TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚の「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」≒「ONCE UPON A TIME IN TAKARAZUKA」?

宝塚を見過ぎて「アメリカ」すら宝塚という大きな貝が吐き出す蜃気楼に見えてきている人の感想。

 

 

 

 


"昔、ふたりの貧しい少年がいた。ひとりは日の当たる道にたどり着いたが、もうひとりはつけなかった。けれどふたりとも、このアメリカで懸命に生きていたことに変わりはない。どちらが勝ったわけでも負けたわけでもない。それでいいのさ。"

 


宝塚は、そこに生きている人たちの誰かから誰かへ向けられた感情を増幅させて、生っぽく普遍的に描くことはできるけど、ある国でかつて存在した、いまも続いているその社会固有の問題を、そこに生きる人の困難を、リアリティを伴う描写をもって舞台上に存在させるにはあまり向いていないと思うことが多い。

 


舞台の背景をどうやったらより多くの宝塚の観客にわかりやすく伝えられるか、と考えたときに、登場人物たちが置かれている過酷さをある程度見やすく整えることももちろん必要だと思う。直接的な表現、そのままを描くことがイコールもっとも伝わりやすいわけでも、作品として適切な表現ではないこともある。でもその過程で削ぎ落とされたもの、選択された方法によっては、もはやその国の、そこに生きる人の物語として受け取るには情報が足りず、観客が頭の中で補完すべきものが多い作品へ姿を変えてしまうことがある。あるいは情報が記号化されることによって、現実にあった具体的な時代や国は後退し、とても普遍的な、教訓を含んだ物語に読み替えられる。

 


宝塚の舞台上で、ある国の描写、その国に存在する問題を、どれくらいリアリティを、厚みをもって描けるんだろう。そしてそこにリアリティが欠けていることは、はたしてどれくらい非難されるべきものなんだろうか。

 


原作にどれだけ、どのような描写があるかは未確認なのだけど、宝塚のONCE UPON A TIME IN AMERICAでは、アメリカという国で彼らユダヤ系移民が置かれている状況について、彼ら自身が語る言葉以外に推測する材料がほとんどない。偶発的な出来事の積み重ねから観客に推測させるのではなく、台詞、歌詞でもって、情報として語られる。

きちんとした教育を受けられず、幼くして働き手になることを迫られる少年たち。彼らは彼らの親と同じく、豊かな富を得るような職にはつけない。貧しさは連鎖し、「日の当たる道」を選択できない少年らは悪事に手を染め「アメリカ」への憎しみを募らせる。

ヌードルスをはじめとする少年たちへの、警官の態度の悪さは、単に悪ガキだから何かしでかすだろうと、はなから疑ってかかっているだけにも見える。少年鑑別所から刑務所に移送されての7年余りも、ヌードルスのルーツゆえなのか、全体的に司法がうまく機能していないのか、あの描かれ方では判断がつかないところがある。

その後も、アポカリプスの四騎士となった彼らが、成功報酬を交渉する場面での「ユダヤ人はこれだぜ」取引相手がぼやきにこめた揶揄くらいでしか、彼らのルーツは取りあげられない。

彼らが真っ当な職に就こうと試みる場面、あるいは移民ゆえに差別をうける場面は、明確には描かれていない。彼らの選んだ仕事がうまくいかなかった背景に彼らのルーツがあるのだとしても、のし上がってゆく過程でユダヤ系移民という要素はほとんど絡んでこない(それがネックにならない仕事だから選んだ、という意味合いもあるのだろうが)。


彼らが少年の頃から一貫して背負っている、前面に押し出されているのは「貧しさ」という根っこだ。それこそがこの作品で描かれる「移民」の最も大きな要素であり、この曖昧さは「移民」の「固有性」をあえて詳しくきちんと描かず、より一般化、皆がその言葉から漠然と想像するイメージに寄せることで、宝塚として見やすくするための処理に思える。観客の基礎知識を多めに見積もって、信頼している、というのともおそらく違う。具体的なディテールは、宝塚で描くには重すぎる政治的要素をはらんでしまいかねない、という処理。その処理が適切かは別として、貧しい少年たちが這い上がろうとする過程で困難にぶつかる話は、わかりやすく、かつ感情移入しやすい。感情移入を阻むほどの、重たいエピソードは、舞台上にはあげられない。

(それならばユダヤ教を表す「固有の」わかりやすいモチーフとして、六芒星を背景に輝かすことについても控えるべきだった、という見方もある。そこまで固有の属性に重きを置かない作中で、あのセットの使い方は、ある特定の宗教の扱い方としてはどうなのだろう?とは思っているけど、それも「わかりやすい」処理の一つなんだろう。ヌードルスが友のために祈ることが大事なのであって、その神がだれであろうと、観客の多くにとっては大きな問題にはならない)


そして、彼らを貧しさに追いやったものへの怒りは、具体的な制度や自分たちを差別する人間ではなく「アメリカ」というとても漠然とした対象へ浴びせられる。国への怒りという分かりやすさの前に、その怒りの細やかな内訳を描くことはもはや求められない。必要なのは怒りの強度で、それを裏打ちするのはディテールではなく役者の身体と熱量。


禁酒法撤廃と同時に暗礁へ乗り上げる彼らが歌うアメリカへの呪い。感傷的な叫びは、彼らが生まれた時から与えられず、奪われ続けていることへの正当な怒りから生み出されたものなのか、はたまた事業が失敗したことへのただの八つ当たりか。自分たちを中途半端に育て、放り出した養い親への怒りのようでもある。

「おれたちの青春が終わる」なんて言葉を持ち出されることで、漠然とした「アメリカ」はさらに伸び縮みし、物語ごともっと身近に、観客の手の届くところに迫ってくる。これは貧しい少年たちがのし上がろうとする話、観客に味わったことのない青春を追体験させる話だ。

人を躊躇いなく殺して金を稼いでおきながらそれを「青春」とのたまうどうしようもなさ、いつまでも男の子たちのゲームを気取っていたいのか君たち(というか特にマックスくん)は、と苦笑いをしながらも、彼らの人生を賭けた青春ゲームの舞台「アメリカ」に引き摺り込まれている。舞台の上で生きている個々の人間の厚みと、物語の切れ目がわからなくなってしまう。


宝塚ではある国固有の事情や苦難を細やかに描くことはまったく求められていない、とは思っていないし、そこを観客を惹きつけるように描いている作品もあると思う。

でもこの作品はそういったタイプのものではなく、「アメリカ」や「移民」を想起させる場面を、いままでの宝塚で描かれたなかから掴み取ってきているように見える。宝塚のアメリカ、組み合わせパックのような。ある意味周到でずるい。(原作に忠実だったらごめんなさい)(というかこの原作が先にあって、過去に作られた小池氏の宝塚作品は、その原作のかけらが散りばめられたものでもあるのだろうが)


もともとの「アメリカ」の包容力がでかすぎるので、ディテールをたいして描かなくとも、皆の心の中にそれぞれの「アメリカ」がふんわりと存在してしまうことを逆手にとっているずるさもある。そしてアメリカの同時代が散々宝塚で舞台化され、描き尽くされ、宝塚内で一般化しているのもあるけれど、もはやここに描かれようとしているのは、具体的なアメリカですらないのかもしれない。ローリング・トゥエンティも、禁酒法も、スピークイージーも、連邦準備銀行も、耳に馴染んでゆくほどに、具体性を失ってゆく。移民は貧しさの象徴で、カンザスは田舎、モグリ酒場は娼婦宿、なんとかと煙は高いところが好き、人を殺すのは悪いことだ。

全部タカラジェンヌたちを魅力的に見せるための魔法のエッセンスで、装置にしかすぎない。


ある国のある場所で懸命に生きた貧しい少年たちの話であって、同時に彼らのルーツもまた、はるかかなたへぼやけていってしまっているように思えてならなくなる。

そこで展開されているのは男女の恋愛、すれ違い、男同士の友情、喪失、人生が続いてしまうことのやるせなさと希望、私たちの人生の中にも存在する、よく見知ったもの。その体験の生々しさは目の前の役者の演技の熱量によって沸き起こるし、観客それぞれが持つ体験の記憶が、観劇の助けとなる。


でもこの、ディテールがぼやけているところこそが、昔の少女漫画で描かれたパリのように、すでに皆の頭の中にしか存在しない国の物語としての味わいを生んでいて、それこそが宝塚の醍醐味なのかもしれない。ワンスアポンアタイムはアメリカではなく宝塚にかかるのでは? 演出家のコントロールの範疇なのかはもはやわからないものをそこに見出してしまう。


一観客として、作品をそういうふうに受け取ることを普段だったら恐ろしく思うはず、思うべきと思うはずなのに、宝塚であることを免罪符にしたくなっている自分に気がつく。それは外の舞台と比べて、宝塚の物語自体にある強度を軽んじた見方なんだろうか。

そういうふうにこの作品の物語り方を「醍醐味」といってしまうことはものすごく危険なことではないか、という警告と、単にいつもの宝塚の話をしただけでしょ、という声が同時に聞こえている。

 

 

宝塚 ミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』一幕ラストについて

ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)一幕ラストの話をします。

 

 

 

一幕ラストは何度見てもつらい。


つらいの内訳のひとつは、ヌードルスの慟哭があまりにも直接的に伝わってくること。どういう事実への嘆きか、具体的な彼のいまの気持ちに同調できるか、というこれまでの物語の文脈をいったん横に置いてしまうほど、目の前の人の感情の迸りに豪速球を腹に喰らったような衝撃を味わうつらさ。あまりにも心が剥き出して裸で、服がビリビリになっていないのが不思議。確かに歌なのに叫んでいて、叫んでいるのに心地よい。ずっと聴いていたいけどいますぐやめてほしい。皮膚を突き刺して心臓に食い込んでくる。音が痛い。


もうひとつはヌードルスという人の巡り合わせの悪さがだめな意味で身を結ぶ光景を目撃してしまう気まずいつらさ。これが居間のテレビで流れていたら、思わずチャンネルを変えるかその場から立ち去って自室に篭りたくなる。他人と共有したくないけど約2000人とシェアしてた。こんなにド派手な場面を自分でセッティングしておいて、フラれて泣き叫ぶ人を見るのつらすぎるだろ。しかしこれが私の好きな男役です。

デボラとヌードルス、双方ともそれぞれのサインを拾えていなかったでしょとお互いのイーブンさを主張してヌードルスをかばうにしても、以前からデボラが彼の「皇帝への目指し方」を批判していたのをもっと重く受け止めて欲しかったと思ってしまう。あとまさかあんな薔薇の部屋を用意してくるとはだれも思わないから。

だれよりも素晴らしい贈り物を差し出したら、愛している人の心を掴めると思うのは子どもの発想で、それで女の心をモノにできるのしないの、という考え方は男様の発想だ。そもそもデボラはショービジネスの世界でのし上がるという、皆に笑われた野望をヌードルスに肯定されたこと、同じ高みを目指すある種の同志として、彼をいいなと思ったのであって、別に彼の手によって皇后にならせて、とは一言も言ってない。

それでも目の前にお前のため、と用意された宝石にぐっときてしまう人もいるとは思う。でも私のためにここまでしてくれてという感動と、私のために突然こんな高価なものを買えるほど稼げる仕事に手を出してしまえるのだという恐ろしさは同時に沸き起こるものだと思うし、前者が後者を上回って、手にしたチャンスをふいにするほど、デボラは馬鹿ではなかった。そしてヌードルスはそんなクレバーな彼女を好きになったのだから。

ただ同じ地区に住んでいただけで、彼らはスタート地点から違ってた、ということをお互いにわかっていたのだろうか。

デボラは、彼女らがいうところの掃き溜めの中でも、幸運にも努力の方向性が合っていて、選択できた人だ。ヌードルスが万が一まともな仕事についていたとして、初めは褒めてもらえたとしても、デボラと並び立つような世界の住人には一生なれないコースで、そういうことを彼女は考慮していないと思う。ヌードルスがマックスらと同じ仕事を選んだのは、友情に報いるためだけではなく、彼の人生にはいつも選択肢がなかったからだ。

でもそれはヌードルスの人生であって、デボラがそこまで面倒を見てやる必要はまったくない。


ヌードルスが刑務所送りの罪を犯す、ふたりを刺し殺す場面では、ロミジュリの決闘を思い出す。彼が成したことではあるし、裁かれるべきものではあるけれど、あれは彼だけでも彼らだけの問題でもないと思う。ベンヴォーリオの「あなたたちの憎しみが、僕たちを駆り立てた」を歌ってしまう。

そういうものが積み重なった結果としての二人の破局であり、それが基盤にある、彼自身の力を求める思考が成した一幕ラストへのつらさ。すれ違いによるすれ違いで、人生が本来なら重ならなかった人たちが、間違って親密になってしまった結果の惨事を見てしまったのかもしれない。


最後のひとつは、一方の同意がない行為に無理やり及びそうになる光景を舞台でみるということ。

原作映画は見ていないけど、これがだいぶマイルドにアレンジされているものだということは聞いています。ヌードルスという人のデボラへの愛憎を見せるため、彼の「男らしさ」が向かうところの攻撃性がおろかさと繋がった描写としては、タイを解く、押し倒しかける、けれど一度拒まれてやめる、という流れはまったく不必要なものとは私は思わない。思わないけれど、物語上必要であっても、無理やりそういうことをする人、される人を演じる姿を見るのは個人的には何度見ても、慣れることなくけっこうつらい。お互いの要求をお互いの事情ゆえにのめない口論までは、世間の基準に照らし合わせた言い分の真っ当さ、真っ当でなさはともかく、一方的に片方が悪い、という判断は保留にできる。でも一方が力でねじ伏せようとした瞬間、それはただの暴力になってしまう。

