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観劇後に気合があったときだけ書きます

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』⑤

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』⑤

 

 

 雪組パロディコーナー、楽しみましたか? 私は正直面白かったところもなくはないのだけれど、諸手を挙げては楽しめない場面でした。アヤナギ先生の映像もアヤナギ先生も、アヤナギ先生を演じきるサラサラストレートのめちゃくちゃ癖になる翔くんも大好きだし(び、びんぼうを引っ張るのはやめてくれ~~!)と心の中で叫びつつも、すみれ先生との阿吽の呼吸に不意をつかれてふきだしたり、ホワイトボードを毎回楽しみにしてしまったり、千秋楽でのまさかの風子ちゃん(可憐でしたね)登場に度肝を抜かれつつ無言で目に焼き付けたりしていましたけれども。そういうところではなくお芝居の中身です。

 

 初日に感じた強めの怒りは、回を重ねるごとに呆れのほうが強くなってきて、コンサート全体を通じて、素敵だと思う、感動する場面構成もたくさんもあるだけに、こんなしょうもないことでがっかりさせないでよ、というかなしみが深くなってしまった。

 

 ずっこけ要素がいくつかあった中で、望海さんが今まで演じた役をごたまぜにした主人公「吉村・ロベスピエール・貫一郎」がそのルーツを問われて「純日本人」と連呼する場面は東京公演で手が入っていて、そこはさすがにまずいと思ったんだな、とびっくりしつつも納得し、少しだけホッとしました。「貧乏」は脚本の根幹に関わる、かつ「演じている自分たち自身を笑っている」と押しきれなくはないけれど、客席にも舞台上にも様々なルーツを持つ人たちがいる場所で(たとえいなかったとしても)その表現はまずいと、舞台に上げる前に気づいて欲しかったと思った。

 

 「押し切れなくはない」と書きつつ、私は「押し切れる」とは思っていないですが。

 

 望海さんは「貧乏」な吉村をやり切っているけれど、その前のアヤナギ先生でメタ視点を入れて見てね、と注記されることによって、個々の役以上に、演じている中の人たちの背景が前面に見えてきてしまって「役として貧乏を生き切っている人たちの強さを笑う」という視点だけでは乗り切れないと私は感じた。中の人を透かして見るのは「役」をやりきっている人たちに失礼なのかもしれない、でも「純日本人」や「ババア」や吉村の接待をする女性陣や、しづ・クリスティーヌの描き方から、そもそも演じている人の問題というより、そうした笑いを描き切る力がある脚本と思えず、その笑わせるための要素の用い方を信頼しきれなかったのもある。

 

 宝塚ってお金がかかったゴージャスな芝居をやる劇団というイメージが強いのに貧しい人が主人公の場合もあるんだよ、そしてその手の演目が同じ組で続くのって意外性があるよねという点を面白く見せたいのはわかる。でも同じ演目が続く、という部分ならともかく「貧しさ」をピックアップすると、貧乏からはおよそ遠いところにいる人たちが活躍する劇団が、貧乏で遊んでいるふうに見えてしまいかねない、と私は思う。回数を見ると慣れてしまうところもあるんだけど、その慣れは全然よくない慣れだ。「純日本人」と比べると、そこまでしつこく指摘する箇所ではないかもしれない、とも思うけれど、やっぱり思い切り笑うには、かなり微妙なネタだと思う。

 

 笑いって何かを「嗤う」ことに加担する場合もあるから、信頼に足らない要素が見えてしまうと笑っていいとは思えない。脚本のうまくなさだけでなく、宝塚の立ち位置を強く意識して見てしまう自分の意識の問題もあるかもしれないし、社会における宝塚の位置付けが中の人とずれているのかもしれない。

 

 貧乏で呆然としていると、女性の扱いがひどいことにも気づいて、英雄色を好む、という味付けのおもしろさは、かなり扱いが難しいが、もしかして演じる人が全て女性の宝塚に、ジャンプ編集部的な価値観を持ち込むつもり?とも思ってしまう。これは残念ながら、サイトー先生の脚本・演出だけに言えることではないんだけれど。右を見ても左を見てもおじさんばかりが目立つ社会に生きていると、舞台上に女性しかいない世界に夢を見てしまう。そこで見る夢の中でおじさんがでしゃばる世界と同じ価値観の表現を見せつけられるのは本当に勘弁してほしいと思う。

 そして、このコンサートを通じて、パロディ場面の脚本・演出で嫌だと思った部分と私が好きだと感じた部分を構成した人は、確かに同じ人だなと線で結ぶ要素をうっかり見出してしまって勝手に落ち込む。

 

 今この状況にある人たちに届けたい歌を歌うといつもとは違ったふうに観客に響くのと同じように、宝塚の舞台上の表現すべては社会と完全に切り離されてはいない。いま上演することで今の価値観を持った観客がどういうふうに感じるか、という視点なく作っているものなんてないとは思うのだけど、でもいま一度、さまざまな表現について再考してはもらえないだろうか、私も一ファンとして受け取り方を考えたいから、と思っている。

 

 

色々言いつつ見ていたところ

・今回の吉村貫一郎のビジュアルがやたら美しく好みだった()。和物化粧ではない状態での和物扮装という新しい扉

・いちいちショー・ストップがかかりそうな歌、あまりに直前直後の場面とのギャップが凄まじくて録音かと思った(ファン)

・風呂に入ったまま「そうじゃあ」を繰り返す声が全部やさしい、かつ娘息子たちへとおばあちゃんへ、それぞれ関係に応じた違ったやさしさを含んだ声音に聞こえて、心のなかで、とと~~!と叫んでいた

・泉がなんで盛岡藩にいるのか謎だけど、あゆみおねえさんと望海さんの並びの夫婦、割としっくりくる

・出っぱなのマシンガン持ったあみちゃんの重心が低い反り返り

・芸妓さんみんな可愛いけど特にはおりんがめっちゃ好みです、というか今回のはおりんどの場面もツボです

・ピンクのうさぎ?のぬいぐるみ埋めてる下級生の子のかつらがとてもかわいくて毎回見てた

・おにぎりをもらえない土方さんと吉村のやり取りはおもしろいけど、しづ・クリスティーヌにおにぎりを配らせるな!!(酌をさせるなー!!)

・ケン坊をネタにするの結構しんどいけど、ケン坊まちくんの旗を持つ下級生たちがコロスみたいになってたのはちょっとおもしろかった

・「お前にやったら、わかるやろ」(サイテイ!)(おもしろくない)

・雪の精の度胸とそれを受ける望海さんの度量

・歴代の女たちに仮面を一つ一つ捧げるの、タイムズスクエアの前で落ちぶれたオスカーおじみもある(リリー・ガーランドに捧げるところだけでなく)

・死んでなかった!生きてた~!が蒲田行進曲に集約されて、土方さんかっこいい!ってやっぱり「銀ちゃんかっこいい!」なんですか?

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』④

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』④

 

ENDLESS DREAMな望海さんと軍服モチーフの衣装について

 

 

 月火水木金働いたら会えるヒーローを励みに日々を生き抜く雪組子の、元気はつらつとした歌に勇気をもらった直後の場面。彼女らにとっての「ヒーロー」がご登場?と思いきや、ゆらゆらと蜃気楼が立ち上ってきそうなあやしげなイントロと共にせり上がってくるその人が「ヒーロー」という言葉とはまるで無縁の雰囲気をまとっているおもしろさ。闇の中でぼんやりと光って、ふらふらと引き寄せられてしまう誘蛾灯のような。
 目も眩むような圧倒的な光ではなく、それでも見るものを虜にして何処かへ誘ってしまうような、あやしげな魅力。

 望海さんは芝居の中で対峙する相手、主にきいちゃんの役に向かって、必要な場面で必要に応じて醸し出す、役を演じる上での色気の出し入れも、ショーで誰かと絡んだり客席に語りかけるように振りまくときの色気の使い方も、自由自在(?)なスターさんだと思います。だんだん色気という言葉がゲシュタルト崩壊してきた。
 しかしENDLESS DREAMでのそれは、もちろん客席に向けて見せるものという前提でのパフォーマンスではあるのだけれど、舞台上に望海さんただひとりしかいないからこそ効力を最大限に発揮する、発散されながら同時に内に内にこもっていくもののように思えて、この色っぽさは何事…!?と見ていて悶々としてしまった。宝塚の舞台上で女性らしさに振られるようななよやかさはないのに、普段の男役としてのどっしりしたそれとはまた線の描き方が違うような存在感(グッズの絵の人の話はしていない)。あゝ無情の「涙はしょっぱすぎるし」のときの仰け反りもだけれど、どこの誰へのアピールかわからない仕草で私たちを悩ませないで、いや悩ませて。
 そこにない誰かを、何かを強く求めて空に手を伸ばすような表情や声音の色気に、大劇場のど真ん中で望海さんは何をしているの…?いやブルムン主題歌を歌っているだけだろしっかりしろ私、とつっこめるのはPCの前に座って思い返しているおかげで、劇場にいるときの自分にその冷静さは当然のことながらなかったです。
 
 しかしそうやって歌詞の意味を声と身体で一つ一つなぞり上げるように歌っている人を見つめていると、彼女が何かを求めている様子が、みている側にとっても狂おしく恋しいものに思えて、ENDLESS DREAMを歌うあなたが追いかけても決して掴めないENDLESS DREAMではないですか、と問いかけたくなってしまう。金色の砂漠のテーマを聴いているときの泣きたくなるような切なさと近しい感情がぐわっと湧く。単に歌詞の世界観を広げすぎる望海さんが、そういうオタクではないのに、2次元ジャンルを通ってきたオタクの心に刺さりまくることの言い換えとも言います。

 

