TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

2013.3 ミュージカル『スリル・ミー』

観劇日:
3/17 12:00/3/19 14:00、19:30/3/20 19:00
(すべて良知小西ペア。かきまつは楽日観劇予定)





何度目かのスリル・ミー強化週間です。
私は他の方がどういう感想を持っているのかすごく気になるタイプなので、随時検索してはふむふむとじっくり読んでしまう派なのですが、今回は前回以上に、皆さんそれぞれの銀河劇場に行っていらっしゃるのだなあ…というような感想をお見かけすることが多いように思います。まさに千差万別。
観劇後に腰を据えて二人ないし三人でですよね!ですよね!!と互いの意見感想を語り合い納得しあい、話し終えてふう、考察これで完璧だぜ!お会計お願いしまーす!!と立ち上がってあたりを見渡したら、同じ組み合わせの同時刻公演観劇流れのお客さんばかりの筈なのに、それぞれのグループかたまりごとに同じものを見たとは思えない顔をしていてなにごと…?!!!となるイメージです。解釈はグレー、それぞれに委ねられているからこそ面白い作品なのだと思う。初見の人の感想をきくのはとても楽しいし、だからリピーターの発言から意見感想を得る前に先入観のないご自身のご感想をお話しくださいとお願いにまいりました!と声を張り上げたい。実際、今回から見た友人の感想がとてもおもしろくて、私自身も豆腐の角に頭をぶつけて記憶消去してから全チーム(にろまり含む!!)を観たいという気持ちに数日前から駆られています。自分の望んでるものを見出す鏡のような業の深い作品でもあると思う。私もあなたも信じたいものを、見たいものを見ている。

ただ、それをひとによっては愛と呼ばなくても、互いでなければだめだという感情が双方からにじみ出ている二人、一通では確実にない彼らの濃密な関係性を味わうことがこの作品の醍醐味である、ということはひとつ私個人の譲れぬ思いとして掲げたいです。

そしてミュージカル『スリル・ミー』おいてのあの事件はふたりにとって唯一無二の、けれど言ってしまえば彼らの関係性を浮き彫りにさせるための出来事にしかすぎない、それ自体はメインではない、くらいにも思うので、下手に元の事件について手を出すと考えなくてもいい部分まで考えてしまって拗れる気もしました。もちろん原作者がそこからヒントをうけた、という意味で作品読解の参考になる部分はあると思います。けれど演出家が変わることによってがらりと作品自体の雰囲気が変化してしまうことはままあることだと思いますし、そのことによって史実とは異なるものになることもままあることで、少なくとも日本演出版においてはかなり切り離してきているのではないかという印象を受けました。良知小西ペアトークショーでも実際の事件の二人を参考にしますか?の問いかけに、「実際の彼らとは違う」ことをはっきりと口にされていましたし、日本版の彼らの「伝えたいこと」は全部劇中におさまっていると思う。
史実を題材にした作品において観客の心に響いてくる部分が、必ずしも実存した人物の思い、実際の出来事のリアルな再現を最優先した箇所ではない、ということ、そこから乖離していても確かに彼ないし彼女はこの舞台の上に息づいているひとだ、という説得力をひしひしと感じることはままあるということ、について、他の作品においてもさいきんよく考えます。トレスしたような再現を求め、第一とするならドキュメンタリーでもいいと私は思う。どこからどういう道具で切りとってみたいかの違い。

というめんどくさい前置きを踏まえての以下、らちこにペア再演感想です。
ふだん「こにリチャード」「こに彼」「らちレイちゃん」「らちレイ」「らち私」等々呼んでるのですが、彼と私で統一します。



