TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル『スリル・ミー』  良知×小西ペアについて 2







スリル・ミー観劇記録(追加)



田代×新納:7/23 19:30、7/29 15:30
柿澤×松下:7/29 12:00
良知×小西:7/26 14:00、7/28 12:00

大阪遠征は今回はしないので、私のスリル・ミーの夏は終わってしまいました。と自分で打った一文を目にし、事実に再度打ちのめされています。
おやすみ期間と悠々と構えていた5、6月にエリザと出会ってしまったことが響いて財政がハプスブルクだった為、韓国ペアは観ることがかなわなかったのですが、柿澤×松下ペア含め、日本3ペアはすべて観ることができ、改めて、スリル・ミーってなんて奥深い掘り下げる余地が無限にある作品なのだろうと、この演目の懐の広さに驚き、嬉しくなりました。つい1か月前まではにろまり以外のスリルミーってどういう感じなんだろう、とまったく想像をつけられずにいたので。
東京楽直後に再演発表、という形式がどこかのABZを思い出させつつも2013年3月が今からとても楽しみです。目の前にぶら下がるでっかいにんじん!

以下はらちこにペアをしつこく反芻しつつ、にいまりペアとの違いを比較したりしなかったり。思い出したところをとりとめなく連ねる感想です。
前回の記事と重複したところもあるかもしれませんがお許しを。


○バードウォッチング〜僕はわかってる
まりおレイの、楽しそうな笑みを浮かべてはいるけど、それは今鳥を観察する、という行為についてではなさそう、それゆえに底知れなくて怖い、というのとも、松下レイの、全く楽しくなさそうだし淡々としているけれど、それはバードウォッチングという行為に慣れているからであって多分この人自室には鳥のはく製とかたくさん飾っていそう、鳥マニアっぽい、というのも違って、ただバードウォッチングそのものへの楽しさと、待ち合わせの時間を過ぎても彼がこないという状況へも、彼がどんなに遅刻してもくるという確信を得ているような全くの不安のなさからなせるらちレイの笑み。
このこいったい何時間待っていたのだろうか、と初歩の初歩的なところに思いを馳せてしまったのですが、「彼」が悠々と遅刻してきたふりをしつつも、実は待ち合わせ時間前にきて、じっと「私」が自分を待つ姿をもの陰で見つめていたらどうしよう、と考えてしまいました。「私」が自分を待っているということの確認をして密かに充足感を得たり、バードウォッチングしてる姿のいきいきっぷりに、待たされているんだからもっと待たされている人間らしく不安や焦りを見せろ、と勝手なことを思ったりしていそう。こにたんの彼ならやりかねないかもと思いました。求められていたいのは彼の方。こにたんの「彼」とまったく友達とうまくやれていなそう、というより友達がいなさそうな様子から(「ニーチェ研究会」はどういう経緯で入ったのか、そもそもそこでちゃんとやれていたか余計な心配をしてしまいます……)、半年もらちくんの「私」と離れていて彼の方こそ大丈夫だったの?と思ってしまうし、「でもお前にとっては孤独で、辛くて長い日々だった」がそれはあなたの台詞でしょう?と問いかけたくなる。でもその言葉に「ああ、その通りだよ」と口にするらちくんの「私」の笑顔がもう「僕はわかってる」というような表情なんです。僕にとってもそうで、でもきみにとってもきっとそうだったんだよね、でもきみがそういう言い方をしたいならそれで僕はかまわないよ、という。
AがBの世話を焼いたりBのほうがAに熱烈な気持ちを向けてるようで、実際はAのほうがBに助けられてるし救われている、深く寄りかかってBなしで生きられないのはAのほう、というよくある関係性の典型的な例だと思っています。

どれだけ「私」が表情やしぐさや言葉で気持ちを投げても彼は彼だけで完結して、身の外側をすべてさらりと滑り落として”受け”流してすらいないようにも見えるこにたんの「彼」でしたが、全部「私」が放ったものは実際は届いていて、内側にこもる音の反響を楽しんでたどころから「私」が自分に向かって投げてくる、というその事実だけでもう十分満ち足りていたのでは、と思います。「私」から「彼」への一通の感情だけでなく、相互の心の交歓があるなと、らちこにペアは特に、二人の交わす言葉のニュアンス、声音、表情、スキンシップからそれを感じました。おそろしく微細な部分だし、そう思い込んで観ればどうとでもとれる(そもそもに他者に投げかける「表現」全てがそうで)だろうなとは思っていたのですが、トークショーでこにたんが「私の愛情と、彼の屈折した愛情が」と口にしていて、あながち自分の捉え方は見当違いではなかったのかな、と。
「僕はわかってる」に関しても「私」の懇願をきく「彼」の望まれて喜んでいる、だろうな、というふっと浮かべる笑みから、このひとは「私」が自分をどれだけ待っていたかを切々と訴えられることで現在進行形でいますごく満たされていて、だからこその「冗談だろ、……まあいい」に繋がったんだろうなということが透けて見えるようでした。

