TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

エリザベート 6/10&6/16ソワレ





岡田フランツを一週間に一度観ないとどうにかなる病にかかっています。嘘だわ〜ひどいこと〜ある筈のない〜こ〜とよ〜、と思わず歌いたくなりますが、別にひどいことじゃないし本人は楽しいのでまあ良いような気も。問題は観劇という特効薬の副作用ですが、これは帝劇楽後は確実に逃れられないものだろうなと。遠征の二文字がますますくっきりと頭に浮かぶ今日この頃です。あなたが来いというのならどんな劇場へでも参りましょう、と歌えばよいのか。

6/16ソワレを一緒に観劇した友人が春野さんファンで、幕間や終演後話し合って、以前より春野さんのシシィについて深めて考えられたような気がします。
春野シシィについて少しと、あいかわらず春野シシィと岡田フランツについて。6/10と6/16の感想が入り混じっています。

春野さんのシシィは、生と死のあわいを最初から見つめているひと、あるいはその境界線に実際佇んでいるひと、という印象が強いなと思います。春野さんご本人が線が細くて華奢だから、というのもあるかもしれないのですが、「エーヤン、ハンガリー!」や『私が踊る時』の身のこなしから受ける凛とした印象、芯の強さと対照的に、ところどころ、特にトートと接する場面で見せる脆さに思わず手を差し伸べたくなることが多いです。トートの口づけをうけいれかけて、ふと向こう側へ渡ってしまそうな様子を見せつつも、はっと正気にかえる、という箇所を目にするたび、まだ大丈夫だとわかっているのにどこかはらはらしてしまう。それこそ岡田フランツがぎゅっと抱きとめていないと、単純に別の土地へ旅に出る、というのではなく、生と死のあわいをこえてしまうような、物憂い表情をちらほら見せる皇后陛下
初めからそうした気質があるとしてもバートイシュルでフランツと出会い、望み望まれて彼とワルツを踊った際は確実に、生きる喜びを味わってることがひしひしと伝わる零れんばかりの笑顔をたたえていたわけで、でも何が彼女を深く苦しい思考の海に沈めていったのだろうと考えれば、その場面こそが不幸の始まりだったのだ、という結論に達してしまうどうしようもなさ。
ルドルフの霊廟で棺にぴたりと頬をつけて歌う春野シシィはまさに「この世では休めない」ひとで、実の息子を喪ったかなしみと同時に、いやむしろ「鏡同士」の唯一の理解者を喪ったかなしみ、自分より先に死の中に「安らぎを見つけた」者へのわずかな羨望が先に立っているように思いました。

寝室を早朝訪ねたゾフィーに「おはようございます!」と口にした際の彼女の笑顔が、皇后の務めは何たるかを説かれるごとにどんどんと強ばってゆき、現れたフランツに縋るも、逆に説き伏せられてしまう、という流れで初めて夫への不信感を覚えたシシィだと思うのですが、6/10は「あなたは私を見殺しにするのね」で、シシィに詰め寄った岡田フランツが「ひとりにしてください」と言われたあとも、彼女の前で拳を握りしめたまま俯いて逡巡する時間がそれまで見てきた回より長く、自分の口にした言葉がシシィにとって受け容れがたいものだと知りつつも、そう伝えるしかなかったんだ、でもそのことにより彼女を悲しませてしまった、というやりきれなさ(「皇后の義務〜」と歌う岡田フランツの目は毎回どこか遠くを見ています)、それでも自分の意図を理解してもらえなかった、という切なさが心の中で渦巻き、苦悩している様子がひしひしと伝わってきて、観ているこちらまで苦しかったです。
岡田フランツが去ったあとの春野シシィは、彼の仕打ちに俯いていた顔をあげて、目にいっぱい涙をためて、でもやりきれないわ、というふうに追いつめられたひとの笑みを浮かべていました。その後の「私だけに」は、じっと佇んで悩む岡田フランツの思いを汲んで、という流れのように感じられたのは気のせいではないんじゃないかな、と。もちろん後々に繋がる、シシィが自我に芽生えた大事な曲であることに違いはないのですが、「あなたのものじゃないのこの私は」がすっぱりとフランツを切り捨てているようには聴こえなかったんです。誰かを愛するって、その人に身を全部捧げることじゃないでしょう、ここにひとりの人間として自分の足で立つ「私」があなたを好きで、それをあなたは理解してくれてると思ってた、という気持ちが含まれてるような気がしました。岡田フランツは最初から、春野シシィも徐々に迷いの中に入ってゆくひとで、二人とも一生懸命どうしたら理解しあえるか悩んでいるひとだと思います。ぴしっと迷いがないひとも素敵だけど、迷いの淵にあることを自覚して、じっとそのことについて深く考えているひとの方がどちらかといえば好きなので、私は春野シシィと岡田フランツの組み合わせが好きなのだと。

