TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ゲキシネ『髑髏城の七人』(ワカドクロ)


一生関わり合いにならないひとの生き方について深く考えることは人生がただ一度であることの抗議。





髑髏城の七人(ワカドクロ)にはまっています。何度見ても同じ角度の映画をこんなにリピートする日が来ようとはと思いつつ、上映終了後からDVD発売日までの隙間を思って今から震えがとまりません。

ご好意で貸していただいたドクロBOXで、アオアカ97年版と映像化していない初演以外を見たたことで、脚本の違いもさることながら既存の3作とはまったく違う作品といっても過言ではないくらい別のものなんだなあということを認識しました。もともと脚本、演出家の方々が若いころに作った若い作品のその勢い、作品そのものにワカドクロはキャラクター造形がぐぐっとよっているのかなと思います。
信長公の影武者として存在した天魔王と捨之介は同じ顔をしている、という本作のキモになる部分をばっさりカットする、という時点で前々からの本作のファンの方からなぜ、という声があがるのは当然だろうなと思うのですが、役者さん起用が先だったかもしれないとはいえ、一人二役、影武者設定をなくすことで、天と捨の年齢を下げることができたのではないかと。結果つくりだされた蘭兵衛と三人、同じ目線でがっぷり組んだ三つ巴の構図は、役としての立場だけではなく、生身の役者さん方の演技の上でのぶつかり合いをも生み出したのかなと思います。加えて作中には名前だけでいっさい出てこない殿の存在に、押しつぶされそうなほど影響を受けている、ずっと尾を引いている登場人物らの地をもがく様が見られるところ。互いが互いの尾っぽを噛んでぐるぐるまわって共倒れ、みたいな人たちが好きです。
初見は、笑いどころが多いのは新感線節だからかな、という印象だった箇所も、既存作品にはギリギリラインの下ネタがあったり挿入歌があったりしたことを知り、かなりストプレ寄りにつくりかえているのだなということも知りました。ある意味きれいすぎるくらいきれいで、猥雑さも薄く削ぎ落とされてて、でも若さゆえの泥にまみれているワカドクロ。
どちらがよしあしというのではなく、どちらがより好きか、という視点で捉えた時、一番最初に触れた作品、ということを差し引いてもきっとワカがいちばんだっただろうなと思うのですが、アオのそめ捨さま(ワカは捨、アオは捨さま、アカと97は捨さんと呼びたい派)のサイボーグのようなうつくしさを備えた上でのあのひょうひょうとしたキャラクター、あまりにもすなおでおっとり温厚な牛さんのような眼をした池内蘭兵衛さん、アカの手鏡がお友達な三五ちゃんやおきゃんでかわいらしい太夫、97の丸眼鏡ボサロン毛のまさに商人な粟根蘭兵衛さん等々、それぞれにそれぞれの方が演じてこそ魅力的なキャラクターがちりばめられていて、ドクロBOX永遠ループの罠に陥りそうです。
生で見ることができたらおそろしく通っていたわ、と上演時期を確かめれば奇しくも赤坂ヴェローナに通い詰めていた頃で、同時期にスリルミーがあり、と思うと2011.9は2012.7に匹敵するくらい奇しき縁にめぐまれた月だったのかもしれません。

