TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル『スリル・ミー』  良知×小西ペアについて

○現時点観劇回
良知×小西 7/15 12:00、19 19:30、22 12:00
田代×新納 7/21 12:00、15:30











絶賛スリルミー観劇週間です。

初演、再演時にストーリーについては記してあるので割愛します。田代×新納ペアについては、初演、再演と観てきていたため、またどれくらい深みを増しているのか、また違った色合いになっているのかなと色々想像を巡らせていたものの、フォンティーヌでの彼らが素晴らしかった分、銀劇での良知×小西ペアはどんなふたりになるのだろうと楽しみにしつつも少し不安でした。けれど観劇し終わった後は、なんと余計なことを考えていたんだろう、と自分の考えがまるで杞憂だったことを思い知らされるぐらい、彼らだけの「彼と私」の世界に魅了されてしまいました。組み合わせによって解釈が異なるからまっさらな気持ちで観たいと思ってはいたものの、自分の頭の切り替えがきれいにはできなくて、新納さんの「彼」はここはこうだった、まりおくんの「私」なら、と重ねてみてしまうところは確かにありはしましたが、2度目以降はそういった考えをほぼ捨て去って観ることができたと思います。更にいえば、今回のにろまりペアを観劇した後の22日の方が、すっきりとらちこにペアの、彼らのスリルミーを楽しむことができたかなと。6回中5回しか観ることができないのと、そもそもこのペアが全6回公演しかないという事実がふしぎでなりません。

○良知×小西(以下らちこに)ペアについて
結局のところふたりはふたり一緒にいるだけの理由がしっかりあって離れられないのだなと結末までゆけば納得しつつも、一見私から彼へのみ積極的な矢印がくっきりあるんじゃないかと思えたり、その逆だったり、組み合わせによっていろいろ見え方はあるのだと思うのですが、らちこにペアに関しては彼が私を切実に必要としているなあという印象を、一番にうけました。
小西さんの容貌のうるわしさもあいまって、佇まいはぱっと見彼自身がいう通りの「超人」で「みんな君に夢中」と言われるのに相応しい人かなと勘違いしてしまうのですが、なかなかどうして内側はおっそろしく脆い人なんじゃないのかなあというのが、じっと見ていると声音やふるまいから透けて見えてくる不思議さ。彼の心の中には今も小さな頃の彼が膝を抱えたまま鬱屈とした思いを胸にひっそりとひそんでいるのではないのかなと思います。なまじ見た目ばかりが年齢相応に大人っぽく立派に成長してしまったため、外見はそれはそれは「素敵な彼」然としていて、皆がこぞって友達になりたいと声をかけるものの、実際返ってくる反応が期待していたようなものではなくて、やっぱり「彼」はどこか変だ、と遠巻きにされてしまうような。ガールフレンドはそれでざかざかみつくろえても、男友達は殆どいなさそう。そうして女の子たちも彼の容貌に惹きつけられてよってくるだけで、彼の言動や思想を理解してくれようという気はおそらくさらさらないので、彼にとっては私だけが唯一の理解者、というところの筋がすっと通るという。このペアに関しては、彼を私が必要としているのが私はわかっているよ、という意味での「僕はわかってる」かなと思いました。「彼」に愛されている事について「私」はとても自覚的。だからこにらちの「彼」は「私」に口ではひどいことを言いつつも、その実私への接し方はかなりやさしいのではと思いました。自分の間合いにはいることを「私」に許している。それは彼の迂闊さなのか私を目下のペットぐらいにしか考えてなかったおごりなのか、とも初見は考えていたのですが、前の二つにプラスして、彼は私を「許している」じゃなくて「許されたいと思っている」のだなと。はっきりといえば「許容されたいと思っている」。彼だけでは彼自身がほんとうにしたいことは何もできない、それを彼は傲慢さゆえに気づいていないなあと。 お前が必要なんだ、は自分を好きな「私」の心に訴えかけるフェイクではなく、たぶん本人もわかってないくらいのところでの真実だと思います。
時々「彼」がとても平坦な声音で台詞を投げ出すように言うところがあって、そこもおそろしく気まぐれで若さゆえに世の中すべてに飽いているふうを気取りたい年相応の青年じみているなと感じる箇所で、とても好きです。