 と、上記のような感想を書いている人間として非常に言いづらいのですが、ポスターが出た当初は、あの衣装を受け入れがたいものとして認識していました。

 理由は二つあって、一つは芝居の中の役としての必然性がないところで、たとえあったとしても、宝塚の男役が身につければ必ず「かっこいいもの」として肯定される軍服モチーフの衣装を、その機能性や美しさがなんのために存在するかに深く思いを馳せず、ただ「かっこいいから」という理由で宝塚の衣装として使用することは、果たして今の時代に「あり」なのか?という疑問があったからです。
 もう一つは、ポスターを見た段階では、あの衣装が望海さんの魅力を引き出すものとは思えなかったから。思い出して打ち込みながら、今となっては説得力が全然ない言葉だ…。

 ポスターだけだよね、と自分をなだめすかして不安を抱えながら迎えた初日、幕が開いた瞬間(ウワーーー!やっぱりこれを着るのかーーー!)と叫び声をあげたくなったものの、ずっとみているうちにそこまで悪くはないのでは…?と思い、前述のENDLESS DREAMの場面で、そういうことか…とわかってしまってからは、もしかして、似合っていらっしゃるのでは、着込なして、いる…?という方に傾いてしまった。
 「そういうことか」はブルムンの曲を歌うにあたって、真琴つばささんの頭にバンダナ巻く方のミリタリを再現、ではなく望海さんんが大好きなタニさんが着ていた方をコンサート仕様にアレンジした、のか…?という私の想像です。それにしたってミリタリには変わりないのだけど、望海さんの思い入れのある過去のショーの再現(?)という設定があったことにより、握りしめた拳の行き場がやや失われてしまった。
 あとチェシャ猫みたいなふわふわの大きいファーが右半身をざっくり覆って、上半身の衣装の多くを隠しているので、悪い意味での視覚的な攻撃力が半減しているのもある。あの小さいハットのかぶり方が絶妙で、望海さんが普段気にしていらっしゃる(私は「共鳴ライン」こそが望海さんの魅力と思っています)顔の輪郭がシュッとして見える。理性では引っかかりがありつつも、この格好の望海さんに完全に惹かれている。歌の魅力をさらに引き出す衣装だとも思う。思うのですが。

 

 コンサートをめちゃくちゃ楽しんでしまった人間としてどの口が言うか、という話ではあるのだけど、それでもやっぱり今後このモチーフを起用することについては、慎重になってほしいな、と思う。生徒が魅力的に見える、見えないの話ではなくて、むしろ魅力的に見えてしまうからこそ、そこに確かにある暴力性について、観客である私たちも目を覆ってしまいかねないから。ショーアップをどれだけすれば、現実の服が持つ機能や意味から夢の世界へ、衣装は飛び立てるのでしょうか。果たしてそれは「努力」により可能なのか。
 私が気にしすぎなのか、気にしすぎならいいのだが…と思いつつ、サイトー先生へ感謝と祈りの念を送っている。

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』③

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』③

 

 Cパターンと望海さんときいちゃんについての感想。

 

 Cパターン初日を迎えるまで、コンサート自体、楽しくて幸せだなと感じ、きいちゃんがいないということに大きな不満を感じるということはなく観劇していたはずなのに、ムラ最終日に二人が並んでいる姿を見た途端、私はこれが見たかったんだ、と切望していた自分の心に唐突に向き合わされた。水やりを忘れていた部分の土がカラカラであることに、おいしくてぜいたくな水をたっぷり注いでもらって満たされたことで、初めて気づいたような。 

 望海さんの隣にきいちゃんがいることにものすごくちょうどいい温度の温泉につかっているような心地よさをおぼえつつ、こんなふうに2人が一緒の姿をみられるのは宝塚にいる間だけ、と思ったら、その日が迫ってきていることがものすごく現実的に感じられて泣いてしまった。you raise me up〜輝く未来だけでも大変なのに、ランベスウォークも私が踊る時も観られてもう天国に行けない(観たいもの全部叶えられちゃった)と一瞬思ったけど、そんなこと全然なかったし欲望こそが最後の神でもある。2人が歌っているのを聴きたい見たいというのは、2人が何かの役を演じて、相手の一挙一動に心を動かして、それを互いが歌で表現しているのが聴きたいという意味なのだとわかった。こんな素晴らしい組み合わせの2人の公演があと一公演しか残されていないなんて、そんなことあっていいのか。びっくりしてしまう、びっくりするけどきっとたくさんのコンビに夢を見てきたたくさんの人たちが、同じような思いを抱いてきたんだろうなとも想像する。  

 

直前のコントコーナーから一転、きいちゃんがせり上がってきた時のギャップが壮絶だった。(10/7追記:友人に「せり上りじゃなくカーテンの隙間から出てきたのでは…?」と教えてもらって、きいちゃんのまぶしさに目が眩んで何も見えてなかったことに気づいた…)真っ白なドレスだし、あまりにかわいくきれいでホログラムかと思ったけど、ホログラムではありえない質量豊かな声が劇場ぜんたいを包み込んで揺さぶっていた。あんなの世界を変えられる祈りの歌じゃありませんか(=望海さんの「愛の旅立ち」)。 2人の銀橋でのトーク冒頭で、無観客配信のMSを見た人、と望海さんが口にした時、割れんばかりの劇場の拍手にきいちゃんが思わず涙ぐむというひと場面があったときも、きいちゃんが観客の存在を感じているように、こちらも実在しているきいちゃんの存在をひしひしと実感した。嬉し涙であったとしても、今様々な困難な状況があって、それが少し解消され前へ一歩進んだことへの嬉しさの表れという意味では、涙を見られて良かったとかそういう意味では全くないのだけど、時差なくダイレクトに送ったものを受け止めてもらえる、こちらも受け止める、受け取ったことが伝わる、という流れが同じ空間を共有して、実現するシチュエーションに新鮮に驚く。 

 配信でたくさんの人が彼女らのパフォーマンスが見られる機会を得られる、ということは演者にとっても観客にとっても今の時代に必要なことだと思うし、私もその恩恵に預かる立場だけれど、生の舞台ももちろん双方にとって必要で大事で、折々に、そこに可能な限りは足を運べたらいいなと思う。


 1曲めの選曲について、この状況下なので客席の観客に自分の歌で勇気を届けたいというような気持ちで選曲したけど、今日は久々の大劇場ということもあって、自分自身がこの歌を支えにして勇気を振り絞っているように気持ちをのせてしまった(ニュアンス)と口にするきいちゃんの、当初の意図とは異なった歌い方をしたことに対する後悔を、でもそれが生の舞台の醍醐味だよ、と返す望海さん(ニュアンス)、という2人のやりとりがとても好きだった。望海さん、きいちゃんをさりげなくフォローしたり容赦ない誉め殺しをかわすときちょっと芳雄さんみたいじゃん…(再び)。友人が、きいちゃんの容赦のなさは浦井くんに似ているのでは、と言っていて、このコンビのトークの方向性が少しわかった気がした。


 自然に信頼しあっている2人の姿を見せてもらえることのありがたさを噛み締めているし、女が女に人生を賭けられるか?という問いから生まれた同人誌のことを思い出しながら、宝塚のトップコンビってそのいろんなかたちのうちのひとつなのかもしれないなと思った。人間同士のパートナーシップの最高の結実のひとつとしてのトップコンビを、憧れをもって見つめている。二人組だけが人生ではないんだけど、そういう強い結びつきがこの世界にあることのありがたみに、何回も新鮮に驚いて何かに感謝する。  

 

 しかしそもそも「輝く未来」でデュエットするようなコンビとして2人を見ていなかったので(それ、新妻さんとデュエットしたやつじゃん、それってもしかして…!?)ときいちゃんが歌い出した瞬間変な汗が出かけたし、お約束のところでせり上がってくる望海さんの存在が私の中で全くお約束でなくて心が嵐だった。いやという意味ではなく、舞台中央でようやく出会って寄り添う2人の姿に(これだ、これが見たかったんだ…!)と多くのあやきほトップコンビオタクと同じく心の震えが止まらなくなり、銀橋センターでのバックハグゆらゆら振り付けでは、最初(0.1秒くらい)揺れている意図を認識できなくて思考停止した。Cパターン映像をタカニュで見るまではまぼろしだった可能性をかなり捨て切れなかった。歌の素晴らしさも噛み締めていたはずだけど、記憶を遡ると「動揺」の2文字が返ってくるので、早くブルレイをください。

 私にとって望海さんが王子様かはちょっとよくわからないんだけど、きいちゃんの目に望海さんがそういう風に見えていることもある、という事実にあたたかな気持ちになることは確かにあるんです。

 

 「ランベスウォーク」は望海さんのビルのセリフが聞けたのも嬉しかった。ああいう乱暴な振る舞いはするけど根は素直、みたいな役も望海さんにめちゃくちゃ合う(けど回ってこない)と思うので(子ども時代ヌードルスで近いものが見られた)。きいちゃんの膝に肘を乗っけての頬づえついて望海さんを見つめる、嬉しくてたまらない気持ちが溢れ出る表情も、隣でスカートをふりふり踊る姿も、めちゃくちゃかわいい。「顎で受け止めて」聴かせてくれ〜〜! 望海さんは「街灯の下」ね。 

 

 そこから一転、空気がざっと変わる「私が踊る時」はイントロを聴いた瞬間思わず天を仰いだ。きいちゃんがシシィが似合うタイプかはわからないし、望海さんもトート以外に演って欲しい役がたくさんある、私も東宝版と併せてエリザは一生分見た、そして宝塚のエリザはそこまで好みではない、という立ち位置なので強く望んではいなかったけれど、2人のパフォーマンスに、なんでやらなかったんだろう、見たかったな、と思ってしまった。きりりとトートをはねのけるきいちゃんのシシィと、それでも手を伸ばしてくる望海トートの自信に満ちた傲慢で艶やかな声よ。