○捨之介
「浮世の義理を全て流して三途の川に捨之介」「お前は俺に覆いかぶさっていた天を追い払ってくれた」
初見では天蘭ふたりにもっていかれたのと、元々陰と陽なら陰のタイプのキャラクターに惹かれるたちゆえそこまで眼がゆかなかったのですが、2度目以降、あの二人の間に入ってぐっと支えてくれるおひさまの匂いがするひとは必要不可欠だということに気づき、より注意して見るようになりました。初めて観た捨之介が小栗さんの捨だったのでそういうものだ、としか捉えていなかったのですが、アカアオ97の捨さま捨さんにある女好き、ひょうひょうとした部分、大人の余裕がない、より若くて泥くさい捨の登場にきっと前々からの作品のファンの方は驚いたのではないかと。捨之介、と名乗るだけに、もともと世捨て人感というかまっとうな道からは逸脱したなにかがあってしかるべき、という役で、でも小栗さんの捨はなにも捨てていない、捨てきれない捨之介。「同じ釜の飯を食った」(パンフの小栗さん談)昔の仲間の噂を8年ぶりにききつけて、西から関東までわざわざ足を運んできてしまうおせっかいで情に厚い人。天と蘭のお兄ちゃんポジションのひと。
卓見!の前に太夫を褒めちぎるときの顎下に手をあてて品定めするように眼を細めるにやけ面が捨の好きな表情ベスト3に食い込むいきおいで好きです。しょうもない。しょうもなくないところでは沙霧に斬鉄剣で腹と頭に一発ずつ食らわされぼこぼこパンチ決められたあと、面を外して「沙霧けェ…」ってへらっと笑う眉ハの字にさげた表情がなんとも見るものの気持ちを和ませるなあと。
捨の蘭への最後の「てめえが選んだ道だ」の言葉が突き放してはいないからこそしみじみせつなく、天と蘭をああしてやることが捨なりの昔の朋友に対するけじめだったのだろう、と感じました。