「彼」と「私」の二人芝居ゆえ、彼らが周囲の人間へどういった対応をしているか、それが「彼」から「私」、「私」から「彼」への態度仕草言葉とどのように違うのか、という比較対象がまったくなく、全部二人のやりとりから憶測するしかないというこのむつかしさと、だからこその受け取り手に委ねられた余白。
初演時も思いましたが、そもそも「私」が語り手として存在するのは確かでも、5度目の仮釈放請求審理委員会中の54歳の「私」を基軸として考えたとき、「彼」はもう「私」の記憶の中の住人、その言動容姿すべて「私」の目をというフィルターを通しての「彼」という存在でしかないわけです。「私」がありのままを伝えているかどうかすらわからない。どこからどこまで本当なのだろう、と考えるとこの演目をとらえる際の違った面白さや怖さが生まれてくると思うのですが、いくつかある掘り下げられるポイント、とだけ思って今は置いておきたいと思います。

○やさしい炎
らちこにペアのなかで一番好きなナンバー、シーンです。
まりおくんの「私」の「なんて意地悪なんだ」の目の細め具合や隠しきれないわくわくぞくぞく感がにじんだ声音も大好きながら、らちくんの「私」の膝を抱えてむくれたような口ぶりの「なんて意地悪なんだ」の響きも、それこそがこにたんの「彼」の愛おしいものを見つめるとき目を細めて口にするような「昔のレイのままだ、幼い」の響きに呼応するようで大好きです。内実はどうであれ、らちくんの「私」が「昔のレイのまま」で「幼い」ことを、自分の庇護下にまだおける存在である事をいちばん喜んでいるのはこにたんの「彼」であることがありありと伝わる声音。
これは全ペアに共通する部分なのですが、改めて歌詞を思い出していて「この”俺”の気持ちを落ち着かせ」なのに、「”俺たち”の心を慰めてくれる」では「俺たち」なんだ、ということにはっとしました。 きちんと「私」と一緒にいて行っている、半ば無理やり引っ張りこんだとはいえ、「私」と気持ちを共有している(したい)のだと「彼」は認識している(願っている)、という部分から、まがい物ではない彼らの過去の蓄積、思い出がふっと浮かびあがるようで、やっぱりどんなかたちであれ「彼」にとって「私」は代替不可な存在なのだと、その確認がどこよりできる場面だなと改めて感じました。
28の楽では、こにたんの「彼」の目の光るものや、らちくんの「私」の一見なにも考えていなそうなぼんやりした表情ふたりが寄り添う姿を見て、絵に描いた ような幸せのかたちに涙が出そうになりました。「静かに、する」でこにたんの「彼」が、左側に寄り添うらちくんの「私」のほうに顔をそっと傾けて、自分の 右頬を「私」の頭につけるその流れがいっとう好きです。火をつけて燃え上がるそのさまを見るという行為だけでなく、そうしている自分の傍にレイの存在があること前提で初めて、彼にとっての「俺の心を落ち着かせて、静かにする」炎、になるのだろうなと。彼が意識している無意識の内、というのにかかわらず。
火の粉はじけて、で炎の方へ向かってゆく「彼」の目がどんどん潤んでいって、でもその涙は多幸感に満ち満ちて、メーターが振りきれた人の涙に見えました。思わずここで終わらせてあげたくなるような。そんな彼につられて炎に魅入られて、思わず、という風に彼より前に出てきてしまった「私」の、彼の思いを知ってか知らずかの笑顔。らちこにペアの関係性を象徴するような場面。他のペアにおいても同じことかもしれませんが。らちこにペアのふたりにとっては、特に「私」にとっては、キスやそれ以上よりもやさしい炎のように寄り添い合うことがなにより必要で求めてやまないものだなということが胸にぐっと迫ってきて、だからおそらくこのあとらちくんの「私」のいう「抱きしめて欲しい」はそれ以上もそれ以下も求めない、言葉通りの真実だったのだと。
しかしあの時の彼らの目に映っていたものははたしてほんとうに目の前で燃え盛る炎だったのかなと、もっとそれを通した向こう側にある、なにか別のものだったのかなとも思います。マッチ売りの少女みたいに、火を付けることがその炎の中にほしいものを見出すという行為に繋がるのやもしれず。あるひとは歓喜に震え、あるひとは過去を懐かしみ、あるひとは泣きそうになりながら隣にいるひとの存在の得難さを噛みしめる、といったぐあいに。