 のぞみさんがきいちゃんのことを大事な相手役さんと思っていることに疑いの余地はないんだけど、そんなにわかりやすく「好きだよ」みたいな感じが欲しいわけではなく、私だけがまあやちゃんのことを知っているから、というようなにおわせがしたい人と思っているわけでもなく、自然にお互いがお互いを唯一無二の人として思い合っているのをまわりがニコニコ見ているイメージ。ふたりにしかわからないものを共有しているんだろうな、それを時々垣間見せてもらえるなんて、なんてありがたいことだろう、と抱きとめてこぼれないように持って帰った。しかし他の組子とのトークコーナーでのあやきほエピソード列伝は、動揺する望海さんの姿含めてめちゃくちゃありがたく心に収めた。 

 

 あんなに尊敬している先輩に、押忍!お願いします!って躊躇なくぶつかってゆけるきいちゃんの望海さんとの距離感がほんとうにすごくて、どうやったらきいちゃんみたいになれますか、としばらく考えてしまった。あまりにかわいいので非実在女の子のように愛でてしまいたくなるけど、私の中でアントン・ナバロ(コルドバ)が「きいちゃんだって道から外れて歩く権利はある」「自分の弱さをきいちゃんにぶつけてはならない」と…… ロングトーンテクニックがあーさにまで共有されてる話のきいちゃんの「おいしいものはみんなでわけあうともっとおいしくなる」精神がなんかもうあまりに理想のきいちゃんで、そうやって神格化してはいけない!!と思いながら自分のなかの悪しきものがしゅわっといくつか溶けていくような感覚があった。


 あやきほデュエットアルバムに入れて欲しい曲を考えていたけど、2人があんなに歌うひかりふる路があったことが、もうめったにない幸せだったのではないかと思った。と言いつつ数曲あげる。


・ルドルフ・ザ・ラストキスの「2人を信じて」「それ以上の」(「ただのロマンスじゃない、夢でもない、あなたはそれ以上」ってふたりに歌ってほしいので…)

・ボニクラの「世界は2人を忘れることはない」

エリザベート「私が踊る時」(東宝ver)

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』②

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』②

 

 コンサート全体を通して見た時、いわゆるクラシカルな宝塚の魅力を伝えるコンサート(というものの蓄積がないファンなのでどなたかに事例を教えてほしい)ではないという印象を与えるらしい『NOW! ZOOM ME!!』ですが、じゃあそういう場面が一切ないかというとそんなことはない。私だって正統派男役の魅力を体現する望海さんを見たい。三木先生や岡田先生のショーだってすごく好きな人間です。

 今回のコンサートでは、1幕ラストの黒燕尾と、2幕のリクエスト3曲の場面がそれに当たるのかな、と思っての感想です。

 

 黒燕尾を着て踊ることを初めに考案した人に一体どうやって感謝すればと思うほど、三度の飯より男役の黒燕尾が好きな人は多いはず。どうも、ご飯も好きですが、黒燕尾もたまらなく好きな宝塚ファンのうちの一人です。

 

 正直、黒燕尾前座(?)のマジシャンの場面の衣装もめちゃくちゃ好みなので、この格好の望海さんをもう少し長い尺で見たい思いもあったけど、タカラジェンヌのマジックショーが見たいわけではないのでこれくらいでちょうど良かったのだと自分をなだめている(映像で見たビクトリアンジャズの、金庫の暗証番号を合わせる望海さんの指がめちゃくちゃ綺麗なのを思い出しつつ)。ばん!と入れ替わりにボックスから登場の可愛いひまりちゃんを愛でていると左花道からせり上がる望海さんを見逃すので注意してほしい。

 

 初日から数回、こめかみ近くに撫で付けられた髪がぴょこんと跳ねている回が続いて、ボックスを抜け出るときに引っかかるのかなと思っていたら、ある時から直るようになっていて、工夫がされた部分について思いを巡らせた。それを醍醐味とされるのは出演者の本懐ではないのだろうなと思いつつも、ちょっとしたハプニングから軌道修正された過程を目撃し、生の舞台を見ている実感が強くなることもある。

 

 片手を軽く顎に添えるようなポーズでせり上がる姿に、男役望海さんここにあり、という高揚感と安心感を同時に覚える。我こそがスーパーヒーローと名乗りをあげる歌での自信に満ちた笑みに、観客の期待とスポットライトを受け止めてなお内側から光を放てる人だけがそこに立てるのだということを改めて噛み締めた。まあ、望海さんが黒燕尾で銀橋で腰を揺らめかせたり仰け反るのを見ながら、いっさい露出のない格好だからこそにじむこの色気っていったいなに?と毎回厳粛な面持ちをしつつも煩悩の狭間で揺れていたのですが……マジシャンの格好から黒燕尾になったとき胴回りがひとまわりくらい大きくなっている印象(銀橋ののけぞる振りで燕尾が垂れてシャツを着た胸と背中が横から見えるときにわりと厚みがあるなと思う)なんだけど、やはり黒燕尾になるといつものしっかりした補正ですか、それとも下のベストが…?と補正チェックをしてしまう。

 

 ノゾミ、ノゾミとご本人の芸名を連呼することのおもしろさに引っ張られていたけど、よくよく聞くとENDLESS DREAMとブルーイリュージョンの歌詞を書いた作家・演出家という設定に納得ゆく内容だった。沈む海の果てから地の果てまで、這いつくばって駆けずり回ってほしいし奪われた物語を隠していそう、奪われた物語を奪還するまでの冒険を経てドラマチックに散る人がとっても似合う人に当てる歌詞としてとてもわかる。オタクがえぐられる何かがある。

 

 友人の感想を聞いてから、スクリーンに映し出される電飾のついた大階段の前で一人踊る望海さんと、そのスクリーンの前で踊る望海さん、という光景が、より深く胸にしみるようになった。もともと上演予定だった劇場と大劇場の見え方が違うのか、そもそも2階席後方のお客さんは出演者だけを見てね、という設定だったのか、私には知るすべがない。全ての席から見えにくい映像を使用することへの批判はもちろんあると思う。実際は立っていない劇場に思いを馳せるところを、本拠地の大劇場の舞台上、しかし大階段は出されていない、という状況での上演が想定されている構成ではなかったかもしれないけれど、スクリーンの前で映像の中のもう一人の望海さんと同じ振り付けをのびやかに踊る姿を見ながら、とても神聖なものを見ている気持ちになった。

 1幕ラストの場面というのもあるけれど、娘役さんも登場しての群舞なのが良いし、ノゾミ~Akatsuki~ノゾミ、の編曲も、ダンスのテンポが変わるところにもとてもグッとくる。紙吹雪が舞う中、センター後方でスポットライトをあびた望海さんが歌い上げて幕、という締めくくり方のテッパンな強引さが、なんだかよく考えると歌詞も不思議でヘンテコなところもたくさんあったけど、私、宝塚を見たな…見たわ…という充実感に溢れる場面です(強引)。

 

 2幕のリクエスト3曲、どれもとても好きで、望海さんひとりだけが立つ大劇場の空間、余白を埋めてなお溢れるように響き渡る歌声の豊かさを身体全体で受け止めたい場面だった。

 3曲めの愛の旅立ちが宝塚の曲じゃないことを千秋楽の望海さんのトークで知ってびっくりしたのだけど「Si L'on Revient Moins Riches」というシャンソンに日本語の歌詞を当てた(原曲の歌詞の訳詞ではなさそう)もののようで、宝塚だと思っていたら宝塚オリジナルではない案件、確かに宝塚でよくある話だ。古くからいろんな方が歌っていらした曲なので、それぞれ歌った方のファンはみんな同じような感想を抱いている木がするのだけど、あまりにも壮大な歌詞で、ひとりの人への愛の歌としては受け止める相手にものすごい覚悟が必要そう。望海さんの「僕のこの愛」も、生身の肉体を持ったたったひとりの人へ捧げるというよりは、もっと大きな、それこそ「宝塚」という芸能自体への豊穣な愛、祈りの歌のように聞こえました。もし特定の「誰か」であるとすれば、それはあのロングトーンを響かせる人に並び立てる相手で、きいちゃん以外に他ならないのだと思う。

 

 という流れで項目を分けて、Cパターンの話に移ります。

 

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』①

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』①

 

 

 プレサヨナラなら望海さんが男役として役を演じている姿を一作でも多く観たいと不安を抱いていたころの自分に伝えたい、未来の私、めちゃくちゃコンサート楽しんでたよ。そういう感想です。

 一幕の洋楽、邦楽を取り混ぜた「宝塚以外」の楽曲、特にバブルメドレーと銘打ったコーナーで歌われる往年のヒットソングの数々やその構成にすっかり魅了されてしまい、特に観劇後半は、終始はくはくと高揚する心が飛び出でないよう堪えながら、赤い座面にじっとおしりを張り付けていました。

 

 私は正直、斎藤先生の作風がジャストミートするタイプの宝塚ファンではないという認識でいたし、その証に(?)、年始に募集されたリクエスト曲へ選定理由として添えるメッセージにも「宝塚の、ミュージカルの楽曲をメインにコンサートを構成してほしいです」と、叶えられないことは知りつつも一曲のリクエストにとどまらない、コンサート全体に関する要望を入力した不届きなファンのうちの一人です。

 

 そんなに身構えていたのになんでこんなにのめり込んでいるんだろうと言葉にしたくても、結局は人それぞれの好みの話にしかならない、私自身がプレサヨナラとして望海風斗さんに提供された舞台はこれですよ、と目の前に差し出されたものにのっかるしかない、役者にずぶずぶの都合のいいファンであるから、という可能性がめちゃくちゃ高い。私はずぶずぶの一ファンなので、フラットな視線でものを語っている自信はマジでゼロだけど、それでも望海風斗さんという男役の集大成の形を魅せるコンサートとして(もしかしたら違った内容のコンサートもあったかもしれないと仮定しても)(いやそれはそれで見たいが)これもまたひとつの答えとして、素晴らしいものではありませんでしたか? 望海さん、すてきだったでしょ?ねえ?と聞いて回りたい。

