TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

11/8、11マチネ、25ソワレ ミュージカル『モーツァルト!』


思い返せば2010年、私がALTAR BOYZに出会った秋、小野田くんがアンサンブルさんとして出演している、モーツァルト!というミュージカルがあるらしいよ、というのがあの作品の名前を知った最初でした。しかし当時は、ていこくげきじょう?なんだか敷居が高そうだな……と観劇にむかうすべさえ知らず。半年後の2011年春のレミにまさに運命を変えられて、じわじわとあの劇場に足を運ぶ回数を重ねていたとき、友人からライブ音源CD(full ver)を借してもらったのが、2度目の出会い。以来、見ていない演目のCDを先行して繰り返しきいているのはたぶんM!だけで、ことあるごとにリピートして、全曲歌えるくらい聞いていたし、お気に入りのブロガーさんの感想も繰り返し読んで、勝手になんとなく全容をつかんでいる気になっていました。とんでもなく恐ろしい思い違いだった。
2014年、芳雄ヴォルフファイナルのこの年の再演で初めてM!を観て、当たり前なのだけれど、舞台はなまもので、だから生で自分の目で見ないとなんにも伝わらないんだって、心底思い知らされました。限定されてる時間に、限定されてる空間に身を投じなければわからないだなんて、ものすごいハードルの高い体験で、でも、なまものの醍醐味と排他性の表裏一体ぶりをいやというほど突きつけられた3時間。

同じ方の作品であってもエリザベートは歴史物という見方もあるのかもしれないけど(というか宝塚のスターシステムフィルターを通って潤色されていない、オリジナル作品としてはまさにそれなのかもしれない)、M!はもう完全に一人の人間の生き様を見つめる物語で、それなのに視点が多数存在して、どこから切り分けていいのか、こうやって改めて感想をつづろうとすると悩み深い。
家族(肉親)と才能と恋愛と、どれもヴォルフにとっては強弱なく混沌としていて、どの場面も彼にとってはじぶんのコアの部分に食い込んでるように思えたから、ひとつに集約できようがないよって匙を投げたくなるけれど、大きくくくればやっぱり、人生の物語、というほかないのかもしれない。また物語としては違うのだけれど、黄金を手に入れた人、という意味でGOLDのカミーユを思い出して、新妻さんの「この作品は、自分の人生を放棄せずに完走するということはどういうことなんだろうとお客さまに問いかけるような作品です」という言葉も思い出している。アマデが手を無理やり引くからつんのめりながらも走り続けるしかないヴォルフは、走りながらコンスに手を伸ばすけど彼女に指先はかするだけで握りしめられず、遥か後方に家族は置いてけぼりに。生き抜くことはもうそれだけで戦いの連続だ、と呆然とするしかない。ラストが影を逃れてなのも、カタルシスのなさと同時に、音楽が鳴り続ける限り、彼の生はそこにあるのでは、という考えもふとわいたけど、ちょっときれいな言葉をあてがいすぎてしまった気も。
大きなかたまりを見つめてため息をついていてもどうしようもないので、少しずつ切り分けて、考えてみようと思います。

≪ヴォルフと才能≫
○アマデと
才能を与えられた、選ばれた人間はその運命から逃れられない、才能を、運命をまっとうしなければならないという物語の類型は多分結構あって、その手の物語はとても好みとするところです。でもM!は単純に、じゃあその道に邁進して他のものは全部捨ててねあなたには才能があるのだから、と突き放せない話だなと思う。可視化の存在としての「アマデ」、暴れ馬を与えられて、なんとか乗りこなそうとする「人間」の役割を担っているヴォルフ。才能はヴォルフの一部なのに、手足のように彼に隷属することはなくて、その部分だけ愛されても虚しいのに、その部分を否定されると自分ごと否定されたみたいになる。
魔笛で喝采を浴びたヴォルフが壇上にあがって挨拶した後、彼を讃える横断幕から垂れ下がった星をつかもうとするところや、その布をアマデと取り合って結局身体にぐるっと巻きつけて、得た名声や喝采そのものみたいに大事に時折握りながら作曲に集中してる姿がけなげで、小さい頃は才能そのものだったのに、大人になって自我が芽生えて、それ以外のものを求める人生を歩みだしてしまったからの不幸なのかとも思えてならなかった。
しかし既に3回見ているので、回を重ねるごとにまた印象もだいぶ変わってくるわけで。芳雄ヴォルフはどんどん才能と一体化してきている気がする。パパやナンネールやコンスには手のおえない方向へ、どんどん進んでいるような。

