TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

エリザベート 8/18 ソワレ





●日替わりキャスト・敬称略
春野・マテ・岡田・古川・寿
→今更思い立って記してみました。マイベストメンバーの日。ちなみにあとは大阪の9/1しかないです。

約2カ月ぶりのエリザです。\待っていたー!/
どのくらい待ち焦がれていたかというと、「我ら息絶えし〜」で下手最奥の棺桶からおかだフランツの腕がにゅっと伸びてきたのを目視しただけで、こみあげるものをおさえるのでせいいっぱい、という状態になったくらいです。もうちょっと落ちついた方がいい。

個別の感想は後ほど、全体についてふれると、8/18ソワレは頭から終わりまですべての出来事ひとつひとつがぴたぴたぴたっとはまって、ああだからこういった結末になってしまったのだな、ととても腑に落ちる流れでした。しっかりと噛み締めた。世俗との折り合いをつけられなかった春野シシィ、そんな彼女を愛した岡田フランツというひとの生き方のもどかしさ、「すれ違うたびに孤独は深まり安らぎは遠く見える」ようなふたり、そしてそんな二人から生まれてきた古川ルドルフが受け継ぐ孤独の深さ、彼のむかえる最期。後述する、今まであまり気にとめずさらりと流していた歌詞や台詞が深いところに落ちてきたり、前述のようにひとつひとつを関連付けて受け容れることができたのは、この役者さん方の組み合わせだったからか、私自身が2カ月ぶりの観劇だったからか、8/18ソワレという今回だったからか、そのすべてかどうなのかはわかりませんが、この回を見る為に遠征を決めて、本当に良かったなと思いました。
『ルドルフ』がいままでの何もかも塗り替えるくらいあまりに衝撃的だったのと、『スリル・ミー』を観て得たものの大きさとで、もしかしたら今の自分ではエリザを楽しめないのかもしれない、とやや不安を残しながらの遠征だったのですが、そんなことは全くなく、ばかげた杞憂だったなと終演後強く感じました。それぞれにそれぞれの面白さがあって、三つとも私は好きで、かつ前の二つを観てからだからこそ、今回のエリザを観劇して見えてきたものもたくさんあるなと。


●岡田フランツと春野シシィ
執務室場面で御髪の整え方が足らなかったのか前髪がぱさぱさしていたのが、どことなく毛並みの色つやが悪くなっているように見えたのと、帝劇よりさらにしょんぼりとしている表情もあいまって、いますぐこのひとをここから連れ出さなきゃ、いっときだってここに置いてはおけぬ、と思ってしまいました。それまでもあの場所に不似合いな、生まれる場所を間違えてしまったひとだなとは思ってはいましたが、あの場で求められるどんな決断を下すのもいちいちゾフィーの顔色を伺わなければいけない感が伝わるくらい、母親の顔を覗き見る回数がすごく多くなって、おどおど具合が増していたというのも、この場所では安らぎを得られない人、と思った一因かなと。皇帝という地位のひとにこんな気持ちを抱いていいのだろうかと思いつつも、思わず手を差し伸べずにはいられないような、それがかなわぬなら誰か手を差し伸べてと思ってしまうような岡田さんのフランツ。ゾフィーに結婚の話題を持ち出され、立ちあがって後じさりしながら白手袋を後ろ手でさらう姿も頼りなく、お見合いに向かうところも母の命で仕方なく、といった様子。よく彼は今の今まであの場所で生きてこれたなと心配で仕方がなくなってしまう姿。
けれどその彼の生きづらさが前面に押し出されたようなありようが、シシィに出会ってから明らかに変わります。言ってしまえば容姿からの一目ぼれではあるのだとしても、それでもゾフィーに押されての政略結婚相手とのお見合い、とどうしようもなくむかった先で、彼の灰色の世界に鮮やかな色を与えるような人物と出会えた、ということについては、もうあの瞬間はただただよかったなあとしか思えません。その後の流れを一瞬でも忘れて心の底から、これがきっかけとして彼の人生が幸せな方向にむくといいのに、だなんて望んでしまいたくなります。あなたがそばにいれば、の岡田フランツの「ささやかな幸せも掴めない」でぎゅうっと春野シシィの手を握る、その力強さに、だから今目の前のあなたを手放したくない、というような切実さを感じました。
帝劇最初の方はもう少し笑みを浮かべる箇所も多かった気がするのですが、もういまとなっては岡田フランツの満面の笑みは「すべて、ぱあなの!」直後と「世界中旅する」のシシィと手を繋いでのくるりと一回転する時の2回のみで、でも一瞬だから輝くし記憶に残るんだろうなあと。満面、というほどではないけれど、舞踏会時のシシィとワルツを踊っている時も。あのとろけそうな笑みを観るために名古屋にきた!と強く強く思いました。本当に愛おしいものを見つめるときの表情。「人生が三拍子なら」「マエストロどうか」岡田フランツの為にあのワルツを止めないでやってほしかった(ルドルフネタです)