前回も前回しかないものがあって好きだったのですが、再演の今回はびっくりするほどより深みが増したふたりになっています。
「彼の安心毛布的役割をつとめる私」というのは前回も言っていたけど、今回の彼の手つきを見てさらにその説をごりごりおしたくなりました。もっと言えば手だけではなく声でも視線でも私をやわらかに撫でている。もうどこか一か所ではなく、後述する要所要所で。私からも求め、彼からも求め返されている、思いの等分さ、という意味で駆け引きなどいらない「対等で平等な立場」はすでにあったと思う。
彼はあんなすてきな見てくれを授かっただけで、中身は人並み程度に賢くあほうで、年齢相応に拗ねたふりをして私の気を引きたいだけのすごくめんどうくさい、世間によくいる一般男性に思えます。ただ「人並み程度に賢くあほう」ということは「中途半端に物事が見えてわかってしまう」ということでもある。そういうのは場合によっては当人にとってとてつもなく不幸に思えること。何にも知らなければ高みのその高さすらわからず、ただ二本の足を交互に出して進むべき前を見てるだけでいいのに、ひとたび上を知ってしまったら届かないのに見上げ続けることになる。睨めつけるだけでは星は落ちてこない。いっぽうで、高みのきらきらを睨めつけてるさらに上の段階の、上に手がうっかり届いてしまったけどそれがたいして楽しいことではないと知ってしまった、という状態もまた苦しい。
私は後者の方で、だからその「超人」という空虚な称号について、こんなもの欲しくなかったのに君が取りにゆかせたんだよ、と彼に対して思ってるかもしれないなと思いました。私は一番大事なひとのためにいらないものを背負い込んだ。事実、良知くんの私が口にする「結局僕の方が君より一歩先にいた」は勝ち誇るのではなくむしろ、なんで僕を先にゆかせてしまったの?というように聞こえる。前述の台詞と「僕こそが超人」の今にも泣きそうな響きや表情をふまえての、「僕のものだ」は、叩きつけるような彼への勝利宣言ではなくて、力強くともその言葉ごと自分の思いを手渡すような、そして同時に口にした側にかえってくるような深々としたもの、奥行きを感じます。台詞ひとつひとつの深みが本当に増していて、観劇後友人らとも話していたのですが、前回より私の精神年齢が確実にあがったなと思いました。
ただ彼の事をひたむきに慕っていた私が、一生分の決心をしなければならないところまで追い込まれてしまった。諦めと決意がないまぜになった悲しみをたたえた表情で、こんな深々とした声音でこんな言葉を口にしているのだなと思ったら、彼の「認めよう」での笑顔すら、いわゆるヤンデレ、黒いものが混じった笑顔等、そういったものにはまったく見えなくなってしまう。ほんとうにただこうしなければならなかったことがかなしい、という表情に思えて、私のことがかわいくてかわいそうでどうしようもなくなってしまいました。前回はもっと外側からただ愛でるような見方をしていたので、こんなに私のほうに歩み寄って観てしまったのは初めてで、それだけ良知くんの中で私という存在が深みを増したことで、方向性は変わらぬまま、観ている側に伝わり易い表現が生まれてきたのかなとも思います。
54歳の演技についてもそれは同様で、合間合間ももちろん、特に、階段上にいる彼に向けて振り返っての「一緒だね」の後、前に向き直る私が乗った板がずずずと前に移動してゆくとき、ぐっとゆがむ表情にごっそり腹の底から抉られてもってかれるような気持ちになりました。良知くんという役者さんはいわゆる女優泣き、綺麗な顔のままでも泣けるし悲しみを浮かべられるひとなのになんであんな顔するんだろう、と思ったけど、おそらく34年前の確信に思いを馳せているときの感情の重みと、54歳の経年変化かなと。いい意味で綺麗に取り繕うことを考えていない表情に眼を奪われます。
作品を通じて新しくお気に入りの役者さんを見つけられるのももちろん楽しいことだけど、今まで好きだった役者さんの新たな面を見つけてそこに惚れ込むことができるってのもすごく嬉しいことで、スリル・ミーという作品の力はすごいなと改めて感じました。

先に九十九年について触れてしまいましたが、どうしてそんなことが言えるの?の切実さ絞り出しかげんにすら「お前は最低だ」と返せる彼は、しょんぼり肩を落として見捨てられた迷子みたいな顔になる私を見ているの?と横から出ていって彼の胸倉を揺すぶりたくなるところ(たくさんのうちのひとつ)、その前の「僕と組んで」での彼の「思い直してレイ」で、このひとどうしようもないな、どうしようもなく愛おしいな、と思っているように、あんなにくちびるをわななかせて今にもなにか言葉をかけそうになるのを堪えている様子に、こんなこが陥れる、という意味で彼のことを騙すなんてできるはずがないじゃないかと、やはり前回同様思いました。
「ここまでは完璧だ」「ああ、……完璧だ」での私の膝を抱え込んでけんめいにぐるぐる考えを巡らせているような表情も、考えているのはどうやって陥れよう、じゃないなにかだなあと考えれば、このペアに関しては、一連の事件は最初っからの私の計画的犯行では絶対なく、どこから九十九年に繋がる様思いついたのか、ここ、と決めるのを迷ってしまう。眼鏡をわざと落とした、ということもなんだか疑わしい(自分が罪を被るために彼の為を思って「わざと」落とした、ならありえると思いつつも、だとしたら僕の眼鏡/おとなしくしろ、が私の一世一代の迫真のこわがり演技?と考えた時に、良知くんの私の性質上、そうとはなかなか言い切りがたいものがある)


