、それの集大成があのふたりの「夜のボート」なのだろうなあと思います。「奇跡が起きなかった」歌ではあるけれど岡田フランツと春野シシィなら、互いの過ちを認めあえた気も、通じあえた気もしてしまう。なにが足りなかったのだろう?と懸命にこぼれたピースを探してしまう。岡田フランツの「愛してる」と春野シシィの「わかって、むりよ」で分かり合えていないなら、この世の中に信じられるものは少ないだろうな、とすら思ってしまいます。「悪夢」は一番と言っていいくらい好きな場面なのに、昨日はほんとうに「夜のボート」が素晴らしかったせいでそこで終わりでいいのに、と唇を噛みしめてしまいました。
そう思いながら観た「悪夢」でしたが、ソワレでの「救わなくては」「鎖を解くのだ」「私が!」のトートとフランツの掛け合いで、フランツが断ち切りたいと願った、シシィに繋がれていた鎖と、トートが断ち切ろうとした、断ち切った鎖は別物だったのだろうな、ということに気づいた日でもありました。

マチソワとも目にとまった箇所としては、前回と少し変わって、ルドルフの霊廟でシシィを抱きしめる岡田フランツが背中からすがりつくようだったところ。妻の傷ついた姿を見ておれないのと、息子を失った気持ちをわかちあうためなのでしょうか。春野シシィは押しのけるのでもなく、するりと腕の中からぬけてゆくから、行き場を失ってさまようおかだフランツの両腕がなんともかなしくてたまらなかったです。彼の丸めた背中にただよう放っておけなさと言ったら。

シシィに関する箇所としては、マチソワで両シシィを観劇し、やはり瀬奈シシィは三色国旗のドレスでの「エーヤン、ハンガリー!」がすごく勇ましく感じるなと思いました。そのまま馬に乗って駆け抜けてゆけそうな。娘時代の心身ともにおてんばなところがそのままきたイメージ。加えて場をおさめたあとの達成感に満ちた誇らしげな笑顔が印象的です。皇后としての義務を果たした晴れやかな顔。
対するソワレの春野シシィも同じような感じかと思ったのですが、場をおさめたあとの表情がどこか憂いを帯びていて、意味をいろいろ考えてしまいました。この場はおさまっても、発砲事件を起こしたものがいることに、オーストリア皇帝に敵意を持っているものがいることには違いないからそのことを憂えているのかしら、等々。
解釈の違いがとても面白いなあと思います。


●6/2の岡田フランツ

・皇后の義務〜果たさなければ〜♪でシシィへ「本当は僕もこんなこと言いたくないんだ…」感が半端なすぎて、やや目が死にかけている。エーヤン、フランツ……!(役者さんではなく、「皇帝フランツ」への応援)

・執務室にて、ソワレの方が「息子は自由と!」の母親が出てきた時動揺しているように見えました。視線を彷徨わせての「却下!」後も母親が連れ出されるまでは正面を見据えてきりりとした顔をなんとか保っていたけれど、やはり途中で堪えきれずにふっと下を向いて苦しげな顔。

・鏡の間で扉の向こうから現れたシシィを目にした時の岡田フランツの顔が観たいと改めて思いました。完全に後ろを向いてるわけではないけど、いつも微妙にななめうしろの背中しかみることができない角度。彼はいったいどんな表情を浮かべているのだろう。


岡田フランツの、毎朝シシィの寝室の扉トントンして「シシィ、昨晩はよく眠れたかい?」「朝食にもぎたてのフルーツがあるみたいだけど、一緒に食べないかい?」と健気に呼びかけていそうなところはなんなのか。すげなく断られて扉の前に摘みたてのお花置いたまま、肩を落としてその場を後にしていそう。もちろん皇帝おん自らそんなことはなさらないのは存じ上げておりますあくまでイメージです……毎朝毎晩控えめに岡田フランツがノックする春野シシィの寝室の扉、そこにほんとうに鍵はかかってたのでしょうか。かたく閉ざされていただけで、こじ開ける気がある人が開けようとすればいくらだって開けられたように思います。でも内側から開かれるのでなければ、岡田フランツにとってはなんの意味もなかったんだろうなとも。
シシィにあのふやんとしたやさしい笑みをする岡田フランツが「待てルドルフ!!」って背筋が凍るくらいのきつい声を出せるようになるまでにはどんな葛藤があったのかとじっくり考えると涙がでそうな今日この頃です。

岡田フランツと春野シシィのほんとうのさいわいを探しにいきたい。




●大野ルドルフについて
ソワレで「ママのこと見捨てた 理解せずに!」ってふてぶてしい表情で大野ルドが口にした瞬間、君にフランツのなにがわかる!って先に口を挟みたくなるくらい過激皇帝派(とかいて岡田フランツ派と読む)と化した私ですが、初観劇にして大野ルドルフがすごく好きになってしまったので、その意味でもソワレを観てほんとうによかったです。セップスさんが勢いよくふっとんだのに後から気づくくらいには大野ルドルフを注視しておりました。
なんなんでしょう、彼のあの吸引力。言葉の口にし方、表情ひとつとっても、市民の生活を見て考えて、自分の意志で革命に身を投じようとした、という道筋がくっきり見えるようなもので、とてもついてゆきたくなるルドルフでした。友人が「こんなことを言うのは変だけど、いい皇帝になりそう」と口にした意味がとても理解できた。
ハンガリー市民に囲まれた車の上からのお手振りでは一人一人の民の顔を、目を見て力強く頷きながら手を振りかえしてる様子が見て取れて、胸にじんときてしまうほどで。マチネで平方さんを観て、ゆうたくんと手の振り方が違う、ということを確認したため、大野くんはどうなのだろうと思っていましたが、前述通りやはり異なりました。大野くんのもしびれるくらい格好良くて好きです。
なにかを成し遂げようとする意志に満ち満ちた、生命力のかたまりのよう。きりりとした太い眉、厚い下唇から受ける印象も大きいのでしょうか。裏を返せばおっそろしく強情そう。でも「ママも僕を見捨てるんだね」は目に涙をためて、どこかだだっこみたいでした。マイヤーリンクでは死にたくないともがいてるように見え、けれど拳銃を手渡されたときの、そうかこれがあったのか、というような表情、頭を撃ち抜く際の、ふわっとした幸せそうな表情が忘れられません。

基本的に二度以上観て転がり落ちる慎重派なので、岡田フランツも二度目でがつんときたわけであって、一度目でこんなに心を鷲掴みにされたことって他にあまりないかもしれません。最近名古屋大阪あたりへの遠征を検討し出しているのですが、彼が帝劇以降どんなルドルフになっているか気になるので、遠征時は彼もぜひ観たいなあと思います。観劇前は一番の目的でなかったひとにぐーっと惹きつけられてしまう、こういう出会いがあるからほんとうに生の舞台って素敵なんだ!と観劇後、とても嬉しい気持ちになりました。





◆キャスケメモ
春野岡田:6/6(平方)、6/10(平方)、6/15(平方)、6/16ソワレ(古川)、6/19マチネ(古川)、6/20(平方)、6/21ソワレ(古川)、6/24(大野)、6/26ソワレ(大野)
春野石川大野:6/14(大野くんは岡田フランツより禅フランツの息子っぽいと友人からきいたので、この組み合わせも気になります)