自分に自信などないけれど、自己承認欲はたっぷり人一倍あって、けれど他人相手にあからさまに媚を売ったり卑下してまで承認してもらおうというところへ自分を貶めることは出来ない彼。そんなことはきっと彼自身の矜恃が許さないでしょう。けれど内心蹲って膝を抱えている彼のことを「だいじょうぶだよ!君は素晴らしい人だよ!」と勇気づけてあげられるひとが、ただひとり「私」だったんだろうなと。「私」も別にそう口にした陰でばかだなあと「彼」のことを見下しているのではなく、ただただ「彼」を好きという本心から口に出した言葉。でも実際その言葉に見合っていない「彼」と言葉をかけた「私」の関係性は、彼らだけでぴったりと閉じていて、愛おしいけれどとてもいびつです。
良知くんの「私」はたくさん空から降ってくる綺麗な色の飴玉を惜しみなく身に受けてきたひとだと思います。気まぐれにひょいと摘まんだ色とりどりのそれを次々日の光に透かしてわあきれいだなって思うことはあっても、口に含むのはごくごくわずかでそれが当たり前、だって一つに執着しなくても贈り物はたくさん転がっているから、というような。そんな「私」に、君には僕しかいないし、僕にも君しかいないんだよ、と熱烈に望まれるということ。肉親にめいいっぱい愛されているらしい「私」に愛されるということは彼のプライドをくすぐり、同時にコンプレックスをも刺激したのではないかなと。危ういバランスの上になりたっているふたり。
おかげでなんとか外面だけは「すばらしい超人の彼」としての姿を保ってはいるけど、内側はたぶんぼろぼろ。小西さんの「彼」を見ていると、尊大な羞恥心と臆病な自尊心という言葉を思い出します。
前述の考えは、22日12時の小西さんの「彼」の「死にたくない」をきいたときに浮かんだものです。今まで丁寧に撫でつけていた髪の毛が乱れるのなどお構いなしに、怖いんだ、と彼が身を震わし口にした瞬間、ああこの人は今までの人生、虚勢をはりながらも心の中で膝を抱えてずっとつぶやいていたことを、いまようやく言葉にして外に吐き出しているんだ、と心底納得しました。あれはあの瞬間にわき上がった思いではなくて、彼がいままでずっと秘めていた魂の叫びだったなと。新納さんの「彼」のこのシーンもとても壮絶で大好きな場面なのですが、小西さんの「死にたくない」にもがつんと目を奪われ心揺さぶられてしまいました。「彼」本人からしたらふざけるなと言いたいだろうけれど、取り乱して我をも忘れる状態の彼らはやっぱり心底うつくしいんです。
監獄の隣の部屋で横たわる良知くんの「私」の表情もあいまって、22日12時の「死にたくない」は特に印象に残るナンバーになりました。まりおくんの「私」のあの天井に向けていた顔を、首をぐるっと横に倒して視線を客席に向ける動作も、市松人形がぐぐぐぐっと首を一回転させたような恐ろしさを感じるのですが、それがいいことかそうでないことかはわからなくとも、今日あの時の良知くんの「私」の表情を初めて恐ろしく感じたのはここに書き留めておこうと思います。

その前の「僕と組んで」のなんでもしてあげるね、に至るまでのらちこにの私と彼もすごく好きな場面です。這いつくばって司法取引を取り下げてくれと懇願する彼のそれまでとはがらりとかわった全くとりつくろわぬ必死な様子と、そんな彼を見つめたり目線をそらしたりして、何度も躊躇いつつ何事かを言いかけてくちびるを震わせてはぐっとつぐむ私の表情のたまらなさ。なにかを口にする前のくちびるのわななきにこそ、たっぷり含まれている情感を読み取れてしまうことってあるよなあと、21日のにいまりペアのまりおくんの「私」を見てその表情の微細な変化のすばらしさに衝撃を受けたのですが、意味合いは少し違えど似たような感動を覚えました。手を握り締めて食い入るように見てしまった箇所。