もともとの「愛」の中に見え隠れしていた、好きな相手を手に入れたい、屈服させたいという欲求が前面に出てしまって、それを「愛」の一言でねじ伏せようとするのはとても怖い。それを「愛」の名の下に行使するのは、宝塚以外の世界でも男側が圧倒的に多い現状、外の世界の暴力性と宝塚が切り離されているとは言い切れない。そのあんばいを理解して、ギリギリを見定められている演出なのかどうか。暴力性を描くために入れた場面であるかどうか。役者の魅力でただのかっこ良い場面になりすぎてはいないか。私は有りと思ってしまっているけど、それは役者に肩入れして見てしまっているから、といわれたら全否定できないところはある。


そしてさらに、逃げ去った女の感情はさておいて、逃げ去られた男の嘆きを一曲ド派手に入れて幕、という流れを作る、その男の苦悩を「愛ゆえに」として魅力的に見せてしまえるのが宝塚で、男役で、それってとても罪深いことだとも思う。


ジャッジは人によるとは思うのですが、私はたぶん、どんなに好きな俳優さんでも、同じ場面をリアル男性がやったらだいぶ受け入れがたい。これをなんとなく受け入れてしまえるのが宝塚の不思議さ、恐ろしさなんだと思う。


男側に言い分があるように見えてしまう、「愛」を拒んで逃げ去った女が悪様に言われる可能性がある世界で生きているのに、夢の世界とはいえこれをありってことにしていいのか、いや彼をおろかに描いているからいいよ、でもデボラを欲望するギラギラしたヌードルスは魅力的だよ、それが彼の暴力性と紙一重だとしても? あまりにも真っ直ぐに、屈折して、放つ光をギラギラと乱反射させながら「愛」を歌う人が、舞台上で真剣勝負に挑んでいるので、こちらも不純物が混じっていないかのように思いたくなってしまうけど、全部ごった煮のどろどろとして、腹の中に落として休憩に向かうしかないのかもしれない。


いろんなつらさが混じり合って、それでもひとりの女の「愛」を乞う男のおろかさ、醜さをああやって魅せるものにしてしまう望海風斗さんの男役に、私はとても魅了されています。

 

宝塚ロマン『はばたけ黄金の翼よ』

「面白い女だ」そう哄笑した男の謎を追って夜霧の十字路を抜けた我々がロドリーゴで目撃したのはーーーー「むかしむかし、乙女がおりました」(24年組




宝塚って未見の時に思っていたほど白馬の王子さまっぽいキラキラしたヒーローは出てこない世界だ、と気づいたのはいつのことだったのかもう覚えていません。漫画みたいな展開はあっても少女漫画みたいなコッテコテ王道展開が描かれている作品があまり思いつかない、というかあることにはあるけど望海さんに回ってこない。(今思えばパンジュ侯爵は見た目・中身ともに王子様だったかもしれない)

新聞売りの少年からのし上がったガラは悪いけど情に厚いギャングやマフィアのような役もとても似合うし大好きだけど、でも私は古典的少女漫画と少女小説(コバルト・ホワイトハート)で育ったくちなので、ドジさま(木原敏江)とか藤本ひとみ作品によくある主人公をからかってキーキー言わせる皮肉屋さんだけど本当は心優しい幼馴染とか、旅人に身をやつして婚約者の様子を伺いに来る領主さまとか、なんかそういうの、ギャングの合間にないの……?銀バラや花織高校や漫画家マリナはできないにしてもアンジェリクとか焼き直ししてもいいんじゃない……?と思っていたところだったので、演目発表の時には友人と手を取り合って喜びました。父を殺した冷徹非道な領主望海さんに望まず嫁ぐ跳ねっ返りのきいちゃん、二人が反目し合いながらもいつの間にか…?とか見たくないファンがいるのか。

 

心配したことといえば、かつらどうなるんだろう、楽しみと言いつつ古典的少女漫画のマッチョさをすでに受け付けない身体になっていたらどうしようの2本立てだったのですが、一つ目は完全に杞憂でした。よく考えたらカリオストロの時もあれくらいのボリュームがあったし、今回のヴィットリオの右こめかみ側を後ろに流して片耳を出す、うっかりすると色っぽいおねえさんみたいなヘアセット(?)とても好き。はちまわりの毛をふくらませ過ぎないのが秘訣か。アラドーロをたたえる総踊りソングでの額飾りもめちゃめちゃお似合いです。

二つ目については男側の高圧的な振る舞いにどうこうというよりも、腕を折るメンフィスやばすぎでは!?みたいなあの時代の漫画独特の登場人物の言動のぶっ放しぶりに度肝を抜かれていた。愛を求めて鳴く犬ねッ!俺の感情を駆け引きの道具にするなッ!

 

テンポが良いというより全場面伏線、権謀術数のための起承転結の転の分量がめちゃくちゃ多い印象。事件事件に継ぐ事件。人間をコマにして、誰かが誰かを想う気持ちを利用しているから、陰謀がうまくいくにはその気持ちが必要不可欠という意味で、陰謀と主役二人の関係の盛り上がりが比例して描かれているのはわかる。しかし寝室での「面白い女だ」以降、誰もかれもがヴィットリオはクラリーチェが好き!と決めてかかって行動を開始するので、ヴィットリオからかう→クラリーチェきーっ!もそれはそれで楽しいけど、ふとした時に見せる弱さも女心を誘惑するには必要ってエヴァ琥珀色の雨にぬれて)が言ってたよ?とヴィットリオ(というか小柳先生?)の肩を揺さぶりたくなったりもする。作中では背負った過去による屈折等を全く見せない無敵の帝王様として描かれているように見えるんですが「3年前の父の仇をとったぞ!」とかそのあたりを突っつけば何か省略したエピソードがこぼれてきそう。

影として控えている盗み聞きが仕事のファルコが、先走り感は否めないとはいえヴィットリオ本人すら無自覚の気持ちの萌芽に勘をはたらかせたのはまあわからなくもないし、ロドミアも二人の様子を目の当たりにしていたからまだわかるけど、世継ぎの剣を渡したことしか知らないジャンヌの行動は若干思い込みが激しすぎるのでは? いや思い込みが激しいことはあの少女漫画の世界で生きるための必要スキルかもしれない、とも思うけど……ものすごく変だから変えて欲しいというよりも、ヴィットリオとクラリーチェが心を通わせる根拠となるような場面がもうワンシーンくらいあると私がうれしいというだけで、そこは脳内補完を楽しむところかもしれない。

歌の中で二人の気持ちが盛り上がっていくタイプの物語でもなく、中盤の盛り上がりに合わせた心情を客席に訴えかける歌は主役二人でなくファルコがさらっているので、終演後やたらと口ずさみたくなるのは「ヴィットリオのために〜♪」の方になってしまって困る。

しかしなんだかんだ言いつつ、あまりにも見知った少女漫画の世界が予定調和で展開されていくので、面白すぎて終始にやつきが堪えられなかったのも本当です。THE古典少女漫画のコスチュームものの目の楽しさよ!

 

「よく笑う女だ」はドン・ジュアンであったけど、あの時は膝抱えていたし自分を恐れない女に動揺していたし、余裕が失われていたのでノーカンです。ここにきて望海さんの口から天下の宝刀「面白い女だ」が聞けるとは!「お前の命は俺のものだ」!

でもすでに千回ぐらい同様の役をやったのではと思うほど帝王が板についてませんでした? 偉そうな役のレパートリーは色々あるし、ショーでオラオラしている姿はいつも見ているからお芝居では違う色を見せたい、過去の影を背負って舞台上に出てきた時にはすでに挫折感にあふれている役が似合うだろう(?)などの理由から、生まれた時からデーンとしていそうな人間を演じさせたのではもったいないと思われていたのかな?

実際「面白い女だ」発言×野心溢れる北イタリアの小国の主とか、もはや古きゆかしき少女漫画界の生ける化石。面白いのはお前だと誰もが指差したくなる(?)ヴィットリオ、いままで望海さんが演じた中でいちばん息をするように男らしさを味方にして人生を謳歌している役では? 肩幅バーンで胸板もめちゃくちゃ厚そう(タオル製)。そもそも古典少女漫画の様式美としたって、ここまで屈折してないキャラクタってそんなにないのでは? だからといってほがらかというわけでもないのだけど、圧倒的にネアカには違いない。人を愛することのなんたるかを知った後も、心情の変化による心の揺れを大げさには表に見せない、鞭に打たれても愛によって自由を得たことを口にして笑う男のふてぶてしさ底なし。一貫して堂々たる様子に、人間ってきっかけがあったとしてもそこまでがらりと変わらないものなのかも、と思えばある意味現実味があるのか(?)

現実味がたとえあったとしても、もう少し心の揺らぎを表に出す方がキャラクタとしての面白みが増すだろうから、最近の宝塚作品ではここまでデンとした存在はお見かけしないと思う。

でも逆に絶対こんなやついないだろという心の距離があるからこそ、このやばい男にどっぷり浸からずに済んでいる、一命をとりとめた感がある。鞭で打たれたり、目をえぐられたり、誰かに加害されている時のうめき声のリアリティに手に汗握りながらも、痛みに反応しているだけで恐怖を感じている様子があまり見えないのは、どんな目にあっても自分の存在価値が貶められることはないんだなと知っている、絶対王者のそれっぽい。視覚的な痛々しさはあるのに、かわいそうとはそこまで思わなかったのも納得。自分の知力体力精神力の強靭さを信じている。む、むかつく〜〜〜〜〜〜そりゃジュリオ兄さまも思わず鞭をメッタメタにふるいますわ……「あの女、ビアンカといったか」の一連のセリフが完全に鞭を振るう側のそれ、ジュリオの方が拘束されているせいで悪役から聴きたくない話を聞かされてしまう立場にしか思えない。かわいそうだからワインをお持ちしたい。ひとこちゃんの衣装の着こなしぶりすごい。

 

散々やじを飛ばしてしまったけど、きいちゃんに対して基本優位で高慢ちきなのに時々「帰ったら俺が髪を切りなおしてやろう」(謎の萌えが詰まっている)(じっとしていないとどうなっても知らんぞ、とか言いつつ意外と上手な展開ある)みたいな優しさ(??)を見せるヴィットリオを演じるのぞみさんがみられて結構わくわくしています。友人が萌え転がっていた「なんだ…男の子か」もやばい。拘束された手が使えなくても気持ちがクラリーチェの頬にそえられてるのか?くらいに声が優しい。いや実は弱っていただけかもしれない。こんなやついるわけねーだろ的なおもしろさと萌えとやばさがぐるんぐるん渦を巻いて心の中が嵐だった。

 

人を食ったような振る舞いも妙にかっこよく見えてしまうのは、望海さんが演じているという大前提なしにはあり得ないのか、それが宝塚の男役の魅力であり恐ろしさなのか。

たとえ物語の中の人物であっても、「面白い女だ」的な発言をする人物が物語の中で最後まで格好よさを貫くには、かなり困難な時代を迎えている今、もっと女性と対等に向き合って対話ができる男性が多様に魅力的に描かれていく中で、それでもバリエーションの一つとしてこういったキャラクタを面白く受け入れてしまうのってなんでなんでしょう? 

今回、この物語を面白く観劇できたのは、古典少女漫画を愛好する人間の目こぼしというのではなくて、最後の最後でクラリーチェとヴィットリオの間に短いながらも対話(?)があったからだと思います。男役が無理矢理迫る姿は、男役の振る舞いとしてある程度は格好良く見えてもやっぱり限度があると思う。そのギリギリのラインを探りつつ、最後できちっと「命令されたら愛せない」とヒロインに言わせて選ぶ側と選ばれる側を反転させる場面があったことに、観ていてとても安心感を抱きました。常套句だとはしても、身体は奪えても心までは奪えないと突き放したクラリーチェからの愛の告白かつ最後通牒は、このタイプのヒーロー像に対しての真正面からのカウンターとして成り立つと思うし、これがわからない人とクラリーチェが結ばれるわけがない、という伏線を最後までなあなあにしていない。望海さんが演じていても、いくらビジュアルが格好良くても、「あいつらより俺のほうがお前をよく知っている!」(もえではあるが)とか言われても、最後まで押せ押せなキャラクタだったらちょっと厳しかったかもしれない。

そこまでの深みがある話ではないと知りつつ、最後に愛を真正面から告白して歌うヴィットリオ演じる望海さんの声の豊かさにこんなの籠絡されるほかないじゃんずるい!とふるえながら、愛とは解き放つことよ、の星から降る金@M!のことを思い出していました。

 

しかしラストのヴィットリオの改心(?)は、面白い女と言いつつ初めは侮っていたであろうクラリーチェが、あのセリフを突きつけてもおかしくない存在として、彼に認めさせ、心を溶かすだけの活躍ぶりをここまでに見せつけていたからで、そんなクラリーチェを演じたきいちゃんの少女漫画ヒロイン力があったからこそ、この作品が成り立ったのだと思います。

はっはっはと高笑いする男のそばには彼の仕打ちにプンプン怒る女の子がいてほしい。やり込められているようで、大事なところで彼をうまくやり込めてほしい。年老いたマントヒヒ!みにくいブタ!=ミスター・リッチマン&ミスター・女の子ぎらいだと理解しているけどいいですか。クッション投げつけ=ちまき大きく振りかぶり(食聖のアイリーン)ですよね。

剣の稽古の途中で、あっ!と明後日の方向を指差す仕草も可愛い。髪をざっくり切って男の子に変装するのもあまりにもてっぱんで身悶えるし、その前にヴィットリオの言葉が天からの声のごとく降ってくるのもヒロインだけに許される展開…!とにやにやしてしまう。

思ったことをすぐ口に出すひまわりのような女タイプのきいちゃんクラリーチェが着ている服が、最後の服まで全部が全部可愛くて、今まで他の舞台で見た服が可愛くないわけじゃないけど、こんな衣装今までどこに隠していた!?時代で選べる服のバリエーション×演出家の指定の問題か…(9月頭までやっていた作品のことを思い出してしまった)と喜びと悲しみに膝をつきました。