(なお、この「素晴らしいもの」からは2幕頭のコントを除きます。個々の役者のパフォーマンスではなく脚本へのあれこれ)

 

 望海風斗さんという男役の魅力について考えたとき、

 

・宝塚愛が強く、自分の持つ熱いファン目線を見せる側としてパフォーマンスに落とし込む力がある

・宝塚のクラシカルな男役が似合う

・歌で魅了する力

 

などなど、すみれ先生のように上げだしたらきりがない(ファンなので)。けれど、それゆえに奇を衒った内容ではなく「宝塚らしい」場面構成のコンサートが見たい、と願ったときの、自分が念頭に置いていた「宝塚らしさ」って一体なんだったんだろう? それはそれで悪くはなく、見たいものであったけれど、かなり限定的なものであったのでは? と今振り返ってみて思います。

 

「宝塚らしさ」ってそのときどきの演出家が、演出家自身の好みと生徒の魅力を引き出せる要素を考慮して、宝塚というおでんの汁に投入したい出汁要素とタネの兼ね合いで、生み出され続けてきたものでは? おでんとか言っちゃったけど、五目めしでもごった煮鍋でもなんでもいい。いろんな変わった味はするけど、これはおでん、五目めしあるいは鍋である、という枠組みはある。

 

 そう思うと「らしくない」と思う自分の想定する「宝塚らしさ」についてもっと考えたほうがよい気もしてくる。一定のコードはあって、そのしばりがあるからこそ遊べることの意味については常に念頭におくべきとは思うけれど、新しいタイプの作品と思っても過去の映像を遡ると同じ要素は繰り返し使われていたりする。

 

 こうやって望海風斗さんの魅力について考えると宝塚らしさに立ち返るというのは、望海さんの部分の名前を自分の好きなタカラジェンヌに置き換えるとファンあるある話とは思うのですが、結局今回、宝塚ゆかりの曲はもちろん、宝塚以外の楽曲を歌う望海さんを見て「これもまた自分が見たい望海さんだった」と思えたのが、私がコンサートを楽しく観劇した大きな要因のうちの一つだと思います。斎藤先生の選曲が望海さんの男役としての、芸名のタカラジェンヌとしての魅了を引き出すものとして、とても好みだった。

 

 望海さんは直近の大劇場のワンスや、それ以前の作品でも、苦みばしった表情に魅力がある役を演じることが多い人です。私もそんな望海さんの男役像が好きで追い続けているのは確かだけれど、それは同時に、宝塚おとめでご本人が演じたいと願っているような「底抜けに明るい役」がなかなかまわってこない男役さんという意味でもある。

 テリー・ベネディクト以前の望海さんの役もひっくるめた全てを把握できているわけではないけれど、そもそもコメディ自体がない中で、底抜けに明るい役を演じた直近と思い返したとき、早霧さんトップ時代のショー「La Esmeralda」でのホープくんというキャラクター(?)を思い出しました。女の子大好き!ぼくのために争わないで、みんな仲良くしよ~!というある意味底抜けに明るい役(?)は、物語のキャラクターとして深い設定を背負わせにくいがゆえに芝居の役としては向かないかもしれないけれど、確実にファンが望海さんで見たかった役どころの一つだと思う。コンサートという時点で「役」も何もないと思うのが普通かもしれませんが、宝塚の舞台上では芸名という役、「男役」「娘役」という役を常に背負う人たちの舞台として、もし自分のプレサヨナラ公演の演出家を生徒側が選べる余地があるとしたら、望海さんの選択理由のひとつとしてそれもなくはないのかな、と想像しました。望海さんもまたBLUEMOONBLUE魅了されたファンのひとりだからでしょ、という線が濃厚なのは知りつつの勝手な妄想です。

 

 そんなホープくん再来場面は別にあるけれど、男役として人生の責任を(時に自分の命で贖い)重くとる男を演じがちな望海さんが、斎藤先生の選曲により、人生の責任を全然取らなそうなちゃらっとした男の歌をちゃらっと力を抜いてうたう姿がとても好きだ。いや、腹には力入っているはずなんですが、力を入れて力を抜いているというか…… 悲壮感と無縁で他人の人生を全力でめちゃくちゃにしたあげくごめんなおれのせいでって悪びれずにグラサンずらしてくるほうの望海さん、お会いしとうございました!すでに人生をめちゃくちゃにされている、というかしていただいている。

 

 サザンも松崎しげるチェッカーズも、原曲のニュアンスがそういうものかどうかは、制作背景や歌詞の意図を熟知しているわけではないのでわからないのだけど、おれは男だからこんなやり方しかできないんだ、ごめんな、って踵を返してゆく背中(イメージ)がかっこよく、しかしその肩に力が入った男を、ご本人が肩の力を抜いて演じてくつろいで歌っている様子が魅力的で、かっこいいのに時々面白くてくすくす笑ってしまう。

 今を生きるリアルな男性が歌ったらジェンダーバイアスがややきついかも、という確かな認識を踏み台として、そういうある意味「旧い」歌を男役が歌うときに引き出される男役の魅力と、現実の男に求めるものとの乖離のバランス。「男役」と「男性」が同じところを目指しているわけではないことも大前提として。どんどんアップデートされている宝塚の芝居の中でももはや新作としてはお目見えできないかもしれない価値観を、一周回って新鮮さとして受け止めてしまう。アン・ルイスの「あゝ無情」はダメな男に焦がれる女目線の歌詞を歌う男役の魅力に、演じている人は女性だけど男役として、自分の性とは異なる目線の歌詞と認識して演じて歌っている、その歌声や姿に観客が見る「男」や「女」、というメタ構造を突きつけられてくらくらする。

 芝居の中にだけ役として息づく人を観るのとはまた別の方法で、たくさんの望海さんを堪能できる。歌われるそれぞれの歌の中に、その歌でしか見られないたくさんの男役望海さんが、芸名としての望海風斗さんがそれぞれ存在して、一曲歌い終わるごとに、それぞれの望海さんが生まれて消えていくのをじっと見つめていた。万華鏡をちょっとひねるとまた違うきらめきが現れるけど、さっきのきらめきは一瞬で消えてしまうように(生田先生は「イメージの万華鏡」って言いたかったんですよね)。

 

 望海さんが男役として歌い、調子に乗っている姿に乗っかってはしゃぎたい気持ちも、荒ぶる感情の行き場のなさを抱えておろおろする身としてはなくはなく、しかしもともと息を詰めて見つめるのが性に合うタイプなのでよかったのかもしれない。「世界で一番熱い夏」のクソデカフォントにのる客席のクソデカ感情、みたいな雑な表現をしたくなるくらい、ぱっかーんとこみ上げる感情が疾走した時間。

 千秋楽の挨拶で、今このタイミングのために作られたわけではない歌に気持ちをのせることで、言葉では届けられない今の感情を客席に伝えられたし、何より自分が励まされた(ニュアンス)ということを話す望海さんを見ながら、ワンス東京千秋楽から半年以上望海さんが舞台に立つ姿を見られなかった私たちファンも望海さんを渇望していたけれど、同じくらいに望海さんも観客がいる舞台を切望していたんだなということを改めて深く実感した。ペンライトが綺麗で、と何度も嬉しそうに口にする姿を目の当たりにしながら、私一人がどうというわけではなく、それでもたくさんの観客のひとりとして求められる側にいる奇跡のような時間を噛みしめた。

 こちらの方が美しいものをたくさん見せてもらって、永遠に驚き続けているし驚き続けたいと思っているんですよ、わかっているとは思うけれど。

 

 

【バブルな場面中心に、望海さんの男役の軽妙洒脱な魅力を味わったナンバー】

 

・ごめんよ僕が馬鹿だった / サザンオールスターズ

 メンバー紹介はどの男役さん、娘役さんも個性豊かで見ていて楽しいし、映像と併せて見るのも楽しい。後半からは真ん中でそれぞれのポーズを真似する望海さんも見逃せなくなったので目が足りない。上級生になるにつれて自分の立ち位置と紹介メンバーが近づくので、観客の目線被りを慮ってか(?)しゃがみこむ望海さんもポイントだった。ちょいSの釣り師の翔くんのぐいぐいと誘い込む仕草からのキメポーズを目撃して何度でも恋に落ちてしまう。曲の途中で望海さんの肩に手を置いて、もう片方の手をぐるぐる回す翔くんも、一緒にぐるぐる心がかき回されます。

 望海さんが歌っている途中でカリさまに途中で絡まれるところ、カリさまにグイグイ引っ張られながらのかなりくずれた姿勢で歌う姿が、仲の良いメンバーとやんちゃしながら歌うボーカル(概念)を見ている感覚があった。しかしそれでもブレない声よ。

 男役さんって指、手の使い方にめちゃくちゃこだわりがある人が多くて、そこに注目してしまうファンの中のひとりなのですが、この曲だと「かわいいぼくのエンジェル」で、おどけたように下手で踊る娘役さんたち(めちゃくちゃかわいい振りとかわいい表情)に両腕を伸ばして指先だけぱらぱら動かすような手つきがめちゃくちゃ好きだった。「髪を梳かせて」の両手の指を重ねて揺れる仕草も好きになっちゃいけないボーカリスト(概念)だなと思う。「Ah…」で胸に軽く手を当てて、肩を揺らして吐息を漏らすように歌う歌い方とか、自分の男役のあり方を完成させた人の、もう型ができているからこそ、計算して力を抜けるその姿に惹き寄せられる。

 