○男爵夫人と
春野さん1回、香寿さん2回。
庇護者なの?あおってぽいなの?才能ではなく、彼という人間についてはどう思っているの?
「大人になるということは倒れてもまた立ち上がること 音楽に身を捧げるなら全ての鎖断ち切るの」について毎回思うことが微妙に違うので、公演日ごとに。

11/8(土)初日
たぶんエリザベートでトートいらない!って思ってしまうのと同じ思考で、アマデがヴォルフの首を締める場面で心底ゾッとして、そんな極限状態になりながらも得なければならないものなんてないでしょ才能なんて、と最初彼を救い出してくれる存在に見えた男爵夫人が、2幕後半悪魔のように見えた。男爵夫人の手を取って塀の高いお城を出た時点でヴォルフはいろんなものを諦めなきゃいけなかったんだろうけど、才能だけを貫くには人間の愛を信じすぎた(@ジェーンエア)んじゃないのか。神様が与えたのなら、才能というギフトをヴォルフという容れ物に入れたのがそもそもの神様の間違いだったのかもしれない。ああこいつも耐えきれなかったか、ってわらってるかもしれない。

11/11(月)マチネ
星から降る金があんなに恐ろしい曲だなんて知らなかった。
パパが亡くなって、アマデに延々、お前が悪いんだお前が!!と狂ったように叫び続けてどんどん声をかすれさせて、最終的に背中を丸めてちいさくなる極限状況のヴォルフになお、星から降る金のリプライズを注ぎつづける男爵夫人の構図がほんとうに苦しかった。なぜそこまでしてと内心悲鳴をあげていたのだけど、高みに上りつめるひとは形は違えどみんなこの苦しみを実生活でぐるぐる何度も回しているのかもしれないと思って(苦しみは別にだれかの死だけによるものではなく)、舞台の上にいる役を取り払った姿のひとや、舞台の上にいないひとを重ねて必要以上にうなっていた。すべてはのぼりつめるために切り捨てなければならないものだと、誰かに断定してもらえば気持ちが軽くなる、というのもあるのだろうか。

11/25(火)ソワレ
男爵夫人が星金リプライズを歌うところを見ながら、ヴォルフはパパが亡くなってあすこでようやく、彼女がじぶんに差し出していた手を取ることがどういうことか、それと引き換えにじぶんは何を差し出さなければならないか、思い知った、知らされたのかなと思った。だから「大人の男は自分の足で歩かなければならない」(噛みしめるように)なのかなって。

大司教様と
大司教様が悠々高みにいて、ヴォルフが下から彼を見上げてねめつける、という構図がとても好きなんです。
音楽を愛し、才能自体を愛している大司教様は、その仕組みを、科学の力、理詰めでわかりたいと思っている。でも自分の思考の及ばぬところで、到底それを与えられるにふさわしくない(と彼が思ってる)ヴォルフという、どうやっても認めがたいぷーたろーの身体に才能が宿ってることが、彼にとっては憤懣遣る方無い現実なんじゃないかと、そのもどかしさがたまらない。才能は科学の力ではどうやっても生み出せない、天からの預かり物って思い知らされてしまった、もしかしたら登場人物の中で誰よりもそのことに気づいている人。地位は高いけど、才能という観点からはどうしようもなくただの、矮小な人間。地団駄踏む大司教様の憤りがなぜだかすとんと落ちてくるから、大司教様VSヴォルフの構図にわくわくしてしまう。
しかし、大いなる神の意志は私にははかりしれないものだ、という風にならないのかな、ってのは気になるけど、神様の使徒として近しいところにいるじぶんであれば、それは推し量れるものだ、という意味なのかしら。パパは天才は作り出すことができる(自分の手で)って思ってて、男爵夫人は彼に最初から与えられているもので誰にも奪うことはできない、って思ってるから、その対立はわかるんだけども。

シカネーダーと、は次回持ち越し…!

