TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

新国立劇場中劇場『サロメ』6/3




演目そのものへの興味と、ハムレットのホレーショー役でぐぐっと惹かれた成河さんのヨカナーンを目当てに観劇してきました。
Z席、2階3列目下手端から俯瞰するかたちでの観劇だったため、舞台中央、水牢への水路を挟んだ客席寄り塀前方がやや見欠けてしまい、ヨカナーンサロメのやりとりという重要な場面をあまりきちんと肉眼でとらえる事ができなかったので、「見えたもの」「きこえたこと」をメインに言及したいと思います。

中劇場客席内に入ってすぐ目に飛び込んできた舞台上のセットは床もソファも毛足の長そうなラグなにもかも白一色でまとめられたどこかのモデルルームの内装のようで、後方にかけられた大きな薄布を挟んで奥にもどうやら部屋がある様。これから始まる演目がなにかと知らされてなかったら、すぐにサロメのものとはわからぬような、でもここでどうやってお話が展開してゆくのだろうと目をひきつけられるものでした。舞台天井には銀色の鏡(アルミ板?)が張られていて、舞台上の白いセットがそこに映り込んでいます。
そのトータルの真白さとは対照的に、舞台下(といっても舞台の一部ですが)には、舞台上手端にかけられたはしごを降りてひたひたと水で満ちた路を通ると辿りつける、ヨカナーンが閉じ込められている水牢があります。薄暗いながらも開演10分前頃から、そのなかをヨカナーンがゆっくりと歩きまわっている姿が観られました。(観劇済みの方に水牢のことを教えていただいていた為、早めに着席するようにしました)
前述の舞台セットの白、背景に溶けるような、でも周囲の服装との対比でくっきりと浮かび上がるサロメの衣裳の白、ヘロデ王の赤い上着、ヘロディアの紫のドレス、客人の数人が衣装に取り入れていた緑(何人の役の方だったのかしっかり判別することができず…緑のカーネーションの「緑」と同じ意図?)、色が溢れているわけではないのですが、それゆえにポイントポイントの配色がとても鮮やかに目に映りました。


サロメ
純粋無垢な、でも「知らなさ」ゆえの悪意ない残酷さを秘めた多部未華子さんのサロメ、とても魅力的でした。
(もちろん自分の魅力を彼女はじゅうぶん理解しているし、なぜ王が自分を見つめるかも彼女は「本当はそんなの、わかってる」のですけれど、ほんとうの意味で「知って」いたらできないだろうことを彼女はしでかすという意味での「知らなさ」としたいです)
自分をじっと見つめる王に苛立つ表情、ヨカナーンが自分の母を愚弄する声を聞きとめて嬉しそうに事実を指摘する表情、自分を拒絶するヨカナーンに激昂する表情、自分を拒む彼をいかにして手に入れるか思案する表情、彼女の表情がくるくると変わるさまを見たくて、きっと皆息をつめて見守ったり、追いかけ回したり、あげく褒美をとらせるから私の前で踊れと言ってみたりするのだと。肩につかないくらい、横に広がった形の黒々としたおかっぱ、切りそろえられた前髪含む、舞台セットと同じく真白いキャミソールワンピースが清らかさを視覚的に表しているようでした。彼女の身を飾るアクセサリーは胸元の頸飾りでじゅうぶん、どころか、途中で引きちぎられてからは、ごてごてした飾りはサロメが身につける必要などいっさいないんだと思うほどで。