・ワンダフル・モーメント / 松崎しげる

 全く知らなかったので、男役のための歌じゃん!と思いました。あのつばの広さのハットは本来は望海さんを一番魅力的に見せる形ではないかもと思いつつ、スパニッシュな場面で顎の下で結ぶタイプの帽子をかぶって、二階席からだとかなり隠されがちな表情をちらりと覗せながら心をわし掴んでくる男役、という役回りと望海さんの相性はいいと思っている(スパニッシュといえば夢眩のびっく影ソロの美声が響く中、抱き寄せたゆきちゃんのしなやかに反る背中に顔を近づける望海さんの構図は、二人の色気がものすごかったですね)(コルドバ冒頭の柴田先生渾身めちゃ長プロローグで、ちぎちゃんソロの背景に望海さんが踊る構図もよかったです、帽子は投げるけども)。全部見えるより一部だけちら見せされる方が、全体像を想像するしかなくて、その余白にドキドキしてしまう、というのもある。あの斜めのつばから覗く眼差しにうっとりと憧れを抱いてやまない。

 見てる人たちぜったい全員俺のこと好き、という確信を持った男役の酔ってる仕草にノックアウトされたい。その肝の据わり方にこちらも身を預けて大丈夫だと確信して酔える。待て、待てよ、という振りを重ねるくささと、ゆったりと構えた豊かさ。待たせておいて悠々歩いてくるよねこれは。

「そこから一歩も動くんじゃない」ってそのまま読んだら尊大でしかない歌詞に、もともと歌う人の魅力に身がすくんで動けない側に(客席に座っているからとかそういうことではなく)、自分がそれを強いたからだ、と理由をあえてつけてくれたような優しさを感じてしまって、これはぜったい男役のショーの一場面のための曲だと思った(2目)。人生の責任取ってくれるのか取ってくれないのかよくわからなくなってきちゃったな……。結局謎の包容力を感じている。

 そこ、と示される伸ばした指先や、帽子のつばを撫でる指先を食い入るように見つめていたい。

 

I love you, SAYONARA / チェッカーズ

 曲のイントロとともに舞台奥から登場して両腕を広げてどうだとばかりにくるりとまわる、撫で付けて整えた髪の毛と青みピンクの口紅とナポレオンジャケット、細身のパンツにギラギラブーツの組み合わせがめちゃくちゃ好きで、その格好で、俺ったら女に放って置かれない色男だから弱っちゃったな……風うざったい男目線の歌詞をやりきって歌うのがほんとうにたまらなかった。あなたこそが掴めない蜃気楼だ。

 改めて歌詞を読むと歌い方によっては誠実な男になるのかもしれないけど、低音を吐息交じりに聞かせるムードたっぷりな酔った歌い方と、歌詞に描かれるような一途な彼女像のファンタジー感が強目に前傾化してきて、これは男の妄想だな、と思ってしまうのかもしれない。「アンダルシアに憧れて」をアンダルシアに憧れてるハマのチンピラ(概念)に置き換えて見てしまった、望海さんにそういうイメージを押し付けている私の妄想と割と地続きです。

 

 そして望海さんの歌い方と持ち味はもちろん「バブルメドレー」と題した場面ゆえ、背景のスクリーンに映る映像効果はかなり大きい。斎藤先生と組子めいめいのイメージの中の「バブル」に近づけた服装とメイク、場面構成はかなり物議が醸し出されていた印象です(SNS調べ)

 バブルの場面に対する真っ二つの感想を見て、批判があるとしたら私はカラオケ披露か歌番組のように宝塚のコンサートの一場面を設定してしまうことへの違和感かと思っていたけど、そうではなく、その文化への各々の認識と宝塚としての表現のすり合わせに何らかの違和感を覚え、批判していた人が多かったのかなと思う。バブルの描き方がどうではなくそこからわい雑さや品のなさをイメージし、それは宝塚にそぐわないと思う拒否感と、あれはバブルじゃないだろうという批判はそれぞれ別物として捉えている。

 私は「バブル」についてある時代を象徴する日本の風俗として完全にぼんやりしたイメージしかなく、かつその時代を体感していない人間として自分とは遠いものとして捉えています。ある種宝塚でよくある、地名は具体的ながらもただ「異国」であればいいんだろうな、という設定と近しいファンタジーと認識していたこと、そのぼんやり感ゆえにショーアップするための手法として宝塚お得意の派手さに寄せれば、どうしても表現として解像度が低くなるだろうなと思ったので、割合決められたテーマをやりきる彼女たちを楽しく見てしまった人間です。しかし楽しめたもん勝ち、というわけではなく、特に後者の理由を突き詰めたとき、他のモチーフ、文化に対する斎藤先生の、意図があるか推測しきれない解像度の低さを各種作品群を思い返して考えると、楽しめなかった人はNot For Meだったのね、と捉えるだけで良いのかどうかはちょっと引っかかる。楽しんでいるときにこそ、いろんなものを見落としがちだなと思うので。楽しく見たことには変わりはなく、つまらなく思わなきゃいけないと思っているわけでもなく、こういった表現について考えることも、宝塚を見続けたい人間としてまた興味深いことの一つ、と捉えている。

 

 これまでもバブルではない、そもそも日本のものではない文化をポジティブな文脈であっても、リスペクトが感じられるかかなり微妙なラインだと個人的には思う表現で、モチーフとして用いているショーや一場面は毎公演そこここに見られると感じていて、そう思う/思わないのライン引きってやっぱり思う人とそのモチーフが近しいかどうかなんでしょうか。宝塚の作品の中で描く文化への解像度の低さは、これからアップデートされていくのかどうか、どうやって、どの程度まで引き上げるべきなのか、というところは作り手が頭を悩ませるところなのかなと思っている。同時にその意識は、見る側にも問われていると思うので、うかうかしていられないのだけど。

 今回の「バブル」はアウトだと個人的には思わないけれど、今後考えるべき表現について考えるきっかけにはなる表現方法、解像度だね、という話です。下品、内輪ネタと捉えるのは匙加減一つなんじゃないかなという認識。

 しかしそんなことを思いつつ、楽しんでしまった自分の記憶も記してしまう

 

 この曲の場面、冒頭ではセンタースクリーンのみ、サブスクリーンは曲名が映し出されていた映像が、サビに入った瞬間に、サブスクリーン、サブサブスクリーンをぶち抜いて映し出されるんですよ。ご本人が映るセンター以外のスクリーンにも、キラキラすずらんテープ(??)を裂いて作ったカーテンが映されているので、キラキラをかき分けて出てくる会員カードをくわえたサングラスのど金髪赤い口紅の男、連載漫画で満を持して見開きぶち抜きで登場したバリバリ最強ナンバー1の男の迫力が壮絶で、その映像を背負って立つ望海さんの構図が面白いやらかっこいいやらで、絶対にオペラグラスを外して見たい場面だった。「もう俺のためにhey…」の「hey…」の吐息は、毎回耳にした途端、実在しないだめ男に一瞬で恋する瞬間を味わうけど、数秒後にさよならされる。尺の関係かもしれないけど、「馬鹿だね男って」も似合う男役に「馬鹿だね女って」だけ歌わせるところに想像力を働かせてしてしまうけど、決して嫌いじゃない自分の心の動きに戸惑う。この曲の中にだけ息づく男役望海さんの歌い手人格(?)に「馬鹿だね女って」と憐憫を持ったニュアンスで言ってほしい、という欲望が確かにある。

 

・学園天国 / フィンガー5

 1度目の中詰。黄色いふわふわジュリアナ扇子の滑らかな動きに手首の柔らか(?)にびっくりし、前の曲と比べての声の高さにびっくりする。銀橋での「あー」の身体をくの字に追って腕を振る仕草に心を掴まれる。メインのキーもだけど、途中で跳ね上がる声がいちいち高い。おちゃめでチャーミングで、ホープくんの時の望海さんってイメージ。エアーギターと一緒に心が掻き鳴らされます。

 他と比べて短いけど頭の中はだいたい(か、かわ…)で締められており、その「嬉しい楽しい大好き!」と見た目と同じく気持ちも飛び跳ねているんだろうなという様子に終始にこにこしてしていた。芸名の望海風斗さん強め場面。

 

 

・あゝ無情 / アン・ルイス

 イントロだけでぞくぞくする。もともと女性視点の歌詞を男性が歌うことで滲み出る色気に惹かれがちだけど、この歌を男役に歌わせることで生まれるメタ視点もまたたまらなく好きだ。特にチェッカーズの望海さんを引きずったまま見ると(だめな男に惹かれる女目線の歌詞をだめな男(男役が演じる)が歌っている)という勝手な謎バイアスがかかってしまって、チェッカーズのときより歌詞に登場する架空の女性の境遇へ、ファンタジーなりの厚みを持たせてはらはらしながら聞き惚れる。湯川れい子さんの歌詞のドラマチックさが好みだからというのも大きい。だめな男に惹かれているけど、ただいつまでもまつわ、と微笑んでいる女じゃない、自分の美しさに自信があるけどどこか自虐的な部分もある歌詞のバランスが良いのだと思う。何者からか守ってやりたい、ふんわりした男の感傷が入る余地がなさそう。

 しかしキーが高めの「いい女でしょ」の艶やかさに(いい女だよと思ってしまう時の自分は望海さんを一体どういう目で見ているのか。「涙はしょっぱすぎるし」の上手前方に進み出て身を仰け反らすような仕草の色っぽさよ。嘲るような口の開き方に、やっぱり歌詞の女性を笑っている男役視点で歌っているの?なんなの?って意図されてなさそうな部分にまで想像を巡らせてしまう。

 