≪ヴォルフと家族≫
ヴォルフの感情の波が喜びで高まって、見ている側がそこにのっかろうとしてもすぐ場面が転換して、負の方に振れるような、たいていが彼の家族に関わるような場面が入るから、楽しさを増幅できない仕様にわざとしてるのかなって思うこのM!という物語の構成。パパとナンネールとヴォルフが近づくと不協和音が鳴る、どうしても一緒には居続けられない関係になってしまったのが、かつてはそうじゃなくて、かつ、いまもお互いに求め合ってるのがわかるからこそ、見ててしんどい。ピースがぼろぼろ欠けてるのに気づかないで、これを組み立てれば一枚の絵ができるはずだ!って一生懸命で、諦めてないところ(息子にすべてを託して、彼とともに生きよう、とか)、すごくいびつできもちわるいんだけど、じぶんところ以外の家族って、よその人間から見たらどこもそうかもしれない、とも思う。
しかし「家族」に焦点をあてて見ると、回を重ねるごとに、芳雄ヴォルフがますます自由になっていってる気がして、彼の自由の追求ということはすなわち家族からの乖離も意味するわけで。観劇する前、もっと、父と息子の物語に重きを置いて見てしまうかな、と思っていたのに、じぶんの見方もそこからどんどん離れていっている気がします。彼らに魅力がない、というわけではなくて、でも、なんでなのだろう。いまはスイッチがそこにないのか。

○パパと
いろんなことを感情に入れずにすっぱり切り捨てるならば、毒母ならぬ毒父なのかなと思う。彼への干渉具合が。でも、ヴォルフはパパが大好きというのが根底にあるから(親という存在への甘えも多分にあるかもだけど)何をやっても納得しないし成功したのに細部にぐちぐち言うし、文句を言うことが愛情をかけることみたいなめんどうくささもあるのに、すっぱりと切り捨てて自由と才能を求めなよ、とも言い難い。これでパパが、息子の才能に理解をしない(支援をしない)存在として描かれてるのなら分断できるのに、息子が才能を授かっていることに喜んで、才能を正しく使え、と散々説くくせに、それを遠方で使うことを許さず家に帰って来いとも言う。でも心を鉄に閉じ込めて詐欺と誘惑から遠ざかるように、と割と息子のだめさをとらえた的確なアドバイスをよこすのでますます始末に負えない。そういう白黒つかなさはひとりの人間のなかに同居するものだよなと思う。しかし回を重ねるごとに、あなたの息子はもうだめです、とパパの方にあきらめを促したくもなるこの頃。

○ナンネールと
ナンネールというかおはなさまの笑顔、笑顔なのに見てると儚げなものを想像してこちらの胸を痛ませることに定評があるのはなぜ。でもだからこそ、あのナンネールは「もし私が男なら音楽を続けた」って言わなさそう 「もし私が男なら」って発想なさそう、とも思います。かつて手にしていた蜃気楼を仰ぐみたいな「私はプリンスセスで弟はプリンスよ」に最初からきこえて、すでにどこかで静かに諦めている人みたいな雰囲気をただよわせている。靴紐も結べない弟は別の次元でぽやぽやしているお姉ちゃん。この一家は……。

≪ヴォルフと愛情≫
○コンスと
このままの僕を愛して理解して、と叫んでもパパにはぜんぜん響かなかったところに、愛していれば分かり合える、というコンスの言葉はどれだけの支えになったことか。
何もわからないけれど、ヴォルフの才能を認めてくれたコンスがもし、もっと家族として寄り添える存在になっていたのなら、彼が得たかった複数の柱は集約して、理想は結実したのかもしれないとも思う。でもそれをぶち壊したのは彼の才能で、というどーしようもなさ。