個別に印象に残った箇所を時系列ばらばらながら言及すると、まずは小西「彼」の犯行計画を語る時の生き生きっぷりがいつも素敵です。その語り口調からなぜか、あまりにも彼が辿る道筋が明白でいっそいたましさすら感じるようにも思うのですが、と同時に、死んだ目だったきみが楽しめるものを見つけられてよかったねえ、としみじみもしてしまいます。それは彼が子どもじみた絵空事を口に出してるのが楽しいだけで、本気で実行するがあんまりあるように見えないから安心して思える、というのもあるのですが、結末は言わずもがな、という話なのでちょっと不思議な気持ちにもなり。反抗計画、といま誤変換されたのですが、まさに「私」にかまってほしかっただけにも思える「彼」の場合はそちらのほうが相応しいようにも思えました。
上記箇所も「無意味なこの世に善などないから 新しい倫理を打ち立て、高貴なる理想を追い求めるんだ」も、小西さんの彼の言葉としてきくと、語彙チョイスのふわふわ感に、新納さんの彼のときはそこまで感じなかったざわざわした気持ちがわきおこります。なんという夢物語、そして具体性の欠落。愛おしくもかわいそうな彼。

本気でないように見える、といいつつも、スポーツカーの「彼」は15、19日はまだなかの方が色濃く出ていたのか、声質も手伝ってちいさい子に手をそっと差し出すやさしげなうたのお兄さんのようだなと、だからこそその後の殺害という流れに繋がる恐ろしさよ、と思ったのですが、22日の「彼」は表情の作り方や声音がかなり変質者じみた様子に変わっていてこちらも良かったです。見えない男の子に「その人についていっちゃだめ!」と訴えかけたくなるあの感じ。

やさしい炎の彼が私をすっぽり抱きかかえるシーンでも、超人たちの「最高の夜を」で抱きかかえたまま私の頭を彼がぽんぽんとやさしく二度叩くところも、その宥め方が時々お父さんと子どものそれのように見えることがあるのですが、一方くるりと逆転して、子どもは彼の方で私がお母さんのように見えるときもある んですね。小西さんと良知くんだと身長差大格差はあきらかに、小西さん>良知くんなのに。役者さんご本人の内面性や役作りによるものだとしても、外見だけ では判断できない力関係が立ち振る舞いからにじみ出るってほんとうに面白いなあと。同じ牢屋にいれてもらえたら、きっと夜に「怖いんだ」と震えて蹲る彼を 「大丈夫だよ、僕が一生そばにいてあげるから」と私が頭抱え込んでよしよししてあげるのだろうなあと、その様子が浮かぶようです。
小西さんの彼が「見た目ばかりが立派に育った、庇護してくれる対象を内心求めている(私にそれを望んでいる)大きい子ども。ルームメイトともタイプライ ター盗まなくともうまくやれてないし、そもそも友達はほぼいない」で、良知くんの私が「彼を大好きで必要としているけれど、彼が最後は自分のもとに戻って くると確信しているがゆえ、ひとりでも十分楽しく遊べるリアルライフ充実派(例:バードウォッチング)。友達は多いわけではない。なぜなら周囲が私を必要 としていないのではなく、私自身が彼以外の人間を必要としていないから」という個人的なイメージ(というには長いですが)が根底にあるからかもしれませ ん。幼少期に、お前らいつも一緒にいておかしいんじゃねえの?と周囲に茶々いれされて勝手に動揺するのは彼だけで、私はゆるがなそうです。ぼくたちは好き で一緒にいるんだからいいじゃないか、ってそういうぶれなさを持っている良知くんの「私」。
らちこにの「私」は「彼」のガーディアンエンジェルで、小さい頃からいつもどこに行くのも一緒なくまのぬいぐるみで、ライナスの安全毛布、時々おかあさん、という印象。

しょうもないたとえをすると、らちこにペアの「私」はあやとりもひとりでとる派で、「彼」は「私」のつくったカッパの取り方がわからなくてぐっしゃぐしゃ にして癇癪起こして勝手に出てゆく派。「私」はお絵かきや折り紙等ひとりでやれる遊びが好きだよ派で、「彼」はひとりでむつかしい顔して本読んでいても内心、なに読んでるの?と声をかけて欲しくてうずうずしている派。恐らく、なに読んでるの?と「私」にきかれた時にも内心「彼」はよしと拳を握りしめている。前々からいかに格好良く「ニーチェ」と答えられるかどうかの練習をしている。
恐ろしい脱線でしたが、そういうことをぽろっと考えてしまうくらいかわいいふたりについてあれこれ考えています。



小さい頃は二人とも同じくらいの背だったのに、いつのまにかずんずん身長ばかりのびてしまった彼を見上げて、そんなに背がのびるなんてうらやましいや!と屈託なく笑うであろう、ある夏の日の「私」を思い浮かべながら、残り2回を大事に観たいです。