・世界でいちばん熱い夏 / プリンセスプリンセス

 中詰(2回目)。黄色にピンクの影がついた丸みをおびた特大フォントがサブサブスクリーンをぶち抜いてゆっくりと動くスクリーンを背景に、銀橋センターに立つ望海さんのアカペラがスコーンと抜けるように響き渡る劇場のきらめきを何にたとえられるでしょうか。みずみずしい声の魔法でバンドさんも手を止めてしまったのかな、と錯覚したくなるほど、ただあの歌声だけが響く空間に(あ、これが永遠!)と息を詰めて目に焼き付けた。わん!えん!おんりーだーぁりん!と飛び跳ねる金色の前髪がふわふわとそよぐ様がかわいく愛おしくて、秋風吹く日比谷が世界で一番熱い夏を感じられる場所でした。

 間奏でのテッパン、バンドメンバー紹介ラストの「NOZOMI MEGA ZOOM バンド~~~!」ってジャカジャカ盛り上げた後、銀橋に飛び出してくる直前のジャンプと前方指差しもオペラグラスを外して、引きで見つめたいポイント。きらきらした彼女らを取り巻くきらきらした粒子が見えそう。駆け抜けるゼブラのストライプはコンガの望海さん。

 

 

 

 数年前、望海さんが井上芳雄さんのコンサートにゲスト出演されたとき、アウェイの舞台上のトークでガチガチだった望海さんに「もっと調子に乗ったほうがいい」というようなアドバイスをおっしゃっていたのが今でもとても記憶に残っていて、今回、男役として生き生きと「調子に乗っている」姿を見て、再びその言葉を思い出した。

 共演を切望するファンのうちのひとりだったけど、普通に次は退団後と思っていたので、まさかこのプレサヨナラのタイミングで!?と動揺しているうちに幻のように機会は消え、しかしあの時のトークが嘘のように下級生の言葉をそれとなくすくい上げる望海さんの姿に、きいちゃんへの対応に、芳雄さんの話術の片鱗を見ながら、実現していたら一体どのような光景を目の当たりにできたのだろう、とぼんやりと想像している。

 

 

 正統派男役としての望海さん、ファン時代の夢を叶える望海さん、一体なんだったのかコント、パターン別場面感想等は次回に回します。 

2112時間続く夜にポルンカの兵士は地球の夢を見るか

宙組『FLYING SAPA -フライング サパ-』の主に難民ブコビッチについての感想

 

※8月11日ライビュを鑑賞したきりなので、認識に誤りがあったらやさしくご指摘ください

※観ている人が読む前提でネタバレをわっさわっさする

 



観た9割ぐらいの人が思いつくベタなタイトルにした。

もとい「難民船に乗れた人と乗れなかった人の話」。


「FLYING SAPA』は、SFものとしてはかなりポピュラーな発想に基づいている作品だと思っているので、宝塚作品として物語を面白く鑑賞しつつ、「サパ」の謎が解き明かされる過程自体に私はそこまで新しさは感じなかった。今の地球が滅びた後に生まれた全体主義国家の監視社会という設定に、土地の選択、監視の方法、国民に許された生活の内容etc. バリエーションはいくらでも生み出せると思う。(未読の人は『1984』のwikiを読んで欲しい)でも舞台はなまものなので、いつやってもその時の上演タイミングによって「今」の社会の状況がすくい上げられ「今だからこそ」という意味付けが生まれるのかもしれない。私が『1984』『侍女の物語』それぞれを数年前に初めて読んだとき、どちらに対しても(これ「今」を想定して書かれた作品じゃないの!?)と衝撃を受けたのと同じように、出会うタイミングに出会ったディストピアものは、得てして一定数の人たちにそういう印象を与えるものとも思う。


また、同じくディストピアSFだと捉えている、同作家前作の「BADDY」は、宝塚だからこそ生まれる作品として、宝塚の枠をなぞりながら宝塚をメタ視点で分解、再構築する発想自体に驚嘆した作品だった。こちらはショーなので、芝居であるサパと同一には語れないものであることを踏まえつつ比較すると、サパはSFとしての発想はオーソドックス、脚本自体は一見他団体で上演できそうにも見え、でも人間の愛や正義について繰り返し描いてきた宝塚という劇団でこそ、いま上演する意義がある作品とも思える。

冒頭のクランケたちへの「治療」の場面一つをとっても「黄色い猿」という言葉の使い方は「核兵器核家族化」を、サパの世界観に合わせて「ダメッ!ダメッ!」という茶目っ気なく差し出した感。


しかし、あらゆるジャンルの様式を取り込む試みがなされている宝塚の懐の広さを考えると、私が知らない過去作品で同様の発想から生まれた作品はすでにあるのでは?(小池、マサツカあたりを想像)だとしたらそれらとの違いとは?と有識者に話をしてほしい。


そんな、いろんなひとがいろんな感想を書いているサパについて、私は総合学習のグループワーク分けで、総統01=難民ブコビッチについて発表したいと挙手する人になります。


過去回想で、本来ならポルンカに来られない身分のブコビッチが、過酷な環境のポルンカでも人類が生存できる仕組みを発明できる可能性がある科学者であったために乗船がかない、と判明した時点で「ポルンカに生きる人の現在の話」ももちろん興味深いけれど、作品内でほとんど描かれていない「ポルンカで生きる人の地球に残してきた人への思い」や「ポルンカに来れないことが確定した人の地球での余生」が気になってしまい、これは難民ブコビッチ=総統01の話でもあるのでは、と思ってしまった。ポルンカで生きている人は言語や文化、宗教等の「違い」を持つことを禁じられていて、禁じられれば焦がれるもの、と人々はクレーターの中で、めいめいが持っていた「違い」について想いを馳せ、他者と共有するけど、地球に残された人たち=自分たちが切り捨てた人たちのことについて想いを馳せ、語る人はいない。

「持つ者」は初めから「持たざる者」だった人たちのことについては思い当たらない。オバクが記憶を失ったことを教えられても、初めからなかったことになっている人間にとって、喪失した記憶自体になんの感慨も持てないことと近しいかもしれない。


「持つ者」と「持たざる者」という切り口に着眼することには慎重になるべきだと思うし、誰しも複数の属性を抱えて生きている、「持つ」「持たない」それぞれの部分が一人の人間の中で混じり合っている。そもそも「持つ」「持たない」という判断、「持つ方の優位性」を決定している価値観、今の社会の状況への批判もなしに、その内の一つだけをピックアップして比較する行為は間違いが起こりやすく危険が伴う。ひとりの人と向き合うことはその多層さに目を向けることだ。


それでもあるフィクションの中で「持つ」「持たない」の割り振りが強調して描かれていると感じたとき、現実における自戒を前提として、その「違い」を注意深く見つめることで、作者の意図、物語から取りこぼせないものが浮かび上がってくることはないだろうか。この物語は「違い」を重要視する物語だから。


冒頭で名前をあげた『1984』は、とてもざっくりとたとえるとポルンカで生きている、選ばれた人の視点で語られている物語で、けれど彼らが「被支配階級」と認識している人々の多くを占めるぶ厚い層として生きる人の方が、読んでいる私たちの多くに近いんじゃないか? と思える瞬間がある。「被支配者階級」はサパでいうところの、ポルンカに来られなかった人と考えると、私は「へその緒」を与えられず、監視される立場にすらない、置いてゆかれた人たちへの思いを一方的に募らせてしまう。


そういった背景を踏まえると、ブコビッチという人の肩には船に乗る前に亡くなった人だけではなく、命が助かる見込みはあったにも関わらず乗船できる身分でないために地球に置いてゆかれた人も含め、多くの人の人生が乗せられている。ポルンカにいる人全員の肩に乗せられるべきものを、彼が肩代わりしているともいえる。(この重責を担えるのはそりゃあ汝鳥伶さんクラスの人になるのでは…)

その上で「へその緒」を発明したブコビッチが、もともと乗船可能な身分と思しき妻子ともに健やかなロパートキンに、君の才能を神に感謝すると目の前で祈られ、怒る理由をあのように設定する久美子先生の脚本に信頼を寄せている。「神々の土地」のドミトリーのジプシー酒場で見せた寛容さにも同種の感情を抱いたことを思い出す。

 

「持つ者」だからこそ精神に余裕があり、他者を尊重できる。あなたが正しさを選択できることは、あなたの生来の性質によるものなのか、だとしたらそれは努力して手にいれたものではなく、生まれながらの特権ではないのかと。特権を持つことが悪いわけではない、でも「持たない」ために選択できない者へ不寛容さを説く前に、自分が「持つ者」だから選択できるということを、顧みたことはあるかと。ノアのような人に、あなたの正義を押し付けないで、と鋭い言葉を投げつけるイエレナの場面もまた、同じ意図を感じた。(久美子先生の描く娘役は意思がはっきりとしていてとても好みであることが多いけど、イエレナは特によい…)


物語の中だけの話ではなく、これは日々、いつだって思いがけないタイミングで自分にも跳ね返ってくる話だと思う。ものすごく卑近なたとえで考えると、ある情報を見て「トイレットペーパーやイソジンを買い占める人」がいて、同時に自分が「違う情報」を手に入れることができたために「買い占めない人」になれたとき、「違う情報」にアクセスできるということはある種の特権である、ということを認識するということ。ささいな違いに見えて特権である、ということもまたありうるのを知っておくこと。その上で「違う情報」にアクセスできなかった人とどう付き合っていくかということ。


科学者だから、人類の役に立つために乗船がかなったブコビッチには失敗することが許されていない、それは一緒に船に乗っている他者が彼のことを許さないからではなく、だれよりも彼自身が、自分が乗船した意味をそこに見出しているという意味で。選ばれた人類のための「へその緒」の開発を、ブコビッチが「選ばれた」者の使命として果たした後、それに人類を監視するようなシステムを付与しようとしたのは、地球での「違い」による諍い、自分の妻子やミレナの身に起こったことへの再発防止の方法の一つであると同時に、これからポルンカで不自由なく生きながらえることができる人たちへの復讐でもあると感じた。なんの枷なく彼らが生きることを許していいのか、否、という。