クラリーチェもさることながら、ヴィットリオの心変わりには彼女も一役買っているのでは?と思うくらい、ひらめちゃん演じるロドミアも物語にぐいぐいい込んでくる役どころで好きです。愛を求めて鳴く犬ねッ!(くせになっている)そうさ、あんたの姉さんのロドミアだよ!(くせになってる)

 

あーさのファルコは、おれは影、あいつは光…みたいな過去シーンが一切ないのが惜しいながらも、幼なじみだったのに主人公の敵対する側にまわる2番手ポジションって、ある意味主人公よりおいしいのではと思いました。「許して〜くれよ、ジャンヌ♪」の歌い方をついついまねして口ずさんでしまうのは、独りよがりな感じを膝で小突きたくなるおもしろさも手伝っている。全ツおなじみ幕前芝居のためと知りつつ、横座りで崩れ落ちているジャンヌと、彼女に背を向けてたたずむファルコとの間に幕がずんずん降りてゆく歌へのつなぎ、BGMの威勢の良さも手伝ってなぜか胸が熱くなります(ジャジャンジャージャンジャ!!)クラリーチェへ借りを返した去り際の「お前がその剣の持ち主としてふさわしいかどうか、どこにいても心がけておこう」みたいな台詞もにくい。ネックレスが簡単に引きちぎれるのも、そんな安物あるいは劣化したわっか(?)を形見にして大丈夫か?!と突っ込みつつ、漫画あるある展開で視覚的に興奮する。

家柄としては家臣(?)だけど幼なじみゆえの対等さがあるからなのか、内にこもったネクラさゆえか、ヴィットリオを信奉している様子に、あのサンジュストくんで見せたほどのわかりやすい熱狂ぶりはないように見えて(いやめっちゃ歌ってはいるのだけど)ヴィットリオに想われているクラリーチェへの嫉妬心のようなものがもっと見えたら、架空の三角関係を見出してもっと盛り上がっていたのかもしれません(私が)。しかしそこを深めるにはやはりクラリーチェをさらうまでの展開が急すぎるから仕方ないのか。

新刊のせいで十二国記一気読み返しをしてしまったので、出てきた瞬間のビジュアルとジャンヌへの朴念仁ぶりに、あーさの景麒、あるのでは…?!という妄想にとりつかれました。ヴィットリオの治める国、10年で滅ぶか500年パターンか見守りたい。

 

ひとこちゃんのジュリオは、あんなに見た目にうるわしいやさしげなお兄さまなのに、妹を敵国に送るわ婚約者を敵国の主の寝所に忍び込ませるわ(後者はヴィットリオにもつっこみたい)苦悩しながらの決断に見せつつグリエルモ伯爵の言いなりぶりが見事だった。ヴィットリオが動じないのでジュリオの人間ぽさが際立ってちょっとかわいそうに思ったりもする場面(牢屋)もあるけど、もうちょっと自分の判断力を?!とも思ったりもする。ビアンカとの絵面がケーキの上に乗っているお人形さん同士みたいにかわいい。しかし何をしても「おやさしい」「おかわいそう」と合いの手を打ってくれるわ、敵の寝所にも忍び込んで泣いていたとはいえ、父を討たれてもその仇と一緒になるビアンカ、この時代の女の鑑なのか??女性4人の中で一番しわ寄せがきているポジションな気が……ひどい目に合うのは基本描かれていないところなので、彼女の微笑みに何かを見出したくなって目を凝らしてしまう。といいつつ皆が立ち去った後の「ジュリオさま…!」「ビアンカ…!」(ひしっ)のお約束の光景が一枚の絵のようにうるわしかったので、2人の関係は様式美として脳内処理しました。

 

 

全国ツアー後半も、まだ観劇予定があるので楽しみです!!

宝塚雪組 『壬生義士伝』

壬生義士伝、ここが好きじゃなかった、という楽しくない話をします。

観劇後しばらく経つと、いやそんなに悪くないのでは…?と思い、再度観劇すると(そんなことはなかった…!)と新鮮におののく、というのを繰り返しているこの頃です。

メインテーマの美しさ、みよの「ふんっ」八木のおじさまの「これっ」、好きだった場面の話はまた気力があれば…

 


大前提として、私は義を貫くためには自死も辞さない武士を主人公として設定した物語を、トップスターの生き方を批判的に描く、観客が俯瞰して見る・捉えるのが難しい宝塚の作品として、あまり見たくありません。なぜ見たくないのかというと、この時代はこんなこともあったんだよね、と現代から遠い時代の出来事として切り離すには「武士道、侍の精神まで海外に売り渡しておらぬ」という価値観がいまだ古びていないような社会で生きている不安があるからです。この物語の系譜を好む層が多くいる、という事実を宝塚を観にきてまで突きつけられたくない…!

 


壬生義士伝は義イコール「妻子を養うこと」としているようなので(その割には途中主人公がぶれた振る舞いをすることへのフォローがないが)、そこを主眼として宝塚で上演する際にうまく書けば自死という選択を安易に尊んでいるように見えない作品になったのかな?と思います。しかしそれはそれで、他作品で描かれてきた皆がイメージする「死ぬことと見つけたり」な武士像こそフィクション内での主流と考えた時、イレギュラーな武士であるはずの吉村貫一郎という人を「あいつこそが真の侍!」と讃える物語として回収し、主流の武士像を書き換えようとする試みにも思えて、歴史修正のようで微妙だなと思いますが。


原作は物語として好みではないが、多くの人に読ませる力があるとわかる作品、宝塚版は浅田次郎氏は寛容だなとびっくりする作品、と捉えています。

 

好き嫌いの話をはじめにしたのは、好きではないと一言でいっても、物語としては一貫性があるし場面を設定した意味もわかる作品と、表現したかったことはわかる、でも一見して作り手が意図したようには受け取れない場面や説明なく挿入することで話の軸がぶれぶれになる場面が混在している作品があり、宝塚の壬生義士伝は後者だと思ったという話がしたかったからです。

家族を養う、生きるためにひとを斬る吉村が負け戦に突然突っ込んで行く場面のフォローが何もない、金に執心する様子を面白い場面として据えてしまうこの作品は、物語の軸がぶれぶれで、それにもかかわらず個々の場面で役として質量を感じる演技をする舞台の上の方々は凄いなと思います。思いつつ、集中力をぶつ切れさせるような場面が挟まれるなかでは、作品全体を通じての印象に引きずられ、やっぱり「すごいなぁ」というひいた感想しか出てこない。

その都度の場面を目撃して、チャンスの神様の前髪をひっつかむように瞬時に応じて泣いたり笑ったり出来る、この物語をポジティブに味わい尽くす力について考えたくもあります。


先日隣の席の方がこくり…こくり…としていて(疲れているんだな…)と思っていたら、いつのまにか復活していた上にすすり泣きが聞こえてきて(疲れているんだな?!)とびっくりした鬼です。

(しかしさすがの鬼も、嘉一郎とみつのあまりのけなげさにはここ最近心をほだされつつある…)

 


鹿鳴館

本作の作・演出家の他作品を見ると、物語の外枠に解説役を設置して、解説役の場面と物語本編を行ったり来たりしながら進行させるタイプの物語が多いという印象があります。と、書いていて気づきましたが、宝塚にも、宝塚でなくてもそういった構造の作品はたくさんあるし、あのエリザベートも(宝塚でも上演しているけど)言わずもがな、ルキーニが解説役に当たる作品。作品の作り方として解説役を立てることが悪いわけじゃない。でもこの解説パートいる?と思ってしまう理由は、解説パートの人たちが作品の進行にうまく作用しているとは思えない会話を繰り広げていること、途中で説明なしに人数の増減があることです。

このパート自体の意味をよいように解釈するとしたら本編の苦しさを和らげる、閑話休題の役割を果たす場面かなと思うのですが、鹿鳴館パートに入るたびに人ががやがや出てきて喋り出す、なぜ彼らが歩いているのか特に理由が見つからない(そこに銀橋があり、動きがあったほうが舞台として映えるから、以外の)という芝居では、ただ本編の内容に水を差すだけかと思います。


宝塚のお芝居はスターの役を作ることでこの人はスターですよ、とファンに示す役割も果たさないといけないので、解説パートを作ればその分スターが演じる役を増やせるというのはわかります。しかしそのために原作にも存在しない、物語本編にも名前しか出てこない、主人公吉村に一切関与していない松本良順を登場させ、又聞きした話と新撰組・幕末トリビアをくどくどと喋らせる場面をあのボリュームで追加する必要性を、物語の展開上、私はあまり感じませんでした。役を作らなければならないという宝塚の制約があるのだとしても、もう少し物語として、鹿鳴館にたまたま居合わせる用事があったという以外に彼が登場することの必要性を観客に感じさせる設定が欲しかった。そしてその設定をただ言葉で説明するのでなく、演出として納得いく形で見せて欲しかった。現地で実際観劇しての感想かと思ってよく読んだら、ツイッター上で他人のレポをかってにまとめて自分の言葉のようにつぶやいている人のような信用ならない役回りになってしまっていて、演者が気の毒だなと思います。さっきまでいた斎藤がいなくなった途端に当人の噂話(斎藤は自分も他人も愛せない男だった)をするのも、池波がいない間に池波から聞いた話を自分の手柄のようにするのも、あまりに役者の出捌けの都合、スターの立ち位置確保のための台詞の水増しの意図が透けて見えてうんざりしてしまうし、そういった物語自体に関わらない要素を頭を打って忘れたとしても、このお医者さん、守秘義務をペラペラ他人に話そうだな…という印象しか与えない。口が軽い話が長い軽率な人間として松本を描きたいなら話は別ですが。


また、解説パートの会話の中に「リストラ」「玉の輿」など、現代人(?)がわかるように置き換えた言葉の解説が入るところ、歴史小説で時々地の文でこの手の解説が入ることがあるのはわかるのですが、壬生義士伝という物語の主軸が何か考えた時、この解説に時間を割く必要はあったのでしょうか。百歩譲って「リストラ」は「武家社会」に関係のある解説として必要だと捉えても、後者「玉の輿」はどうでしょうか。「物語の必要性」としては、舞踏会に参加させるためという名目で集められた芸者・女学生たちがレッスンへの参加を渋る、という話の決着をつける意味があるのだと解釈はできます。しかしそもそも「玉の輿」に乗ることができると説明して舞踏会への参加を承諾する女性たちを描くことと、壬生義士伝に何の関係があるのか。娘役の出番が少ないからきれいな洋装をする娘役を大勢出せる場面を作った、という意図はわかります。でもその意図を読み取ることと物語の中にある場面として必要がある1ピースとして認識しながら楽しむことは別です。

乱暴に作られた場面を乱暴に物語の意味に引き寄せるとすれば、武家社会の貧富の差で亡くなった人の辛さを描いた話で「玉の輿」を持ち出すことは、大政奉還後、武士がいなくなった時代であっても身分制度は残ったまま、貧富の差は大きいので、豊かな暮らしをしたい女性は玉の輿に乗れるよう頑張ろうね!のれなかった人はごめんなさい!という話に読み取ってしまっていいのか。あるいは大店の娘のみよと結婚しなかった吉村への皮肉? 


物語の中に登場する人物の言葉をそのまま、作家の普段の思考から生まれた言葉と捉えることはとても危険かつ短絡的な発想です。でも女性がかなりの割合を占める宝塚歌劇の客層を熟知していて、壬生義士伝という作品の最後に物語の必然性なしにこういった台詞をオチとして用意してくる作家やその作品を、信頼しながら鑑賞することを求められても正直困る。年配男性の性的なジョーク、セクシャルハラスメントに追従笑いをすることをマナーとして求められていた時代の名残で笑っている人もいるような空気は感じていますが、単純にこの手の台詞を不快と捉える層がこれから観客に増えていくことを実感していないって、ものを作る人として致命的ではと思いました。


また、その会話に参加していた一人のビショップ夫人ですが、日本の文化に知識がない、好奇心旺盛の場の空気を読まないキャラとして、解説の導入のための質問を投げかけるキャラとして配置されているはずにもかかわらず、鳥羽伏見の戦い後の会話で「ボスの幕府がなくなっても、新撰組は、忠義に生きたのですね」と武士である彼らの判断に寄り添ってしまっていて「オー日本人ファナティックですねー!?」くらい驚愕してほしいと切実に思いました。現代に生きている私でも新選組や武士の組織の描かれ方の恐ろしさに驚きっぱなしなのに、異国の文化として接する彼女にとって見たら信じられないことも多々だと思うのですが…ステレオタイプのカタコト日本語を話す、物語の展開にあまりに都合のいい「外国人」役を配置することへのためらいなさに、国外進出を目指している宝塚、という話はもう潰えていたのかな?と思いました。

会話の内容以外にも、過去回想(本編)に登場する人たちの登場場面が解説パートに隣接する場合、解説の場から唐突にいなくなるのも特に説明がなく、とても不自然です。鹿鳴館の廊下はあまりに長いので歩いていると人がどんどん消えるのか、はたまたみんなトイレに行ってしまったのか…そうして誰もいなくなった、にさせないために本編に登場しない、松本・登喜・ビショップ夫人・鍋島侯爵夫人・みつ(成人)という役があるのかなと思うのですが、みつは夫がいないのに残っていると会話に不具合が生じるからか、最少決行人数4人になっている場面(鳥羽伏見の戦い後の説明)もあるので、こんなに不自然な人数構成になることを前提として解説パートを作る、という発想段階からもううまくなかったのだと思ってしまいます。

 


・おもさげながんすの扱い

「お手当」のことを尋ねた吉村が「40俵」の重みに頭をさげ、その様子を新撰組の隊士たちが笑う場面、初日観劇した際は彼を笑う隊士らの浅はかさを見てハッとする場面だと思っていました。でも笑い声が起きることに首を傾げながら、友人と話し合い、あれは和やかな場面として作っているのではと気がつきました。

