TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

エリザベート 9/1

エリザ梅芸初日おめでとうございます。




日替わりキャスト(敬称略)
春野・岡田・マテ・古川・寿

古川ルドルフに持って行かれた日でした。
最後にゆうたくんのルドルフを観たのが8/18ソワレだったのですが、半月前とは確かに何かが変わっているなあと。元々彼のルドルフは大好きでしたが、今回のような衝撃を受けたのは初めてです。
ママの事が大好きで仕方ないんだろうなと思っていたのにプラスして、今回はパパへの愛も、と限定するより、もう肉親の愛を求めて求め返される事を切望しているさまがひしひしと伝わってくるようなルドルフでした。
以下、個別に感想を。春野シシィについてはそれぞれの役との絡みの中で言及しています。

●古川ルドルフ
おはようございます、から始まり「ママと同じ意見が間違いだというの?」と、反語的意味合いではなく、パパにも自分がやっている事をわかってほしい、これはパパが愛したひとと同じ意見だよ、と切実に語りかけるような姿、諸民族は平等だ!と言い放つ岡田フランツの背後で表情を明るくして駆け寄ろうとする姿、ハス!で民衆に揉まれ、上手と下手端に分かれた後もずっと岡田フランツの方を見つめる姿にそれを感じました。実の息子に〜で父上!と追いすがろうとして「私は!」とマイクオフで血を吐くように叫ぶ姿に、ああこのこはどれだけパパに認めてほしかったのだろう、と。シシィへの好き好き具合が、岡田フランツと古川ルドルフは拮抗しているくらいなのに、それがイコールパパはライバルに結びつかない、ということが成り立つ不思議さのわけは、パパの事も同じく好きだから、です。大好きなママと一緒に暮らすのももちろん、ママの話を大好きなパパと語りあうことができたなら、ゆうたくんのルドルフの孤独は深まらなかったかもしれない。
蟄居を命じられて、上記のような状態で既に追い込まれている古川ルドルフのところにシシィが帰ってくる場面では、ママを好きなのはもうわかりきっている古川ルドルフが両手を、ね、ママ、と春野シシィに差し出しながら必死に語りかけるように、ママは僕の鏡だから、と歌うのに、(ママの事理解せずに、のフランツに対するあの曲とある意味対になっていると思います。要求をつきつけるのではなく、理解を求める、希う歌)もう助けてあげられない春野シシィは表情を崩さず、息子の気持ちに応えることは一切ないので、シシィの気持ちもわかりつつも、ゆうたくんのルドルフの切実さに胸が痛くてならなかったです。それこそ最後通告のシーンのように、無理なのはわかっているけれど自分が同じ立場だったら簡単にほだされてしまいそう、という意味での苦しさ。春野シシィが一度古川ルドルフに右手をつかむのを許した後、左手ものばして彼の手に添え、またすぐ両手をそっと引き抜くので、いっときでも受け入れられたと勘違いしてしまった古川ルドルフの絶望は更に深くなるのだろうなと。
シシィが立ち去った後、崩れ落ちないのが不思議なくらい身体をくの字に折ったまますすり泣く古川ルドルフの深い深い孤独を抱えた絶望と、それでも全身から、ママパパ僕を愛して、という感情が滲みだす、青白い光に一人照らされた彼の佇まいに、ただただ胸を打たれて見入ってしまいました。
直後の、彼の気持ちをぎゅっと凝縮したような「ママも僕を見捨てるんだね」の響きたるや。
何故彼に誰も手を差し伸べてあげることができないのだろう。

