TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

9/18、21 ミュージカル『シェルブールの雨傘』

一回目の観劇で思いがけずずぶずぶとのめりこんでしまって味わいつくしたような気持ちになったので、複数回見るのはどうなのかなというのと、クリエ楽の日は前日ムラでエリザからの、という強行スケジュールで、こんなもったいない見方をしては!と身構えていたのですが、一幕終わった幕間時点であの世界の濃密さに、帰ってきてよかったなあって劇場に大の字したくなるくらい、どうにかぎゅぎゅっと詰め込んだじぶんの背中をばしんと叩いてやりたくなりました。
同時に、私はあくまでシェルブールの世界をぷかぷか俯瞰してみている一観客だから、誰にでも寄り添える、と同時に全部の出来事をみているせいで本当の意味では誰にもなれなくて、どんな舞台と対峙したときもそうなのだけど、もしかして神さまもこういうかたちでしか人間に関われないの?なんてばかみたいなことを思ったり。

愛し愛されて一人の人と生きる人生、とマドレーヌを抱きしめながら、そこにいる人以外の何かも一緒にぎゅうぎゅうと抱いているように見えたり、降りしきる雪のなか目をつむって噛みしめるように歩いてくるギィをみながら、報われた人生の送り方なんておいそれと外野がうかがい知れるものではなかろうと、鉛の弾を胸にぶち込まれたみたいな気持ちになる。ガソリンスタンドで額を寄せ合う三人の姿は外からは誰がみても、幸せなご家族ですね、と声をかけたくなるものだけど、あすこに行き着くまでにはありふれた、でもそうとうなドラマがあったことを知っている観客の私達。一枚の写真のなかに潜り込んで、ある人々の人生を遡って見せてもらったかのような気持ちに。冒頭とラストに汽笛の音、けぶる霧のなか登場する老人の存在が、すべては彼の過ぎ去った過去の思い出の回想ではないか?という思いを後押しする。
カーテンコールであの老人がギィときいて(そうなのかな?と思いつつも確信は持てていなかった)安楽椅子を揺らしているようなおじいちゃんになったギィがうたた寝途中に、寝ぼけてジュヌヴィエーヴの名前を呼んでいるところを想像して、どうしたらいいのかわからなくなりました。いつかまたシェルブールで会える日を信じて、というギィの切望は皮肉な形で叶っていることにもいまさら気づいて。薔薇を受け取ってくれる人がいるのはいいわ@ポーの一族 の精神で、行き場のない想いのことを考えると胸がひさがれるようで、ジュヌヴィエーヴのママの「正しい道を」という歌声を思い出しながら、それぞれの「正しさ」について考えてしまう。ママを安心させる正しさ、自分の気持ちに正直になる正しさ。前者の比重もかなりあったのでは、と推測されるジュヌヴィエーヴは、ママが亡くなってしまったとき、何を思ったのだろう。そこにあったのは母一人子一人で育った子どもが、親を喪ったさみしさだけではない気がする。

一幕終わりの駅の場面で、兵役から帰ってきたと思しき彼を迎えにきて抱擁する彼女、という一対のカップルがいるから余計にギィとジュヌヴィエーヴにもそういう未来もあったのかと思ってしまうし、無粋だと知りつつパラレルワールドとしてジュヌヴィエーヴがギィを待てた世界をときどき夢想する。あるいは、互いに恋したままのふたりは概念みたいな存在として、あの街にまだたゆたってるような想像。

マドレーヌにジュヌヴィエーヴのことは断ち切れたと誓ったくせに、とギィをなじることもできなくて、ひとつの選択をしたからといって、そのためにいままでのすべてを清算しなきゃいけないわけじゃないし、気持ちを断ち切ったように思えても、撚りあわなかった糸は糸で別の人生を織りなしてるのだと垣間見れたことは、果たして幸運だったのだろうか、と思うような再開の場面。いろんな思いがぐるぐる渦巻いているのに最低限の言葉しかかわさないふたりの間に漂うものを、ひたすら読み取ることに神経を費やしていました。クリスマスツリー貴方が飾り付けたの?と尋ねられて、妻が息子のために、というギィのほんのすこしの返答ですべてを察したジュヌヴィエーヴがたっぷり一秒ほど斜め上を見つめて、そうよね、と応じるやりとりの重みに心がたわむ。寒いわね、というジュヌヴィエーヴをなかに招き入れてしまったギィが煙草を吸う様子は、彼女との会話をできる限り回避したがっているように見えて、それでも問いかけられれば応えずにはいられない。子どもの名前は、と衝動的にきいてしまったギィはきっと瞬間、後悔したと思う。引きずられない自信はなくて、だからフランソワの顔を見なかったのだと思う。初日は、彼がもう今いる場所に十分に満足しているから、その必要はなかったのだ、と思ったけど、楽日にやっぱりギィにも迷いはあったのかなと思ってしまったのは、ジュヌヴィエーヴが幸せなのと問いかけて頬にのばした指先を微笑みひとつで制止したくせに、紙吹雪の気まぐれとはいえ、彼女の前髪のあたりにのったそのひとひらを、彼がつまんで払ってあげるしぐさが、あんまりやさしかったから。まったくもってずるい男。