●若いシリア人・ナラボートとサロメ
冒頭で、舞台上手に置かれたテレビモニターに映り込むサロメの姿に見入る若いシリア人ナラボート、今宵の月の輝きを讃え、同時に恐ろしいものを感じながらも、ナラボートにひたすらにサロメを見つめることはよくない忠告するヘロディアの近習。彼女を見つめすぎたナラボートの行いへの代償としての「災い」は、自らの命を断たなければならなくなること。
戯曲だとここでは、(彼は自らを刺し、サロメとヨカナーンの間に倒れ込む)とあったので、サロメの行いをひとときでも中断させようとする意志の現れだったのかと捉えられるのですが、この演出だと既にサロメとヨカナーンは彼の手の届かない、ただ見つめることしかできないところに立ってやりとりをしているので、彼の死がその瞬間に彼らになにかをもたらすことはありません。彼の自害によってもたらされるものが少し変わってくるのかなとも思いました。真っ白いラグの端が彼の血によって赤く染めあげられる、そこをサロメが後に踏むということの効果をとったのかしらとも。
しかし彼の最期の瞬間以上に印象深く、観劇後まっさきにまた観たいなと頭に浮かんだのは、ヨカナーンを水牢から出して、わたしを会わせて!とナラボートに頼む(懇願する?命令する?)シーンでした。ナラボートに何度も同じ内容を語りかける、その度にやわらかく、ささやくような小ささで、強い意志をひめて、表情と同じくくるくる変わるサロメの声音。
カナーンを連れ出すという重大任務と引き換えに彼女が差し出すものは、小さなお花を投げてあげる、ヴェール越しにあなたにほほ笑みかけるかもしれない、というほんとうに些細な、彼女自身には殆ど労力がかからない交換条件。周囲が自分を見る目から、成長するにつれ彼女は自分の武器を知ったのだと。サロメでなくとも性的客体としての自分に、社会がいうところの「女」という立場に置かれている人間は多かれ少なかれ気づいているものだとは思いますが、それは余談。
彼が自分に屈服するのをちゃんとわかっているわよ?あなたはこれがほしいのでしょう?というなにもかも見透かしたサロメの表情と物言いのおそろしさ。寧ろ、わたしが提示したものをあなたは黙って受け取るしかないのよ?という傲慢さか。身を屈め、顔を伏せるナラボートのその背中に覆いかぶさるようにして、あの声で耳元であまく囁くようにお願いともとれる命令をされたら、いったい誰が断ることができる?否!と見ているだけのこちら側にもひしひしと伝わるような場面。
ナラボートの名を呼ぶサロメの声がうっとりするほどやさしげで、彼の名は彼女の声で呼ばれる為につけられたもののようにすら感じました。しびれをきらしたサロメが「見て!わたしを!」と叫ぶまで、顔を伏せて「私にはできません、できません」と頑なに断り続けた彼自身それこそきっと「自分でもちゃんとわかってる」ような。
ナラボートが死んだ際に遺体に取りすがるヘロディアの近習の姿もなんともいじらしくて、でもどこか奇妙で目をひかれたひとりです。
ナラボートの遺体が王の「見えない」ところへずるずるとひきずられて行く際、血に浸された両足が真白い床に二本の赤い線をするすると引いていた構図も目に焼き付いています。

ナラボートはサロメを「見すぎた」ために、しんでしまった人。彼女に魅入られ、好意を寄せていた人。


サロメヘロデ王
義父からのまなざしに明らかに娘に注ぐそれではない思いをみとめて逃げる、そっけない態度をとるサロメ。けれど彼の「見る」という行為、「見られる」ことによってあらわれるサロメの反応によってますます彼女の純潔性が際立つというのも皮肉な話だなあと思いました。ヘロデがサロメを探しに出てきた際、月に向かって「夜の相手を探し求めている色情狂」と侮蔑ともとれる言葉を投げかけることによって、月のうつくしさが際立つのと同じような。月=サロメあるいはヨカナーンというのは、戯曲自体を読んでストレートに解釈すれば浮かぶ発想ですし、細部について言及し出すと、どこまで「宮本亜門演出 サロメ」の感想として書いていいのかわからなくもなるのですが……
サロメの踊りが見たいあまり、思わず「なんでも褒美をとらす」と口走り、彼女の念押しにより、それを破れない、王の約束として誓ってしまったヘロデ。彼の愚行によりサロメの顔にあらわれる勝ち誇った表情は、まさしくこれから起こることを予兆させ、背筋をなにかが駆け上がるように感じました。