マイヤーリンクで翻弄される際、最初はあらがっていたものの、上着を脱がされ魂を抜かれたあとは、もう完全に事切れた人の表情で、一度なにかのタイミングでトートダンサーに投げ出されて、舞台上に一瞬座り込んだ彼の、壊れた人形みたいに傾いた首となにも映さないがらんどうの目が忘れらません。前はトートに銃を渡されてじっと見つめている際にふっとほほ笑んでいて、その口元にもうつくしさと同時に怖さを感じたのですが、今回はもうその笑みはなく、こめかみに銃口をぴたりと当てたとき、死ぬ瞬間にだけほほ笑んでいました。背筋が寒くなるような凄味に、その死の瞬間だけでなく、彼の一本筋道が通った生き様、死に様に、マイヤーリンクで拍手ができないのをこんなに悔しく思ったのは初めてです。たとえるものじゃないとは思いつつ、1年前の梅芸初日のいしいマキュの衝撃が思い出されてならなかった……似ていたのではなく、受けた衝撃の度合いが同じくらいだった、という意味で。
悪夢では、パパの姿を追うようによろよろ前にでてくるのに、あのときの春野シシィの姿がないのに気付いてうろたえている岡田フランツにはそんな余裕もなく、スルーされてしまうのがなんとも一方通行でせつないです。

春野シシィと岡田フランツと古川ルドルフの組み合わせがとても好きなので、どうしてもママパパふたりへゆうたくんのルドルフが関わってゆこうとする場面に重きを置いて観てしまっているのですが、彼にとって肉親からの愛がなにより第一に欲するものに代わりはないけど、他者に必要とされるということ自体に心底飢えてたんだろうなというのが革命家たちとのやりとりからもひしひしと伝わってきて、それがどこかかなしかったです。互いの目的を達成するためなのだとしても、革命運動で力強く、嬉しそうに笑顔で踊る古川ルドルフや、馬車の上で民衆に手を振る決意に満ちた表情がとても素敵で、そうやって革命家たちと共に行動をすることが「ひよわな殿下」を少し変えようとしていたのではないのかなと。
闇が広がる、では、トートに手をのばしてしまうのもほんとうに唯一の友達だったから、というのに加えて、「僕は何もできない」のを心底悔いているような、だからこのままでは「我慢できない」んだ、という力強さ、熱をマテトートの手を握る勢いから感じました。


●岡田フランツ
1幕はきらきら、2幕は緩急の急強め、という印象。
中日のしょもしょもした感じを覚悟して(それがいや、という意味ではなく不用意に観て、今すぐ連れ出さなければ!と衝撃を受けぬ為に)いたら、憂いを帯びている事には変わりないものの、1幕頭執務室からきらきらしすぎていて、瞳はアーモンドというよりもうお星さまのようでした。瞳の中に星がとんでいたし、中日よりさらに若がえられた印象。まじめに考えると会場移動により照明の具合が変化して…?等々要因はあるのだろうけれど、少女漫画のようだった。
お見合い直後に二人だけにされた時、フランツがシシィにキスしようとするも彼女のためらいに気づいて寸止めするシーンで、岡田フランツがはっ!とかたまるのはわかるのですが、その後すぐ僕早まっちゃったかな、というようにぷるぷる首を振っていたのと、身を離してそっぽを向きながら咳払いしてたのに胸を打ち抜かれて血の巡りが逆流しそうになりました。おそろしくかわいかったです。
そのままのふわふわした感じでバートイシュルの「あなたがそばにいれば」は前回より笑顔が多めで、シシィがそばにいるということにやや夢を見てしまったバージョンのように思えて、のちの展開をこちらが勝手に憂えて思わず頭を抱えてしまいました。表情にとぼしくても頭を抱えることには変わりないのですが。
更にシシィ好き好き度がアップしていたように感じた岡田フランツの、掛け合うよ!の拳の握り具合、後のダッシュ具合に、このひとゾフィーのところまで勢い余ってそのまま行っちゃったのではと心配になりました。前まで走っていったはいいものの、そんな「かけ合うよ!(拳)」の勢いであの母に自ら掛け合える筈はなく、口ごもってしまいそう。

