TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

エリザベート 5/27







春野シシィ、マテトート、岡田フランツ、古川ルドルフの、個人的に今一番観たい組み合わせの日でした。帝劇では確かただ2回しかなく、次は6/21(木)ソワレのため、基本土日のみ観劇が許されている人間は涙をのむしかない回なので、この日に観劇できてとてもよかったです。
上記の4名の方はどの方も、ここがこうで!と細かく取り上げたいくらい素敵でいちいち見入ってしまっていたのですが、なかでもこの回は特に岡田フランツと古川ルドルフに集中して観劇していました。

前回もすでにずらずらと書き連ねてしまったので重複する点も多々出てきてしまいそうと思いつつ、改めて岡田さんのフランツにふれたいです。
登場シーンの執務室での若フランツ時代から、皇帝として対峙しなければならないものが周囲にあるときはいつも、眉間にきざまれている、その縦じわをそっとのばしてさしあげたい、などという差し出がましい思いは、岡田さんのフランツのどういった部分を見て、わき起こる感情なのでしょう?皇族としての気品は十分に備えていても、それがいい悪いではなく、禅さんの若フランツがその時点で既に持っている、あるいは生まれながらの、皇帝業を務めるための才気のようなものはあまり感じられず、もし彼が国をきちんと治める名君になる道があるのだとしたらそれは、「息子は自由と叫んだだけ!」の母親をさがらせようとする兵士を制止するような岡田フランツの心やさしさをわかって、そんな彼に取りいって権力を悪用しようとせず、心底慕ってどこまでも盛りたてようと苦心する、頭の切れる臣下がいたときだけのような気がします。「もし選べるのなら、寛容で善意の名君と呼ばれたい」が自分の名誉のため、よく見せる為でなく、心からの本音であることがわかるし、けれど同時にそれはむりだろうなあということが、後ろに控えている宮廷で唯一の男、の存在を思いだし、一瞬で想像がついてしまうところ。殿下はいささかひよわで…と彼もまた言われていそうなフランツ。
そんな宮廷に居場所がなさそうな、あっても窮屈にいままで過ごしてきたのだろうと思わせるような彼が、お見合いの席でシシィにひとめぼれをして「もぎたてのフルーツ いちごのくちびる 瞳はアーモンド」と夢みるように口にするところは、宮廷から離れた場所でひととき執務を忘れるくらいの安らぎを得ているようで、なにを寝ぼけたことをと思うより先に微笑ましく感じてしまいます。岡田さんのフランツのほわっとした感じからか、連ねられるめるひぇんな言葉がひどくしっくりくる印象。
まだ春野シシィとの組み合わせしか観ていないので瀬奈さんとの組み合わせはまた違ったふうに感じるのか、いまからとても気になるのですが、シシィとフランツふたりの「幸せになりましょう」からの「あなたが側にいれば」で並ぶさまが、シシィの「あなたがいる」「夢はそこに」にふわっと嬉しそうに笑う岡田フランツがほんとうにかわいくて、私は岡田さんのフランツが大好きだけれど、単体ではなくきっと、シシィのことが大好きな岡田フランツが好きなんだなと。春野さんのシシィのたおやかさ、線の細さとあいまって、ふわっとやさしい岡田さんのフランツとはとてもしっくりくるように感じました。なまじ寄り添いあえそうだったからこそ、その後の二人の間に実は見えない亀裂があったことを、それが少しずつ広がっていったことが、場面が展開してゆくにつれてどうしようもない事実として突きつけられるようで、なんで、なんで、あんなに幸せそうだったじゃない、と見ているこちらがやりきれなさにだだをこねたくなるような。瀬奈さんのシシィは山口さんのトートとの組み合わせで観たのですが、なんとなく瀬奈さんのシシィは血縁関係としてゾフィーがおばなのがわかるようなシシィだったので、岡田さんのフランツはママとは正反対の人を選びそうだなという意味でも、春野さんとのほうがよりしっくりくる気がします。禅さんと瀬奈さんは対等に渡り合えそうという意味でのしっくり。