一方で、総統01=ブコビッチ自身がオバクへ語ったように、そうすることでしか人類の滅亡は防げない、という彼の絶望から生まれた愛の形のひとつでもあり、そこに矛盾はないんだと思う。

 

ポルンカに限らず私が生きている社会でも当たり前のものとして「違い」を掲げて生きることはとても難しい。みんなそんなに違いがあることを欲望してないでしょ?一つになれたらいいと思ってるでしょ?ということを「違う」ことを認められない社会でトゲのようにちくちく感じるひとならば、総統01の言い分はすごくよくわかると思う。一方で、総統01=難民ブコビッチほどの頭脳もなく、思い切るほどの一貫性もない自分は、多様性を標榜しながら、すぐ他人の「違い」を非難するような考えが頭に浮かぶ。

オバクと総統01が対峙してやりあう会話は人類に与えられた普遍的なテーマなので、ひとりの人間が分裂して激論を交わしているのを見ている気持ちになってしまう。成熟には程遠い社会で私たちが見る物語の決着が、二人の対峙する男ではなく、ミレナの行動に委ねられたのも納得がゆくのだけれど、その行動の意味するところはまだ深く理解できていない。ポルンカに生きる人たちの意識を流し込まれたミレナってそんな平然としていられるの? 発狂するのでは? と思っていた。あれは総統01の試みが失敗したからではなく、仮説と異なる結果が出たようなものなの? 彼らの結末の意味はまだ飲み込めていないけれど、「持つ者」であるロパートキンや、イエレナにその「正しさ」を問いただされるノアのような人物がとても理知的で人間味があり、信頼に足る人物であると描かれているからこそ、わかりあえなさが際立つと同時に、二人で生きていくことを決めたイエレナとノアの選択に、彼らに見出だすことができる未来に、希望を預けてしまいたくなる。ミレナに、少女に開かれている可能性を差し出すロパートキンの言葉にもまた、久美子先生が描く世界へ込められた希望を感じる。ブコビッチが人類への愛と憎しみを両方抱いているのと同じように。カオス・パラダイスのカタルシスが無い世界もまた、ぐるぐるぐちゃぐちゃしている。

男役=理性、娘役=情動、みたいな役割分担になっているきらいはある…? でも動ける方が主人公になれる? などともう一度観ることができたら、理解が深まるのかもしれない疑問は山ほど。


幕間にロビーに走ったらパンフレットは売り切れで、しょんぼりとしつつ急いでキャトルに注文した。月末か来月頭に一緒に届いたルサンクと合わせてまた考えたい。生で観られることを祈りつつ、この状況下で東京での上演を祈ってよいのか。舞台が上演できる日常が素晴らしいものであることと、その素晴らしい日常は当たり前の日常であることは同時に成り立つのだ、という認識は譲れないものとして持っていたい。

 

 

総合学習のテーマとはずれるのだけど、余談として、オバクの「男と寝るなら金を取れ」という台詞、「壬生義士伝」を書いた石田氏も好きそうでありながら、氏が自分の作品のなかで意図するのとは全然違う効果を発揮するタイミングで発されている台詞だと感じた。銃声を聞きつけてあすこに集まった人たちが、ミレナがいろんな男と「自分の意思で」寝ているのを知っていて、襲おうとした男に部屋に押入られたことに対して「ミレナ自身に隙があったんじゃないか」「いろんな男と寝ているなら誰でも同じだろ」というような最低の言葉を投げつけない場面になっている、「自分の意思でいろんな男と寝るのと無理強いされるのは全然別」という認識が当たり前にあることに、そういうことを「わかって」書いている、と思えることに「その意味」ではとても安心して観られる作品だと感じた。そんなの当たり前でしょ?なんでそんなひどいことを思うの?と私の発想自体に怒る人は、あなたのような人が正しいとされる社会で生きたいのでそのままでいてください、と祈り続ける。


「自分の意思でいろんな男と寝るのと無理強いされるのは全然別」という認識が「日本の現実に即して」当たり前に「ない」けど「ない」と思う人やそう認識させる社会の加害性を観客に伝わるよう描く方向性をとるような、そういう意味で信頼できる作品もある、でも後者のほうが作り手受け手に求められるハードルが高いので、いまの描き方のほうがサパのバランスとしてはよいと感じる。と思っていたけど、普通にサパは前者後者両方の場面がある作品では…?「ない」世界で生きていると、ひとつ「ある」ことがありがたすぎて、たくさん「ある」ことに気づけなくなってしまう…という言い訳。


しかしそういう、サパが女性への加害を描きながら信頼がおける作品である理由について考えると、加害を加害として観客に認識させるようきちんと描く、宝塚での表現を探りながら、というのが「男役の格好よさ」に含まれる加害性に見て見ぬ振りをしない唯一の方法かもしれない、と改めて感じた。宝塚で「いまの時代にあった作品を作る」って「物語の舞台を現代にする」以外にもあるんだと思う。わたしは宝塚でもそういう作品をもっと見られるはずだと、宝塚に夢を見ているし、これからも見ていたい。「宝塚らしさ」についてますます問われる機会が多くなる時代に生きているけど、「宝塚らしさ」は時代時代で柔軟に変化できるものだと信じ続けていく。

宝塚「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」のヌードルスと望海さんについて

ヌードルスと望海さんヘのくすぶる想いが熱を帯び赤く燃えている人の感想(こわい)

 


・やんちゃかわいい少年期

星逢以来の少年、どうなる?!と思っていたけど特になんの問題もなかった。くるくるした前髪が額と眉を覆って顔まわりの直線を和らげている。もともと地声は高い方なのも知ってた。「デボラァ〜」そんなこと言うなよと拗ねてくちびるをつきだした表情のあどけなさにむりがない。「はあーい、マダーム!」「ありえねえ」「そーだそーだ!」「おまえウソがちょーうまいな」の耳をひっぱりたい腹立つくそがき感。背伸びした少年が等身大に見えるくらいのびのびとした姿。


「ビックビジネスの勝利者」「勝利者への第一歩!」彼がと口にする度、台本上のミスチョイスの可能性を思いうつも、こまっしゃくれた少年がいかにも使いそうな大仰な語彙にも聞こえて、なじんでいないのになじんでいるのがおかしかった。はやく大人になりたくて大きめのコートをわざと着ているように、ぶかっと浮いている言葉。「皇帝と皇后」ソングでの、ポケットに手を突っ込んだままおどけてみにくいアヒルの真似をするポーズ、戴冠式のふたりのやりとりの、年相応のかわいさといったら!ピアノのイントロに、セピア色のライトと稽古場の床の色に、ダディ・ロング・レッグスのミスター女の子嫌いのイントロを毎回思い出して胸をときめかせている。


生きるために裕福なおとなからくすねることに、ほしいものにさっと手を出すことに躊躇はない。仲間を出し抜いて気になる女の子とふたりきりになることも、キスをさらうことも抜け目なくやってのけるヌードルス。心配なのはおとなに怒られることじゃなく、デボラに嫌われること。そんな少年でも仲間を守るためとはいえ、人殺しにまで手を出す気はさらさらなかっただろう。持ち前のすばしっこさで、気づいたら彼は境界線をとびこえていた。

薔薇を差し出せば好きな女の子の心を惹きつけられた、仲間たちとはねまわっていた少年時代はあっという間に奪われる。彼が奪った2人分の人生と、それが等価かどうかは誰が決めるのか。

 


・ギラギラとした野心あふるる青年期

「おれもムショに入ったらヌードルスみたいにかっこよくなれるかな」

ヌードルス!あんたいい男になって〜!」

「マックスが言っていたとおりだわ」


帰ってきたヌードルス、いきなりがしっとした成人男性になっていて度肝を抜かれる。あつらえたみたいにぴったりなスーツを用意したマックスのおかげかもしれないけど。白みがかったグレーの生地の明るい色味とスーツの形のクラシカルさがマッチしすぎて「往年の」「お父さん(概念)が若い頃着てた」等の形容詞をつけたくなってしまう佇まい。腕を組んで眉根を寄せて、思慮深げな光を瞳にこもらせていてほしい。

ヌードルスの7年あまりは、あの仲間たちと隔離され、外の世界で得られなかった教育をうけられた(詳細な描写はないけど)という意味では、得られるものがなにもなかった時間ではないとは思うけれど、それは外野の意見でしかない。久々に対面した仲間たちのはしゃいだ様子(彼をもり立てる気持ちもあろうが)と、眩しさに目を細めるようなヌードルスの表情、落ち着いたふるまいの対比に過ぎ去った時間の大きさを見る。しかしパッツイのかわらなさに救われるのは観客だけではないと思う。

コックアイの肩に肘を乗せた「コンビ…?」の、コミカルに傾かない、動揺を押し隠しきれないけれど大仰でない声音と表情が、真面目だからこそおかしくせつない。初恋の女の子の大事な舞台初日に間に合わなかったあの日から7年以上の時を経て、ようやく彼女に対面できた男の言葉は、積年の思いをのせるには余りにシンプルだ。鏡に向かって散々に悩んで練習したあげくの、ありふれたー言だったのかもしれないと思うと、どうにもたまらなくてその恋の行方に手に汗握ってしまう。ダンスに誘う男、首を横に振りつつも落ち着いて語らえる場所ヘ誘う女の無言のやりとりに、ティーンのときにこんな光景を目撃してしまっていたら、大人になったらみんなああやって距離を縮めていくんだと勘違いしていたかもしれないと冷や汗をかいた。もう間に合わないのでほっとしている。