冒頭、斎藤一が吉村について「誰からも好かれ愛され」と口にします。直後に吉村がせり上がるというタイミングでの台詞であること、感動を盛り上げるBGMを考慮すると(トップ初登場のBGMと言われたらそれまでですが)、これは斎藤一だけが思い込んでいることとして限定して語られていることではないと推測されます。これから始まる物語を読み解く助けとなる言葉、観客にその前提で物語を追ってほしいと印象付けるための台詞だと思います。それを踏まえて読み解くと、隊士たちの吉村への「いじり」(おもさげながんす)は全て好意的なものという演出の意図があることは明らかです。

そんなことを舞台上から読み取ろうとしていたのに、戯曲にはっきり「和やかな雰囲気で溶暗」と書いてあってがっくりしました…。


吉村が故郷の妻子に送金しているという事実は、自分だけでなく、家族の命をも明日へ明日へと繋いでゆく行為にも思えます。今日この日分の命しかないかもしれないと思って人を斬って生きている新撰組の隊士にとって、吉村の行為は自分たちの置かれている状況とちぐはぐで、腰のすわりが悪い行為で、だからそのことを知ったある隊士が居心地が悪くなる、という場面が原作では効果的に描かれていたのですが、そんな新選組隊士たちの心の機微を、おもさげながんす和やかムードの場面は一切すくえていないように見えます。


初日で抱いた印象の通り、私は「いじめ」の場面としてしか捉えていなかったので、この場面には毎回びっくりし続けているのですが「クビと言ったのは場を和ませるため」(関西の某お笑い企業のトップ)と類似の発想からきているのだと仮定したら納得しかありませんでした。いわゆるパワーハラスメントか。


気にくわないという理由で簡単に人を斬る、誰かの面子を保つためだけに隊員に腹を切らせるなど、人の命が関わる度を超えたパワハラが横行する野蛮な組織において、皆と違う行動をとる人間をからかうことで仲間に引き入れる儀式を執り行う、というのは組織のマッチョな体質を考えるとある意味とても一貫性があるなと思います。宝塚の壬生義士伝における新選組は「俺たちは一体何のために戦っているんでしょうか」という池波の言葉にこちらが聞かせてほしい、とツッコミを即時入れたくなるくらい、内輪もめに徹している組織なので(「お手当はいかほど」の場面くらいしか「ボス」の話が出てこないのにいきなり「忠義」の話をされても困る)。でもこの場面は、新選組の和やかな一面(?)を描くと同時に、吉村の「お手当」への執着を描く大事な場面でもあります。

私がこの作品でレポートを書くならタイトルは「金の扱いに見る壬生義士伝」にするなと思いました。武士たちのお金の扱いと命の扱い、重さが連動していて、でも軽く扱う側が重く扱う側を「笑う」という表現だけでその差を示すと、原作で描いていたような武士の存在の複雑さが描けません。吉村が家族に送金していることを知った隊士たちが、その姿におのれをかえりみて彼の行為を見てはいけないもののように慄く心に、武士という存在のややこしさが見えてくるエピソードだと思うので、吉村の姿をおもしろがってしまうと話の軸自体がぶれるだけでなく、お金によって繋がれる命も軽く見えてしまいます。こんなに肝となる場面の意味を変更されて、原作者は腹を立てたりしなかったのか、気になります。

同じ理由で、介錯代を追加で土方に無心する場面、谷の死因を他言しない条件で斎藤に金を無心する場面も、面白くしてしまったらいけないことがなぜわからないのか。前者は客席から自発的に上がっている笑いかもしれないけど、その前に「おもさげながんす」をすでに笑いのネタとして使っていたらそういう場面として捉えるのが自然だし、後者はもっと積極的にBGMで笑わせにかかっている。武士は食わねど高楊枝、な新選組隊士に守銭奴として蔑まれる場面があるのはわかる。でも吉村が金を必要な理由を描くこと自体が彼の義を描くことにも繋がるのに、その義を他の隊士が理解できないものとして描いたとしても、隊士たちが軽い意味づけでからかっているように受け取れる場面を作る人は、この物語のテーマを全く理解していないか、さもなくば突発的に笑う・泣ける場面を作って最初と終わりにテーマを現すような場面を挿入すれば、観客は騙されるだろうと思っている、観客の読解力を低く見積もっている人です。

 


・ろくでもない新選組

華やかな登場に騙されてはいけない人たち。彼らがかっこいいのは演じている人たちが雪組が誇る美男子だからであって、彼らの生き方がかっこいいわけじゃない。あとあの場面の照明、切り替えが素早すぎて全体を見ると目がちかちかしてつらい。

「おもさげながんす」の扱いでも書きましたが、御旗の場面で池波くんに「俺たちはなんのために〜」と苦悩されても、もっと身内でよく話し合ってくれと問いを突き返したいほどに、この壬生義士伝の中での新選組の描かれ方って内輪揉めばっかりしてるろくでもない集団ですよね。彼らの義とは? ろくでもない印象だけを植えつけたいなら大成功していると思われるのですが、ろくでもないなりに一応目指す組織のプランはあって、それを達成したから幕臣に取り立てられたんじゃないの? 仲間割れしているところを買われたのか? 大政奉還後に「親をなくした」「天下の孤児になってしまった」と歌われても、親の存在が「幕臣に抱えられた」という言葉以外できちんと描かれていた記憶がないので、別に親がいなくてものびのび暮らしてたよね? 放蕩ドラ息子? 知識で補うにしても、もう少し時間を割けなかったのか。誰に仕えていたかを描かないと彼らの忠義のありかがわからないし、この物語のテーマの吉村の義「妻子を養うこと」=「妻子に仕えること」との対比にまったくならない。彼らの存在意義がぼやける。


ろくでもなさが辛い筆頭は無念腹で切腹させられる小川の場面だと思うのですが「3人揃って切腹しましょうか!?」までは土方の命令を反故にする流れでもしかしてまともな人達かなと思わせておいて、斎藤登場の段階で完全に気にくわない谷に一杯食わせるためには涙をのんで腹を切ってもらおうという話にすり替わっていて、悪巧みのスピード感についていけなくなりました。あいつを肥溜めに落としてやろうぜー(古)というレベル感で人の命を奪う人たち。

また、ろくでもない人の残虐な行為を笑う場面として描く際、笑う場面として作りつつ笑った側に笑ってしまったことへの違和感を残すことで、作品のテーマを浮かび上がらせる方法もあったと思うのですが、そこは宝塚歌劇なので気楽な笑いを観客に提供しなければならないんですね、とばかりに谷を私怨で斬る場面の一連の流れが、笑った人にまったく何も違和感を残さない、すっきりおもしろ場面として扱われていること、その描き方の雑さにとても驚きました。ホラーの中でゾッとしつつもなぜか笑えてくるというような描き方でもなく、斬り合いをしていたのに突然「はいここで笑う!」と号令をかけられる。友人がドラえもんみたいなBGM流れてなかった?と憤慨していて、確かにホワンホワンほわ〜ん、みたいな音がなっていたことを思い出した。私刑という行為としてはひどすぎて本来は笑えないところを、大根演技と面白いBGMを指定することで力技で笑う場面としている。それって演出と呼んでいいんでしょうか。宝塚の演出はこれくらいわかりやすい、幼稚なものでいいと演出家は認識していて、実際笑う観客はいるから許される範囲と思っているのか。高度なギャグとしては描いていない自覚はあるだろうけど。条件反射で笑う人の笑い声を耳にして、前後の文脈をまったく考えていなそうなそのほがらかさに寒気がしたのですが、客席内での断絶を浮き立たせる意図があったのだろうか。

新選組をろくでもない組織として描いている以上、その組織に所属する人間はこういうことをするのかな、という意味での登場人物の行動の一貫性と、彼らの行為を観客にどう受け止めてもらいたいかを考えて演出することは別だと思います。


吉村に無心され、土方に咎められた斎藤ですが、土方はあくまで組織のルールを破った、ということに重きを置いている。彼らへの20両の意味を考えると、谷を殺すという行為自体は土方の計画の範疇として収められているのだと推測されます。飲み代として使われる20両と故郷の妻子へ送られる20両、もしかしたら何か対比して読み解くべきなのかもしれません。


誠の群像とまったく同じ手法だと思うのですが、おれたちはワルだからヨォ、と肩で風を切る男たちは、腹を切らせる、他人を斬る、頬を張る、といった行為を、目には見えない男のメンツを守りあったり、回復させあうための儀式として扱っていて、彼らはワルぶっているつもりでいても、結局男子中高生が先輩の顔色を伺って万引きする、たばこを吸うレベルと同じ程度のワルさじゃん、空気の読み合いでしょ、と思えるレベルの軽さで、私にはまったく格好よく見えないです。男役さんたちが演じる役の型、所作をかっこいいと思ってしまうのと、作・演出家が定めた物語での役の描かれ方がかっこいいかどうかはまた別。

同調圧力を感じ、空気を読み合うのって辛くないのかな。そんな「男らしさの檻」に入っている苦しさを斎藤一のような「自分も他人も愛せない男」みたいな描き方でなく、もっと真正面から描いたら、かっこいいかは別として、作品としておもしろいんじゃないかなと思います。誰に仕えていたかを描かないと彼らの忠義のありかがわからない、とはじめの方に書きましたが、武士らしさ、男らしさに仕えていた人たち、と言えるかもしれない。

 


・吉村はなぜ突っ込んで行ったのか

初日、この場面で誠の群像のラストシーンを思い出して「新選組隊士には無茶な相手に立ち向かっていって華々しく散る場面を描いてこそ花道の精神」をこの作品にも適用したのか?!と慄いたのですが、原作を読んだら普通にある場面で、そこはごめんなさいと思い直しました。

しかしこの場面、原作でも該当場面の吉村の胸の内は書かれていません。第三者、2人の視点で、吉村の様子が語られている場面なので、そのとき彼が何を考えていたかは実のところ永遠にわからない。でも解説パートに当たるくらいの間隔で切腹を言い渡された吉村の死にたくないモノローグが挟まれ、第三者へのインタビュー部分で語られる他人から見た吉村像と彼の本音とを交互に読んでいるうちに、彼の妻子へ送金したいという気持ちは妻子を養えるような武士としての立場への出世と紐ついていて、妻子に忠義を尽くしつつも、やっぱり世間一般でいう武士として大人物と思われたい名誉欲もくすぶっており、それがでっかい花火を上げられそうな局面にぶち当たって、忠義の定義が混乱した…?と読み取れなくはない構成になっていると思っています。死んだら元も子もないだろ!と思うけど、本音と建て前が渦巻いて、突っ込む直前に心の中のバランスがいつもとは違ってきてしまったのかもしれない。

とても曖昧な物言いになってしまうのは、それくらい「お前も武士の気持ちになって察せよ」という奥歯に物が挟まった構成の作品だから…。

しかしそういうことを想像できるだけの情報量が原作にはあるのですが、舞台上でその伏線はほとんど読み取れないと思う。妻子に送金、守銭奴キャラの吉村貫一郎、死にたくないと言き巻いていたのに、いきなり「勝つための戦ではござらぬ」などと御託を抜かして、自分から死ぬために突っ込んだ人にしか見えません。

周りの新選組隊士、もっとびっくりしていいと思う。直前に「死ぬな!」とか肩を揺さぶってた斎藤が一番びっくりしているはず。土方は左右を確かめてから一番最後にはけていて、冷静だな…と思いました。心象表現場面への転換なのはわかっているんですけど、それにしても一人であの人数と戦っているのも変だし、あんなに必死な場面で舞のひとさし、みたいな軽やかな剣舞を舞っているのも変。仁・礼・智・信を司るコロスも何を表しているのかよくわからない…。吉村が「義」なので、五行が揃っている、のその先を教えてください。そういう心の動きもあったかもな、と思わせるようなサインが欲しい。ここで討ち死にするならまだわかるけれど、このあと大石のもとへ助けを求めに行く場面につなげるなら、なおさら何かフォローが必要だったと思う。主人公が死に際に何を考えたかにあれだけの分量を割いている原作を舞台化するとき、物語の核にもなる部分をこれだけぎゅっと短縮させるなら、その切腹にいたるまでをもっと丁寧に描く必要があったんじゃないか。

この場面を前後の吉村の人格を考えて乖離させないように描くのはかなり難しくて、場面だけ華々しく描くことにして、物語としての一貫性は放り投げてしまったんだろうなと想像しています。

原作の、とある隊士の昔語りで、鳥羽伏見の戦い後に消息が途絶えた吉村をようやく見つけて帰参するよう声をかけたら、自分はもうあんなところへは戻らない、賊軍とみなされたいま戦うことになんの意味があるのか、と激昂されたエピソードを入れればよかったのでは? 物語を単純化する意図で削ったのかもしれないけど、すでに吉村の義が描ききれていないのは明らかな展開が繰り広げられているのだから、この場面があれば観客に、彼という人の本音と建て前の入り混じりよう、複雑さについて考えるヒントを与える場面になったんじゃないのかなと思います。戦場での吉村の突飛な行動への説明がほとんどないのに、松本に沖田が牛乳を吐き出した豆知識を披露させている場合じゃない。


本作の演出家の演出可能な範囲でわかりやすくする方法ってなにかあるかなと考えたのですが、錦旗に向かってゆく吉村の心の声(死にたくねぇ…!)を流せばいいのかな? 想像してみたけど全然やってほしくありませんでした。

 

なぜ吉村が死を恐れず錦旗に向かっていったか、そこが壬生義士伝の一番の謎かつ、一番面白いところでもあると思うから、勇敢に敵に向かうお決まり場面としてなんとなく流してしまうのは単純に作品としてもったいないのでは、トップスターの役どころの輪郭を濃く深くして人間ドラマにしたいならなおさら、と追記してひとまずペンを置きます。

『骨と十字架』

ほねじゅう観劇にっき

 

 

 

 


真理を追い求めるひとのひたむきな探究心、譲れないものを抱えた人間同士の感情のぶつかり合い(ときどき一方通行)に見果てぬ夢をみた作品でした。ロマンチックが螺旋を描いて激突の末、大爆発です(私の中で)。


