TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

2/2マチネ、4ソワレ『SHOW-ism VIII 【∞/ユイット】』 

パリのどこかにひっそりと建つオテル・ド・ユイット。その豪奢なホテルの住人となる資格は「ユイット」と呼ばれる不老不死の存在であること。ただ一人の例外はオーナー兼支配人のムッシュー・アンの恋人、マドモアゼル・シスだった。無限の命を持つ彼は、有限の時を生きる彼女を愛し続けることに、苦悩し出している。
金と暇を持て余している「ユイット」らは今日もサロンをひらく。彼らは8番目の部屋の住人を探すべく、招かれた客人の探し物の手伝いをするのだった――

クリエのような箱での演目としては珍しいかもしれないけれど、2次元おたくかつ若手俳優舞台の存在を知っている身としてはとても既視感のある、むずがゆくなる設定。こういうものがもてはやされる世界に足を突っ込んでいたのでどちらかといえば好きな部類だけれど、盛りに盛りすぎて逆にチープに感じてしまう。王に仕えた貴族、元大道芸人、メイド頭、調度品であれと言われている、かつて死にたがっていた女etc. 個々の役の持つ設定が、漫画のキャラクタのそれのように記号として浮き立っている。各登場人物にスポットライトを当てた回が順繰りにまわってくる、マイナー路線おたく雑誌の連載漫画でありそうな設定。
妄想幻灯機、再燃マッチは、クラフト・エヴィング商會の『ないもの、あります』『どこかにいってしまったものたち』と小川洋子の『沈黙博物館』(『薬指の標本』『密やかな結晶』も?)を掛け合わせたような発想で、好みではあったものの、大枠の設定にむずがゆさをおぼえたというだけではなく、全編を貫くテーマの取り扱い方に疑問を抱いてしまいました。

無限の命を持つ存在というのは本作に限らず、古今東西取り上げられ続けているモチーフ。そしてたいていの作品では、無限の命を持つことの痛快さ、有限の命を持つものから注がれる憧憬の念、後者から前者へのまなざしが描かれ、同時に、前者から後者へ向けられるもの、限りある時を生きる者への憐れみとある種の羨望、そして彼ないし彼女に先立たれる、一人取り残される苦悩がセットにされることが多い。
ユイットでは、マドモアゼル・シスに取り残されることを想って苦しむムッシュー・アンの姿に、そのお約束を見ました。どちらに、あるいは誰に心を寄せるかは観客に委ねられるとして、この作品はふたりのような相反する存在、有限/無限の対比を描いて、受け手の共感をそそる運びになっていると思います。観客を突き放す物語ではない。

共感できる/できない、泣ける/泣けない、で表現を消費する傾向を思うたびに、穂村弘さんという歌人が、表現にはワンダー(驚異)とシンパシー(共感)という感覚がつきものだけれど、いまは後者が圧倒的に求められる時代、とおっしゃっていたのを思い出します。
ひたすら理解できないものへの驚異を突き詰める体験を味わうこともそれはそれで味わい深いもので、個人的には共感をぐいぐいと求めてくる作品より、そちらのほうが好きです。
だから、今回のユイットでも、無限の命を生きる人の悲哀なんて描かず、あらゆるものを超越している「快楽主義者(エピキュリアン)」たちの楽しいエンタメショーを貫くこともできたはずだと思います。でもそうはしなかった。観客の共感を求める設定や、場面をかなりわかりやすく提示していた。かつ後者はさらりとしたものではなく「震災」という重みのある題材を扱って、客席に強く、メッセージを投げかけている場面でした。

芳雄さんの寄る辺ない少年のような佇まい、置いて行かれたものの底抜けのさみしさ、家族として一人残された彼を気遣う蘭寿さんの表情の温かみがそれぞれ、とても心にしみました。けれど、洪水で芳雄さん以外の3人が押し流されてしまったと思われる演出では、2回見て2回とも、心臓をわしづかみにされるような、衝撃をうけました。現地から離れた環境で日々をおくり、次第に記憶が薄れかけている人間への訴えかけ、という意味を持たせた場面として、とても効果があったと思います(半ば皮肉を込めての言葉として)。
そういったふうに感情をゆすぶる場面の解釈として、大枠の設定とすり合わせたときに、有限の命の尊さをうたっている、ととらえるのはごく自然な流れではないかと。だからこそ「∞―ユイット―(無限)」と名がつくこの作品を貫くテーマ自体も同じく、有限を生きることの尊さ、だと思いました。言葉にするとあまりにもストレートで気恥ずかしくもなるし、雰囲気を味わうショー作品でそこまで重たく考えるのも、もっと軽く、エンタメの空気に身を任せてもいいのでは、とも思います。でも前述の場面は、それくらいの心構えをもって受け止めなければならない題材を扱っているのではないでしょうか。