黄昏時の春野シシィと岡田フランツの結婚式にはすべての不幸をここにはじめよう、ではなくよき日にベルを鳴らそう天使たちが御国で、と被せて無理やり歌って\もってけ!これもだ!!/とライスシャワーを投げつけたい病にかかっている人間ではありますが、でもむりなんだ、このふたりは完全にすれ違ってしまったな、ということがこの日の夜のボートからはひしひしと伝わってきて、やり直せると信じて春野シシィに歩み寄るも、ふいと顔を背けられてしまったときの岡田フランツの驚愕からの絶望、と変化した表情になんとも胸が痛くなりました。春野シシィの「わかって」が「なぜあなたにはわからないの?」とわかりあえないことが自分にはもう分かってしまったのに、なぜあなたはここまできてわかりあおうとするの?「無理よ」と諭すふうにきこえたんです。冒頭にも書いた様にまさに 「すれ違うたびに孤独は深まり安らぎは遠く見える」ようなふたり。

そのすれ違いは「あなたも私を見殺しにするのね」、「譲り合おう」「敵だわ!」、「これは最後通告です!」、フランツの不義の発覚等々、全ての積み重ね、ひとつひとつの出来事が作用してのものだなあと、今まで別に見落としていたわけではないのに、すべてが連なって一つの道筋になっていると今までにないくらいはっきり見え、帝劇で回数を重ねて観たエリザと同じ演目の筈なのに、ひどく新鮮な思いで見ることができました。上記シーンでは、春野シシィの「この世に安らげる居どころがない」「人の世を知らなすぎたわ」がひしひしと伝わってくるあやうさ、線の細さ、ぎりぎりのところに立っているひとの気丈さ、自分の心を守るためにときに肉親であろうと他者をすっぱりと切り捨ててしまう冷たさを感じつつも、同時にそれはシシィという役としていやなものでは全くないなあと。帝劇最初の方でもっと露わだった、春野シシィの少女のような傷つきやすさやわらかさを守るため、成長するにつれていたしかたなくできた鎧なのかなと。