彼らのような学問の徒としての探究心も、信仰心も持ったことがない人間であっても、知らない世界を覗いてみたい好奇心はある。世紀の発見に、自分の信仰の揺らぎに恐れおののき、それでも歩み続ける人の心理を丹念に追える機会なんてそうそうない。彼らの懊悩も一観客として覗き見て味わってしまうことができる、その後ろめたさも智恵の実と同じくらい甘いのかもしれません。


もともと物語の中に登場する信仰心の篤い人の生き方をじっと見ることに興味がある人間なので、そういう題材を扱う舞台作品に興味がある人も多いんじゃないかなと思っているふしがある。なんでそんなに信仰に固執するのか?という部分が恐らく根本的には理解できていないことを念頭に置きつつ、信仰はもっていないから、で止めない、物語のなかに出てくる食べたことのないジンジャーブレッドの味を想像しながら読むようなやり方で鑑賞する。そしてこれは翻訳ものでないという意味で、観客のほとんどが彼らのような時代、環境に置かれていない人達だとわかっている人が作った芝居だから、知識のなさだけで最初から物語に拒絶されたりはしないだろうという想定もありました。


興味だけをお守りに期待と不安いっぱいで覗き込んだ先に展開されていたのは、私の見知らぬ学問や信仰のあり方を探求する過程で、よく見知った馴染みのある感情を時に激しく、時に一見静謐に交換し合う男達の姿でした。


3回観劇し、初めは嫉妬や恐れや憧れといった感情をフックにして物語に分け入っていたところから、徐々にその感情が生み出される基盤となる、司祭でありながら雄弁な化石に真理を見出そうとするテイヤールの思考自体への興味、信仰や学問に対する登場人物それぞれの立ち位置の違いの面白さが見えてきて、いまは彼らの立場をそのように割り振った作家である野木さんの手腕に想いを馳せています。人間同士はもちろん、人間と信仰、信仰と学問、人間と信仰と学問の間にもみっちりと詰まっている関係性萌え。信仰が感情から、学問が理性からのみ発生しているなんてきっぱりと分けられないような描かれ方も。


オベリスクに十字架を刻むことをテイヤールが疑問視し、侵略者の傲慢ではないかと弟子に疑問を投げかける場面、北京でその土地の「本来の所有者」への許諾を得ずに発掘を行うことの是非について会話するテイヤールとリサン、学問や信仰、真理の追求に付随する他者の権利の剥奪に自覚的であるところ、自覚的であっても結局自分が歩み続けることを優先してしまう彼らのあり方を、進化してきた人間の業と重ね合わせて描くこの作品が好きです。少しだけ立ち止まって、でも歩くことを止められない人間という生き物について。


テイヤールがミッシングリンクをつなぐ頭蓋骨が存在するという仮説を立てて研究を進めていたことと、実際に頭蓋骨が出土されて仮説が証明されたこととの間には大きな隔たりがあるのはあきらかなのですが、1回目の観劇では一幕からすでにテイヤールの言動があまりに確証を持っている人のそれに思えて、その大きな隔たりを注視できていませんでした。自分の仮説を信じていることと、その根拠の存在が判明する前後の反応の差異を明確に示す脚本と演出に、舞台の見せ方としてのドラマチックさにワクワクするのと同時に、真理をひたむきに追い求める行為への敬意も感じられて、作品をそのように構成した作家・演出家への敬意も一緒に湧き起こります。

 


・テイヤール

「媚びでも売りましょうか?」なんてわりとのっけから茶目っ気を出してくるくせに、展開を知った二回目からは、そんな気さらさらないだろうにこの強情さんが!と空砲を撃ちたくなるほどの、雄弁かつ化石よりも硬度がある意志を持つ男。天啓を受けたから確証があるのかと思うほどに(彼の論文を読んでいない故に根拠の道筋を理解していない人間の発言)(読んでも多分理解できない人間)、場合によっては彼の身分を剥奪することもできるヴァチカンからの使者の前であっても一歩も退かずに自分の主張を唱える姿に、そうまでしても貫きたいものがある人の姿に眩しさと苛立ちをおぼえました。いっそ高圧的であれば真正面から悪口をいうこともできるのに、あくまでも丁寧な物腰で、立場が弱いのは私の方ですという姿勢を保ちながら、譲れないものを粛々と掲げるその姿勢。

そんなテイヤールが北京で、掘り出した骨にはすべて神の意志が刻まれている、と語るのをきくと、真実の比喩の話をしていますよねと思いつつも、もともとすべてに刻まれているのだからあえて目に見える十字架などをオベリスクに後付けする必要がありましょうかと彼が考えているようにも捉えられる?と狂気的に拡大解釈しそうになりました。うっかりそういう考えが頭をかすめてしまうくらい、テイヤールが歩き続けることを彼自身以外は止めることはできないだろう、と思わせる、彼が真理を求めるひたむきさ、揺るぎなさを恐ろしく感じるときがある。


錆びたピトンにわんわん泣いた話もちびテイヤールかわいいエピソードのようにうっかり捉えてしまいそうだけど、ぐっとこらえてラグランジュとの会話で登場する地平線を見つめた話、火山を見にいった話と併せて考えると、幼い頃、彼が誰にも教えられない頃から自発的に生み出した着眼点や探究心の強さを示す、テイヤールという人を形づくる興味深いエピソードだと思いました。超人に向かって放たれた一本の矢、友の憧れであることしかできない彼、なんて引用したくなるくらい。


3度目の観劇では、北京でのリサンの「神はどちらに」に一度天のいと高きところを指してからはっとする姿、ラグランジュの「あなたがそう信じているなら全力で否定するが、今のあなたにはそれだけの信仰心が見えない」、的を射た問いかけがあって、我にかえったひとは答えを見つけようと自分の思考の淵に立つ、再び歩きはじめる機会を得る、という流れがようやく腑に落ちてぞくぞくしました。頭蓋骨を発見した後、うまく神とのつながりが見つけられないと混乱しながらも、歩き続けることの生命賛歌と傲慢さについて、探究心ゆえに神に近づくために歩き続けているテイヤール自身が言葉にしているのがいいなと思う。

最終的には他人の考えなんて御構い無しに歩き続けるくせに、自分の仮説を否定されたときのさみしい顔と、頭蓋骨を発見したときのさみしい顔は似ていたのだろうか、と思わせるような吸引力があるテイヤールという男の魅力についてまだ考え続けてしまう。この人たらし!

 


・リサン

あなたのことがわかるのは私だけです、私のことがわかるのはあなただけ、って「そうじゃなかった…!」ってところまでセットなのがいい。片方が誤認に気づき打ちのめされ、それまでの共感が一瞬にして反転、憎しみに変わる。あるいはもともと相手に抱いていた侮りを自ら掘り起こしてしまう。そうであったらいい、という見当違いの見積もりであったことを知る。自分が想像していたよりもっと大きなことを成し遂げられる、自分より高いところをいく存在だと思い知らされてしまう。自分の人生の価値まで揺らいでしまう。


こういう感想文は今まで様々なフィクションで収集してきた類型として浮かんできてしまうのでよくないなと思うのですが、そういう感情の奔流を注ぎ込みたくなる魅力的な役どころで見ていて困ります。絶対に叶えられない代わりに成就もない、それゆえに質量が損なわれることがない大きい感情が生まれる理由が、人間性というより探求心のあり方の違いに根ざしているのがツボ。しかし物事を確かめ、判断する際のプロセスの違いは結局その人の性格によるのでは、と言われたら間に学問や信仰が噛んでいる面白さをこの表現ではうまく説明できていない気もする…。


二つの意見が螺旋を描いていますなあ、の「ますなあ」の言い方が好きだなと思いながら、テイヤールのサインに横槍を入れるときはあんなに飄々としていたくせに、一幕終わりの独白・告白があまりに重く、かつ大きくて、6年間の歳月の積み重ねを一方的に感じてしまいました。一体何をどれだけ自分の中で培ってきてしまったんだ。出会って間もないテイヤールに、あなたもそんな顔を、と指摘するリサンからすでに、あんなに落ち着いた様子でいて、司祭かつ近しい学問を追求する唯一無二の相手とようやく出会えたというシンパシーが漏れているなとは思ってはいたんですが、まさかあんなことになるとは……。


「3月21日、あの男と袂を別ってから半年」は発掘日誌に書くにはねちねちとしたリサンの覚書だと理解している。「聞きたくもない知らせを携えて」でドラマチックが大爆発したので、巨大な十字架の揺らぐ音が私にも聞こえた気がしてしまった…。


リサンの「気づいてしまえ」は「気づかないまま、あるいは気づいても信仰と学問を抱いて歩いてゆけるのなら、あなたが行き着くその先が見てみたい」という意味もある煽りも含まれているの可能性にも思いを馳せています。「神はどちらに」と彼が問いかけなければ、テイヤールが同じ地平に神を見出すという発想ももしかしたら生まれなかったのかもしれないと思う。

そして、共に歩いてくださいますか、と呼びかけに答えた兄弟と袂を別っても、ただ隣に跪いて、交われないのに同じ神に祈りを捧げる、という光景にどうしても心惹かれてしまう。


テイヤールが頭蓋骨を発見した時の「聞きたくもない知らせを携えて」は最後の「私ならお見せできましたのに、その機会がありませんでしたので、残念です」に繋がるんだなと思ったら、彼なりにひねているのに第三者からしたらあまりにもあからさまな嫉妬心の表し方だ…!とびっくりする。とんでもなくわかりやすい拗ね方に、リサン自体は意図していないであろう彼という人間の愛おしさが炸裂してしまっていて、なんてかわいいやつなんだ…という感想を割と多くの人が抱くであろう場面だと思っています。

テイヤール相手だけかと思いきや、総長への「あなたが私を地の果てへ追いやった」とか言葉選びがいちいちドラマチックなところにいろんなものを背負わせてしまいがち…。ムードもりあげ楽団(@ドラえもん)を率いているのかと思うほどの存在感。

二幕でテイヤールの思考を危険視する側に回るリサンが「テイヤールが神を否定する」という行為を誰にとって危ういものとして警告しているのか、信仰心を持つテイヤール自身のバランスが崩れることなのか、司祭の立場にとどまっていてほしい総長(元)やリュバック、イエスズ会にとってかはたまたリサンに?なのか、その全てにまたがるのか、範囲・対象を明確に捉えずに見ていたことに今更気づき、戯曲が手元にない、瞬間瞬間が真剣一本勝負な演劇の「精読」の難しさと面白さを噛み締めています。

基本名前を呼び合わない戯曲の中で、最後に「テイヤール神父」と呼びかけるのが彼というところに意味を見出している。

 


・総長

エスズ会総長(二幕から「元」)。人の良い笑みを浮かべながら、腹に蛇を飼っている男。リサンを地の果てに追いやった男。ラグランジュとの会話は一見年長の者同士の穏やかなやり取りに見せかけた、丁々発止の食わせもの対決。

総長という、複数の人間を束ねる立場の重責は大部分を想像するしかない。けれどテイヤールの研究に対する姿勢として、その分野への見識はない、それゆえに深い理解はできないが論文を進んで読む程度には関心があるという点において、研究者でない立場でこの物語の傍観者となる人間が心を寄せやすい人。二幕、総長の立場から離れた彼が一転してテイヤールの研究を支持する側に回る場面、矢面に立たせられるのはテイヤールだとラグランジュにとがめられるところでは、腹に蛇を飼う彼の責任逃れゆえというより、その発見をしたのは自分ではないという事実、発見した人間へのうらやましさと向き合っているのかなと思いながら見ていました。北京からのテイヤールの手紙に返事を書けなかった理由を吐露する場面にも、まだ見ぬ大地を自分の足で歩くのに邪魔になったもの、あるいはそのためには彼に足らなかったものの存在が透けているようで、総長にも歩めなかった道があったことを想像してしまう。

そんな人間としての不自由さも描かれつつ、二幕の総長とリサンの、私のほうがテイヤール(の学問と信仰の融合がうまくいくかどうか)を理解しているぞ対決では、やっぱり腹のなかに飼っている蛇がちらちら見えている気がしました。総長がリサンに勝ちを譲ったと見せかけて(あなたなら彼と共に〜)、いやまあそれも私が彼をあなたと同じ地の果てに追いやってうまくいくように仕向けたんですけどね、と取れるような圧力をにこにこと与えてくる会話の食えなさ、場のアドバンテージをガチッと握ってくるやり口がにくい場面です。

彼がさみしいのは彼が神を信じているからですね、という言葉にぐっときながら、「神さまはどうしてそういうさみしいものに人間をおつくりになったの」「ひとりでは生きてゆけないように」(萩尾望都)を思い出している。

 


・リュバックくん

先生のことをとても慕っているのに「あなたは先に行きなさい」と2度も言われてしまう人。慕っているがゆえに、先生の学問と信仰の融合の行き着く先を誰よりも早いうちから危ぶんで、引き出しから論文を盗んでヴァチカンにたれ込んだ張本人。十字架の授受場面にマリみて…!?と動揺し、ユダ的立ち位置にびっくりしつつ、大学にテイヤールの研究のためのポジションを用意できるほどの暗躍ぶりに、イエスズ会内での活躍は明確に描かれていないけど実は外の世界での交渉術に長けた人なのだろうかと想像を巡らせてしまった。

弟子にかかわるあれこれを自分の責任の範疇として回収しようとする、抽斗を開けたことまで自分を主語にしてかぶせていく先生を相手にしては、弟子の悩みは深かろう。怒らないこと、声を荒げないことが、真正面から向き合って意見を戦わせる相手として不足と見做されている、という落胆を相手に与えることはあるだろうと思いながら。

錆が浮いたピトンを埋めたエピソードを聞いたリュバックくんの返答「死んでしまったと思われたんですか…?」我が道を行く先生に全力で寄り添おうとして微妙にから回っている空気があってほほえましいです(?)。

 