余談ながら、26日はSS席で初めて観て、ピアノの音がすごく綺麗に響いてきこえたのと、このやさしい炎の場面で、「私」にガソリンをぶっかけられる前に、あっいま完全に私燃えてるわ、というぐらいスピーカーから出る音の振動がもろ身体に伝わってきて、すごく面白かったです。


○契約書(ここだけ箇条書き)
・こにたん「彼」の椅子に腰かけて背もたれに腕を広げてかけてのポーズのうつくしさ含め、「自分だけいい子になって逃げる裏切りだ お前こそうわべだけの親友か見損なったぞ そうじゃないというならレイ、」がすごくすごく好きでした。ポイントは多分「いい子」「親友」「レイ、」の響き。
・らちくんの「私」が座ると、こにたん「彼」の部屋のタイプライタータイプ用椅子と机セットの引き出しにお道具箱はいってそうに見えてくる。彼らの容姿もあいまって、いちいちギムナジウム……と、すぐトーマの心臓の台詞を出したくなる悪い癖が出ます。
・やさしく指を刺す、でナイフに怯えたレイが「彼」の手を振り払って下手に身を引く時に、ジャケットの前身ごろがばさっと開いてサスペンダーがちらっと見えるのが好き。


○戻れない道
まりおくんの「私」の囁くような、静かな透明感に満ち満ちたうつくしい、この「戻れない道」がほんとうに大好きで大好きで、個人的にフォンティーヌでのスリル・ミーというと、もうこの曲、この場面をいの一番に思い出してしまうし、私のスリル・ミーといったらこの曲です。
らちこにペアだとその順番がややさがるのですが、らちくんの「私」が歌いあげるのではなく、ゆっくり緩急をつけて丁寧にやわらかく歌うようになっているのが好きでした。
禁じられた森を「私」がひとりで迷っていたり、そんな「私」を必死で探していた「彼」が「私」を見つけるなり急にクールぶって取り繕って、出口まで連れて行ってやらないこともない、と口ではおっそろしく尊大なことを言いつつ手を引いてやる(「彼」目線)のが見えるよう。でも薄暗い森の中ではきた道をたどるのも危うくて、ふたりで手を繋いだまま一緒に思いっきり道に迷ってしまいそう。内心おろおろしてしまうのは「彼」のほうで、らちくんの「私」はきっとどんどん肝が据わってくるタイプだと思います。


○「僕と組んで」〜九十九年
「なんでもしてあげるね」に繋がる前の、今すぐにでも「彼」の望みをかなえてやりたい、でもそれを今してしまってはだめだ、という感情のせめぎ合いからくる散々の逡巡が見える表情、彼とのやり取りがやさしい炎の次に好きなシーンなのですが、そこは前回の記事で言及したのでさらりと。
その後のクライマックス、護送車の場面での、まりおくんの「私」の「一緒に死ねるなら、それも悪くない」は、もう完全に言葉通りの情感をたたえていて、「私」の思い詰め様に、そこまでの気持ちに彼を至らせたこの状況に、背筋を冷たいものがかけつつも、怖いだけではない「私」から「彼」への思いになんともたまらなくなってしまう台詞なのですが、らちくんの「私」の、言葉が滴り落ちそうになるくちびるを散々にわななかせて、目にいっぱい涙をためてからの「一緒に死ねるなら、それも悪くない」はもう完全なる大嘘だなと感じました。「私」自身の死への怯えが見えるし、なによりらちくんの「私」はこにたんの「彼」と一緒に生きることしか望んでないから。生きていくのはあなたとがいい、でも一緒に死ぬのは嫌だ、という、そこの部分が、らちくんの「私」は生を渇望する生き物として、いい意味で振りきれていないと思います。自分では絶対にそういう思考にいたらないとしても、「彼」にそれを望まれたらまたわかりませんが、そういうことを口にする「彼」をらちくんの「私」は馬鹿!と怒りそうなイメージがある。
もちろん自分自身が死にたくないという気持ちはありつつも、「彼」を死なせなんかするものか、という気持ちもふんだんにあったであろうらちくんの「私」。なにかのために泣くってそのものに関わってゆく決意をあらわにするという行為、覚悟を見せるものだと思ってるので、あの時のらちくんの「私」の涙は、一緒に死ぬ決意ではなく、一緒に死にたくなんかないかなしみと、彼とならどんな場所でも一緒に生きてゆくという決意の涙だと思います。
「彼」とはその後死に分かれてしまうとしても、いっときでも望みが叶ってほんとうによかったね、と「私」の涙を流す表情を見ながら心の底から思いました。