夜のボートからの悪夢の岡田フランツはもう痛々しくてしかたなく、すでにぼろぼろの彼になんて仕打ちだあれは、と憤ってしまうほどでした。ルキーニにコートを脱がされたときにもうすでにぎりぎりの状態なのに、彼に必要なのは安らかな眠りでしょう?と。フランツがシシィを妻に選んだのが、彼女にとってだけでなく、ハプスブルク家にまつわるすべての不幸のはじまりだったのだ、お前が引き金をひいたんだ、悪いのはすべてお前だ、と彼をとりまくすべてのものにいっせいに責められるような場面。妻には見放され息子には先立たれもう十分苦しみましたよ彼は?と誰かにとりなしたくなります。相手はトートか運命か。
どうしようもない、取り返しがつかないのはわかっていて、だからこそなんでこの舞台上の、岡田さんの演じるフランツというひとがこんな苦しい状態になっているのに私は客席でただ祈ることしかできないのだろう、と差し出がましいにもほどがある思いで、この演目を見て初めて悪夢のところで少しだけ泣きました。なんでこんなふうに決まった筋書きで動いている筈の、舞台の上で生きている人の思いと寄り添いたくなってしまうのか、自分はただの一観客なのに不思議で仕方ないなあ、というのは余談なのですが、それほど板の上でフランツをまっとうする岡田さんがこちら側に訴えかけてくるものが大きかった、それをひしひしと感じた、ということを書きとめておきたかったんです。彼は苦しんでいるけれど、それは自分のためだけでなく、愛する者を愛し続けようとしたからこそ、つきまとう苦しみじゃないのかなと。だからなんなのだ、それこそ見返りを求める行為なのだから当人の単なるエゴに該当するのではないか、というひともいるかもしれないけれど、私には、両手を差しのべてシシィの愛を懸命に請い、受け取ろうとするだけでなく、自分からも与え続けようとする彼の姿がとても尊く、愛おしいもののように思えました。
史実のフランツでもスタンダードな「フランツ」という役についてでもなく、あくまでも「岡田さんの演じるフランツ」から私が受け取って感じたことです。



●岡田フランツと寿ゾフィー
執務室のシーンのこの親子の力関係がより、ゾフィー>>>フランツになっていたのに反比例するように、ゾフィーの最期間際の二人が対峙する場面でのやりとりに、また変化がありました。「義務を忘れたものは、滅びてしまうのですよ」で彼女と顔を近づけて見詰め合ったのち、岡田フランツが、思わず、というふうにゾフィーに差し出した両手を、その杖を握る手をそっと包み込むように、被せるようにしていたんです。帝劇では母のことを思いやる余裕がこれっぽっちもなかった、シシィしか見えていなかった岡田フランツのこの変わり様に雷に打たれたような衝撃をうけました。私が観たことのない、けれど岡田フランツというひとのありようを思えば確かに納得のゆく行動をとる彼がそこにいました。
肩にのしかかった重圧に眉間に皺を寄せながらぎりぎり耐えているような岡田さんのフランツだけど、本来はそうやって自分の保身もうっかり忘れて目の前のものに、片手だけでなく両手を差し伸べ、その時自分が持てるすべてを差し出してしまうひとなんじゃないかな、とひとつ前の項で記したように、歳を重ねるにつれて覆われ表に見えにくくなっていた彼の根っこの部分が露わになったシーンなのかなと思いました。岡田さんのフランツもまだまだ変化していっていて、それを2か月を経て観ることができた、という嬉しさ。9月16日まで、またこれからどうなっていくのか楽しみでなりません。

