TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

1/4、5 宝塚雪組 ミュージカル『ルパン三世 ―王妃の首飾りを追え!―』


雪組ルパン/FG見てきました。そのときどきの好きなものにかまけすぎて、宝塚はご無沙汰気味だったのですが、ひさびさの観劇が、ちょっとどうしようかなこれ、と天を仰ぎ見るくらい楽しくて、現在進行形でまいっています。

お芝居については、もともと演劇・ミュージカルジャンルへは2.5次元ミュージカルテニミュ)からの身なので、わりあい漫画アニメ原作ものに抵抗がない方ではある(おたくではないタカラジェンヌさんらが懸命に二次元キャラクターについて考えておられる!という見方も会得しつつ)のですが、歌劇で望海さんが出る側としておっしゃっていたように、自分がメインで見る組の、しかも大劇場公演となるとは思いもよらず。
かつ、私は好みとして、もやもやが残る、いろいろと考えたくなってしまう作品の方へ傾く、粘着気質ではあるのだけれど、宝塚ってこういう、泣いたままでは大劇場から出さんぞ一人残らず笑顔にしたるぞ!!な側面も売りだったわそういえば、と見ていて久々に思い出した作品でした。カタルシスがあるって素晴らしい。
どたばたとんでもご都合SF(キーアイテムが揃えばルパンも錬金術使えるんかい!)(王妃の入れ替わり雑)も、宝塚でルパンなら、これくらいのゆる展開もありなんじゃないかなと、あなどるわけではなくて、おおらかな気風という意味で。宝塚一生に一度は見に行きたい!と言っている周囲の友人らに、そんなに怖いところじゃないから気軽にきてネ!と呼び込み看板にしたい作品。

マリー・アントワネットが生きる華やかな時代のパリへ、現代のルパンが飛び込むというシチュエーションだけじゃなく絵面の面白さももちろん、この作品をどたばたコメディだけにとどまらないものにしているのは、個々の役者さん演じるキャラクタの深みだと思うんです。
特にちぎちゃんのルパン、みゆちゃんのマリー、ともみんの銭形をみて、そのことを考えました。

幕が上がって背を向けて佇むシルエットが、等身大フィギュアを置いたみたいにほんものそっくりだったちぎルパンは、ひらりひらりと身をかわして困難な状況を脱却してゆく天性の軽やかさと、軽いだけじゃなく、ひとに注ぐ視線のあったかさを持ち合わせている。それはマリーちゃんにも、ある意味ライナスを呼び込むダニーよろしく強引に声をかけたカリオストロちゃんにも。ルパンというキャラクターがもともと記号として持っている憎めなさだけではなく、ちぎちゃんのルパンとしての憎めなさ。
楽曲「My Dear Queen's Diamond」の歌詞に含まれる宝塚の男役的くささダサさも、使い古され摩耗した定型文としてとらえても仕方ないようなものなのに「君がいるだけでこの世界はその輝きを増す」がちぎルパンからあの、とろりとした笑みを浮かべたまますうすう寝ているみゆマリーに贈られるものだからもうもう、だろうがよ!と怒りたくなるほどの実感を伴っている。

そんなちぎルパンのべにばら、マリーみゆちゃんですが、愛らしさといじらしさてんこもりで、見ていてほんとうに弱りきりました……。彼女が演じる、笑い上戸の王妃様(皆の前では気位高くふるまっていたのに笑うと頬がぺこんとへこむ)というだけで反則ものだったし、お城を抜け出してお忍びで城下町へ、という鉄板シチュエーションのはまりようよ! 小柳先生はやはり萌えをわかっておられる。ルパンが部屋へ忍び込んできたときの(肝心な時に警備が雑になる王宮シリーズ)堪えきれない笑いからの、内緒話のひそひそ声の落差にもめまいが。プリンセスオブチャーミングか!8年後に難を逃れたマリーちゃんが、ルパンと再開する場面での抱き付きを自然にかわしてしまう、感謝の気持ちをたっぷりこめた身の屈めようも。
そして一番胸にぐっときたのは、王宮に戻ってきたときの、ワイン一杯でべろべろに酔っぱらったマリーの口にする言葉でした。「わたし、愚かだったかもしれないけれど、罪は犯していないと思うの」しんみり言われてもみゆちゃんのマリーの言葉ならぐさっと刺さってしまうだろうけれど、場面として、このルパンに出てくる王妃としての、トーン。見てから読んだパンフレットで、史実の悲劇性に寄り添いすぎないようにしたいというようなことを書かれてて、とても納得しました。まだ自分の将来を何も知らないマリーが、酔っぱらってルパンになかば抱きかかえられるようにして、ふにゃふにゃと笑いながらこの言葉を口にする姿に、こんなにかわいいこは幸せにならなきゃいけないのに、と後の展開を思って涙腺がゆるみました。展開を知らない一度目だけだろうと思っていたら、二度目もやっぱりぐっときてしまって同様。みゆちゃんの演じる、永遠の守ってあげたい女の子像(絶滅危惧種)の前では、誰でも守る側にすっ、となってしまう。共感をそそる在り方なのに、よい意味で生々しさはなくて、誰もの頭の中にいる「女の子」みたい。でも守ってると思ってたら気が付いたら守られているような子でもあるよ、と以前から彼女を好きな友人に言われて、それもとてもわかるなあと納得。

