TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

2/13『マーキュリー・ファー』


サウンドオブミュージック、エーデルワイス、薔薇と核兵器に乾杯、ナパーム弾、子どもエルビス、花火、ベトナム戦争、パタフライの色、パーティの意味
「どこに在るんだ/もっとやさしくてあったかい星」

どこかの時代の荒涼したどこかの街。バタフライと呼ばれる、口にしたものに幻覚症状を与える麻薬と思しきものを売るエリオットと、その弟ダレンは廃アパートに忍び込んでいた。彼らはここで今日「パーティ」を開くようだ。準備には突然現れたナズという青年も加わり、さらに後から、ローラという兄弟と親しい女も到着する。「パーティ」には「パーティゲスト」のために用意された「パーティプレゼント」が必要不可欠だが、連れてこられた「彼」はぐったりと衰弱している。ローラの兄でもあるスピンクスという男は、約束の時刻に、彼らの予定になかった「お姫さま」と呼ばれる盲目の老婆を連れてきた。段取りにあわないハプニングが次々と起こりながらも、とうとうやってきた「パーティゲスト」はいつものように「パーティ」を開始するよう要求する。
「パーティ」が意味するものとは?そして彼らはなんのために「パーティ」をひらき続けるのか?

舞台の上にはもう絶対的に非日常、夢のような楽しい世界しか見出したくない、というときもあるし、それしかいらないひとがいるのもそれはそれです。けれどここ数年、観劇が生活の一部のようになってきたせいか、美しく楽しい一辺倒のものばかりみていると、そこと社会の遮断されようが逆に誇張されて、時々居心地が悪いときがあります。日常を忘れさせる甘さも、我に返らせるえぐみも、どちらもそれぞれの役割を持っているのだと知りつつも。

先日見てきたマーキュリー・ファーは、強烈な後者でした。なにかに似ている、とたとえるのは適切ではないかもしれないけれど、私はマーキュリー・ファーを見て、2012年に負傷者十六人を観た時の衝撃を思い出しました。
イラク戦争直後に、自国(イギリス)がとった行動に抗議のメッセージを込めるために書かれたこの物語を、遠い遠い世界の話と捉える人とは、私は何も語ることができない。殊更、あの世界といま私たちが住む日本が地続きであることに、否が応でも気づかされるようなタイムリーな出来事がつい先日起こったばかりの、今では。組曲虐殺再演が上演されていたころ、このタイミングでこれが、と思ったのと同じように。それだけではもちろんないけれど、確実に観客の心に杭を打つような作品です。

客席も丸ごと作品に組み込まれているぱきっとした色味のひとつもないセットの上で、はりつけにされた板がエリオットにひとつ、またひとつと削がれて現れる、舞台中央のベランダ窓から差し込む光の眩しさ。陽光の加減で日が傾いてゆく様子が想像できるところ、そこに佇むローラのドレスの赤や姫の水色のコントラスト。松井るみさんのお名前を意識するようになってから思い返すと、星の王子様、ヴォイツェックやGOLDなど、そのセットの美しさが特に印象に残っているのは、白井さんとのタッグの時のような気がします。今回のマーキュリー・ファーも例にはもれず、けれど美しいからこそ、余計に内容の残酷さが際立っているように思いました。

つい先日、衛星劇場で放映された芳雄さんの朗読劇『夜と霧』を拝見した直後だった、というのも個人的にこれ以上ないタイミングで、いまマーキュリー・ファーを反芻していると「人間は決定する生き物である」という夜と霧のなかにあった一節が、改めてなまなましく立ち上がってきます。

ミノタウルスは「牛の頭を持った人間」なの?それとも「人間の体をもった牛」なの?と問いかけて、前者なら話が通じたかもしれない、という視点でエリオットやスピンクスを驚かせ、微笑ませもするダレンが、後者ならば殺しても良い、とあっさり口にするところを思い返す。そのことは彼にとってまさに「話の通じない牛」にあたる生き物に対してなら、どういうふうに振る舞えるか、ということを表していたのだと気づいて腹の底が冷える。冷えたと同時に、それは一つの処世術であると気づく。あるものに冷酷にあたれる人間が、次の瞬間他のものに愛情深さを向けるなんてままあること。

右に座っている大事な子の頭を撫でて、左を通り過ぎた他人の足を踏むことがふつうの世界。それは彼らのいるところが特別なのじゃない。そして、極限状況において対立するひとたちのその判断の基準は、両者とも誰かへの愛に置かれている。愛しているからかわいがる、愛していない、無関心だから犠牲の仔羊として差し出せる。これは確かに愛の物語だけど、愛があればなにをしてもいいのか。振りかざした愛の名の下に誰かを傷つけてもいいのか。あなたたちの愛だけが本物なのか、と問いが浮かぶ物語でもありました。そして、愛しているもののためだから情状酌量の余地あり、というような単純なことではなく、加害者と被害者の立場がくるくると入れ替わってゆくことはざら、という事実を忘れてはいけないのだと。

目の見えない姫相手に、ああ聞いているよと言わんばかりに全身を使って、言葉をしみこませるみたいに話を受け止めるスピンクスが、彼女の化粧直しをやさしくしてやる彼が、ナズにああいった仕打ちをすることを瞬時に決断する。清濁飲み込むなんてレベルじゃない、ひとりの人間の切り分けられなさに呆然とするほかない。