全編通してやっぱりこにたんの「彼」は口に出す理想ひとつひとつが絵空事で、その言葉が紡ぎだされる土台がまったく見えないがゆえに痛々しくて、らちくんの「私」が「そうだね」「その通りだね」ってあの笑顔で応えてくれないと、すぐにもろもろ崩れてしまうほどの脆弱さを抱えているなあと思います。完璧な格好良い憧れのまなざしを向けるに相応しい超人の「彼」ではなくて、誰かこのひとを支えてやらないとかわいそうだ、と人に思わせるという意味での魅力を秘めた「彼」。でもそれも全部らちくんの「私」の目を通して観ているからこそこちらに伝わる「彼」なのかもしれません。あの平坦で幼さが露呈した「なんで?」の響きはきっと「彼」のプライド的にらちくんの「私」以外には絶対にきかせていないと思います。幼馴染で共犯者への甘えと驕り。あの「彼」には絶対に「私」が必要だったはずだから、だからその甘えがどんどん膨らんでの「そりゃあいい、もう二度と会うことはないだろう」や「お前は、最低だ」なんて口走った「彼」はほんとうに馬鹿だなと。「私」に追いかけてきて許しを請うてほしかったの?とすら思う。いつもの何気ない気持ちの行き違いの延長線上だと「彼」はそれくらいの覚悟でいて、でも「私」にはそうではなかったんだな、事の重大さを思い知っていなかったのは「彼」のほうだなと。

こにたんの「彼」のガラス細工のような脆い純粋さ無垢さを、らちくんの「私」の恐ろしく強固な純粋さのヴェールがくるんで、ようやく立っているふたりだとかたくなに信じている。
それがいいとか悪いとかでなく、一番「戻れた」筈のふたり。


元々観に行くきっかけがたとえひとりの俳優さん目当てだったとしても、良い悪いでなく自分がしっくりくるかこないか、という意味で、その演目とその役にどれだけマッチングしているかが回数を重ねる決め手になることが多いです。らちくん目当てで行ったロミジュリにいしいマキュ目当てで通い詰めることになった、という事実からもそのことは明らかなのですが、それゆえ、今回のスリル・ミーでらちくんの「私」を前々から楽しみにしていたのであっても、その気持ちがそのままストレートに、らちこにペアが好き、という気持ちに結びついたのではないだろうなと。
銀劇での公演までスリル・ミーはにろまりしか観ていなかった為、初演はこんな食うか食われるかの話に愛なんて言葉を持ち出すこと自体馬鹿馬鹿しいしひとの独占欲支配欲の肥大って心底恐ろしいわと震え、再演は私から彼への思いはまっすぐすぎてねじ曲がって見えるのかと思い、だからこその最後は「これが僕の愛 これが僕の心臓」ということなのかと考え、観終わった後腹の底にずしんと重たく残るような後味の悪さこそがスリル・ミーという演目の醍醐味だと思っていました。それをふまえて初日にらちこにペアを観たときに、彼らから受け取ったものがそれとはだいぶかけ離れたところにあってとても驚いたのですが、冒頭に記したように3ペアを観て、もう全く異なる色合いでもそれはきちんと彼らごとのスリル・ミーなんだろうなと、そしてトークショーでのらちくんの、栗山先生には黒や白でなくグレーを、隣で観てる人と感想が全く異なるような、受け取り手に解釈を委ねられる演技をと言われた、という話から、彼らの関係性、片方から片方への気持ちの重さ、結末の意味等、解釈すらもてんでばらばらでもいいんだろうなと(もちろんぶれない、しっかりとした正解がある部分は絶対あるとは思うのですが)、いろんな固定観念でぐるぐる巻きにされていたのを全部取り払ってもらえたような気持ちにいまはなっています。もちろんひとによって一番好きなペアや確固たる解釈はひとつだったとしても、たくさんの可能性を並べてそれらひとつひとつにじっくり思いを馳せるのもまた楽しいなと。もともと反芻するのが好きなたちではありますが、こんなにお話の解釈自体についてぐるぐる終わってから考えるのが楽しい作品もあまりないような気がします。

初演再演と回数を重ねるごとにどんどん変わってきている、と自分の目で捉えたにろまりペアのように、今回観たらちこにペアの彼らはきっと今回だけの彼らで、今回の彼らが私が出会うべき彼らだったとしても、次回はまた彼らに出会うべき他の人がいて、それは私ではないかもしれない、という思いは確かにあります。それでもやっぱり2013年3月にまた彼らのスリル・ミーが観られたらいいなと思います。
らちこに観たい、ととりあえずあと半年はかなわぬであろうことをうわ言のように呟き続ける今日この頃です。