ともみんの銭形警部は、振り回されて、視点を身の回りだけの極小にしぼってるようにみせて、見る側を笑わせながら、ほんとうは誰よりも全体の空間把握してるんじゃないかな、と見終わった後から、じわじわと考えてしまうようなすごさがあるなあとやられました。自分が泣いているだけでひとは泣かせられないのと同じように、自分が笑っているだけでは人は笑わせられない。バランスがとてもとても、もしかしたら一番難しい役どころ。タカスぺで、あんなに短いパートで場の空気を一気に攫っていったセ・マニフィークを思い出しながら。シトワイヤン銭形、はちょっと反則なくらいツボ。

そしてそしてカリオストロちゃんは、ポスターを見た人が誰しも想像していたみゆちゃんマリーと宝石をさらってハッハッハ、みたいな悪役ではなかった。インチキ錬金術師業は金もうけのためというより、偉大な錬金術師だった師匠が皆に認められなかったせいでやさぐれてしまったからなのだった、というすぐ成り上がる苦労性で詐欺師役者な望海さんだ!と属性をピックアップすると見たことあるような気がしてくるのですが、最後の最後にコケにされるのではなくおいしいところをさらってゆくという意味で、いつもとは一味違うような。アヴァンチュリエでルパン一味に手を組もうぜ!と誘われる光景に、JUMP!@オーシャンズで仲間はずれの役だった望海さんが…!みたいな中の人ファン的静かな感動もあり。斜に構えてるのに周りの人にぶんぶん振り回されて、気が付いたら見えてくる新しい世界。ちぎルパン一味だけではなく、そもそもずっと一緒にいるセラフィーヌもいまいち言うことをきいてくれないし、どうにもこうにも格好つけられなさが際立つ。ところがかわいいと思うのですが、私が見たのはまだ4、5日だったので結構振り切れてないところもあって、かっこつけのところがふつうに格好良くて、困りました。多分回を重ねるごとにみんなとのもちゃもちゃがあったまってくるのだと。楽しみです。
エロイムエッサイム〜〜〜なカリオストロさまが「黄昏よりも昏きもの 血の流れより紅きもの…」って言いださないか心配なほど、あのカリオストロルームの雰囲気がスレイヤーズ世代の心にダメージを与えますが、衣装のズルズル感はとても好きです。ハーフアップなんてきいていない! せっかく指先をたくさん動かす振りがあるのにあの手の甲の筋とか指先が見えないのはとても残念、でも黒手袋もにあうなという悩みを解決するラストの現代ふう私服とノー手袋、しかも指先くるくる仕草に不遜な笑みつきよ! あの場面での一つ頭抜けしてる立場だおれは、みたいな余裕の振る舞いにほんとうにぐっときてしまった。どんなに振り回されていてもここがあるなら結局格好良くなってしまうのでは……?みんなストップモーションのなか、という絵面の効果もたまらなくて、贔屓がやっているのではなくてもこれはにくい演出だと思います。好きだ。
錬金術については、冒頭に書いたようにキーアイテムそろえればルパンも使えちゃうのかい!と思うけど、カリオストロにとっては自分が使えること以上に、錬金術が存在することが大事だったのだと思う。ルパンのおかげでそれが目の前で証明されたことにより自信がついて、じゃあもっと自由自在に操るにはどうすればいいのか、と本気で考え研鑽を積んだのかな、という理解。ししょーししょー!ってまとわりついてる在りし日のカリオストロちゃんも、大人になってもラピュタは本当にあったんだ!なカリオストロちゃんもかわいい。バックグラウンドの内包を舞台上の在り方から客席に伝える、というのが望海さんはうまいひとだとは思っているのですが、自分があまりにファン目線のため、そのあたりの客観性がいまいちあやふや。200年生きてなくても時間を操れるなら200年後のルパンに会うことは容易だろうけれど、時をかけてひとりで生き続けるカリオストロちゃんについて真剣に考えると胸がぎゅっとしてくるので、その可能性を考えるのも楽しいのは見終えてからの空想遊びです。時間を行ったり来たりして、優勝トロフィーみたいにそのときどきで首飾りをルパンとやりとりするのに生きがいを見出だしちゃうカリオストロちゃんに、5マリアの涙。

そのほかの方では特に、マリー・ルゲイの舞咲さんに目をひかれ、というより奪われました。コメディエンヌの一言におさまらない女優さんぶりがとても好みで、風刺劇の歌のところでなんで拍手できないのかともどかしかった。

ショーについては次の記事で!