○蘭兵衛
「野心に生きるにゃ遅すぎる 女に生きるにゃうぶすぎる 夢に生きるにゃ切なすぎる 過ぎたる我が身の亡八稼業」「まだ道に迷ってんのかァ!!」
「亡八」〔補説〕 仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者、また、それらを忘れさせるほどおもしろい所の意[1]遊里で遊ぶこと。また、その人。[2]遊女屋。置屋。また、その主人。」
どうにもこうにも役柄として反則な人。もともと脚本からして少年漫画を3次元に持ってくることって可能なのか!というような作品のなかで、さらにさらに漫画のような役どころを演じてこうもしっくりくるひとがこの世に存在していいのか。徹頭徹尾うるわしすぎて、やったら気合入った作画だなあ、神様は早乙女さんの頬から顎にかけてのラインに気合いれすぎて他の人のとき手ぬいたに違いねェ…と乾いた笑いが漏れました。ありがたや…ありがたや…って手のひら合わせて拝むと寿命がのびる感じのあれ。無界屋蘭兵衛最後の大商いだ 安くは買えんぞ、と所詮外道、のあの大写しの表情は何度見ても心の中で悲鳴をあげてしまう。唇塗りつぶしているから薄くあけたときの内側の赤が鮮やかなのと、そもそもそこって開くところなのか?!となめらかな陶器が裂けたふうに見えてびっくりしてしまうのと。
といいつつ、森山さんの天にもまた違った種のうつくしさを見るので同じ言葉をかけてしまうのですが、殊更彼の蘭兵衛を見ているとうつくしさはそこにただある造形ではなく見せ方、魅せ方だ、ということを強く強く思います。佇まい、立ち振る舞い、なにより舞う様な殺陣。舞う様な、といっても身のこなしは軽やかでも、前作蛮幽鬼で見た時より一太刀一太刀のずぶずぶと抉るような手つきが不謹慎ながらくせになってしまうほど、リアリティを伴う斬り方。斬られる肉の重みを見ている人が感じられるよう演出をつけたそうですが、そうしたリクエストに応えられる技量は今までの積み重ねからかしらと思いました。
信長を天の殿さまと呼ぶ、「蘭」と名のつく見目うるわしいおのこ、といえば彼が蘭丸であるという設定は明らかで、しかし、かつて小姓として殿のそばにいたといわれればすぐさま納得してしまう凄味すら感じさせる色気はなんなのだろうと思います。尋常でない道を歩んできたであろうひとにしか醸し出せないそれ。
1幕ラストからの白装束はきっと死装束。あの世とこの世の端境に鳴く縁切り笛の音を欲しているのは彼自身だったのではないかとすら思う。今度は道に迷わないように、と捨が最後の最後にかけた言葉で、無界屋襲撃時にてめえらまだ迷ってるのか!と太夫らに怒鳴った蘭がつくった無界の里そのものが、彼の迷い道の最中のほんの一瞬の止まり木だったのならあまりにもかなしい。いい街持ったな、と捨に褒められ肩を抱かれた時に一瞬泣いてしまうのではと心配になるくらいくっと歪めた表情は嘘ではなかったはずなのに、天秤にかけてしまえばあっさりと傾く方は決まっていたのだな、と。
2幕頭の口説きのシーンにて、芥子の実漬け赤ワイン口移しもさることながら(早乙女さん池内さん水野さん粟根さんと蘭ちゃん4人見たけどとりあえず、口から血をうつくしく吐いたで賞はワカ蘭ちゃんにあげたい。口からなにかをはいたら汚いと相場が決まっているのに…)崩れ落ちたところを天魔王に抱きかかえられながら彼の赤い羽織の胸のあたりをぐっとつかんで身を起こす赤く染まった白い着物を纏う蘭兵衛の図、が様式美のお手本として額縁に飾りたいうつくしさでした。が、影武者設定なき今、殿と同じ顔の天に「鉄砲三百丁?そんなものはいらん。欲しいのはお前だ、蘭丸」と声をかけられ、これは殿の血だと夢見酒を口うつしされるという流れでない本作では、このシーンの意味合いも変わってくるなと。「実は何も変わっていなく、正直になっていく感じ」とパンフレットで早乙女さんが仰っているように、いっとき惑わされたように見えたとしても、彼は彼自身の意志を持って「蘭丸」に戻ることを選んでいるとしか思えない。
もともと8年前本能寺で焼け出される前から蘭兵衛はずっと同じ道をはずれず歩んでいたのじゃないかなと。無界の里をつくって、商人として生計を立てて、はたから見たら冷静に見えても胸中どっちにするかどっちを選ぶかの端境をずっととぼとぼひとりで歩いていて、なのに昔の縁を断ち切ってせいせい地に足つけて生きるためには絶対選んじゃいけない方にとんと背をつかれた、きっかけを与えられただけ。一歩目は不可抗力でも二歩目以降足をしっかと踏み出したのは本人、という。夢見酒を飲んだせいでも焼きがまわったせいでもなくて、あれを全部正気でやってるからつらい。蘭兵衛さんは修羅の道を選んだひと。
蛇足部分では、アカアオの数珠はああ数珠だねって感じの綺麗にまあるく数珠の形になっているから言われなきゃわからないけれど、ワカ蘭の数珠はあからさまにゴツゴツしててあやしげだからもろばれだな、というところから蘭不器用設定だったらかわいいなと思いました。そもそも人の骨をリサイクルして数珠をつくるなど正気の沙汰ではできまいが、きっと彼は正気でこなしたんだろう。
他には、兵庫が無界の里に行き場のない女たちを連れて行ったときに、蘭兵衛はいるか?と真っ先に頼って、いないと知ると気まずそうに他のひとに頼んだあの様子からするに、あそこの主が彼だから筋を通そうというのもあるけど、蘭なら絶対に断らないから、という前提あってこそだよなと思いました。そこからの、知らぬ顔のらんべえを決め込む蘭ちゃんの袖口からニャ〜とちいさい鳴き声がきこえてきて皆最初はギョッとしたけど、回数重ねるうちに(らんべえさんまたか…)となる話は一服の清涼剤として何度もしたい。


