TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ロックオペラ『モーツァルト』2/9 ソワレ、2/16 ソワレ




2月はモーツァルト2回(ミュージカル)、教授5回(ストプレ)、アトム1回(ミュージカル)と観ていたくせに感想を書けていませんでした。大分旬を過ぎてしまいましたがいまさらモーツァルトについて。



「ミュージカル」ではなく「ロックオペラ」というところがキモだったのか。モーツァルトの人生で起こった出来事、流れのおおよそを観客が掴んでいる事が大前提のような、そしてその出来事毎に一曲ずつ歌をつくって、あいだあいだの感情の動きは受け取り手の頭の中で保管してくださいというような。
脚本や演出での説明が足らないように思えても、個々の役者さんの技量・圧倒的存在感でねじ伏せられ、少なくとも一部分に関しては完全降伏白旗を振るしかできなくなってしまうことがある。ここの、この部分を、ではなくここ「だけ」を観にきたのだ、と思えてしまうことのある意味でのせつなさ。

○中川さん
ヴォルフはどこまでも天真爛漫。彼に「危ないこと大好き!」と言われても、ああ綱渡りや木登り的なスリリングさを味わいたいのかな?女の子らに追いかけられてきゃいきゃいと盛り上がっている様子を見てもベッドでの遊びはまくら投げだろうな、と思うくらい、どこまでも性の匂いから隔てられている、永遠の少年のようなヴォルフ。パリでアロイジアのことを思って歌うtatoue moiの喜びに満ち満ちた心がおさえきれずぱちんとはじけて広がっていくような歌声の説得力に、耳が喜ぶとはこういうことをいうのだな、と思いました。M!のCDで繰り返し繰り返しきいていた中川さんのヴォルフを、全く違う作品楽曲でも同じ役で観ることができてよかったと思う反面、サリエリよりドラマチックな曲(感情が一曲の中で変化してゆくような曲)がないこの作品のヴォルフでは、中川さんのヴォルフの魅力を引き出し切れていないのでは、と感じてしまったというのも個人的な感想です。
サリエリでは、ドラマチックな楽曲を歌いこなしていらっしゃる姿は流石中川さん、と思ったのですが、やはりサリエリ→ヴォルフと観て、やはり彼は陽のキャラクターを演じるほうが似合うのではないかなと感じました(サリエリを観たのは初日だったので、回数を重ねることで後半では違った何かが生まれていたかもしれません)

○山本さん
ひたすらに美しいのにどこか不幸の匂いをちらつかせた、傲慢に尊大に振る舞っているさまが似合いすぎるほど似合うのに、先でぽきんと折れる姿が透けて見えてはらはらしてしまうようなあやういヴォルフ。はらはらする反面、彼が羽をもがれるさまを観たいという甘い誘惑に勝てなくなりそうな、そういう姿が似合うひと。中川ヴォルフと対照的に、一般的な意味での女遊びに慣れていそうな、その点においてはひたすら軽いひと。コンスとヴォルフの結婚のシーンでの衣装が、演出上舞台の上で着替えを完了させなければならないせいか、ヴォルフはスラックスははき替えられないから少しでも新郎らしく白いお衣装に見せる為なのか、ジャケットの裾に花嫁さんのレースのような布が踵まで垂れ下がるほど足されていて、後ろ姿が完全に花嫁さんお二人であれ?と首をひねってしまった。
対してサリエリは、モーツァルトに悪態をつくローゼンベルク伯の背後に佇んでひたすら彼をじっと見ているだけの微妙に笑んでいるような能面のような表情がひたすら生理的にぞわぞわするきもちわるいうつくしさで最高でした。モーツァルトの「後宮からの逃走」初お披露目場面では、サリエリの表情から、その音楽がサリエリの耳に入り、彼の頭をがつんと揺らしじわじわ脳髄に浸透してついには身体中を血液と共に駆けめぐってゆくさまが見えるようで、曲の歌いだし、第一声から震えるほどに訴えかけてくる、これだこれをききたかったの……!感。うっすら紫のアイシャドウを施した瞼を常に心持ち伏せてアルカイックスマイルが無表情がデフォルトなサリエリがじわじわ眼を見開いてゆくさまは、格好良い!と声をあげるより、息をひそめて見ていたい、じっとり適度に湿度のある妖しげなうつくしさでした。右に左に、使い魔か彼の失脚を息を詰めて狙っている手のものか、わからぬ存在を足もとにぴったりそうように蹲らせて、両腕を広げた時に掌が彼らの頭をそっと撫でるように掠める一瞬が絵のよう。

べそべそすんすん泣いてべっしゃり倒れこんでいる中山ヴォルフと、彼の傍に佇んで、マスクをとって屈みこんで囁くように、このまま出会わなければいい、そうすれば傷つけ合うこともない、と静かに諭す山本サリエリのふたりならば、もっとドラマチックななにかが起こってしかるべきであったと、ふたりがもっとざくざく傷つけ合って目の前が真っ赤に眩むくらいどろどろする様が観たいなあと、かなわぬことを思いました。