ラグランジュ

ヴァチカンからの使者、検邪聖省の司祭。ドミニ・カニス、主の番犬。テイヤールの仮説が教会にどのような脅威をもたらすのかを、その糾弾の強度をもって観客にわかりやすく教えてくれる人。

ラグランジュとテイヤールの、一番遠い人間同士のようでいて「私の他にあなたの隣に誰が立てるというのですか」とお互いをある意味認め合っているところ、彼らの真ん中を折り目で折ったらぴったり重なり合うのでは?あるいは天秤の左右に乗せたら釣り合うかもしれないと思わせる関係性の興味深さ。こんな厄介な人間に付き合えるのは私だけですよ、という意味合いだけどリサンのそれとはまた違うニュアンスに聞こえるのはのせてくる感情に含まれる湿度の違いか。

NTL『オーディエンス』幕間の作家へのインタビュー内で、謁見の際の女王と首相の関係をセラピストと患者にたとえていたのを思い出して、ラグランジュとテイヤールのやり取りもある意味それに近かったのかなと思いました。自分の論説を支持する人が周りにいない状況で弁明し、横槍を入れられることを危惧して口を閉ざしていたのに、ラグランジュとの問答では反論を秘めておくことができなかったテイヤール。信仰のあり方について揺るぎない見解を持つラグランジュに対峙し、彼に問い正されることがテイヤール自身の意志が確かなものだと再確認するためには必要なことだった。「それがあなたの本心ならば私は全力で否定します」という相手の前に立つことは試されることで、ものすごく恐ろしいことだけれど、彼に否定される時、否定されたものは一番強度を保っている状態とも言えるんじゃないだろうかと。

 

 

関係性や会話の内容にしか触れられていない感想を書くたびに、もっと空間や小道具の使い方にも何か意味が込められていたはず、と火の使い方について読み解いていた方の感想にハッとしながらうなだれています。リサンが煙草を巻く仕草がたまらないだとかそういうフェチ的な意味合いでしか注視できていない…衣装(カソック)は言わずもがなです。登場人物が手紙を送り合う演劇が好きなので、受け取った人が読み上げる光景も好きだけれど、テイヤールがあの手紙を書く横顔が見たかったなとも勝手に想像しています。手紙を書いている横顔は送り先の相手を思う横顔…

また、セットも衣装も色味が少ない分、蝋燭の灯りや照明でつくられる濃淡が効果的かつ美しい舞台だなと感じました。

上手、下手、中央の平面の空間、下手奥の岩肌、階段。固定の舞台セットでの場面転換を照明の切り替えで行っているところ、総長たちの会話「追いやったのは彼が初めてじゃないんでしょう(あからさまに意味深)」で「ひとり目に地の果てに追いやられた人」が光の道から中央手前に歩み出るように照明が切り替わるところ、腹のなかの蛇を撃ち殺せとけしかけるラグランジュの言葉から繋がる、北京での空砲への場面、二つとも特に転換が鮮やかな場面で視覚効果にしびれていた。

 

 

 

 

 

 

いったん感想をまとまった分量文字に起こした後、再度観劇がかなうと「私は何を見ていたのか!?」という新しい気づき、感想をぜんぶボツにしたいほど考えが変わってしまう場合があるのですが、もうそれも叶わない今できるのは『神父と頭蓋骨』を取り寄せることくらいでしょうか。

公演後に資料を探す楽しみは、作者が何をどう取捨選択したかを知る楽しみや物語の背景を知る楽しみではあっても、観たものについて考える楽しみとはまた別カテゴリという気もするなと、元ネタがある作品にはまるといつも思い浮かべることを思いながら、薄れゆく記憶をぼんやりと見つめています。

宝塚雪組 ブロードウェイ・ミュージカル 『20世紀号に乗って』

20世紀号の好きなところを答え合わせする会場のうちのひとつはこちら!

 

 

 

シャンパンが流れる小川よりもロールスロイスよりも豪華で、何もかも最高にグレイトなミュージカルが終わってしまいました。

なんて素敵でなんて素晴らしい瞬間に立ち会えているのかしら、と強く感じた思い出を際限なく反芻したり(いついつまでも 忘れはしない〜♪)と歌いつつ、なんであのひとを行かせちゃったのかしら……とのろける相手がいれば、バーンと扉をあけて20世紀号が戻ってきてくれるのかな?!なんて誇大妄想にふける時間もたっぷりあるのがあまりに寂しい。

望海さんの千秋楽挨拶のとおり記憶は美化されるけど、そうやって変化していく記憶も含めて自分だけの大事な生の思い出だなと思う。といいつつ、いつかしれっと円盤化しても誰も怒ったりしないから!頼みますよ!!とも思う私の中でそれぞれの派閥が大乱闘を繰り広げるくらい、駆け抜けていってしまったものに心を引っ掴まれています。しかし円盤になったところで、もう生で観劇する機会は巡ってこないのだからという事実をひとつ胸に置く…

渋谷に通い詰めた日々が終わってしまった喪失感を埋めるための記事です。

 


20世紀号という作品の魅力は?と考えたときに、楽曲と物語が緊密に絡み合って、テンポよくたたみかけるようにゴールに向かってひた走る心地よさ、という答えがひとつ浮かぶ。

観客にとってわけもわからずの疾走じゃない。もちろんそれが魅力的に見える作品もあるだろうけど、到着地までの所要時間(シカゴからニューヨークまで16時間!サインするには短すぎる)、達成したい目的(サインしてリリー!)の難易度(同じ列車に乗り合わせる情報を盗み聞きでしか入手できないほどに疎遠and険悪な人物との契約)と切実性(借金の明細書の山、リリーへの愛)が物語の中で明示されていることによって、観客は安心して、オスカーがリリーからサインを得ることができるかハラハラ見つめることができる。ことがうまく運ぼうとするたびに、あるいは最悪の状態に陥ったときに乱入する個性豊かな面々も、ただ魅力あるキャラクターであるだけではなく、思いもよらない形で物語を押し進めるための重要な役割を果たす。

話の展開、シチュエーション、テンポでこんなに笑いどころをつくるミュージカルコメディを見たのは、20世紀号が初めてかもしれないと思った。


観客をおいてけぼりにするのではなくて、きちんとした段階を踏んで、でも目にも留まらぬ速さで完成してゆくパズルの、ピースがはまる経過を全部見せつけられているようなきもちよさ。ひとつひとつピースを埋めているから完成しているのはわかるけど、わかるだけで同じように手を動かすことは絶対無理。


そしてそのスピードにためらいなく身をゆだねられたのは、緻密に組み立てられた物語や楽曲を舞台上に立ち上がらせた演者の方々の力によるところが大きい。出てくる人たちみんな元気で厄介だったので椅子に座っているだけでも疲労がすごかった(疲労は禁物ですよ!)けど、見ている側もそれくらいパワーを使わなければ、演じている人たちに申し訳が立たなかった気もする。パワーはチャージされたのか吸い取られたのか、渋谷の雑踏に霧散していったのか。

そんな舞台で個性豊かな役を演じた方々の中でも、二本柱であるふたりと、その役についてまず思い起こしたいと思います。


望海さんときほちゃんがオスカーとリリーとしていきいきと活躍する姿を見ていて、劇中でのオスカーの台詞「私が見たいのはきみが20セントを返せと叫んだあのときの炎だ!」(私は彼女らのバルカンではないが…)をたびたび思い出さずにはいられなかった。

それぞれが単独で中心となって活躍する場面も大好きなのは大前提として、ふたりとも登場した場面での、むしろふたりしか舞台上に存在しない場面での、ふたりの力が拮抗しているからこそできる歌とお芝居での激しいぶつかり合いがたまらなく好きです。そんな彼女らの姿を見たのは幸運なことに今回が初めてではない(ひかりふるの焦燥と葛藤を思い出しつつ)。でも同じ空間にいて、本当に喧嘩をしている設定で、正面切ってばちばち火花を飛ばすのは初めてでは??

1幕最後の「手に入れた!」「失った!」ノブをひっ掴んで扉の向こうとこっちで引っ張り合う、豪速球が目の前をヒュンヒュン飛びかうようなふたりの掛け合いの楽しさに、2のあとにゼロが7つついた小切手を見せられたのと同じくらいでは?と思うほどの多幸感に満たされて、くらくら目眩がしました。


「このままじゃ君は場末のクラブのピアノ弾きダーーーッ」

「あんたはその前で野垂死によ〜〜〜〜〜ッ」

(興奮が頂点に達する台詞の応酬)


のぞみさんときほちゃんのケンカップルとか見たくないわけなかろうて?!(生田先生は見られたのか勝手に心配をしている)。劇場での人生を授けられたふたりに、こんなに力をめいっぱい出し切るような作品が巡ってくるなんて!!


そんなふうにピンと釣り合うふたりだからこそ、オスカーとリリーが同じくらいの熱量でけんかをしたり、同じ芝居のモチーフにふたりだけピンときてしまうところで、この人たちは仲違いしているけれど、根本的にものすごく気があうし、まだ惹かれあっているんだってことを示唆しているんだな、と理解できる。リリーが契約書にサインする=オスカーとよりを戻すことをあんなに迷うのは、自分の中にすでにちらついている火に薪をくべてぼーぼー燃え盛る炎に再度身を投じていいか、オスカーに惹かれるからこその逡巡で、そのためらいを大げさに描くから、一層ふたりが根底では通じ合っているのが透けて見えて、あの結末にも頷けるのだと思う。

加えて、リリーがオスカーに惹かれるのは恋愛感情だけでなく、彼が手がける舞台、仕事のパートナーとしての情熱の比重も高いんだろうなと、即興・マグダラのマリアの受難を演じるふたりの、もはや何者も間に入り込めぬ勢いからも読み取れる(「市場でオリーブを売るの!」「ハッハッハッ!ローマ帝国の半分をそなたに授けよう〜〜」)。あらゆる情熱の方向性、重量が近しく、渾然一体となっているふたりの雰囲気が、恋愛関係にある男女というだけじゃなく、共闘する戦友ともとれるから物語として面白いし好み。諸君!が口癖のおじさんも観客の生の反応がなければ生きてゆけないタイプで、互いが互いを観客にして罵ったり賞賛したりしているのが一番幸せなんだろうなと思う。

しかし回想シーンで煙草を喫みながら待つオスカーのリリーを迎える「遅かったじゃないか」の声と表情がとても柔らかで、待たされたことを楽しんでいるようにも思える様子、彼女をとりまく状況への理解にラブラブ期の片鱗をみて、やっぱりこの話盛大な痴話喧嘩じゃーん!って当てられて倒れたくもなる。

オスカーはリリーにいったいなにをしでかしてしまったんだろうと思うけれど、そこは物語の中では明確には描かれていない。しかしふたりが顔をつき合わせるたびに起こるいざこざ(お互いを追い詰めるまでやりあわなければ気が済まない、爪と牙、コブラマングース!)の様子に、この人たち、大したことない話でしょっちゅう大喧嘩して絶交してはまたよりを戻して、を繰り返してそうだなと容易に想像がつきもする。

 

オスカーについて

のぞみさんのオスカー、自信たっぷりだけど結構小者でそこが憎めないベネさまみたいかなと想像していたら、全然違っていた。舞台の上でののぞみさんは陰キャラの方が圧倒的に似合うから、挫折感に溢れてどことなく影を背負っている人が当てられる回数が多いんだなと思っていたけど、オスカーは生命力にあふれていて殺しても死ななそうだし、底抜けにネアカ(ないない、俺たちより長生きするタイプだぞ byオーエン)。列車の側面にしがみついて登場して帽子を飛ばすトップスターの姿に、予習を何もしていなかった私は素直に度肝を抜かれた。

押し出しの強いおじさんの面倒くささにあふれていて、初日は、これはほんとうにのぞみさんか…?いやのぞみさんの顔をしているが…?と戸惑うくらい動揺した。年齢を重ねた渋みが魅力の男役像を確立しているのぞみさんが、精神年齢低めのめちゃめちゃかわいいエリックをやった後に、こんなになさけない面をさらけだすおじさんくさいオスカーを演じてしまう振れ幅の不思議……と天を仰いだけれど、回数を重ねるうちに、よくよく考えればこの暑苦しさは好きなものに向かう時ののぞみさんに酷似している?!と気づく。

 


自分たちを三銃士!と括って剣を抜くポージングがお決まりなところ、そもそも三銃士というたとえに、愛読書に確実に歴史小説をあげそうなおじさんを見た。絶対にからみ酒だし、若者に説教しそうだし、これはもう一緒に働くのはむり……と思いつつ、オリバーとオーエンに同情しつつも、そういう、身近にいたら疲れる人が舞台上でいきいきとする様を見つめるのは物語を楽しむ醍醐味だ。つねにフルスロットル、ミュージカルだから歌があるんじゃなくて、自分の登場や幕引きに耳目を集めるために実際に歌い出してしまいそうなはた迷惑な性格。結果的に台詞とのつなぎの違和感が薄くて、そういうキャラクター設定も作品を構成する一部なんだと思った。

鏡を見て身支度をするとき、自分の顔をさわるのに手のひらを反らせて指先を使わないのがやたらとおじさんじみて見えてくせになるオスカーしぐさ。キザったらしいしぐさは時折見せる年輪を重ねた男の顔と紙一重。オスカーというはちゃめちゃな人、たぶんオリジナル版ではそれほどかっこいい役ではないのでは?と思う。

たとえばブルースちゃんとのマッチョソング(お前は男の憧れ)、2人とも本当にリリーがいないと困る(生活資金的にも)切実性に溢れてるのが恋愛最重要視してる世界線ともまた一味違った世知辛さがあっておもしろい。男らしさの型にはまった男性像を笑い飛ばす場面を、男らしさの型を表現することでかっこいい(とされる)男性を演じる宝塚の男役がやるのって、やり方次第では諸刃の剣だなと思うけど、おもしろさの中に格好よさが共存して見えるのは、場面の作り方の緩急と、男役としての土台が確立されている男役が演じているからだと思った。役としての役割をはみ出さない範囲でオスカーが格好良く見える瞬間があるのは、根底に男役としての魅力があるからこそなんじゃないだろうか。20世紀号にかぎらず、のぞみさんの男役の中にそもそも格好よさとおもしろさが自然に共存している説も。