○天魔王
「血の鎮めにもならんわ」「務め、御苦労!」
天の事を考えていたら、「愛よりももっと深く愛していたよ おまえを 憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよ おまえを わたしに重なる影ーー わたしの神ーー」を思い出しました。
じっとり真性かまってちゃん。道化を気取っている敏いひとのつもりでいるけどやっぱりまっとうに生きる上で大事なものがぼろぼろ欠けていて、自分で気づいていてもそこを埋めようがない埋めるものがないから埋めようともしない、あほう。殿のされこうべでつくった面を得てなお満たされない、ほしいほしいと言い続けてやまない天のいきものとしてのしようもなさ、おろかさかわいさをそこに見てしまう。初めて兜をつけて、面をつけて通して見た世界は違ったか、面をつけても何も得られないことに最初から気づいていたのにそれでもこうしてみたかったおのれに気づいて満たされてるのかからっぽなのかわからぬまま気でも狂ったかのよな高笑いの図を想像。
森山さんいわく「(殿から蘭丸と同じような)平等な愛は届けてもらってない。なぶるような愛だったんじゃないか」というところから、たくさんのことを考えてしまう役どころで、演出ももちろん、きっとそういうふうに彼がワカの天魔王を仕立て上げたのがいちばん大きいのだと思う。アカアオ97も見て、特にアオのそめ天魔王様はずっとずっと高みから地に這う者を見ている、虫けらどころか小さすぎて人民など眼に入っていないのでは?という気すらしてしまうくらいの君臨っぷりだったけれど、ワカの天は同じ目線まで降りてきて御自らタコ殴りにしている。物理的な意味だけではなく。彼のところどころの台詞の妙な言い回し(大好きです)は自分を他人にそう見せたい自分に見せるためのパフォーマンスの一環で、殿の仮面の下の第二の仮面ではないかなと。
彼が彼というむき出しの存在であるだけで、与えられるものがきっとなかったんだろう、それがたっぷりの愛情を身に受ける蘭の隣にいることで強調されてしまったのだろう、と思う。それはどれだけみじめなことか、と思うとすべては殿の教育の賜物であるわけで、ご本人としても心残すことばかりだったとしても、三人の立場になれば自分らを残して早駆けで去っていった信長公がつくづくうらめしい。ひとは自分が受け取ったようにしか相手に返せないいきものだとしたら、天のあのありようもむべなるかな。人間の喜怒哀楽、それ以外も含めてたくさんの感情をただ一人に注ぐってえのはどういう感じなんだろうね?と天に問いかけたいところ。
気づかないくらい自然に、殿の形にぴったりと合うように穴を穿たれてしまっていたから、8年前殿が居なくなってそこがあいたままになってしまって、深い洞を埋める何かをずっと探してたのだろうと思う。天としてはそれは殿がいた頃と同じような戦国の世に戻れば塞がると思ってたのかもしれないけれど、そんな簡単なことにはとうてい思えない。それこそが未練、それこそが執着、はきみの話だろう天ちゃん、と。
そんなふうに殿に育てられた天が果たして軽々しく光秀に謀反を唆すだろうか、と考えた時に、普段殿と呼吸をするようにおこなっていた命のやり取りの延長線上にある行為で、まさか本当に本能寺が焼け落ちて、そのなかで殿が腹かっさばいて死ぬとは思ってなかったのではないかと思ってしまう。目の前で起こったまさかの出来事に自失している天ちゃんを燃え盛る本能寺からむりやり引っ張り出したのが将監さんだったのかもしれないなと。ここでむざむざ焼け死にさせるために信長公は貴方様を置いてゆかれたのだとお思いですか?!くらいは言ってくれそう。