今までずっと、バートイシュルでの二人の出会いから「あなたが必要よ」での口づけ、メルヘンのようねの二人の額縁におさめたいようなかわいらしくも素敵な姿を大事にしたくて、その後の悩み深きふたりの繊細なやりとりから、何故この二人がわかりあえないなんてことがあるのだろう?という意味で夜のボートのすれ違いを切なく感じていたのですが、6/16ソワレの観劇で、その印象がかなり変化しました。今までルドルフの霊廟で息子を喪った痛ましい姿の春野シシィが後ろから岡田フランツに抱き締められる際、彼女は岡田フランツの腕の中から空気みたいにするりと抜けだしていくことが多かったのですが、今回その場面で春野シシィの岡田フランツの振り切り方がとても力強く、明確な意思を持って行われたもの、というふうに見えたんです。6/10時点では、岡田フランツがあまりにぎゅっと抱きしめすぎていたせいで、棺の方によろよろと歩いてゆくシシィに追いすがるようなかたちのままがくっと膝をついてしまったのかな、と思っていたのですが、それからまた変化したようです。旅に出ると決意した時から、もうルドルフの死の時点では確実に、春野シシィの鎖は「断ち切られていた」のだな、とはっとしてしまい、それを受けての夜のボートは、岡田フランツがどんなに心から信じて「愛はすべてを癒してくれる」と語りかけたとしても、もう無理なものは無理なのだ、この二人にはふたつの、それぞれのためのゴールしか用意されていないし、奇跡は起こりようがないのだ、という静かな悲しみと納得がありました。

・執務室の岡田フランツ
背後に立つゾフィーを常に気にしている様子から、幼少期からこの母親に「強く厳しく」と言い含められ育って、でも期待にそうのがむつかしそうな雰囲気がひしひしと伝わってきます。6/16ソワレでは「息子は自由と〜」の母親に彼女の方を見ず「却下!」と正面を見据えたまま鋭く口にした後、サインをした書類を処理済み箱に移動させようとするも、途中で手を止め、俯いて苦しげな表情をつくっていました。あんまりにも民衆一人一人の意志を汲んでしまってはだめで、それこそ自然と「冷酷に」ならなければいけないシーンにも多々直面するだろうに、無視すべきことを無視しなければ皇帝業は務まらないだろうなと思うのに、たぶん岡田さんのフランツはいろんな可能性に思いを馳せすぎているひと。この場面での苦悶の表情があるからこそ、のちのバートイシュルでの笑顔がより映えるのだと。

・バートイシュルでの岡田フランツと春野シシィ
「間違いでしょ」「君がいい」の後にそっと首を左右に振る岡田フランツの笑顔たるや。「三年間の花嫁修業〜」と後ろで嘆いているヘレネ姉さんもとても好きなので、彼女に思いを馳せればなんとも酷な場面ではありますが、それでもその後手を繋いでくるくるとまわる際の春野シシィと岡田フランツの笑顔、特に岡田フランツのまあるく見開いた驚きと喜びが入り混じった表情がとてもかわいくて好きです。岡田フランツのくるくるまわる際の笑顔から、シシィの「幸せになりましょう!」をきっかけに徐々に悩み深い様子があらわれるその表情の変化があるからこそ「シシィ!…いやエリザベート」までの流れがとても自然。6/16ソワレの、私がつかめる、での春野シシィは、岡田フランツの手を握り直すのでなく、そっと、でも確実にきゅっと力を強めて握っていて、そのやわらかさがとてもすてきだなと思いました。けれど「いつか私の目で見てくれたなら、」あたりでは最近、彼女となら、彼とならうまくやれるかもしれない、幸せがつかめるかもしれない、と思いこんでしまったのがまさに不幸の始まりだったんだな、と結末が浮かぶようになってしまったので、夜のボートと同じメロディのこの曲は、とても切ない場面でもあるなあと。

・最後のダンス後の岡田フランツと春野シシィ
直後に岡田フランツに心配そうに抱きしめられるところや、外野の視線におびえながらの、はやく二人きりになりたい、と歌う春野シシィを見ていると「扇でいつも顔を隠していたの」というフレーズがとても納得いくシシィだなと思います。岡田フランツの「自分の幸せ諦めなくては」は押しつけではなく「僕たちふたりはそうしていかなければならないんだよ。ね?」というかなしみ。「自由がなければ生きていけない美しい鳥」を籠の中に閉じ込めてしまった責をじわじわと感じつつも、皇帝として母の期待にそおうと努力してもなかなか満足にいかない葛藤の日々の中、やっと自分の意思で掴んだ僅かな自由(=シシィとの結婚)を維持する為にもそうする他なかった、という相反する思いを岡田フランツは抱えているんじゃないかな、と考えたくなってしまいます。

・悪夢での岡田フランツ
何百、何千夜となく繰り返されている出来事ならば、一回くらいシシィとフランツ二人で幸せになってもばちはあたらないのじゃないか、と世迷いごとが浮かぶくらいに、ここ最近悪夢を見ていると、岡田フランツがぼろぼろになっていく姿にほんとうに心臓が痛くなります。6/16ソワレは御髪が今まで見たなかで一番乱れていて、前髪が完全に額にばさっとおりている様子に、春野シシィを探す岡田フランツの必死さが見えて胸が詰まりました。
ここで「皇后の姿がない!」のシシィを「皇后」と呼ぶ岡田フランツに違和感を覚える、と以前書いたように思うのですが、それとは対照的に冒頭の「我が妻エリザベート」と歌う岡田フランツの姿はとてもしっくりくるなと。彼女の役目としての名称ではなく「自分の妻」と呼びかけることが自然な岡田フランツ。
演出の都合上等々事情があっての、亡くなった際の歳を重ねた姿ではなく若き皇帝の姿で出てくる我ら息絶えし〜の姿なのだと思うのですが、パパも他のひともそうですよ、と言われたらそれまでながら、シシィと出会った時のままで、というフランツの望みを誰かが汲み取っての若い頃の姿での登場だったらとても切ないなあと勝手に想像してしまいました。



岡田フランツと古川ルドルフ、春野シシィと古川ルドルフについても触れたかったのですが、次回にまわします。私のハプスブルク家!と呼べる三人はやはり前述の方々なのかもしれない。