あなたと一緒なら、と誓った結婚前から、ハンガリーの革命軍による発砲事件時身をていしてシシィを守った際(この日もとっさながら全身全霊をかけて「皇后」でなく「妻」を守る!という彼の意志がにじみでるような庇い方をしていて、だからあなた皇帝という自分の立場をわかって??とつかのまのハンガリーの空もとい帝劇の天井を仰ぎみたくなりました)、ルドルフの霊廟でのシシィの抱きしめ方から伝わる気遣い以上の愛情、夜のボートでの「愛してるよ」も乗り越え、そこそシシィがルキーニに刺される再現で下手の暗闇から手をはっと伸ばす時まで(この日は下手の前の方の席だったのでよけいくっきり見えてしまい……)、彼の気持ちは一貫しているなあということがひしひし伝わってきて、あなたどれだけシシィが好きなの、と思わずため息がこぼれてしまいます。生まれる場所と立場が違えば、パパの初恋の人はママなんだ!ははっ、と臆面もなく息子に言ってしまうような、いつまでも青年のようなひとでいられたはずなのに、と。あんなに溢れんばかりのシシィ好き好きオーラが出ていても、「君の優しさで僕を包んでほしい」という字面で目にしたらなんという調子の良さ、とあきれてしまいそうな、ややもすると独りよがりにも感じる詞を歌っても、全くそう感じさせない不思議。全然じとっとしたしつこさいやらしさを感じないってなんなのだろうと思います。見返りを求めていないわけではないのに、でも岡田フランツはシシィに微笑みかけられたらそれでじゅうぶん幸せだったのかもしれません。
夜のボートでは、春野シシィ&禅フランツを初見以来見ていないから禅さんの時もそうなのかもしれませんが、岡田フランツの情感がこもった、完全にメロディにのせていない台詞の「愛してる」をうけて、同じくメロディにのらない春野シシィの「わかって」が前回と同様、ほんとうに胸にしみいってたまりませんでした。あんまりにも岡田フランツに心を寄せすぎて、絶対分かり合える筈なのに、と思ってしまうので、そうできるかできないかはともかく、もう少し気持ちとして引いて観てみたいかなと思います……。
そしてその流れでの悪夢は、初見ではマテトートのその指揮姿のうつくしさを息をつめて見つめていたいた筈なのに、前回以上に岡田フランツのぼろぼろになった姿に目を奪われ過ぎて、気づいたらマテトートの指揮を見逃していて頭を抱える、というありさまでした。遙か高みにいるあの美しくも非情な存在にはむかうなんて、もう絶対に勝ち目などある筈がないのに、それでも「皇后の姿がない!」(ここ、岡田フランツなら「妻」あるいは「シシィ」と言いそうな気がしました)と髪を振り乱して、必死の形相でトートダンサーにもまれながら、彼らをかきわけていく岡田フランツのけなげな姿に、もうやめて!と心の中で何度叫びたくなったか。
生前の姿として、あそこで出番が終わってしまう彼が報われよう筈もなく、やはり「あなたが側にいれば」でシシィが「2人で馬に乗り世界中旅する 何者にも妨げられず自由に 生きて行くのよ」と歌った時に首を縦に振っていれば……!とどうしようもないことを何度も考えてしまう始末です。そういう話ではありません。