コンスは綾ちゃん2回、ソニンちゃん1回。
直近の観劇、11/25(火)ソワレ。並の男じゃない、直後のワーキャーワー!とはしゃぎ回った後のキスがほんとうに思わず、な自然な流れにみえて、1週間と少しあけてだからか、ソニンコンスとだからか、前回と全然違うようにみえた芳雄ヴォルフだった。わかってる、神様は女に入れあげるために〜の流れがものすごくうかれぽんちに見えたからか、直後のひとりで歌う「互いの奥深く触れ合えば」が今までで一番やらしくきこえて、ああ、そういう意味ね?と思った回。
ソニンコンスが全身で愛情を燃え上がらせてドスンとぶつかってゆくから、よしおヴォルフもぐらぐらゆすぶられずにはいられないのかな、というくらい彼女のほうにいちいち寄り添う、庇護されているように見えるほど距離が近くて、窓から飛び込んできた直後から一時も離れたくない(両手を両手で握って甲に口づけてから一度はなすけど、視線で絡め取ってるみたいにそのあとも目を離さないの)というように手をずっと握っているところや、謎解きゲーム直後の「汗をかいてるわ」のときの彼女の腕のなかにおさまりたいみたいなくっつきよう。彼女の愛情深さをまっすぐ受け取って呼応してるみたいだった。なんでこのふたりはだめだったんだろうか、と友人と話していたけれど、ソニンコンスの愛情の注ぎ方はどこか動物的というか、彼の害になるような存在が現れたら全身の毛を逆立てて守ったり、傷ついたところを舐めてあげたりはできるけど、ほかの、人間としての生活を送る上で必要なことについてうまく回せなそう感じもする。野性味あふるる味付け。
愛情のかたまりだからこそ、あんたが愛しているのは自分の才能だけ!も、ああ彼を愛しているからこその悔しさ腹立たしさなんだろうな、とひしひし伝わるような剣幕だった。見えないアマデとずっとやりあってたけど勝てなかった、というような。そのコンスの爆発を受けての芳雄ヴォルフが返す勢いもものすごくて、感情をぶつけあって、なぐり合っているふたり。でも彼女は怒ることに倦んでしまった。
部屋を出ていく直前の、そのままのあんたを、愛して、いたかった、の歌い方の定型でなさにやられる。ほとり、ほとりとまだ残っているなけなしの気持ちをこぼして、置いてくような声音だった。
彼女ひとりの場面では、ソニンコンスのダンスはやめられない、のものすごさに、文字通り心を鷲掴まれた気持ちに!生の感情がいま生まれてゆらゆら立ち上がってるところを目の当たりにしている、という威力説得力のはんぱなさ。「未来なんていらない」の据わった目と声に、言葉のそのまま意味が響いてくるところに肌が粟立つ。最初の、1メロ〜サビはごくおさえめで、すれっからしな歌い方は好きだけれど、あれ?このままのボリュームでゆくの?と思っていたら完全に序章だったという……。舞台上をくるくる「ダンス」を踊りながら歌う彼女を見ていると、コンスとして嘆きながらの歌だということはまっすぐ伝わるのに、同時に、ああ舞台の上でこんなふうに歌って踊れたら、ここで生きて死ねるって思えるくらい楽しいだろうなあと思ってしまうくらい、ぼうぼうと心が燃えます。

乾杯?それともキス?のところで蝋燭の火を吹き消して、上着を脱いでベッドに投げて、からの、あすなろ抱きと見せかけてのお姫様抱っこで抱き上げる一連の流れ。綾コンスのスカートがふわっときれいに広がって夢のようだったけど、そこからベッドに押し倒すとき、完全に倒す寸前、抱き上げたままの状態でキスするのな……と思っていたら、ソニンコンス回ではお姫様抱っこからのベッドに向き直る回転が恐ろしいはやさで、その性急さになにごとか感じておののきました(世俗的な感想)

