TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

コーパス・クリスティ 聖骸  9/9、9/11

観劇ブロック:D、E





別に円形劇場じゃなくとも、舞台の上に立つだけでもうなにもかもむき出しになってしまうのと同じことだと思うのに、360度からなめるように観られてしまうだなんて、いったいどれだけ心細い気持ちになるだろう。

先日行ったマクベスラフォーレ原宿一番上の会場(普段はあそこはファッションショー等のイベント会場なのか)も舞台四方に客席がある会場だったからまったく初めてというわけではないけれど、360度から見渡せる円形劇場での観劇は初。創作のモチーフとしての宗教や聖書にどうしても惹かれてしまうのはトーマの心臓ポーの一族を愛読書としていた人間ゆえ、三つ子の魂百までだからだと思うけれど、駆け込み訴えが好きな人間にとってJCS(鑑賞は2000年DVDのみ)にツボをぎゅうぎゅうと押されてしまうのと同じように、そしてALTAR BOYZを好むように、コーパス・クリスティもまたたまらない演目だった。
ジーザスはアメリカはテキサス州コーパス・クリスティでゲイの若者「ジョシュア」として生きていて、彼を取り巻く十二使徒も彼と同じ街に生きる現代の若者。冒頭の、さあさあこれから物語をはじめますよ!というような口上から、現代に生きる普通の若者らが、聖書の物語を自分らに寄り添う様なかたちに演目としてつくり変え、劇中劇のかたちで上演しているのだとも、実際彼らの身の上に起こったことを再現しているのだとも思える。だとしたら最後に磔刑にされたジョシュアは?そして首をくくったであろうジュダスは?という話になってしまうけれど、他の11人がジュダスの母メアリー、大工である父、神父様、シスター、クラスメイト、様々な役を場面ごとに演じているなか、彼らふたりだけはずっと「ジョシュア」と「ジュダス」ひとりの役しか演じない。

聖書を通読しているわけでも、多くの物語のイエスとユダの関係性を知っているわけでもないけれど、JCSや駆け込み訴えに描かれている彼らとは大分位置づけが異なっているようで、新鮮さに目を見開くような気持ちになった。現代のゲイの若者、という描かれ方をするとわかった時点で想像をめぐらせれば確かに、だけれど、ジュシュアは生まれたときから彼を囲む人が絶えないような、人気者というわけではまったくない。寧ろその逆で彼は周囲の同年代の男の子らに混じってゆくのが苦手な子だった。輪から少しはみ出していて、そういうふうにしかいられない自分に少し劣等感を抱いている様にも、ぼくはこうだからしかたないんだ、と諦めを抱いているようにも思える子。生まれたときからずっと、大工のパパの仕事のそれとは別に、かなづちを打つ音が、天からの呼びかけが時折聴こえている男の子。ジュシュアを取り巻く人間は大人も子供も彼に何かを押しつけてばかり。
ママが好きなダンスが一緒にできたらよかったのに、と「ママ好みであること」を押し付けられて、コーパス・クリスティの男の子は皆フットボールが好きだ、男の子は女の子が好きなものだ、彼女はいる?と「ふつう」を押し付けられて、なんでみんなと同じにできないの?と輪からはみだしていることをくすくすと影で笑われたり、直接指さされもする。それでも彼は他のクラスメイトらと同じように女の子を誘い、プロムに参加する。