そしてミュージカル作品としての見せ場という意味でも、リリーの場面の華やかさに比べて、三銃士たちが暑苦しく立ち回る場面は絵面としては一見地味に見える。特にリリーによるバベット即興上演大盛り上がり!の直後に配置されるとあまりの落差が際立つ、たそがれゆく三銃士の哀れさ。けれどそんなオスカーの人騒がせな誇大妄想爆発シーンを、力技で手繰り寄せて見せ場にするのもスターの面目躍如たる場面なんじゃないかと思う。気迫と歌声にも圧倒されて椅子の背に張り付けられた。ブロードウェーの王様だ!!(拳をふりふり)

好きな場面がありすぎるので以下箇条書き。

 

  • アルカポネさんとの再会…!ただ通り過ぎるだけで一言も喋らない、あの人は!?とか説明台詞が一言も入らないさじ加減が粋だと思った。いまののぞみさんが演じるアルカポネを想像してみる。シカゴとのご縁…
  • ヴェロニカで花束を持って登場する横顔
  • オリーブのグラスの上で手が重なったときの表情と「失礼」が繊細な大人の対応なのでとてもずるい。
  • リリーの部屋でソファに腰掛けていたオスカーが、「あなたとは何もかもが違うの」と歌いながら背もたれに乗り上げるみたいにして上手に立つ(ダブルミーニング)リリーの勢いに気圧されるように、身体を傾げさせている姿からにじみ出る色気も。
  • 「君の才能もわからない連中」ってリリーに言うオスカーの君のことをわかっているのは俺だけ感が本当にずるいし二人称が「君」なのも卑怯。
  • オスカーの鼻に付くおしゃれなおじさん振る舞いに騙くらかされるけど、オスカーのスーツの着こなし本当におしゃれだし、おしゃれに見えるのはのぞみさんの補正がいつもよりすっきりしているのもある……ベストだけのとき本当に細くてびっくりしたけど、今回めちゃめちゃ動いて汗かくからあんまり着たりまいたりしていない…?
  • リリーに呼ばれて特別室Aでブルースちゃんと顔を付き合わせたところの表情、不機嫌が前面に出ると突然苦みばしったイケオジになるから、さっきまでのおかしい言動のおじさんが隅っこに追いやられて心の定位置が定まらないのでめちゃくちゃ疲れる。
  • ハローミスターマネー!で「夢のよう…」とか「たまらない…」ってほほえんでるきもちわるさと、花婿衣装でいきなりリリーに男役のキスするオスカーおじさんのギャップを永遠に反復していられる。
  • ミスターマネー!の途中でプリムローズさんの手をとってダンスのリードをするところの年配のご婦人に見せる丁寧さやさしさ
  • サインしてリリー!はオスカーの「契約書〜〜〜〜!」からのソロが特にめちゃくちゃ好き。あまりに朗々たる歌声!
  • サインして!リリーの最後の大合唱で、右手をポケットに突っ込んだまま身を反らして左手で何かを指し示す、みたいなキメポージングひとつとっても、男役のスーツの着こなしと所作がきまってるともうめちゃくちゃ格好よかったりする。
  • タイムズスクエアの裏で石を投げつけられるところのみじめさ、一発石が当たったときの悲鳴までやって(細かい)哀れを誘う姿が、映像でしか見てないけどびんちゃんとかジミーをやった時に培った引き出しなのかなという話を友人とした。石を投げないで!やめて!って哀れみを求めるときの子犬みたいな眼やめてほしい好きになっちゃうから…
  • フィナーレの一列になってタップするところで2人だけ前に出てデュエダンでよくある、きほちゃんが斜めに反らした背を支えるときののぞみさんの眉間のシワに心がぎゅっと挟み込まれてかえらない。


リリーについて

リリー・ガーランドときほちゃんが出会った奇跡を誰に感謝すればいいの??このパーティの始まりを誰に祈ろう?となにかに膝を折って首を垂れたい気持ちになった。

すでに劇場での人生を謳歌するきほちゃん演じるリリーが、同じく以下略、なのぞみさん演じるオスカーに「劇場での人生を君に授けよう」と言われる場面に何かを見出さずにはいられない。でもリリーが見出されたポイントが大女優にもくってかかれる迫力、自分をはっきり主張する意志の強さを買われて、というのがもうたまらない。「何度だっていってやるわ!あんたが音痴なのっ!」「クビにするならクビにして!でもいただくものは、いただいてくわっ!」「待って!」(全てジェスチャー込みで)インディアンの乙女の嘆きの、ピアノの伴奏ともに流れるようなきよらな歌声も。オスカーと一緒に彼女の背後で拳を突き出したり拍手をしたりしたい。(丸めがね姿もかわいいし、すでにきらきらラメがのったまるい爪も)

大女優どころか誰であろうとおかまいなし、それが主演男役相手であっても自分がいやなことにNO!を突きつけられる娘役の役がいきいきと描かれている作品って、見ていてこんなにスカッとするんだなあと思った。そうね、待って〜♪のメロディの包み込むような美しさにうっとりしていたら、絶対ありえないわ!の鋭いはねつけに頬をピシャリと叩かれる。その緩急に毎回メロメロだった。耳栓なんてもったいない!(アグネスさん)ブルースちゃんと目のやり場に困るほど熱烈な抱擁とキスを交わし合いながらも「私は自分の好きなようにするの」ときっちり釘をさす彼女の譲らなさにいちいち小さく拍手したくなる。

しかし一方で、自分が仕事できすぎてしまうがゆえに(??)ダメな男に入れあげてしまう、というのにもめちゃくちゃ説得力がある。「ハリウッドに手形を残し!」の掌突き出すジェスチャーが勇ましいのに、どう考えてもついていったら苦労必至なオスカーの告白「今の俺にあるのは夢〜」(だけ)にちょっとよろめいてしまうだめんずぶりの愛おしさ。

マックスを張り倒しての「だけど、他の人が持っていないものを持っているわ!」をひと呼吸置いてから、それまでより落ち着いた声で言うのが好きだと思っていたけれど、他の人が持っていないものってほめる意味でなくても使えるなと気づいて、とてもリリーらしくて余計に好きになる。(落ち目の人を蹴落とすなんて…)

そしてショーアップされた場面を一手に引き受けるリリーが舞台上で衣装をパッと脱ぎ捨てて華やかな(?)姿になる鉄板演出にはやっぱり高揚してしまう(ex.ダニー・オーシャン、バッディ)、フランスを救いし乙女・ヴェロニクの作品再現(??)場面。のっけからの歌声と笑顔の眩しさとのびやかな手脚に、お披露目全ツ初日からショーでこんなに弾けてる娘役さんいる?!と驚いたときの記憶が蘇る。フランス国旗の下から起き上がる構図も含め、こんなにきほちゃんに似合う役ある?!と1幕前半ですでにくらくらとした。ここからフィナーレまでにっこにこの笑顔のリリーを見ることはほぼないので、きほちゃんが歯を見せて笑う時、上唇が描く漫画みたいな弧のパワーも充電。

しかしその後も怒涛のように押し寄せるリリーの大活躍場面にお腹いっぱいにならない、まだください!というところでやってくる、2幕終盤のバベットの即興上演!きほちゃんのまろやかな声で名前を呼ばれたり紹介される登場人物は幸せでは(ex.ロドニー、ナイジェル、マックス)と改めて思った。お酒を、煙草を、と上手下手にふらふらとさまよいながら、強い光に照らされては「我が罪を!」と懺悔する、その切り替えの巧みさに見ているこちらが目を回しそうになる。

「マァックス!やるわよ!」「ダダッダダッダダッダダッ、…マァックス!」(握りこぶし)二度目の「マァックス!」は何度聞いてもそうよこれこれ、といっしょに心の中で拳を握っていた。「この脚本(ホン)大好きよ〜」「ダダッダダッ」「きってきって刻んでやるわ」のリリーにスカッとした気分にならない人なんている?ダダッダッダッダ・堕落!のスタッカートのきもちよさ。最後の土日で2回目の「マァックス!」が初めて聞く声音、拳が入ってない抜け感、しっとりした色気を含んだ歌い方になっててドキッとした。

オペラグラスでリリーを見るか引きでみるか毎回悩むくらい、後ろの紳士淑女の皆さん、上手下手の銀のお盆持ったボーイさんたち(グラスもボトルも倒れない)、ロドニー、ナイジェル、マックスのフォーメーションとそれぞれの踊りが合わさっての全体の迫力がたまらない。それでもなおリリーが見たい!と思うこの場面の視線移動の悩ましさったらない。

日程後半になるにつれて、歌の勢いの増し方と反比例するように、役柄として大事にしている、真剣に聞かせたい台詞は一呼吸おいて、間のあけ方をさらに大事に聞かせている気がして、ジェットコースターみたいな構成のミュージカルだけど力押しだけじゃなく緩急がないと成立しない作品なんだなとしみじみ感じた。

 

羅列していたらきりのない好きな場面箇条書き

  • オスカーリリー推しだけど、ブルースちゃんとのいちゃつき全般も好き。幕末太陽傳のときから、さきちゃんとふたりならんだ絵面がすごくかわいい。しかしふたりの恋愛が絡むお芝居の、のぞみさん相手とは違う、ふれあいのなまっぽさにワーワー!と顔を覆いながら指の隙間から見る、みたいな瞬間が時々あって、オスカーに目撃されるふたりのいちゃつきアドリブには毎回ドキドキしていた。リリーガーランド駅に到着〜〜♡♡はアウトでは?!と初日に友人たちと大盛り上がりしたら、翌日にアドリブ場面と知ったときの再度の衝撃(大好きな場面です)。どれもこれもツボだったけど、ガウンを脱がせたら形勢逆転して、リリーが「がおー!」ブルースちゃんが「こわーい♡」ってなるやつが一二を争うくらい好きでした。
  • 劇中のデュエダンパロのようなデュエダンで、頬?首筋にキスされて、ハッ!って文字をバックに背負ってそうなリリーのハッ!とした顔
  • 何もかもグレイト!から始まるふたりのけんかソングはもうここと区切れないほど全部好き。
  • 「見世物だよ!」(にせものかもしれない)ってオスカー像を掴んでちらつかせるオスカーに飛びかかろうとするリリーの、ジャンプして曲げた脚の地面との並行具合。映像化していたらスクショを撮って角度を測っていた。ぶん投げる時にちゃんとワインの瓶に持ち帰るリリーのギリギリの理性。
  • ローマ帝国の半分を授けようとするネロ(演じるオスカー)から「はいここで君は世紀の名台詞を?!」と世界ふしぎ発見よろしくぶん投げられてあの台詞を返せるリリーの、いっそスーパーヒトシくんしか持ってない勢い、名古屋のお城の天井が高い理由を当てられたきほちゃんに通じるところがある(??)
  • まってて!すぐにサインするから!のサインの手つきのしなやかさ
  • デュエダンのプラチナブロンドが肌の色にはえてるのと、髪の畝の付け方(細かい)

 

ブルースちゃん

さきちゃんのお金を稼がない役が好きなのかもしれないと気付いてしまった…(ex.幕末太陽傳)登場からもうあほあほな雰囲気が出すぎていて、リリーの真似してお色気ポーズするさまを見て彼を憎める人などいるのだろうか??ピンクのスーツなんて冗談みたいな衣装を、冗談みたいに長い脚で着こなすスマートさはあるのに、あまりにもなにもかもがだだもれで愛おしい。

ブルースちゃんによろしくされてしまったので、よいパトロンに恵まれてほしいと祈るしかない。あんなにでかいブロマイドをジャケットの内側から取り出す仕草がすごくスマートだけど、4枚ぐらいぶら下がってるやつも自分でこさえたのかなと想像したらまぬけでかわいい。

そしてこの作品通してアドリブがリリーとブルースちゃんがいちゃつく場面だけ、しかもそれをやってるのがきほちゃんとさきちゃんってことも(なまっぽさにはらはらするのは別として)見ていて圧倒的に心が平和だった。ふたりのことを森のかわいいなかまたち的な存在と思っているふしがある…

こいつはすげぇやぁ〜〜!って興奮してボーイさんの持ってきたお盆の上のカクテルグラスひっくり返して、ぶどうグミもといオリーブを散らかすブルースちゃんあまりにもキャラに合いすぎてアクシデントじゃないみたいだった(かわいい)。かたしといてね、っていうリリー込みで!