しかし自分から間合いを詰めて相手の隙を見逃さない手口はいっちょまえなくせに、デボラから手を握られただけで、その手をぐーぱー確かめて呆然とした後「シャバの空気にのぼせちまった…」という、押して、引いてのバランスの危うさにこちらが呆然とする。自分の好きにー分の迷いはなくても、相手発信の心が感じられるスキンシップを与えられると戸感うのはわからなくもないのだけど。「真夜中にひとり」での、感情の高まりとともに、厚みを増して朗々と響く声、熱、色っぽさが歌詞以上に雄弁で、共感覚の人ならここでどんな色が見えるんだろうなんてことを思った。ヌードルスはひとりで苦悩しながら歌う曲が多く、観客には彼の気持ちの高揚や痛みがひしひしと伝わっているけど、他の登場人物、彼が気持ちを伝えるべき人たちにはもしかしてそこまで感情を表にする人間だと思われていないのか?と今更ながらに。

人を待たせているデボラの心ここにあらずな表情をもっと読み取って欲しかったけど、初恋が成就する予感に浮かれたヌードルスにはその思考力がない。天を仰いだゆるやかなガッツポーズに詰まりに詰まった喜びが透けて見えて(なんてかわいいやつなんだ!)(彼の会の行く末を見届けたい/見たくない)がせめぎ合ってー騎打ちする。

どんな事情があるにせよ、「たとえおまえに拒まれても」を実行してしまったヌードルスに伝えたいー言は「合意」の2文字のみと言い切りたいんだけど、彼の叫びがあまりに悲痛なので願いを叶えてやりたくなる。しかし見捨てる覚悟を持ちたい/持てない。一幕ラストの彼女の名を呼ぶ押し殺した声にすべてが詰まっていて、ここで叫ばれるよりも、彼の鬱屈した思いの行き場のなさ、背負った業の捨てられなさに揺さぶられる。

この場面も、2幕での友人たちを失う場面も、阿片窟も、なんでそんなに何もかもを全て失って挫折感に満ち溢れた望海さんをみんな自分の作品内で観たいのか?そうだよね観たいよね、仕方ないね、解散!となってしまう。


アポカリプスの騎士たちの場面では、れっきとした犯罪を、部活のロッカールームのやりとりよろしくはしゃぎながら実行に移す姿が、男の子たちのどうしようもない悪のりっぽくて心底たまらない。盗んだ宝石の入った鞄を押しつけることで、初仕事が成功した高揚感に酔わせて自分たちのペースに巻き込んでいこうとするマックスのやり口。罪の重さをちよっとしたゲーム並みに軽く見せてから、彼らを殺人犯ヘとあっさり蹴落とす、連続した場面、ヌードルスとマックスたちとの心の温度差がすごく鮮やかに目に焼き付いて、悪趣味かつ効果的な流れ。


それにしてもマックス、出所したてに用意したスーツがぴったり事件や、親友をキャロルへ説明するときの表現、ハバナでの酔っ払い介抱時等、ヌードルスのことをかなり好きだよなと思う。それぞれに女がいることをあたりまえに捉えつつ、女はいつでも入れ替え自由だけれど、おまえは違う、と言いたげな親友(?)ヘの重ためな感情に、宝塚歌劇におけるホモソーシャルのー事例をまた発見した気持ちになっている。ハバナで酔っ払ったヌードルスを抱き上げながら、くだを巻く彼に迷惑をかけられることを喜んでいるような様子がちょっと念が強そうでいやだ(好きだ)。ヌードルスもマックスのことを好きだとは思うし、逮捕されてもいいと決意するほどには愛情に応えているんだけど、あんまりねちっとしていない。望海さんの持ち味として、男役として役を演じているときに、男(男役)ヘの愛は適度な湿度を保ってからりとしていて、暑苦しくあったりはするけれど(ボリス)、あくまでプラトニックの範囲に見えるところが面白いなといつも思っている。


・いい具合に枯れた壮年期

宝塚の男役の男らしさ、かっこよさを「大成し、何者かになること」と捉えたら、「皇帝」になる夢破れて、何かも失ったのち、田舎でひっそりと暮らしている壮年の男は、宝塚のトップスターが演じる、男らしい男役に当てはまるのだろうか。何かを失って華々しく散る、あるいは王冠を手にするところで終わる物語は、成功・失敗問わずカタルシスがあるけれど、物語において、生きながらえてしまう、というのがいちばんの「かっこわるさ」だとしたら? 

でも多くの人たちがそちらの、特にかっこよくはない人生を選ばざるをえないということを考えたとき、大きなものを失った後も、ひっそりと生きている人の物語に、何かを見出したりすることはできないだろうか。

コートを肩にかけたままカウンターの上に鍵を置く、コートを脱いでから襟元にかけていたマフラーを引き抜き、合わせて畳んで椅子の背にかける、一連の流れに見とれる。帽子を取った後の髪のなでつけ方や、椅子ヘの腰掛け方、トランクを机上に置くときの、その重みに堪える声に、重ねた25年の歳月を感じ取る。

あまりにもおじさんが似合うトップスター、その名は望海風斗さん。手負いの獣感がだだもれている役も好きだけど、成功体験ばかりでない人生を歩んできたことがうっすら透けて見えつつ、自分の中ではそれをいちおう飲み込んで今は地味に堅実に淡々と生きています風のおじさんもたまらない望海さんだ(男役として)。

望海さんは華奢だけど、肩は存在感がある(肩幅はない)タイプだ。腰から上は顔も含めてすべての輪郭がまっすぐなので、直線の部分に合わせて補正をすると、男役としてものすごく身長があるわけではないけれど、スーツを着こなすのに適した体型になる人。そして花組育ちが影響しているのかご本人のくせか、わりと胴体にがしっと厚みを持たせる補正をしがち。それゆえにもともとおじさんを演じる体格の準備(とは??)はできている男役さんだ。

発声や、歩き方、手の掲げ方、ちょっとしたしぐさ。見た目だけの話ではなく、実際はおじさんではない女性をおじさんとして認識するとき、私たちはさまざまな要素から「らしさ」を汲み取って、年齢や性別を判断していることを知るのだなと思う。

にわにわさんがとても自然にファット・モーおじさんとして存在している場面は、こんなになめらかに受け答えする宝塚の芝居があるんだ、と驚くくらい、2人が無理なく同世代として舞台上で会話していて、見ていて心地よい。(「いいって」の一言がとても好きだ)


サナトリウムで車椅子のキャロルに目線を合わせてかがみ込み、ハバナの歌を歌うヌードルスのワンフレーズ歌い終えたと同時に拍子を取るように宙に振られた人差し指よ!デボラとのやりとりは、あんなにしっとりしたあやきほの会話を小池作品で聴けるとは思っていなくて、初日は目を(耳を)疑ったし、すでに愛し合っていないふたりのデュエットが、シチュエーションもメロディも本当にたまらなく好きだ。昔に人生を違えてしまったひとたちの一瞬の邂逅が生み出すハーモニーが反比例して美しいことに、しみじみとする。シェルブールの雨傘(舞台の方をみた)で、ジュヌヴィエーヴとギィがガソリンスタンドで再開する場面を思い出してしまう。一生にこの人だけだ、というくらい熱烈に心を傾けた相手と別れても、人生はあっけなく続いていってしまうこと。「君と会うときはいつも赤い薔薇を持っているな」のときに、デボラのほうをまともに見られないヌードルスが好きだし、「私が誰と愛し合っていようとあなたには関係のないことよ」ときっぱりと口にするデボラがいい。振った相手と振られた相手であっても、25年前にヌードルスがしたことはデボラにとって深い傷を残した、許容できる範囲ではないことだと私は思っているけれど、歳月は何かを緩和させるのだろうか。ここで薔薇を受け取るデボラを描くことは宝塚の作品としてありうる甘さだとは思うけれど、受け取るのを拒む、あるいはうやむやのままに人が集まってきてしまう、というのもみたかったなと勝手に考えている。受け取る、という選択は、ギャツビーの墓に一輪花を投げるデイジーの場面を追加する演出家のさじ加減だなと思った(そこが不要だと思ったというのではなく)。

ベイリー長官になったマックスに自分の立場を思い出させようとするジミーの歌がたまらなく好きだけど、その話はまた別でしたい。

「ハッピーバースデー、ベイリー長官」って入ってくるヌードルスおじさん最高では?と何度でも思いつつ「俺を見捨てるのか」と膝をつく親友の問いかけに答えず、唐突に昔語りをしだすのが、すごく人の話を聞かないおじさんみがあって、なんだかとてもいい話を聞いた気持ちになるけれど、だまくらかされている気もする。これはパンフレットの演出家のコメント冒頭に書いてあるまとめと一緒では…? 時代がズレてる若者台詞を書くおじさんはつらいけど、おじさんがおじさんの台詞を書いているから許してしまうのか…? とても総括的な台詞ではあるんだけど、ヌードルスが日々考え続けてきたことを、25年経ってようやくかつての親友に伝えられたのだなと思うと、これでよかったのか、という気になってしまうヌードルスおじさんへの甘さ。。ベイリー長官としては、結局俺を見捨てて帰っちゃうの?!案件だけれど、親友にまた殺人罪を背負わせるつもりだなんて大概なので却下可。「何もしてやれないけれど、諦めるなよ」に毎回突然のマサツカ?と思う(とても好き)。

この場面のことを考えていると、さきちゃんは頼まれたら望海さんを殺してあげるけど、望海さんはさきちゃんを殺さない、それがそれぞれの愛のあり方なんだなと思う。もちろん役の上での話だけど。(なお、望海さんに殺してもらえないさきちゃんは自分で死ぬ)

 


カンザスから来たヌードルスにとって、25年前にいた街はいまはとても遠くて、懐かしいものではあっても、彼にとっての日常は別のところにある。つかの間だけの時を過ごして、彼はまた彼の街へ帰ってゆく。

トランクの代わりに銀の懐中時計を手に入れた、自動車修理工場を営むおじさん(従業員1人の可能性を想像)の日々がとても気になっている。