実は今期エリザ10回目にして未だに杜さんのゾフィーを一度も拝見していないので、フランツとの関係性が杜さんだとどうなるのか、気になって仕方がない今日この頃です。


●春野シシィと岡田フランツと古川ルドルフ
春野さん岡田さんゆうたくんのハプスブルク家は同じ質感というか絵柄というか、引かれる線の細さが一緒で柔らかい丸い感じがします。5月半ばの記憶で止まっているのでめったなことは言えませんが、逆に瀬奈さん禅さん平方さんも同じ質感で同じ絵柄のイメージです。太めで迷いなく引かれた線で描かれている。
そんな柔らかいまるい線で引かれた今回のハプスブルク家の方々ですが、ゆうたくんのルドルフは岡田フランツと春野シシィの息子だなあ、と観ていて今までで一番強く思いました。この儚げで憂いを帯びた瞳のママパパにして、この深い孤独を抱えた息子である、というような。たぶん以前書いたことと重複する箇所が多々あると思うのですが、「殿下はいささかひよわで…」と言われたちびルドがそのまま青年になってしまったような、母親の愛情に飢えて、かつ父親にも認められたい、というところがひしひしと伝わるルドルフ。母親を求めている部分はママは僕の鏡だから、からなのですが、久々に会った母親、春野シシィに懸命に訴えかけ、そっと両手をとられ握られ、受け容れられた、と思うも一瞬のこと、すぐそっと手を離されてしまうところ。春野シシィが振りはらうのではなくあくまでも柔らかに手をすっと抜くので、古川ルドルフの手は春野シシィが握ったかたちのまま。そのまま背中を丸めて顔を伏せてじっとなにかに耐えているゆうたくんのルドルフの姿が、後の彼自身のお葬式の場面での、春野シシィを抱きしめるもすり抜けられてしまう岡田フランツの姿に重なって、このふたりはもうどうしようもなく親子だなあと思って嘆息しました。ルドルフの父となった現在の前述シーンも、恐らく「殿下はいささかひよわで…」と岡田フランツ自身も言われていたであろう頃の姿に一番近い、在りし日の執務室の若きフランツにも驚くほどゆうたくんのルドルフは重なってしまいます。周囲の期待と、それをどう努力しても実行できない自分のギャップに深く打ちのめされているところ。人に自分の存在を求められる、ということに飢えている古川ルドルフが、民衆に馬車の上から手を振るシーン、独立運動でのダンスはいつ観ても胸がいっぱいになってしまいます。加えて今回は、革命軍はルドルフ自身の実力というより、王家の人間という、彼らが決起する為の旗印、傀儡としての存在を求めているのだろうなということにじっくり思いを馳せてしまって、そんなふうに求められていることに気づいてか気づかずか、それでも嬉しそうにしている古川ルドルフの姿がよりせつなく思えてしまいました。
ママは僕の鏡だから直後の「ママも僕を見捨てるんだね」のなんとも深い響きの切実さが、かつて春野シシィが岡田フランツに向けた「あなたも私を見殺しにするのね」に遡って結びつき、ああこうやって負の連鎖が連なってゆくのだなと。岡田フランツが春野シシィにしたことを、春野シシィは古川ルドルフにしてしまって、でも岡田フランツも春野シシィを追い詰めるつもりなんて毛頭なく、ただ彼女の為を思って言ったことであるし、春野シシィにしたって彼女なりの自己防衛の意識があって口にしたことでも、息子への思いやりがゼロなわけはなく、ましてや死に追いやろうとしたわけでは全くない、それなのに、というところがなんとも残酷です。春野シシィ、岡田フランツ、古川ルドルフは三人ともこの世でやすめなそう。

やっぱりハプスブルク家の皆さまをひいきに観ていると、ストーリーの納得ゆかなさというより、個人的な特定の人々への思いいれからラストがどうしても消化不良になってしまうのですが、シシィの亡骸を棺に入れるも、最後の最後はふい、と上手に顔を背けてシシィのほうは向かずに静止したまま暗転するマテトートの終わり方に、彼は結局シシィについてのひとかけらも手に入れられなかったことを自分でもよくわかっているのかな、とも思い、概念としてのトート(死)がそれを求めるかは別として、こんなに誰も幸せにならない話っていったい、と改めて呆然としました。この期に及んで何を言っているのか。
何度観たってフランツが幸せになる結末はないし、ハプスブルク家が滅亡への道をひた走っているのを目の当たりにするということに変わりはないだろうに、真剣にそのことに思いを馳せると心のどこかがしおしおとしおれそうになるのですが、そんなことを口にしつつ、あの舞台の上にほんの束の間だけ確かに私が大好きなハプスブルク家のひとたちが生きていることを確認したくて、中日まで追いかけてきてしまったのかなと、きっとそうなんだろうなと思います。



どの項にもいれられませんでしたが、ミルクの「新しい時代を今この手で掴み取ろう」が改めてすとんと落ちてきたのはきっと『ルドルフ』を観てからだから思います。