前半の彼らがおのおのの体験を口にする、その感覚に訴えかけてくる描写のおぞましさにも息が苦しくなったけれど、ああナズがそう、身代わりだったのだとぴんと気づいてしまう場面では、もうその後の展開を想像して席を立ちたくなるほど。でも立てない、立ったら後悔する、と逡巡しているうちに、心がどんどん落ち着いてくるのを感じました。先ほどまで確かに当事者であったのに、その立場から知らず知らずのうちに一歩引いていることに気づいて、人間の防衛本能の凄さ恐ろしさを思い知るしかなかった箇所。それくらいしないと耐えきれない衝撃。
どの役もそれぞれに印象深かったのですが、水田くんの演じるナズの、愚鈍だけど、彼の行いを罵りつつ、結局むげにできるひとはそうそういないだろうときっと誰もが思う、放っておけなさと愛嬌とを兼ね備えた、いつの間にか心に住み着いてるような、ひととしてとてもかわいい男の子が一番気になって、だからこそのあれほどの衝撃だったのだと思います。

パーティーゲストが着飾ったパーティープレゼントをねめつけて興奮してるとき、ちょうどゲストの背中を視線ど真ん中に据えるような前方の席だったので、彼の思考をなぞっているような気になってとても気分が悪くなった観劇中。結局一番恐ろしく理解しがたいのは、バタフライを食べていっときの安らぎを得た人の行動ではなく、シラフの人間が起こす、人を人とも思わない仕打ちというところの救われなさに気づいて、足もとにいきなりぽっかり穴が開いて落ち続けている、というような気持ちになった観劇直後。
そして一晩経つと、パーティゲストの突き抜けた異常さよりむしろ、兄弟らのプレゼントへの冷淡さのほうを思い返して胸が悪くなりました。ピラミッドと、埋葬される王と共に死ななければならない家来の話をしたときに、初めは秘密を知った人間は殺す、という意味でとらえていたのですが、あの時すでにエリオットは、ナズをパーティプレゼントの代理にする可能性も予期していたのではないか、ということにはたと気づく。パーティを幾度も繰り返している彼らは、プレゼントがああなったことも初めてではなかったと思う。対処の素早さからもそれは推測できる、と考えてしまえることに怖気が立つ。
パーティをひらくときにひとりは冷静でいた方がいいのと同じように、物語の枠内で生き抜くための冷静さを保持するために、バタフライを口にしなかった兄と、できるだけものを考えさせない、忘れることで生きやすくなるよう、おそらく意図して兄にバタフライを与えられている弟。賢く知りすぎているがゆえに苦しむ兄と、無知ゆえに兄を救える弟という構図は、他作品でも見かけなくはないですが、その関係がもたらすラストシーンの美しさ(と言い切ってしまうのはあまりに無邪気かつ無責任ではある、と知りつつ)ったらなかったです。愛しているからわけのわからない爆弾にあたって苦しみながら死ぬよりも、今自分の手で殺して安心したい、すべてに絶望した兄と、望みを最後まで持とうとする弟。光景としてももちろんなのだけれど、弟ダレンの「死にたくない」より「自分を殺す兄にさせない」「兄と一緒に生きる」ことが先立っているような、その必死さという希望に、胸をうたれての「美しさ」への比重。
けれど多分この舞台上には、本来いけないものを美しく描いて不謹慎さをあおる演出も施されていて、ダレンがエリオットにもらったバタフライを口に含んで兄に抱きつく(兄のジャケットの下にもぐる弟の腕)光景は、そこにあたるなと。あの構図の美しさエロティックさも忘れられないです。

その、ダレンとナズが執拗にせがむバタフライについては、重要なようで、パーティ程に物語内で明確に作用する(暗示はされているけれど)アイテムとしては描かれておらず、だからこそその設定についてぐるぐると考えたくなるなと。昔はいなかったバタフライが、兵士がやってきて人々に恐ろしい仕打ちをしたり、飛行機が爆弾を落とすようになってから現れた、という背景。村山早紀さんの『はるかな空の東』というファンタジーで、飢餓が蔓延したり人々がどうしようもない窮地に追い込まれた街に、追い打ちをかけるように銀の粉を降らす蛾がやってきて、その鱗粉に触れたものは死ぬけれど、それは人々を安らかに眠りに導くための神さまの思し召しだった、というような設定を思い出しました。あの荒廃した街の住人らをじわじわと蝕んでいくための兵器とも捉えられるけれど、同時に、前者のファンタジーの設定のような、つらく苦しい環境に落ち込んでいる人々への、恐ろしく皮肉な天からのギフトという可能性もゼロではないかなと思います。

冒頭に記したような、甘い甘いお菓子ばかり口にしていると舌が麻痺してしまうのと同じように、えぐみも繰り返せば慣れてくせになってしまうこともあるだろうから、そこは一回一回をどう受け止めるか、自分次第ともいえます。だから、このマーキュリー・ファーも、ほんとうに耐性の無いひとは難しいと思うけど、逆に「耐性がある」が、あの世界をただテレビの中のことのように捉えられるから胸は痛まないしホラー・スプラッター映画のように楽しめてしまいます、の意味だったら、意味がないのだと思う。いま「平和」な日本にいるからいいけど、こういうことが実際に起こってる国もあるんだなあ、つらいなあ、止まりでは。はてさて「平和」とはなにか?と思う。空から爆弾が降ってこないから、バタフライが存在しないから、パーティゲストのような人はいないから?

兄弟の求めるものは、もうこの星には見つからないのだろうか。そもそもに、彼らはあの後どうなったのだろう。想像の余地を残した演出は希望か、あるいは私たちへ投げられた課題なのか。
繋がっている空の下で生きている人たちのことを考えながら、考えることで安心をしてもいけない、と心に留めつつ。