ぎこちないチークダンスを踊りながらも、ペア替えで手があいたすきにふらりと会場から抜けだしたジョシュアはそこでようやくジュダスと出会う。
みにくいあひるのこではないけれど、はみ出している子は故あってはみ出している選ばれた子かもしれない。たいていのひとにとって「はるかな国はどこにもないよ」であるけれど、彼にはあった。だってジョシュアは「神の子」だから。
渡部ジョシュアは人の良さそうに垂れた目じり、元々上がった口角が要因となって、くしゃっと笑えばさらにその表情からピュアに見える顔立ち。骨格としてはしっかり男性なのに、背中を丸めて俯いて座っているときの頼りなさ、13歳なのに10歳にしか見えない、皆と一緒にフットボールに興じるにはあまりにひ弱な「男の子」にきちんと見えて納得させられてしまうところにもとても惹かれるけれど、窪塚ジュダスのあのすっと目がいく佇まいもなんなのだろう、と思う。さらさらの茶髪ボブに横顔のはっきりとした耳から顎にかけたライン、腰より下まですとんと落ちた白ロングシャツのシルエットにおさまる厚みのない少年の体躯。くるぶしのうつくしさ。シャツの背中に描かれていた山羊の骸骨が彼が動くごとに歪んでそれすら表情の一部のような雰囲気さえ醸し出す不思議さ。そんなジュダスが「君の事前から知っていた」と声をかけるシーンでは、ここにいるよ、というように指を五本ぴんと揃えて、形のいいすんなりした肘から下の腕をまっすぐあげてHi!とにっこり微笑むのが好き。首もかしげていたかもしれない。そのときが最初で、彼が出てくる時はいつもそうしての登場だったけ、と思ってしまうくらい、個人的に、ジュダスというひとのイメージをつける仕草になっている。
「君、独り言を言うだろう?これからは僕に話せばいい」「ほかのやつらは皆馬鹿だ」という、ジュダスが「君と僕」をゆるゆると囲っていく台詞。ジュシュアを絡め取る為、とっかかりとして視線をそらしたら負けゲームにジュダスが持ち込んだ際の、マリリンモンローが好き、女の子が好き、男の子も好き、人間が好き、と言ってしまうあのときのジョシュアの純真さ素朴さが可愛かったけれど、同時に、大根だ、僕は嫌いだ、でも、と言い放つジュダスの無邪気ゆえに見せかけられるかぎりぎりの尊大さ、あの屈託なさげなようでいて含みがある笑みのあやしさにも魅入られていた。「口を開けなよ、今度誰かとキスするときは」のあのうれしそうないじわるな声。
いったんは邪魔が入るものの、結局二人は他のプロムの夜のパートナーたちと同じように、惹かれあった結果、浜辺で求めあうこととなる。ジョシュアが彼の頭を抱くときはすごく必死でこのひとを離しちゃならないという感じなのだけど、逆の時のジョシュアの頭を抱くジュダスの手つきがひどくやさしくて、ほんとうに、マリアさまだったらきっとそうするだろう、というような雰囲気に満ち満ちているのはなぜか。彼を後に裏切るひととは思えない、庇護する者の腕。身長差体格差も絶妙で、ジュダスがジョシュアにくちづけするため踵をいつも数センチ浮かす、という画がとても好き。下から顔を近づければ、そしてジュシュアが屈んでくれればそうはならないのだろうけれど、思えばジュダスはプロムの夜も、裏切りの夜も、いつもジュシュアの頭を両腕で抱くようにキスしていたように思う。
ジョシュアは元々神の子で彼が知らずとも選ばれた子、だからジュダスが彼のもとに訪れたのだけれど、ジョシュアにとってみればジュダスが自分を選んでくれたことによって彼自身が救われた、というようにも取れる。救世主は本来ならジョシュアだし、僕を救ってくれる唯一のひと、というようなジュダスの台詞もあるけれど。そして「僕が望んだ様には愛してくれなかった」という台詞も。