○好き・気になる場面単品で
・「僕はわかってる」をそうだろう、そうだろうというふうにどや顔できく彼(と友人に言われてからそうとしか思えなくなった)。僕も君も「わかってる」事実確認の歌。あの彼の能面みたいな表情にたくさんの感情をきちんと適切に見出すことができる私。

・「僕はわかってる」で彼に煙草をふきかけられた後、彼に追いすがろうとするけれどかわされてしまって上手奥に立ち尽くす私の後ろ姿。肩の丸みが私をちいさく見せる。

・「やさしい炎」で彼が「触ってください」後、手をとったままふたりの手を自分の膝の上に置いて、片側の腕の私の肩にまわすところ。このときのふたりはほんとうに幸せそうで何度見ても一番好きな場面だけれど、彼の胸に頭を持たせてる私の表情に、前回のただ何も知らないような幼さより切なさを感じてしまうのは穿ち過ぎだろうか。

・「お前がいなきゃ、だめなんだ」の取りつくろわない素直さ。

・「そうじゃないと言いたいなら、レイ」の「レイ」だけ旋律に載せたものではない、その二文字の響きの特別さ。彼が私の名前を呼ぶ時はトーンはシチュエーションによって違ってもすべて同じ意味合いが込められていると思う。

・契約書にサインをするとき、「優しく指を刺す」で手を取られた私がずっと彼の顔を見ているところ。私はギリギリでナイフの鋭さに気づいてはっとする。

・「戻れない道」の前に、階段上に立った彼の胸に私が後ろ向いて頭からこてんと寄りかかっての、左耳を押し付けて右に頭を傾げるところ。彼の心臓の音を聞いてるみたい、私にきかせてるみたいだ、と思う。彼が私を抱きよせるとき右手の指先がただ頭に置くだけじゃなくくしゃっと髪の毛の中に入りこんでるのが好き。頭のてっぺんより首筋に近いところ。

・スポーツカーで、彼が鍵を出してから一回ひゅっと引っ込めるときに、チャラチャラ鳴るキラキラした銀色のそれに手をのばすこどもが見えるようになった。ざらざらとは正反対の耳触りがひどく良い声がするすると忍び込んでくるので恐ろしい。

・誘拐殺人実行直後の場面で彼に後ろから抱きかかえられ手に塩酸の瓶を握らされる私が、一瞬ぼうっとした表情を浮かべたあと、手にしたものの恐ろしさにわれにかえって慌てて鞄の中にしまいこむところ。私が彼に触れられている、ということ。

・完璧な夜を過ごそう、で後ろから私を抱きすくめてこめかみにくちづけるほどに(前回はほんとうにやっている回もあった)顔を近づける彼。その後座り込んでいるのをひっぱりあげ、動かない私に行くぞ、というように無言で手を引く彼。シチュエーションが日常茶飯事、ということではもちろんないけど、彼と私として手なれている感。

・彼が前髪を降ろす、『死にたくない』のビジュアルがまんま大人オスカー@訪問者に見えて、満たされぬ肥大化した承認欲について、いく度目か、思いを巡らさざるをえない。「彼の家の子どもになりたかった」彼。にんげんという生き物の愚かさとおかしみと、突きぬけて愛おしさを感じる曲だと思います。

・階段上にいるこにリチャードを見上げるため後ろを向いた時に、手枷をはめられた両手を胸のあたりに掲げて振る「一緒だね」の意味を思うと、釈放時に光に照らされながらゆっくり解いてゆく両手に単なる「仮釈放」だけではない含みを探してしまう。

・最後の最後に口にされる「ふたり」「共犯者」の密やかな声音と重み。



あと残すところらちこには1回ですが、観るたびに、少し間があいてもいいので再々演をぜひぜひお願いします!という気持ちでいっぱいになります。



「たとえあなたが裁きをおこなえる神様でも子どものいる家にきてはいけないんだよ」
「彼の家の中に住む許される子どもになりたかった」
萩尾御大とファンの方々に謝りつつ『訪問者』のオスカーの台詞を置いておきたい。「彼の家の子どもになりたかった」彼には、ふたりで子どもを殺すのじゃなく育てることが必要だったのかもしれない。