≪芳雄ヴォルフについて≫
アマデに羽ペンを腕に突き立てられて、最終的には自分から差し出す芳雄ヴォルフを見て、魂を削って舞台に立つってこういうことなのかと、舞台の上で死ぬことは舞台の上で生き抜くこと、という、とある方の言葉を思い出しながら、こっちの魂までごっそり持ってゆかれそうになった初日。
目隠ししてピアノを弾くアマデの姿の小さなヴォルフがかわいくて、パパも「天才は感じやすい」といいつつ我が子をいたわる様子がとてもやさしくてナンネール含めて家族のあり方としてしみたから、次の場面で成人した芳雄ヴォルフが出てきて、こんなにでっかくかわいくなくなってしまって!と内心嘆いてしまった。にもかかわらず、見た目はでかくなっても、女の子にだらしないチャラッチャラな様子を見せても、彼の芯は、もうどうしようもなく親離れができていない、靴の紐も結べない小さな男の子のまま、甘えん坊なんだなって、こいつどうしようもねえな、どうしようもなくほっておけないかわいさあるなって思ってしまって頭を抱えた初日。
魔笛の作曲場面での、コーヒーにしてくれる?(あまえた)を例にあげながら、あいつは甘えん坊なんだよ!と終演後にご飯食べながら友人相手に怒っていたの、知り合いの話みたいにたぶんきこえたと思う。彼の人としての可愛げはいままで家族にたっぷり愛されたからだろうね?こいついままでそうやってなんでも手に入れる癖ついてただろう?実際かわいいからずるいぞ!おこ!と怒りがクレッシェンドになる。
アマデと小突き合う僕こそミュージックのじゃれあいもだけれど、はけてゆくときピアノの前に腰掛けて目配せするところも茶目っ気たっぷりだし、パパに許されずには家を出られない、家族と音楽とのあいだばさみで引き裂かれそうな苦しげな表情もいとおしい。女にだらしないわ靴の紐も結べないわの甲斐性無しの甘えん坊なのに、ひとに触れるときに人間の情のあたたかみにあふれてるたまらない表情をするような、どうしようもなくかわいいひと。
でも彼はいずれ音楽の粒みたいに床に書かれた楽譜の上をどんどん縦横無尽にとびはねて、ぽーんと皆の手の届かないところへとんで行ってしまう。既に記したけど、回を重ねるごとに、舞台上でどんどん芳雄さんのヴォルフは自由になっていっている気がして、ほんとうにどうしようもない、愛すべきドラ息子です。
こんな激しい熱量を燃え上がらせて、日々駆け抜けている芳雄さんは大丈夫なのだろうか(未見だけれど育三郎くんもきっと)と見るたびに心配になってしまう。

○とくに注目してしまうところ
・「おおお〜〜ナンネール!」裾ぱたぱた
・「ろうそくの火みたいに消えた」
・亡霊と、悲劇の王子、の顔
・シカネーダーの取り巻きの女の子のひとりとお戯れ中、パパに呼ばれて慌てて出てくるところ、片袖脱げてベルトが外れてるところの中途半端脱ぎがよくない
・はじまり、だーーーーーーーーーーーーー!
・僕は、ピエロだ。幕が降りる寸前のね。がCDで聞いていた時はすごくしんみりした口調だったので、今回のうかれぽんち具合に初見びっくりしたのだけど、ウィーン紀行でおっしゃってたみたいに、ヴォルフがかなしみをかなしいメロディでストレートにあらわさないひとだったとしたら、きっとああいう台詞もおどけていったかもしれない。胸の内をあからさまにしない箇所なのかな、とも(しかし、あんたはすごいものを持ってる、というコンスの言葉に本当にうれしそうな表情をするんだ……)
・女の肌のように響きのひだに触れて、で空気に手のひらをそわせるみたいに広げたあと指先だけちょろっと動かすところがよくない。初日は首筋からデコルテにそわせるverだったけど、あれはもうやらないのかしら。
魔笛作曲中の何かに取りつかれた顔つき
・コーヒーがいいなぁ〜のあとのキスされかかる前、耳撫でられて、ひゃっ、みたいにのけぞるのに全然いやそうじゃない顔
・友達甲斐で、女の子たちの手をとって適当に踊ってるところのやる気はないけどこなれてるチャラ感
・集中すれば必ず答えを見つけ出してみせる!でアマデ指差す勢いで、どうだみてろよ!みたいな顔するのに、その次のフレーズでは不安げな顔するところ
・謎解きゲームの夢から覚めた後の「夢をみたんだ」はコンスにすがりつくような勢いで身を乗り出してたのに「……忘れた」でこんなこと言っても無駄だ、なのか、じぶんの勢いを恥じるみたいに殻に閉じこもるその温度差

箇条書きにしょうもない内容の割合が高いのは、すでにほかの人との関係性として、言及しているからです、という言い訳。