TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

『星逢一夜』一揆について

星逢という物語の中に全部必要情報は詰まっていると思うので、義務教育レベルの歴史知識があれば他には何もいらないとは思うのですが、個人的にその最低限知識すら怪しいふしがあり、念のため調べてみました。
史実と異なる部分と注記があっても、まずその大前提の史実があやふやだと単純に観劇する上でつまらないので。

《江戸時代(17世紀後半〜19世紀前半)の百姓一揆
・革命とは違い、幕藩制社会を前提とするもので、政府転覆が目的ではなかった。
・武器は基本的に持たず、農具と蓑が基本装備。装いでもって、百姓である自分らの立場をアピールし、訴えている主体や内容を明確にする目的があった。
・よくもわるくも百姓としての立場を出ない行為。
・物への暴力(打ちこわし)はあっても、人への暴力(殺傷する行為)は含まない。
・17世紀後半〜19世紀前半は、仁政を媒介に、支配者と被支配者階級は繋がっていた。百姓である自分たちが困っている=お上の政には問題がある=再び正しく仁政をしいてもらおう!=百姓一揆、という流れ。
・雇用者の怠慢への、待遇改善要求の意が強いか。
一揆の頭が重い処罰(獄門、死罪等)を受けても、全体の訴えが聞き届けられるという意味では成功例が多かった。

参考:
保坂智『百姓一揆とその作法』吉川弘文館, 2002
呉座勇一『一揆の原理』洋泉社, 2012

考えたいのは星逢という作品内での、百姓一揆の目的、実際の行動、成功率について。
小さいころの源太が「百姓が食うもんがなくなって、暴れることじゃ」と一揆を表現してたのは、幼さゆえなのか、この作品の中ではそういうものとして一揆を描いているのかちょっと疑問だったのですが、実際源太が中心となって起こす一揆では「腹が減って暴れるみじめな百姓とは違うぞ!」と、戦うのは晴興相手と皆に知らしめている。この「戦う」はこの時代の一揆本来の意味の、自分たちの訴えの強さをアピールする、であっていると思う。武器は持っているけれども、そこは見目のよさ、わかりやすさという意味での絵面重視か。
成功率については後世から見て計算すればというだけで、実際その時代を生きている人の感覚や、またそれぞれの立場としては「一揆など成功した試しが」と言ってしまえるものなのかなとも思うのですが、ここで郡上藩の例を事前にあげているのが、この作品内での一揆の結末への伏線かなと。郡上一揆の裁きを晴興が下していて、また源太たちも一揆を起こした百姓らがどうなったかを知っている、という部分。

晴興は源太を降参させ、全員を降伏させて被害を最小限に食い止める、その上で三日月藩の百姓らの罪を恐らくは、温情をもって裁きたいと思っている。でも源太は郡上藩の例を知っているから、そんな期待は夢にも抱いていない。
源太の期待は、その前の直接の「晴興」への訴えを却下された時点で絶たれているから。あの段階で、「老中様」が「自分とこのちっぽけな藩」に情けをかけることはないと「晴興」の行動から源太は思い知らされた。もう一揆を始めてしまった時点で、郡上藩にああいう裁きをくだした晴興が、同じことをした三日月藩の百姓相手にだけ罪を減免することなど、「老中様」として通らないことだと。そしてその「老中様」となることはお前が決めたんだろう晴興、と彼を厳しく諭す。
双方に優しい結末なんて選べるはずがないのだから、どちらかを選べずにいる晴興にとって、おれたちに情けをかけたりするな、と突き放すことは、源太のひとつの優しさの示し方とも言えるのではないかなと思います。もう江戸での自分の立場だけ考えろと。冷徹を貫けない晴興の甘さも迷いも優しさゆえではあるけれど、その優しさはここでは無用の長物であると。

二度目の源太の、ちゃんとやれ、という言葉に、晴興は応えたのでしょうか。それとも自分はもう老中様として「ちゃんと」やれないということに気づいたのでしょうか。
勝負を持ちかけたときは源太を殺す気はもちろん、自分のお役目解任と引き換えに百姓らを救う、というほど切羽詰まったところまで晴興は考えていなかったんじゃないかなと。条件は提示しつつ、負ける気はなかった。源太に負けて源太の要求をのむことはできない。でも彼は死ぬまでやめないという。もう、源太の言うところの「ちゃんと」を果たし、かつ百姓らを救うには、自分が勝って、直接その働きを江戸に持って帰って報告すると同時に罪を減じてもらうしかない。自分が負けたら「騒動を速やかに鎮圧できず」の郡上藩と同じく、自分のことも、百姓の裁きも、他の人間に委ねることになってしまう。
晴興は自分が源太に殺されてもいい、くらいの気持ちで刀を抜いたのかなとも思ったけれど、やはり苦渋の決断で、「小を捨て大を取る」をまっとうしたのかなと。そして源太を切り捨てることで「小」の重みを両腕に思い知ったのかなと。

源太は殿様になることも、老中になることも、晴興が自分で決めたこと(肯定的な意味で)と思っていて、そこに運命に翻弄されている人の憐れさは見ていないんじゃないのかなとも思います。立場に立つことに苦しんでいることを慮ってはいても、そこに立つことそのものに迷いがあるとは思ってはいなさそう。そういう意味では源太の突き放し方は晴興には酷だ。老中様という晴興の立場を汲んではいても、成り上がるまでの裏側は知らない、晴れがましいものしか想像していない、おそらくは。裏打ちされているのは晴興への信頼と期待。「三日月の自慢の殿様になれ!」の人だから。でもそれは被支配者階級の人なら普通の考えだろう。晴興の背景を一から十まで汲んでいるひととすると、源太が賢すぎてしまう。立場の目線の違いには、思いをくみ取れる範囲のずれも、ベン図の丸二つの重なっていない部分みたいに含まれている。

見ているこちらも源太、源太、と思って彼のやさしさを万能さにすり替えてしまうきらいがあるのですが、思い一つだけで届く範囲には限界があるのだと、いろんなものを勘定に入れて見ようとすると、ますますにやるせない。
やるせないのは彼らが自分のことだけを考えているのではないから。互いに相手を推し量ろうとするけれど、それでも届かないものがあるからこそ。