TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

『星逢一夜』再考

後だしじゃんけんにもほどがあるのですが、初日観劇した際に、お泉をもらってくれ、と源太が土下座をするのを見た瞬間、え?そんなことをしてしまうの??と彼のその行動を正直飲み込みがたく思いました。土下座には、なにか抗いがたい力によって強制的にさせられるもの、させられた相手の自尊心を損なうもの、というイメージがあります。観劇後、源太の他者に対する思いやりの心や、そのほかの行動、久美子先生は土下座を軽々しく描くだろうかという疑問とを突き合わせて、彼の行為を肯定的に自分なりに考えようとした結果「自分のプライドより大切なものを知っている人」という源太像を作り上げていました(今はまったくそう思わなくなったわけではないですが、それだけではない、と考えています)。

一度はそういうふうに思い切りつつも、けれど土下座を肯定するような、ある意味「和の尊さ、重み」のようなものにすり替える見方はどうなんだろうな、なんだかな、ともやもやしていた時、同じようにもやもやしているという方や、はっきりキモチワルイとおっしゃる方、ああいうことをやられたら実際お泉も嫌なんじゃないか、紀之介は立場の違いを見せつけられるようで戸惑うのではないか、というような感想を拝見して、横っ面を叩かれたような衝撃を受けました。
本当は共通認識を得たりする前に、初見に感じたことを信じてひとりで掘り下げればよかっただけなので、私は意気地のない人間だ!と腹に拳を叩きつけ、しかし土下座への違和感を念頭に、改めて源太という人や彼の行動について考えました。

いくら思いやりの心由来だったとしても、立ち位置や価値観が決定的に違う人からの推し量るまなざしは、悲しいかな、その人が優しい優しくない関係なしに見当違い、ということもある。
また、優しい人がすることはいいことで正しいこと、という思い込みが目を塞がせていたけれど、ある事象の描かれ方を見るときに、大事なのは光をどう当てているか。戦争を悲惨に滑稽に描いて非戦というメッセージを見る人に強く刻み付けるか、反対に高らかに謳われた、あるいは覆い隠された下から染み出すプロパガンダか、という具合に。

源太は優しい人であることに違いはないけれど、当時の男性並みのマッチョさ(当時に限らない今日に至るまで、普遍的なものかもしれません、残念ながら)は持ち合わせている人だと思います。思いやりの心ゆえに「お泉、おまえのことはおれが食わせてやるから」類の思考が根底にあって、でもお泉はそういう「優しさ」に安易に身を任せることに抵抗がある人だと思う。「”あたし”は”あんた”を幸せにするんよ」は、紀之介への思いを断ち切る意味ももちろん、主体は自分、決めたのも自分です、という源太への抵抗と宣言。
源太はそこまで自覚的に考えてはいないと思うけれど、あの土下座はやはりお泉という女の所有権の譲渡を現すことに他ならない。源太はそういうふうに見える可能性に気づいておらず、その優しさがお泉を傷つけ、紀之介に衝撃を与える、という構図を描いた場面と思います。
二人の男が一人の女を手中に収める権利を巡って決闘だ!女は私のために争わないでと言っている!というアホアホ展開をなぜか美しく描いて美しく見えてしまうような宝塚の作品が腐るほどある中で、源太の優しさで包まれた行為への違和感を、あからさまに登場人物に口にさせるでもなくさらりと示すやり方。直前にお泉の涙を袖で拭ってやって微笑んでからの土下座、という流れはお泉のような人にどれだけショックを与えたのかなと思うと、久美子先生の御業は鮮やかと同時にえぐい。美しいのに美しくない。

そもそも久美子先生はそういうものを美しく描かないだろう、という思い付きから、「やはりこの土下座は肯定的には描かれていないんだ」にゆけばよかったところを「これには私が考える土下座のネガティブイメージは含まれていない」にとんでしまったのは、源太を望海さんが演じてるというのも一因でした。好きな役者さんだから肯定的に捉えたいという感覚を完全には切り離せていなかった、と自分の視点のなってなさを呪いたい。呪いたくもあるのですが、歌劇7月号(もはや学術書)の座談会で「源太は自分のためでなく、先の世のため晴興に忠告する、そういう人としての大きさというか、そんなところまで表現していきたいです」とか望海さんが言っているから!そういう意味で「いつも正しい行動をする人」と思い込んでしまった。久美子先生も特に横やりはいれていないし。でも源太にとっての信念に悖るような行動は、彼は一度もとっていないのだろうな、それがお泉や紀之介の望むものと物凄く距離があるだけで、とも考えられます。源太の考えとしてはあくまでも望海さんの解釈であっているとすると、それが密かにきっちり織り込ませた久美子先生の彼らの人生への鞭打ち序章、と思い当ってへこむ。もちろん批難ではなく。望海さんの源太の優しさの観客への訴えかけようの強さ、説得力が、彼という人間の、お泉や紀之介への自覚のない残酷さを補強している。久美子先生はここを望海さんに期待していたのか。真っ白な天使も真黒な悪魔もいない世界だ。