ジーザスとユダとしてのジョシュアとジュダスの描かれ方について。差別を目の当たりにした自分の思い通りにゆかない憤りから、「すべてのひとを愛さない人間は敵だ!!」と口にする彼の極論は結局ほぼすべての人間は敵だということになってしまうし、人間は嫌いだとのたまうジュダスははなからそうだし、本当のところ、きっと似たもの同士のジョシュアとジュダス。右の頬を打たれたら左の頬を、を口にしたときのジョシュアはだいぶ機嫌が良くて、実際は「神が僕たちを一番愛している時は僕たちが互いに愛し合っているときだ」の一言で挙げた男性同士の結婚式に意見されただけで「すぐかっとなってしまう…」ほどの短気。特別素晴らしい人間だったからでなく、ただ亡くなった彼を取り巻く女たちの泣き声がうるさかったから生き返らせた、というエピソードからもジョシュアは力を使う時は、自分の思うままにしたいことしかしていないようにも思える。奇跡を起こすようになる前、コーパス・クリスティを出て、ヒッチハイクした車の運転手が目が見えない、らい病を患った男だった時、彼に、あなたなら奇跡を 起こせる!と言われたとき、ジョシュアが触るのを拒否したシーンもはっとした箇所のひとつ。まだ神の子としての自覚があまりなかったのもあるだろうし、そうだとしてもああいったひとに触れるのを彼のような人がいやがった、という描き方をしたところ。「神の子」として生まれ落ちたことは、自分の意思とは全く無関係に「選ばれて」しまったことであり、ジョシュアはそれを望んでいなかったように見えた。ジュダスの裏切り直前の「なぜ彼らのために死ななければならないのか!」「釘は痛いですか!?」の叫びは、そこでそれを口にしてしまうのか、くらいの究極さで、きっと彼と言う人の魂の叫び。与えられた者はその分求められるものだ、というような台詞を耳にした時、それは「無償の愛」を説いている彼らを描く作中の台詞としてはおそろしい皮肉ではないのか、と思った。
たまたま自分のしたいこととできること、周囲が求めることが、人生半ばまで完璧にぴったりすりあっていた、という意味では確かに稀有な「選ばれた」ひとだったのだと思う。そしてそんなジョシュアの利己的で甘ったれな部分をこそ、ジュダスは愛していたのだと思う。

「かっとなってしまう」ジョシュアが使徒に怒鳴ったあとおのれの言動にしょんぼり落ち込んでいたとき、俯いた彼の頭をやさしく抱いていたジュダスの図がひどく印象深い。ジョシュアの声の響きと、ジュダスの手なれた、愛情深い手つきが今回が初めてではないことをこちらに伝えてくる。これまでもこういったことが起こるたび、ジョシュアはジュダスに何度もたれかかったのだろう。ジュダスは物理的にだけでなく包み込むような表情を、彼の膝に頭を置くジョシュアは頼りない小さな子どものような表情をしていた。膝枕の場面はふたりの安らかさからジュダスの鋭い「なにをくれますか!」の投げかけで一転するけれど、砂漠と違ってジュダスのもとに訪れるのが悪魔ではなく、それまでもジョシュアに語りかけてきた「父なる神」の姿をとっていたのがよくよく考えると衝撃。私はペニスをしゃぶらせる為にこの男(ジョシュア)をつかわしたのではない、というような台詞ももちろん、ジュダスは「父なる神」の命にのっとって、ジョシュアを追いつめたのか、というところ。皆の為に命を落とすところまでがジョシュアに父なる神から与えられた使命で、ジュダスは自らの欲に溺れての裏切りではなく、その導き手としての使命をまっとうするために裏切ったということになっているのか、というところ。原典解釈ではなくあくまでこの舞台上でのお話として。
このあたりをまじまじと考えると、避けようもなく背負わせられた運命に縛られて、思うようには結ばれないひとたちのもどかしさかなしさ、に分けいってしまって、しまいには王家に生まれなければ、も神の子として生まれなければ、もある意味等しいことのように思う、まで突き抜けてしまう。そういうふたりをひっそり見守るのがどこまでも好き、というのは脱線。
プロムで出会うジョシュアとジュダスふたりは、仮面舞踏会で出会うロミオとジュリエットのようだった。
「ハッピーイースター!」のあの響き。