最後通告で、中日と同じく閉ざされた扉と手紙を信じられないものを見つめる瞳で繰り返し交互に確認していた岡田フランツの、9/1での一番好きな場面をひとつあげるとしたら(殿堂入りのバートイシュルと舞踏会を除く)、三重唱でのシシィが姿を現してくれた時かなと。「私の人生は私のもの」と言われ、それでも「君なしの人生は耐えられない」から「君が望むものは君のもの」と嬉しいのとかなしいのがごたまぜになって泣きそうな岡田フランツのけなげさに胸がふさがるような思いになります。君が望むものは君のものだ、ってあなたもあなたが望むものは何も持ってはいないのに、ささやかな幸せさえ掴めていないのに、シシィはあなたのものではないのに、と。
同じく9/1で一番心が冷えた場面は岡田フランツが渾身の力を込めて丸めた後の新聞紙がほとんどピンポン玉大だったことと、それを古川ルドルフと向きあって彼の目の前で床に垂直に勢いよくなげたことなのですが。ピンポン玉落ちた位置が舞台縁すぎてオケピに落ちるかとおもったのは初めてでした。名古屋で少し緩やかになっていた気がしたのですが、今日の陛下の怒りと悲しみはことさら深いぞ…!とびっくりしてしまった。でも息子にただ無意味に厳しく当たっているわけではなくて、パパもパパなりに息子のことを思っての言動なのだろうな、というのがハス!で古川ルドルフから注がれる視線を振り切る際の、岡田フランツの、それなりの思い切りが必要だったんだったのが伝わるような勢いがついた身の翻し方から感じ取れました。

1週間しか間が空いていないかつ休演期間だったのでそんなに変更点はないだろうと思っていたのですが、寿ゾフィーの最期の場面の「義務を忘れた者は滅びてしまうのですよ」で手を掴まなくなっていたのにはびっくりしました。個人的にはあのシーンがとても好きだったので残念ですが、9/1はシシィへの気持ちの比重がことさら大きかったように感じたので、また「母の事が見えなくなったフランツ」になったのかなとも。
夜のボートと悪夢は同じことばかり書いてしまうので今回は割愛しますが、年齢の重ね方がほんとうに帝劇最初に比べてどんどん自然になってきているなあと思いました。夜のボート後、ルキーニに手をとられて階段を降りる際に踏み外しかけてよろ、となっていたのはわざとなのかうっかりなのか、わからなくて心臓に悪かった。


●マテトート
獲物を見つけたときの肉食獣みたいに口をぱかっと開けて歯をむき出しにして笑うのに、強引にゆこうとしても春野シシィに柳の如きしなやかさでするする拒まれたり、娘の命をあなたは奪った、では思いっきり睨みつけられて思わず、というふうに後じさりしてしまうマテトートが好きです。私が踊るとき、の「愛する人と」で春野シシィのほうへ体を向けて両手を差し出すマテトートと、正面向いたまま笑顔でそのフレーズを歌う春野シシィの図もその噛み合わなさが好きだなと。
しかし最後通告の場面で、春野シシィの書斎の椅子に座っていたマテトートは机に飛び乗った後「ゆこうよ ふたりで」と春野シシィの両手を「ささやかな幸せもつかめない」のときの岡田フランツのように両手でがしっと握るので、そのどこからともなくかもし出された恋人ムードに岡田フランツに代わってぎりぎりしてしまいました。
マテトートが最後にシシィから顔を背けるのは彼女が手に入れられなかったからかなしそうなのかと思っていたのですが「生きたお前に愛されたい」から死んだ彼女からは興味を失ってしまったのでしょうか。あの最後の表情についてはここ2、3回観るたびに考えてしまいます。石丸トートの「ゆこうよ ふたりで」でシシィの肩にかかったカーディガンを脱がそうとするところも、最後のどうだ、俺はエリザベートを手に入れたぞ、と見せつけるようなにやあ、という笑みも、マテトートとは本当に対照的だなと、最近あわせて思い出されてなりません。



この組み合わせを観られるのがラストなのは覚悟していたのですが、同時に春野マテもラスト、春野岡田もあと1度、ということに気づいて衝撃を受けています。しかし今回のゆうたくんのルドルフの変化を目の当たりにして改めて、岡田さんとゆうたくんで2度観られるのがしみじみ嬉しいです。
再来週が待ち遠しいようできてほしくない。