どうしてこんなにテーマについて言及するかというと、そのテーマを最後の最後で反故にしてしまうような場面が設定されていることに、とても疑問を抱いたからです。
自分もシスを愛するために限られた時を生きる存在に戻りたい、とユイットでなくなる薬を作ることのできる人間を探していたムッシュー・アンが、マドモアゼル・シスがユイットになる薬を飲む機会をなぜつくってしまったのか。なにより、シスはなぜ自らユイットになる薬を飲むという選択をしてしまったのか。舞台上に描かれている部分から推測したり、自分の中で補足したりすれば、彼らがそれぞれの選択をとった理由も想像がつかなくはないし、それであなたたちはいいのかという思いもありつつも人の情としてうなずけなくもない。一番の問題ととらえているのは、なぜこの演出家さんはそういった流れの脚本を書いてしまったのか、というところでした。あそこでシスがとる行動は、人としてそういう選択もあるよね、ではなく、そのまま観客に投げかけている作品のメッセージにつながっていくのではないでしょうか。前述した、この作品を貫く(とおぼしき)テーマが、ああいった結末にすることで一気にぶれてしまう。ではこの作品ではいったい何が言いたかったのか。
今日も左手に金の無限マークのあざがある人が見つからない、けれどまだ明日もサロンは続くからね、という余韻を残した場面で終わる方が、まだ納得がゆきます。

物語の終着点としてはうつくしく恋人たちの幸せ(?)を優先させることにしましたが、そこかしこにちりばめたモチーフから受け取り手に、私たちが何気なく謳歌している日常がいかに大切なものであるか、考えるささやかな課題を与える作品です、という意図が見えるようにも思うのですけれど(承服できるかはともかく)、そのモチーフのひとつとして扱うには、くだんの震災の場面がひとつ、とびぬけて重たい。あの場面ひとつ抜き出せば、役者さん方の個々の演技は好きではあるのですが、この作品の一部としてはめ込むにはほかの場面とのバランスが取れていないように思えます。震災を扱うこと自体に難色を示しているのではなくて、あの場面が浮かないよう全体の調和を整えるべきであったのではと思うし、それができないのなら安易に入れるべきではない。でも題材としてどうしても描きたいというのなら、まったくカラーの違う、別の公演をひとつ立ち上げるべきだったのではと。はじめからひとつ浮き立たせて、インパクトを与えることこそが狙いだったというのなら、それはちょっと悪趣味だと思う。

震災の場面を作るなら、シスが永遠の命を手に入れる結末にすべきではないし、ユイットになるオチを貫きたいなら、震災の場面ごと削除し、加えて孔雀の場面で薬を飲ませないという流れを変更して(これもひとつのフラグに見えたのに)、お仲間が一人増えた、楽しく明るく永遠に生きるエピキュリアンたちの祝祭の日々を描くべきでは、というのが私の印象です。
有限の命を大事そうに扱いながら、そこまでで描いてきたものをラストで一気に台無しにする、この作品はいったいどういうことを表現したくてつくられたのか、見ていてよくわからなくなってしまいました。こんなふうに、見た側にたくさん考えさせる、という意図があるなら、ある意味成功かもしれませんが。

また、おそらくこの作品はキャストありきのあてがきだと思うのですが、ならなぜああいった設定にしたのだろうと思うくらい、蘭寿さんという元男役の方の魅力を引き出すのに、シスというキャラクタはあっているようには見えなかったです。もともと素のお姿や中身は柔らかい方という印象はあったけれど、それと舞台上でどう自分を表現していくかというのは直結しないのだなと。退団した男役が過剰に女記号の振る舞いをすると、格好だけ女性の男性が無理して品をつくってるように見える不思議に、やっぱり男らしさ女らしさは型だと再確認。また、あわないからこその荒療治、役者もファンも慣らしていく段階なのかとも思いましたが、なにもすべての元男役が女優に転身した際に「女らしさ」という記号一本を武器にする必要はない筈です。そもそも「女」として舞台上で経験を積んでいる女優さんであっても「存在自体が調度品」という役どころは相当に難易度が高いと思われる。
相手役となる芳雄さんは、線が細い、自分が守っていると思っているけれど本当は守られているような役が似合ったり、良い意味で世間一般の男性が大抵かもすマッチョさがあまりない、舞台上で現れにくい、稀有な男性だと思います。それゆえに、まだ男役らしさが色濃い蘭寿さんの共闘者となることはできても、彼女を庇護するような役目を担うのは、ちょっと難しい気がしました。ふたりともとても愛情深い演技をされる方なのに、蘭寿さんはまだ役の型にガチガチに縛られて抜け出せていないように見え、かつ受け入れる準備が整っていないので、いつものように芳雄さんがだだ漏れさせても、ただただ無為に零れ落ちているように見える。お互いに一方通行、こちら側も注がれる対象が蘭寿さん、という構図へのぴんとこなさがどうしても上回ってしまう。二人並んだ絵面のしっくりこなさ、萌えなさに躓いてしまったのも、構成がテーマがどうのこうの、という部分にいつも以上に目がいった理由のひとつかもしれません。というと身も蓋もないけれど。

そうはいいつつ、設定を切り離したショー場面ではゆみこさんにときめいたりゆみこさんにときめいたりしていたので、また余力があれば別記事を立てたく。