TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ロミオ&ジュリエット 「死」

あの舞台をひとがいかにして死ぬかを描いた物語として捉えたときにふと「どんな死に方をするかいってくれ、そうしたらあなたが誰か当てられるだろう」という一文がふと浮かんできたので、久々に別件で購入したオクタビオ・パスの『孤独の迷宮』をぱらぱらと読み返していたのですが、死生観について書かれている章で、ロミジュリにおける死のダンサーという役の意味について考えてしまうような箇所があったので以下に抜粋します。

死とは、生のむなしい身振りを映す鏡である。(中略)死の前面に我々の生が描かれ、固定される。崩れ落ちて無に帰する前に、彫刻されて不変の形となる。(中略)もし我々の死が意味を持たないならば、我々の生も意味をもたなかった。もしも死が我々を裏切って、ひどい方法で死ねば誰もがそれを嘆く。それは生きている時のように死なねばならないからである。死は生と同じく、譲渡がきかない。もし生きている時のように死なないならば、我々が生きてきた生が、真に我々のものではなかったということになる。つまり、我々を死なせる不運が我々のものではないのと同様、その生も我々のものではなかったのである。
『どんな死に方をするかいってくれ、そうしたらあなたが誰か当てられるだろう』
オクタビオ・パス著 高山智博/熊谷明子訳『孤独の迷宮』法政大学出版局

あの舞台においては死後の世界が描かれるということはありませんから、考えてみれば死後のロミオに寄り添いながら死のダンサーが踊るという場面は、霊廟に人々が集まってが歌う最後の場面を除けば一か所もありません。ロミオが死について考え悩み、境界線に触れる時に死のダンサーは姿を現しますが、それは同時に生を現し、その表面をなぞっている事にも繋がらないか、とはっと思いました。その意味では「死の前面に我々の生が描かれ、固定される」という箇所はロミオ&ジュリエットにおいて死のダンサーが担う役割を今一度深く考えるきっかけを与えてくれるわけで。
しかし最後の一文にはやはりマーキューシオを思いださずにはいられません。


どんな死に方をするかいってくれ、そうしたらあなたが誰か当てられるだろう。