下手ソファ前に置かれたテーブルの上にちょこんとサロメが腰かける様、奴隷に銀のサンダルを脱がせてもらうことがあたりまえの、いかにも傲慢な小さな王女然とした様も魅力的ながら、裸足になり、7つのヴェールを纏ってさあ準備はできたと、王の膝の上に、ぐぐっと天を仰ぎ、そらした背をつけるように、身を深く横たえるのを開始の合図として行われる7つのヴェールの舞がとてもとても素敵でした。踊りという踊りではないのですが、携えたヴェールをヘロデ王の肩にかけ、首をやわく締め上げるように引きながら上手へ誘う様子、舞台上を駆け巡りながら、彼女を興奮の面持ちで見つめる客人らに、纏ったヴェールを一枚一枚与えるように投げる様、上手奥の銀のテーブル上の籠に盛られた果物の中からマスカットを掴みとって、高々と差し上げ、その手で搾った果汁をおのれの顔に滴らせる様、ひとつひとつの行為が、へたに彼女の踊りがそこで展開されるよりも「パフォーマンス」として魅力に溢れ、効果的だったのではないかしらと。あんな小さな娘の一挙一動を息をつめて見つめ、追いかけ、狂乱する人々の異常さ、しかしその様子ももっともであると思わせるような、彼らの熱をどんどんと高めていく彼女の振る舞い。見ていて頭がくらくらとするようでした。舞台後方にかけられた薄布の向こうに走り去った彼女が服を脱ぎ捨てたところを、布に映る影だけで表す演出も好きです。多部未華子さんを脱がせないうんぬんでなく、この純潔無垢なサロメが見せる肌はキャミソールワンピースからすらっと伸びた両腕と両足、まあるい肩と、走り回って汗がにじんだデコルテだけでいいように思います。

舞の前の約束を取り付けた際のサロメの表情もさることながら「欲しいものはなんだ?」とヘロデに問われた際の、勿体ぶるような仕草、今からわたしの望みが叶う!という期待に満ちた瞳、赤く染まった頬、全体的に恍惚とした表情がおそろしく印象深いです。もちろん客席にいる観客はサロメの望みがなにかわかっているのですが、あの場面は、彼女のじらすような仕草に翻弄され、なんだなんだ?あの娘の望みはなんだ?と胸をどきどきさせながらいまかいまかと待つ、舞台上の客人らの心に同調しながら見ていたように思います。

これは演出というか役者さんの語り口調、そして訳のすばらしさなのだと思うのですが、ヘロデ王がヨカナーンの首の代わりにこれはどうだ?これは?と並べ立てる宝石描写の美しさが耳に心地よく、それこそ連ねられた言葉の宝石のように思えてなりませんでした。平野啓一郎訳の戯曲を購入したので、重点的に読み返したいです。

ヘロデ王サロメを「見すぎ」、けれどそれゆえに彼女の狂気に気づき、彼女を「見ることをやめた」人。

「わしはもう、何も見たくない。わしはなにからも見られたくない」がこの舞台における「見る」ということを象徴しているようで、すごくひっかかる台詞。


サロメとヘロディア
紫のドレス、その佇まいで夫のヘロデ王をも圧倒する存在感に満ちたヘロディアサロメを見続ける夫・ヘロデ王をとがめ続けるヘロディア。娘に性的なものを期待する男としての夫と、夫に性的な目で見つめられる女としての娘、彼女はどちらに我慢ならないのでしょうか?
そんなことを考えながら見ていたので、下手手前のソファで並んで寛ぐ際、上手奥のテーブル前の椅子に並んで座る際、サロメの肩を背を撫でるヘロディアのうつくしい手は「娘」に対する「母」としてのものなのだろうか、それとも「夫に見つめられる若い女のうつくしさ」に対する「同じ女」としての皮肉、自嘲が混じっているのだろうか、と悩んでしまいました。あるいはそのどちらもか。
(娘と母という関係性について過敏になりすぎていけません!)
銀のお皿を笑みをたたえながら持ってきたヘロディアが、歓喜でぶるぶると震えるサロメの手を片方ずつ持ち上げて、その縁をぐいと握らせるシーンもとても好きです。そうしてその皿をしっかと両腕で抱きこむサロメの表情も。
夫にサロメを「見ること」をやめろと言った人。