そんなシシィ大好き岡田フランツと今回のルドルフである古川ルドルフだと、どっちがシシィ(ママ)のことがより好きでしょう対決になってしまう気がしました。古川ルドルフを春野シシィにへばりつかせて、パパは大人だから譲らなきゃダメでしょ!ってどこからともなく言いたいけれど、肩を落としてすごすごさる岡田フランツの背中の丸まりかげんがかわいそかわいすぎて絶対邪険になんかできるものか…!〜続く〜という感じです。どこのパラレルワールドなのだろう。

前述の、シシィとのシーンは基本的にすごく穏やかでやさしい岡田フランツですが、ルドルフへの接し方が、その反動のようにとても容赦ないし、おとなげなくも感じます。でもその激しい振れ幅から、中身はやはり「もし選べるのなら、寛容で善意の名君と呼ばれたい」と歌った時の彼のままなのに、威厳を保とうと必死で虚勢を張っている様にも見えるんです。眉間にきざまれている、その縦じわをそっとのばしてさしあげたい(2回目)。

他の方のご感想で知って注視していたのですが、岡田フランツがくしゃくしゃポイした新聞記事を、古川ルドルフが屈んで拾い上げて、抱えてた本を台にして丁寧に皺をのばす仕草が、その指先がとてもうつくしかったです。彼のルドルフは、闇広ラストのぐっと顎をあげて決意に満ちた顔をするところと、「父を説得できなかった!」の革命軍への、自分の無力を恥じているような、語りかけるような口調と、「ハンガリーの国王に!」の光を見つけた表情と、あのお手振りの仕方と、そこから一転しての「ルドルフ、ハプスブルク!」の一拍置いた言い方が好きで、それってもしかしてほとんどじゃないかなとも思います。今回のマテトートとの闇広の絵面も冗談みたいにうつくしかったですが、古川ルドルフは既に記したとおりママのことがすごく大好きそうで、それゆえにママは僕の鏡だからの語りかけるような歌い方の切実さ的に、後者の方がより好きなあと。革命に自ら身を投じている、そこで活躍するんだという気概ももちろん見えますし、前述のあの車の上に乗って、少しの戸惑いと決意を秘めて、それでも凛とあろうと民衆に向かって手を振る彼の姿を見てしまったら、エーヤン、ルドルフ!の声かけで彼の頬にわずかでも赤みがさして、心に勇気の火が灯るならいくらでも手を振り返したい、エーヤン!と叫びたいと思います。そこできりりとしていた古川ルドルフがあるからこそ、久々に母の顔を見て、その前の父とのやり取りで気を落とすあまり、目線を合わせる為に、背をまるめる姿がよけいにちいさく見えるのかしらと。「ママ、どこなの」と呼びかけるように歌っていたちびルドの姿がすっと重なる様でもありました。「ママも、僕を見捨てるんだね」は目にいっぱい涙をためながら、言葉じりを震えさせながら。ある意味ストレートであり、そこにこめられているのは、あくまで子どもから母へのそれではありますが、じっとりとした情感。
その後の母シシィに拒絶された古川ルドルフのマイヤーリンクは、もうなんと言葉にしたらよいのか。22に観たときは見落としていたのかもしれませんし、もしかしたらそれから少し変わったのかもしれませんが、今回27日に観劇した際、トートダンサーに翻弄されている際の焦点定まらぬ目つきと裏腹に笑んでいる彼の口元が、ほんとうに怖かったです。既にあの世とこの世の境を見つめているのか、何も見えていないひとのそれなのか、弧を描くくちびるも意志を宿しているのかいないのか。拒絶されてしまった瞬間に彼の中で終わったものが、途方もないものだったのかと。そして銃を渡されてふっと微笑むんですね。やはり、ああ、楽になれる、という意味の笑みなのか。線の細さがまさに春野シシィの息子という感じ、「この世界に安らげる場所がない」のがひしひしと伝わるような、余力がいっさいない最期でした。



冒頭に記した4人の次に追っていたのは中山さんの大司教様です。あのお衣装の似合いっぷりと、端々ににじみでるなまぐさ坊主な感じがたまりません。マダムヴォルフのコレクションではそんな、なまぐさ坊主の極みな大司教様を熱心に追ってにやにやしていました。ストールを肩にずるっとかけられてからの堕落っぷりよ!あなたどこ見て十字を切っているの。
前述は少々下世話だけれど、もちろん他のシーンも、中山さんの佇まいになんであんなに目がいってしまうのだろうと。ロミジュリの大公様の時よりたぶん観ている。つややかな御髪(ウィッグです)とお髭(付けてます)とあの服装(制服です)が好きだから。政治的見地からではなく。





次は6/3です。ゆうたくんもたくさん観たいけれど、平方さんと、未見の大野さんもどこかで観たいなあと思っています。