蘭兵衛のところでも言及しましたが、うつくしさはそこにただある造形ではなく見せ方、魅せ方だ、というのは彼にもそそぎたい言葉です。マント捌き、指先一本一本までの神経のつかいよう、立ち振る舞いの無駄のなさがうつくしいなあと見とれてしまいます。2幕頭の鉄扇を用いての殺陣は血が通っているような赤いマント捌きもあいまって、蘭兵衛のそれとはまた種類の異なる舞を舞う姿のようで、何度見ても見飽きないシーンのひとつです。かつ、魅せるのは森山さんの表情の作り方。もともとお顔の皮膚が薄いせいか、ちょっと表情を変えるだけで皮膚の下の骨が動くのが容易にわかって、眉骨をく、とあげての表情変化やにやァと唇を歪めて笑う時の頬骨の動き、頬に入る線がたまらない。むろん、おそろしく厚みのある涙袋も。月を背にして刺客とやり合うあの場面は、アップではこめかみにひとすじ垂らした黒髪が映える顎から頬のラインが鋭い横顔、引けば赤いマントを纏った佇まいと床に落ちた細かい照明があいまって一枚の絵のようです。おそろしく激しく動くけれど。
しかしお顔の余白が多くてメイクがめちゃくちゃはえるタイプの方がここにも…と思いました。目尻からくっと上向けて瞼全体にオーバーぎみに入っているアイシャドウがこれ以上ないくらいに似合って気持ちよく、眉尻がほぼないくらいの薄い眉メイクもとても映えているなあと思います。尋常でないひとに見せつつも、真正面を見据えたまま眼をくっと細めて頭を後方にそらせた時の表情が、細く開けた唇とあいまってなんとも色っぽい。自分にはむかう者への挑発、嘲り、憐みがないまぜになった顔。
ここの場面でもワカの天は月を見上げて「汚したくなるとは思わんか?」からの「血の鎮めにもならんわ」で、そめ天魔王さまは「無粋な血で月を汚してしまった」だからもう全く異なるおもしろさ。
蘭に夢見酒を飲ませる場面でも、杯を持った左手も、何も持ってない、さあ、とやわく指を折り曲げた右手も一本一本がうつくしく、そういうふうに映像としてとっているのだとしても、このひとはなんて自分の魅せ方を知ってる人なんだ、と思いました。
アカアオ97では、天魔王の無界の里の女たちに手下を忍び込ませていたという告白 「天魔王さまはあなた様からいっときも眼を離したことはございませんでした」「お前の手のひらの中で踊っていたというわけか」という台詞にひどく驚いたのですが、あれがワカでなかったのは無界の里のアットホーム感を濃くしたかったのと、8年前から策を巡らせておくほどワカの天が計画を練っていない、若さゆえの杜撰さを出したかったからかなと思っています。
影武者設定ではないのでラストが変えられて当然だけれど、ワカであの天の首が家康に捧げられる為に出てきたら痛ましすぎて泣いてしまうので、空っぽうの兜でよかったなと、アカアオ97を経てのワカ鑑賞時に強く思いました。葬られたのはきっと家康がいうとおり、信長公の亡霊。
しかし将監さんが最後にあんなに取り乱すのは単なる家臣としてでなく、あんなどうしようもない天の事を内心自分の子どもみたいにかわいがってたからなのかもしれないなあと思うとなんとも「ばかな、ばかな…!」の悲痛な叫びが胸に切ないです。
しかし 「人の男」は「地の男」のように天地人をかたちどるための称号のようなものだろうと思うと、殿に天はなんて呼ばれていたのか、彼の本当の名前が気にかかります。

蛇足としては、5度目の鑑賞にして、1幕冒頭の髑髏城を囲う白い蘭の花群生は天ちゃんわかっていて…?蘭のポニテ時の黒い衣装も前々からあつらえて……?というところに気づいて粘着ぶりにぞーっとしたという話。殿の教育がしのばれます。



「今度こそ俺は、天と共に生きる」と数珠を弄びながら絞り出すように口にした蘭にとっての「天と生きる」と、天にとっての「天と生きる」の齟齬を二人ははなから知っていて、双方ともそれでもいいと見ぬふりしつつ互いを利用したんじゃないのかなと思っている。でなければ無界屋襲撃シーンでの蘭の「殿はそうやって道をつくってきた」を否定しての天の「これからは殿ではなく、俺たちが道をつくる」で場の流れでうっかり口にしたかもしれないとはいえ、黙っているような蘭ではないだろうに、そんな蘭に最後の最後に庇われた天の胸中をただただ思ってしまう。





障月さんのお腰にさげた干し柿の話などはまた別記事で。