サロメとヨカナーン
ロディアの娘・サロメの目、預言者・ヨカナーンの目。くちのはよりいずるまえに、既に目はものごとを語るけど、ではないですが、おふたりとも、すごく印象的な目をお持ちの方。
いちばんくやしいのが、パンフレット舞台稽古写真として載っていた、ヨカナーンサロメが身を伏して向き合うシーンがほとんど見欠けてしまっていたことです……
サロメがどんな表情で、ヨカナーンのはねつけに激昂していたのかは見ることができたのですが、それに対峙するヨカナーンがどんな表情をしていたかをあまりきちんと見ることができなかったなあと。ヨカナーンのことはほぼサロメの表情で推測して観ていたような…… とてもくやしいのでできることならば1階席でもう一度、観たいです…。
それでも見えるものを見るしかない、と覚悟を決めて見欠けシーンは声を集中して聴いていたのですが、最初のほうの効果がかけられた予言を告げる声はともかくとして、どうしてあんな特別な力を持ったように聴こえる声が出せるのか、ふしぎで仕方がなかったです。水牢深くこんこんと湧き出してくるようでいて、誰かと対話する為でなく、高みからとうとうと降ってくるようでもある成河さんのヨカナーンの声の響き。預言者の声なんて生まれてこのかたきいたことある筈がないのに、なにか大いなる存在の意志を、わたしたちに分かる言葉に訳して口から発しているのだ、と信じてしまうような。終演後もあのお声をしっかり耳の奥に閉じ込めて持って帰ることができるよう、そーっとそーっと歩きたい、くらいの気持ちになりました。

カナーンの首を得る承諾を勝ち取って、舞台前方端からいまかいまかと水牢を覗きこむサロメ「あの男、殺す気がないんだわ!」と焦れてナーマンを罵るサロメは、いつのまにかひとり舞台に取り残されています。舞台の真中に佇むサロメに集中するあまり、後方から音もなく流れ込んできた黒ずんだ液体が、床を染めあげていることに気付いた時にはぞっとしました。舞台上が薄暗いゆえに黒ずんで見えただけであり、ぱっとサロメにスポットライトが当たった瞬間、サロメの足元まで浸食してきたその液体の色は赤であることがわかります。後方に投げ捨てられた銀のお皿がいつ拾われるのかいまかいまかと待っていたのですが、ナーマンはヨカナーンの髪を掴んで首を持ってきますし、サロメは両手で直接ヨカナーンの首を抱えるので、お皿の出番は以降は特にはなく。
舞台全体が銀のお皿だったのか、それとも頭上の銀の鏡に映ったそれが?と今ふと考えてしまいました。完全に血を思わせる液体の赤で満ちた床にぽつんと置かれた中央のソファ上、ヨカナーンの首と褥を共にするように横たわってまるまるサロメ、赤く染められたワンピース姿が頭上の銀の鏡(ということにします)に映り込んでいることに気付いた時は、ああこのための鏡だったのか!と画のうつくしさにぞっとしたのですが。

「もしわたしを見ていれば、きっと、わたしを好きになったはず。わたしは、だって、ヨカナーン、お前を見て、お前を好きになったんだから」は「見る」ことについて言及されたなかでも特にはっとした箇所です。「見た」もの、「見つめ続けた」ものは彼女に魅入られてしまう、よくないこと、災いがおきる、だからヨカナーンは頑なに彼女を拒んだ? 確かに人を魅了する魅力に満ち満ちていましたが、この舞台において「妖艶」という言葉から遠いところにいるように見えるサロメは、確かに知らなさゆえの残酷さは持ち合わせていたけれど、ヨカナーンが拒絶しなければならないほど悪しきものには見えなかったんです。見落としがあるかもしれない可能性は否めないので、きっぱりとは言い切れないのですが。ヨカナーンのようなひとがはねつけるから「悪」なのだ、と思いこみは出来ても、単体で見たときに果たして? けれど対人関係で当人の属性などくるくるかわるものだからなあ……と、もう少しきちんと考えるためにも、戯曲を読み込みたいなと思いました。

もう一度!観劇したいです!!(口にすればほんとうになる)



※引用:『サロメ』ワイルド作、平野啓一郎訳、光文社古典新訳文庫より