磔にされる直前でこのお芝居はやめよう!とジュダスが明かりをぱちんとつけるところ、ジョシュアがそんな彼を叱って続けさせるところ、続きを語り出すジュダスに満足げな笑みを向けるジョシュア、皆に叩かれるジョシュアをみたくないと、彼から背を向けるジュダス、の流れからはもう目が離せない。けれど舞台上から外れてラストまで語り手に徹するジュダス、渦中のひとジョシュアどちらを見ていればいいかは恐ろしく悩み深いところ。
磔にされるシーンで、ジョシュアの背を観るかたちになる二度目の席では、同時にその様子を見守るジュダスの表情をしっかりと観ることができたけれど、あの表情を克明に書き残すにはどうすればいいのか。一度目は最後の晩餐で、ジョシュアの裏切り者がいるという予言後、その場を離れてゆくジュダスの、悲しみとも怒りともつかない感情がない交ぜになった色をたたえていた顔を見つめることができた席。


冒頭にも記したように円形劇場という特性上、ブロックごと、席ごとによって見えるものがまったく異なる。やっぱりリピートして360度から視点を変えてなめるように観たくなる作品で、たとえばジュダスに頭をかき乱されるとき、背中を支えられて寄り添われたときジョシュアはどういう顔をしていたか、一度目の席からは確かめようがなかったけれど、二度目は一つ目の方は確認することができた。ちょっとまじまじ見ていいか困ってしまうくらいの、生々しいよろこびに溢れた表情。
席によって、といえば、二度目に見たときは、ちょうどふたりが数年ぶりに邂逅するシーンで真後ろに彼らが座る席で、ジュダスが「忘却の彼方へ!」とぶのを観ていたら、ジョシュアに真横に立たれて頭上から降りくる声の響きに震えてしまった。身体の震えを伝って台詞がしみ込んできたような錯覚を促す距離だった。役者さんが近い、という喜びではなく、神の子に隣に立たれるなんて恐れ多い、という感覚。
あのいわゆる「忘却の彼方」へゆこうとする際に、ジュダスが自分の細くてすっとした無駄な肉が全くついてない腕をぱんぱん!と二度叩く仕草がとても好きだけれど、打ち間違わないよう血管浮き出させるためだよなと思うと、そうそうのんきに好きとも口にできない。あの、同時にわき起こる苦楽に耐えかねるようにゆっくり前かがみになりながら身を震わせる彼の動きが、冒頭で洗礼名を受けたときのびく、びく、と重なるのはたぶん間違いでないと思う。ジュダスにとっては同じように天国へゆけること、身に受けるよろこび、というのはあまりにも不遜だろうか。彼の色気を感じる場面のひとつ。
砂漠で悪魔の言葉をききながら立ち尽くすジョシュアと右脚に絡みつくように寄り添うジュダスの図でも、ジュダスの色気にやられてしまった。


ジュダスとジョシュア以外だと、シモン役で、ジョシュアにピアノを教えるシスター、ガムを噛んでいた教え子の手の甲を定規でぶつシスターのながやん(永山さん)が印象深い。ジョシュアがシスターのピアノにあわせて歌うシーンは特に後からじわじわきて頭から離れない。ああいう風にうまく歌えないこどもっているな、ああいう教え子を置いてけぼりにしてひとりで酔ってしまう先生いるな、と納得してしまう、シスターの入り込み具合が狂気一歩手前で恐ろしくも面白い箇所。体罰の場面はもう突きぬけて、顔をしかめるほどの怖さ。
見たことあるわけがないのに、ああこういうひとっている、と納得させてしまう動きってどこからくるものなのだろう、と考えている。



脚本を拝見したいほど、台詞一つ一つが知的でじっくり噛み締めたいような素敵さで、それを確実に自分の内から出でたような言葉にして口にする渡部ジョシュアと窪塚ジュダスのやり取りを目の当たりにできる幸せをただただ噛みしめていた。こんなにツボな舞台をもってけ!これもだ!!とこの時期に重ねる舞台の神様のおやさしさも。
再演を切実に願って。