TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

5/9 11:00 宝塚雪組『アル・カポネ ―スカーフェイスに秘められた真実―』

エリオットとの愛憎劇を見るなら下手、メアリーとの恋愛模様を見るなら上手


スカーフェイス」が封切られたのがアル・カポネが捕まった年、遡ればアル・カポネがマフィア現役時代に映画の製作は既に開始されていた、というところは、犯罪者本人が生きてるのに当人モデルの映画をリアルタイムで上映してしまうなんて、禁酒法時代最高にクレイジーでクールだな!?と不謹慎にもある意味ワクワクしてしまうポイントでした。だからこそ、この「アル・カポネ」のなかで、映画の登場人物のモデルとされている当人とシナリオライターがまみえるというシチュエーションが可能だったわけですが、この「アル・カポネ」の構成として、過去回想から話がはじまるという形にするのであれば、アルが2度目の逮捕をうけて、ギャングスターとしての人生にエンドマークをつけてからの話にしてしまって、エリオットの存在も、ベンとの出会いも、すべて監獄で余生を送るアルの口から語られるようにしなければ、頭と終わりの繋がりがぼやけてしまって、流れとしてうまくないのでは?とも思います。(主人公を刺した男の語りで始まったのに、彼が途中退場する仕様に潤色された美貌の皇后の物語もあるけど)

本人でない語り手に最初から最後まで語らせるなら、ベンというシナリオライターが構想した、もうひとつの物語としてのスカーフェイスとするか、エリオットが懐かしく思い出す「心優しき悪党」アルの回想とするかなのだろうけれど、ベンに語らせるとエリオットとの物語を描けず、エリオットに語らせると、アルのメアリーとの出会いのエピソードが端折られてしまう。
物語として、焦点を一つに絞って話を掘り下げるなら、エリオットの語りでアルとの関係性をしつこく描いた方がいいのだろうなと思うのですが、アルを「心優しき悪党」として描くには、彼が物盗りの男の子を自分の有り金全部使って庇ってやるような好青年だったころだったり、敗訴する瞬間に自分がいなくなった後誰が彼女を守る?と呆然と思い出すような奥さんとの出会いのエピソードの積み重ねがあってこそのエリオットと出会った彼、というふうにしたほうが人物像に説得力が出ると思う。なにより、スカーフェイスを手に入れるきっかけとなった事件が、この「アル・カポネ」中でどう描かれているかを考えると、彼の愛妻家ぶりを削ることは絶対できない。傷を負っていなければ、ギャングの世界で生きることもなく、けれど傷をつけてまで守りたかったひとは、自分がマフィアの世界で生きることを喜ばない。その矛盾を内包しながら生きる男。

といいつつ、メアリーという女性とアルとの関係も、クリスマスに結局夫とともにミサには行けたのか、堅気に戻れない夫に対する彼女の気持ちはどういったものだったのか、子どもが生まれた時のアルの反応は等々、家族との場面が1幕後半から劇中に殆ど盛り込まれていないので、アルと結婚してからのメアリーという人物が、何をどう考えて彼に連れ添っていたのかまったくわからないのですが。けれど合間合間に挟まれる短い場面でのアルの態度が、奥さんへの信頼や愛をにじませているので、きっと奥さんもまた、彼を愛しているのだろうと想像はいく、という乱暴な解釈。舞台上で愛する相手を持った望海さんは強い、というのを愛と革命の詩のパンジュ侯爵で思い知らされた人間としては、わかっていたはずなのに、覚悟なしで見てしまったのかと思うほど、メアリーや息子に接する時のアルの愛情深さに、いちいち胸がひきしぼられました。
マフィアのファミリーものってそういう意味のファミリーだったの?「スカーフェイスに秘められた真実」って「ギャングスターは愛妻家」ってことなのか?と思うほど、いわゆる「マフィアのファミリー」の描かれ方も薄かったような。子分を連れての銃撃戦はあったけれど、あくまで絵面としてかっけー!というだけで、絆が描かれてはいなかった(むしろマフィア以外との男との絆が生まれていた)(エリオットくん)。抗争の発端としての「ファミリーの掟を破った」とのたまう彼のその盲目とも思える「ファミリー」への忠誠心の由来とは。ファミリーの子分にもっとわらわらモテキ神輿担がれるくらい、男ぼれされるような場面も見たかったです。まなはるジャックくんからも暑苦しいほど愛されてはいましたが「さすが兄貴だ!」より「兄貴のばか!」の連続だったし、他の手下のモブ感。前半のパパ・はっちさんとのほぼマンツーマン指導で培ったものが大きかったのかしら。

やはり家族ものなのか、と思い始めたあたりで追い上げてきたのが、10年以上前からアルのことが忘れられなかった一途なエリオットくんで、やっぱり2回目の観劇でも、彼とアルの邂逅の場面からのデュエットでの(個人的な)気持ちの高揚具合は群を抜いていました。ふたりとも正義を貫くには、悪に徹するにはそれぞれ情に流されやすすぎるだろう、ちょろすぎるだろうと心配になるほどなのですが、エリオットの若さや、アルのイタリアーノでかっこつけで、野生の嗅覚で商売をしてはいるけれど、要所要所であほほど詰めが甘いところを思えばさもありなん、と。物語の強引な展開上ちょろくされたと切って捨てるには、一生懸命さがあまりに愛おしく思えてしまう。

彼らのバーボンを飲みながらのやり取りはもちろんなのですが、この物語で最も好きな場面のひとつが、エリオットの餞別のおかげでつながった、ラストシーンです。過去回想を貫こうとするとこの後別の誰か、あるいはアル自身の余生の姿に戻らなければいけない。「ギャングスター?そいつは最高の称号だぜ」で、一人舞台に取り残されたアルがワンフレーズ歌って、踵を返して舞台奥に消えてゆく。後ろ姿に焚かれるカメラの閃光の嵐。彼が背中で語るもの。
前半でくどくど記したように、物語を回想形式にするならこういうふうな勝手な終わり方じゃたぶん通らない。通らないのだけど、この一歩間違えると気恥ずかしくなるくらいキメキメのラストシーンが、初回観劇時本当にふるえるほど格好良くてたまらなくて、心の中で原田先生にひっそりお礼を言いました。
このラストがあるせいで、前半と後半でストーリーテラーが変わってしまったことを、なってない、と糾弾しきれずに、振り上げたこぶしを下ろしてしまう事態。舞台人望海さんの背中に初めて焦がれた花NWの忘れえぬ記憶がよみがえってしまった。
筋を追うには中の人には肩入れしすぎてはいけない!



ここを修正したらよくなるだろう等々考えるのはもともと得意じゃない、基本はポリアンナ症候群ぎみな思考なので、宝塚オリジナルの芝居世界のおさまってなさ率の高さというか基本おさまってないことに気づいていない段階ではかなり苦しんでいたけれど(愛革記事参照)最近は勝手に折り合いをつけだしています。というのも失礼な話かもしれないけれど。
筋が通っている通っていないすら、ひとりひとり違う物差しを、さらにどこにあてているかでかなり違ったりするので、難しいなあと思いつつ、観たものについてねちねち考える癖は続けていきたいです。