苦しいところを思い返していると苦しいばかりなので(それも好きだからやっているのだけれど)楽しいところを思い返してみました。
ダンスホールでギィの肩に頬をくっつけて、顔を見上げながら彼の目を覗くジュヌヴィエーヴ、腰を抱いているのにさらに逆側の手もとろうとしてジュースオーダーの流れでジュヌヴィエーヴにもう!って振り切られるギィ。
そこからの、ダンスホールに再度出てゆくときにジュヌヴィエーヴに手を引かれてるのに、その手を握り直していますぐ別の場所に連れ去りたそうな、物言いたげなギィの彼女をみるだだもれの、欲まみれの目に、みてはいけないものをみた気持ちになった楽日。こーどーもーがー欲しい!じゃないわよ直球だなおい…無邪気さにごまかされてるわ…と。
エリーゼおばさんに、誰と出かけるの?/誰でもいいだろ/教えてくれないの/女の子、っと返すときのちぇっ、と言いたげな表情は害のない、もうめちゃくちゃ「男の子」なのに。それもカエルとかたつむりでできてるマザーグースの男の子のような。
それなのに、ひとりだと心細くて、と訴えるジュヌヴィエーヴに歌のほんの少しの合間を縫って指先に愛おしげに口付けるところや、マドレーヌへの求婚時のひゃくにじゅってんまんてんをつけたくなる肩から指先まで触れるやり方に、脇腹にさしこまれたような痛みをおぼえます。結局苦しくなってしまう箇所だった。
加えて楽日では、じぶんの右頬をちょんちょん、と指先で示してジュヌヴィエーヴがほっぺにキスをせがむかわいいシーンにて、とうとう頬ではなくくちびるにキスをする箇所がすり替わっていてわなわなしました。あれはジュヌヴィエーヴが寸前で首をそちらにまわしたのよね…と一瞬の駆け引きに、気脈の通じ合いを感じてぐっ、となった箇所。

また、3回目にして最後で、改めて香寿さんのママの、母親で、でも歳を重ねた女の人で、という当たり前だけど人間の一面だけを切り取るのでない、多色が混在してひとりのひととしてそこにいる、その融合の自然さが素敵だなあと噛み締めながら見ていました。
友達とゆくと嘘をついてギィと遊びに行っていたことをじぶんからばらしちゃうジュヌヴィエーヴへ、嘘ついて平気なの?とたしなめる前のフレーズ、あら素敵、と片眉あげるよなちくりとした皮肉の、お母さんから娘への言葉としての説得力といったら !いや、あたしカサールさんがいいとか全然言ってないし!な娘へ、あなたもあのひと素敵だと思うでしょ、そうよね、といちいちじぶんの願望を練りこんだ言葉をぐいぐい押し付けて、でもおかーさん!って怒られたとしてもたぶんけろりとしてるだろうなってところも。
視覚的に、椅子に腰掛けたときに身体の線に沿うようなスーツのスカートによる、しわのラインに感じる大人の女性の身体のまろみや、聴覚として難易度の高いメロディを歌いつつも豊かな感情をのせる声のまろみ。ギイもエリーゼおばさんといるときはより「年若い男の子」にみえるように、娘役さんがいるから男役がより男役らしく見えるように、香寿さんのお母さんがお母さんらしくあるから、彼女のそばにいるときはすみかちゃんのジュヌヴィエーヴが余計に子どもに見える。

カーニバルなんてただの馬鹿騒ぎね、ってメロディラインがなぜかぐるぐるとまわってしまう頭は、お祭り騒ぎに身を任せてしまえないもどかしさと羨ましさがないまぜになった顔をしてるジュヌヴィエーヴを思い出しています。