加えて、これは源太と紀之介、彼らの身分の差、深く横たわる溝を描いた場面だ、という感想も拝見して、はっとしました。久美子先生のおっしゃる「支配者と被支配者という相反する立場」の明確な描写は、お泉をお嫁さんにできない紀之介の言葉や、一揆の場面に現れているものと思っていたので。土下座=へりくだった行為=立場が下の者から上の者への行為、までは意識としてあっても、立場=身分という考えに至っていなかった。
源太についての初見感想で「源太はお泉への気持ちを抱えても、あくまで村に生きる村人としての自分の基盤は揺らがないから、基本線はひとつ」と書いていたのですが、これは言い換えれば自分の立場、身分を自然とわきまえている人、階級の外に視点を置くことができなかった人、とも言えるかと。でもおそらく彼のような立場に身を置いていたら、そこから抜け出して物事を考えるのは至難の技で、別の視点を持てない、江戸からきた「晴興」に以前のように接することができない源太を悲しんだり憐れんだりできるのは、観客という神の視点で見ている人間の特権かなとも思います。傲慢とも言える。彼という人が愚かで正すべき人と描かれているわけではない。同時に、どんなに敏い人であっても、紀之介も、慮ることはできても本当の意味で源太たち農民の気持ちはわかるべくもなく、またその意志をすべて尊重することはできようはずはなく、わからない、ということをあの一揆で腹の底から思い知ったのかもしれない。

ところで紀之介は、男性性に傷を負っている人だと思います。腹違いの次男坊で、跡取りから外れていても、もっと野心があってのし上がってやろう、という人物であれば意気揚々と江戸に運試しにいくのだろうなと。でも彼ははなからやる気がない。そういうことに興味がない。境遇、運命への対峙の仕方、得意分野が源太とは対照的にマッチョでない。従来のヒーローというよりヒロインに近いから、お泉に寄り添い易いというのもあったのかなと。そういう紀之介をお泉は愛して、でも彼と彼女は、特に彼女は自分の意志で(「”あたし”は”あんた”を幸せにするんよ」)源太と一緒になることを決めた。断りきれないとはいえ紀之介も貴姫との結婚をした。紀之介は全く気がないとはいえ(子をなさなかった、というのも)貴姫はどうやら彼に気があったらしい。個人的に、江戸でのふたりのエピソード(たとえば江戸のしゃれた言葉指南の様子)も気になります。江戸で彼のことを思ってくれる人が全くいないわけではなかった。
最後の選択をすることで、吉宗公や貴姫、秋定へ与えた衝撃や彼らが失ったものの大きさを考えると、紀之介は全部背負う覚悟だろうけれど、「俺が愛したのはお前だけだ」は、彼と心を通わせたお泉二人が結びついてしまうことは、源太のみならず(櫓は「紀之介が星を見る場所」と同時に「源太の知恵が主軸でできた場所」でもあって、二つの意味を逢瀬の場所に込めるというのがまた、久美子先生、と唸るところ)、たくさんの人たちへの手酷い裏切りに思えます。彼ら二人の間に流れる天の川に、今までに絶えず溢れていた水の量を思えば、束の間の逢瀬自体を糾弾するという趣旨はまったくなく、ただ事実として。想いあっている者同士への運命の仕打ちに切なさは感じつつも、導かれる結末はあるべくして、のものだなと。どうして二人は結ばれなかったのだろう、はあまり考えない。その恋の行方に関しては、一番最初に全部の条件が提示されていた、するするとした運びの物語だった。
これは好みとして、二人を引き裂く身分差以上に、お泉の身の内に飼っている激しさが(結ばれなさゆえとしても)、二人を穏やかなところに収まらせようがなかったと思う。紀之介に注ぐ、青い炎のような高い温度の恋情や、息苦しい湿度の中毒性。お泉があの村で孫に囲まれて生きる未来は見えるようでも、その横に紀之介が佇むことはないな(村でなくとも別の場所でも)、二人が一緒にいたらお泉が燃やし尽くしてしまうだろう、と思わせるあの場面の激しさは、束の間のものであるという前提があってこそだなと。紀之介だけが彼女のただ一つの発火装置という捉え方も。


演出家や演者の意図はあっても、その意を100%汲むことが受け手のお作法とは思っていません。観客の前に差し出された時点で、作り手を離れて羽ばたいていく部分もあることも含めて、人の手によって生み出されたものの味わい深さだと思います。
この作品についても、久美子先生久美子先生言いつつ、ひとつもその意を汲んだ見方はできていないのかも。
私は源太のことを考えるあまり、初見のような解釈をして、今はそことは少し違う見方を見つけましたが、最初の視点もまた、許されざる見方ではなかったんじゃないかなと甘っちょろいことを考えています。

誰かの気持ちになってもいいし、せっかく全体が見られる生の舞台を観劇しているのだから、俯瞰するつもりで、誰の気持ちにならなくてもいい。一瞬一瞬で切り替えたっていい。客席を飛び出して、思考は舞台上の人々の間を行き来したり、その人たちに乗り移ったり、一瞬で遠く離れたところに飛び去ったりできます。多様な楽しみ方を受け止めるだけの、度量の広さがあるのが舞台で、星逢は、特にそういう作品だと思います。

考えすぎると次見るときに答え合わせめいた観劇の仕方をしかねないので、やっちまったなあとは思ってはいるのですが、考えてしまったので、書き残したくて、書き残しました。

8.9追記
貴姫との間の子について、あの時代、後継を期待されるであろう立場でいないほうが不自然とは思うのですが、いる、という明確なセリフも描写もなかったこと、子がいるならもう少し彼も江戸に未練を残したのでは、という勝手な推測で、いない、と記していました。特にいない、という明確な描写は作品内にはなかったかと思います。