オスカーのくさい芝居にオイオイ泣いてて根が素直なところも可愛いし、友人が教えてくれるまで気づかなかったけど、オリーブ即売会場面の神妙さがくせになる。マックスが殴られてるところで、なぜかブルースちゃんも頬に手を当ててるのがキャラとしてブレがなくてツボ(「ちょっとそれどういう意味?!」「あんたは黙ってて」で再度頬に固定される手)

ラスト、フィナーレで20世紀号に手をかけて登場するさきちゃんはめちゃかっこいいけど、ブルースちゃんは多分ハローミスターブロードウェイ!するほどブロードウェイさんに世話になってないしなれる予感もないからちょっとおもしろい。

 

オリバーとオーエン

三銃士のうちのふたり、会計係と広報担当。丸メガネ七三分け蝶ネクタイの方と、懐にスキットルを忍ばせている方。彼ら無くして、作中のぽんぽんとテンポよく運ぶ会話は成り立たない。

外見以上に行動に現れるふたりの役割分担。ボスの勢いに合わせて剣を抜いたり研いだり泣いたり笑ったりするのに、オリバーとふたりきりになるとけろりとしているオーエンは感情労働にめちゃくちゃ長けている。オリバーにストレスを溜めない方法を教えてあげてほしいけど無理なんだろうな。「また例によって例のごとくね」とリリーにこぼすオリバーの口調から、なんで自分はあんなパワハラ上司から離れられないんだろう?と自嘲のニュアンスがにじみ出るのがいい。離れられない一番の理由が給料の未払いってのもまたきれいごとで終わらない現実味があって、肩のあたりに漂う哀愁に、同情混じりの笑いが生まれる。

大勢出てきてのドタバタも楽しいけど、三銃士揃った場面のどことなく漂うトホホ感、オリバーオーエンの同列のふたりだからこその気脈の通じっぷり、阿吽の呼吸「ボス、もう死んだか?」「いやまだだ」が見られるのもいいなと思う。

サインしてリリー!の扉をあけて迎えるオリバーとオーエンがビックサンダーマウンテンの途中で出会う森のどうぶつたちみたいなかわいさだった。(そして滝から落ちる)

 

  • 不死身のオスカー・ジャフィ、序盤でオスカーの手刀を回避できる要領のいいオーエンと、逃れきれてないオリバーの対比。
  • 瞼閉じれば聞こえてくる〜♪って真剣な面持ちで歌ってるボスの隣で、左右の耳に交互に手を当てて、聞こえないけど?えっ?ポーズのオーエン。
  • エアー借金の明細書をわたされて、それまでのノリを崩してチベットスナギツネみたいな胡乱げな目つきになるところ。


ジョンソン先生

あすくんは間の天才か?!あと丸メガネがめちゃくちゃ似合う。アルカポネに引き続いて士業が似合う人だと気づいた。ビジュアルの話だけではありません。

ジョンソン先生が「お読みくださーい!」って歌い出した瞬間にもうおもしろくなっちゃうのは、車掌さんの翔くんの前フリもあるけど、あすくんがお医者さんが専門でそれ以外のことはてんでわかりません!演技とか初めてやります!よろしくお願いします!な佇まいがあまりにもできすぎているのもある。「これなら私にもできそうだ」をもっと胡散臭くやって笑わすというプランももしかしたらあったのかもしれないと思ったけど、それは中の人がなんでもできることを知っていてこそ面白いのであって、何にも知らない人が見ても面白くつくれるあすくんのすごさ…このジョンソン先生は芝居のことは本当に何にも知らない。

一回首を振っただけで、これでいいかな?みたいにオリバーオーエンに合図しようとして、首をブンブン振られてもっと悲しんで!と演技指導されてるジョンソン先生の戸惑い顔、目の下に唾つけてひっくひっく泣き真似をし始めるところ、オスカーのくさい死に演技が進行するにつれて、そばでブルースちゃんがあんまりオイオイ泣きだすのにびびってるところと、オスカーとリリーの抱き合う姿にこりゃまた一本取られたな〜って頭に手をやって扉から出て行くところまでぜんぶ好き。オリバー一回だけ起き上がってジョンソン先生見てるけど、その一回じゃ彼の面白さはわからないよ…!(謎の優越感)

「当たるぞ〜〜〜〜〜!」と「いま忙しいんです!」「過労は禁物ですよ」も好きで、一番に迷う。


マックス

あがたくんのでかさと勢いがとても映えるマックスの登場場面(アクトワン、ツー、スリー!)と、バベットの再現場面でリリーが「マックス!」って勇ましく呼んだら散歩に行く大型犬みたいに飛び出してきて、全身目一杯使ってしゃかりきに踊るのとてもかわいい。


プリムローズさん

プリムローズさん

かわいく歳を重ねるってこういうことでは?!と非実在おばあちゃまぶりがめちゃめちゃチャーミングなレティシア・プリムローズさん演じる京三紗さんなくして20世紀号は成り立たなかったのでは?

ほら、あそこにも明かりが!と朗らかに始まるのに、…人の数だけ欲望が、とあの声音で発される俗世の言葉と眉をひそめた表情にドキッとして、でも一緒に行進したくなるような音楽の軽快さにのせられて軽率にrepentを貼られたくなる。欲望にまみれた登場人物たちとプリムローズさんの対比のおもしろさ。

ミスターマネーで、サインの終わりに小切手をタンッとペンで突くところ、ゼロを付け加えた小切手をなかなか手放さないところ、ブロードウェイのネオンサイン輝く下で三銃士とステップを踏む姿のかわいさ。

そういうところを経ての「婦人はどこだ?!」は初日、このネタで落とすのか、とびっくりして、そこまで続いていた楽しさが一旦ストップしてしまった。人間の老いを軽々しくおもしろく扱って欲しくない、という気持ちから、描かれ方についてじっくり考えるまでたどり着けなかった。

いまでも表現方法として適切なんだろうか?と思わなくはないのだけど、オリジナル版では演出はわからないけれど、歌詞がもっと直接的で、それを「婦人はどこだ?!」におさめて設定もふんわりさせたことは宝塚でこの作品を上演する、という前提で考えたとき、いちばん納得がいく潤色なのかなと思う。直接的な言葉を口にするのは、もともと柄が悪いオーエンだけ、というのも絶妙だった。観客におもしろさとして提示されているのは、小切手がぱあになった三銃士たちの落ち込みのほう。

京三紗さんのあのかわいらしさが、駆け抜けていく列車に乗った姿もいたずら妖精かな??みたいに見せているのもとても大きい。加えてまちくんの甥という配役の絶妙さよ…!あの真剣さで迫られたら、変なふうに茶化せない。そしてあの5センチくらい空に浮いていそうなレティシアさんなら元気よく「塀を乗り越えて」しまうこともあるかも、なんてうっかり想像してしまう。

マフラーを編んでいるのは友人に言われて初めて気づいたけど、先の場面で長くなって出てきているのも知って小技が効いているなと思った。糸をかける手つきも本当に編んでいるみたいでおもしろい(しかし地の部分の色の毛糸玉しかくっついてないことを確認)

 

 

オスカーはあまりにのぞみさんにはまっていて、リリーもきほちゃんにぴったりで、これ以上ふたりに合う作品にはもう二度とお目にかかれないのではと思うけど、そこを軽々こえてゆくのが宝塚の座付き作家のあてがきの力なんだろうな〜と思いながら西に向かって念を飛ばしています。

星組『霧深きエルベのほとり/ESTRELLAS(エストレージャス) ~星たち~』

星組『霧深きエルベのほとり/ESTRELLAS(エストレージャス) ~星たち~』

 

 

 

芝居でもう精も根も尽き果てて、帰る!あたしもう帰ります!という気持ちをなだめてぐったり椅子に身を預けて観たショーもやっぱりすばらしく身にしみて、宝塚フォーエバーをBGMに走り出したくなるのをこらえて帰宅した星組観劇だった。こういう気持ちを見つけに宝塚を観劇しに行ってたんだと初めて気づいて、心が生まれなおしたんです・・・!とカマトトぶりたくなるくらいの心境。

 

久美子先生の作品を観ると(今回は潤色だけれど)いつかどこかでこの景色を観た、よく似た感情を抱いたことがあるような懐かしさや苦しさがじわっとこみ上げてきて、いてもたってもいられない気持ちになることが多い。単に時代設定がふるいから、ということではたぶんなく。優れた物語は体験させる、というような言葉を聞いたことがあるけど、(初めて観たのに)なんでこういうのが観たかったって知ってるの?と感じさせる作品は、握手しようと差し出した相手の手が宙ぶらりんになるいとまを与えない、早撃ちのガンマンみたいな技を使っているのかと思うことがある。

差し出されたコップを見て喉が渇いていたことに気づく。自分の欲求が先にあったのかそれとも相手からの提供ありきの感情か、攪乱させられる。ツボを突かれた、の7文字でけりがつくようでつかない。

霧深きエルベのほとりも例に漏れずそんな思いがじわじわこみあげる作品のひとつだった。実在した著名な人物を扱う歴史ものとはまた違う、いまとの時代設定の乖離や内容を考えて、こういう作品が現代で成り立って、それを生で観劇できるなんて…!という感動。

いやいや流石に古すぎる演目では?と発表時に思った自分の背中を蹴りたい。カールの言葉を自分のものにするべにさんの口跡の鮮やかさに、デコちゃん(高峰秀子)のエッセイの口語のみずみずしさを思い出していた。(そういうの好きじゃんと気づいたという意味)

 

誰かにかわいいや愛おしいを伝えたいときに、自分がつらい苦しいとはき出したいときに、そのまま口に出すだけが人間じゃないし、そのまま口に出されなくても、観ている側が読み取ることができるような話の運び方や会話はつくることが出来る。

あるいは該当箇所だけ切り取れば、あまりに簡潔、そのまんまの物言いに思えても、言葉がぽんと出てくるまでに話し手がどんな人かが場面の積み重ねできちんと描かれているから、まんまじゃん!と興ざめすることなく、ただ飾らない言葉としてしみてくる。お芝居を観ることの楽しさに立ち返る。

 

たくさんの心に残る場面のなかのひとつ、「着物」の話をするふたり。

マルギットの2枚でいいわ、に涙が出るのは、彼女の心ばえのいじらしさかわいさももちろんだけど、直前のぶっきらぼうな物言いから透けるカールという人の心が愛おしいから、そういう彼を愛し愛される彼女までもがよけいにかわいく思えるから。

かわいいって言葉は見た目の形容だけじゃなく、かわいい、愛おしい人たちだなあと思わせる台詞の応酬の巧みさ、その言葉を立ち上がらせる役者の台詞の間の取り方にも比重が置かれている。人間の愛おしさをじっと見つめているような台詞群。

そもそもこのタイミングで着物の話をするのかよ、というおもしろさがあって、そこに男の見栄の話を被せるカールという人の素直でない会話の持っていきかたがある。

女房に着物の1枚や2枚~と、彼はそういう口の利き方をするけど、言葉の裏や態度ににじませた、マルギットが喜ぶことをしたい、良い暮らしを与えてやりたい気持ちをまっすぐに表せない彼の優しさをマルギットがちゃんとうけとるから、観客もカールの、ふたりの思いやりを受け取るし、この物語に身を委ねたくなる。ふたりのやりとりから、彼らが互いに抱いた思いそのものだけでなく、カールとマルギットという人たちの人となりが分かる。

自分がなんでいいと思ったか残しておきたくて書き起こしてみたら、やぼさにうんざりするぐらい、見ていればもう伝わるものだった。

 

あーちゃんのマルギットの目に入れても痛くないような愛らしさをみると、べにさんのカールの相好をくずした、って表現したくなる笑みにもすとんと納得する。回転木馬に乗る場面の二人のかわいさに心がかき乱されて感情がザァーッと地引き網でもっていかれる。

美しい景色をまぶたの裏に浮かべたまま肩寄せ合ってじっとしてるベンチの二人をいつまでもそっとしておきたい。お供え物のように朝ご飯をととのえておきたい。

二人が惚れ合っていさえすればそれだけでもういいじゃねえか!(うろおぼえ)

 

男が女に「可愛がってもらえ」と言葉をかけることにびっくりしないのは(いやほんとはびっくりするけど)、宝塚だからというだけじゃなくて、現代の時間軸ではない設定と、カールという人はこういう言葉の選び方をする人なんだよ、と舞台上と客席とで前提がきちんと共有されたなかで芝居が進んでいくから。「泉をもらっちゃってくれ」と晴興の前で地面に額をこすりつけた源太のことを思い出す。そういう言葉で彼女たちへの愛情を表現する彼らの生き方を2019年からのぞき込む。

そしてドイツのエルベ川のほとりが舞台のはずの物語のなかから聞こえてくる「女房」「着物」「百姓」「文士」。アラゴルンが馳夫さんになる(岩波の指輪物語)翻訳小説の世界に馴染みを持った心も手伝って、久美子先生のインタビューにあったように、人の心の動きはまるっきり昭和の日本人のもの、と考えれば語彙を言い換えずにそのままにした意図も納得がゆく。「おれ」を「おらぁ」に近く発音する「ぼく」(ぼくは、だ、)をうまく口にできないカールの泥くささに、しっくりなじむ言葉。古いけれど、ぜんぜん古くない。彼が話す言葉として生きている。

 

たくさんのお膳立てはもちろん、カール・シュナイダーという人を魅力的に舞台に立ち上がらせているのは、紅さんという役者の魅力によるところがなによりも大きいというのは、観た人全員が感じることだと思う。これ、当て書きですよね?と錯覚するほどの、カールとべにさんのぴったり・しっくり感!!

ロミジュリのラストでひとりぼっちのベンヴォーリオを見たときか、桜華に舞えでお土産いっぱい詰まったトランクを渡せなかった姿を見たときからか覚えていないけど、べにさんには泣いた赤鬼かよだかの星の朗読をしてほしいなとこっそり思っていたのですが(謎の夢)二人は夫婦になる、二人は夫婦になる、のところで目からわーっと涙がしみ出したのはなぜだろうと記憶を反芻していて、これが泣いた赤鬼だったのでは…!といまさら気づいた。

カールのやさしさやさみしさ、彼が懸命に恋をして、自分の身の丈の範囲で相手にしてやれることを精いっぱい考えて実行する姿に、全部差し出す方法の不器用さに、心が勝手にぎゅーっと寄っていく。他に方法はあったでしょう?とあぶくみたいに浮かんだ考えを突きつけられない、仕方なかったんだ、とまるめこまれる。

べにさんがある役を演じているときの、顔いっぱいに浮かべた笑顔・泣き顔がないまぜになってそのままわーっと感情が雪崩れていくところに、いつも巻き込まれてべっしょべしょにされている気がする。たぶん私は望海さん(の演じる男)よりべにさん(の演じる男)のほうにお金を渡して身ぐるみはがされちゃうタイプなんだとあきらめがついた…。(中の人の話はしていません)

あんなにシュッとした風貌で世の中うまく立ち回れそうでいて、一番大事な人と思いを遂げられない、それでも泣くのは性に合わないからへらへらしてる。「真面目に振られて真面目に泣いて~」の台詞は、カールはもちろん、べにさんの男役の魅力をぎゅっと濃縮したような台詞だと思った。(中の人の男役としてのニンとはやや混同している)今その言葉を思いついて口に出したみたいに聞こえる「あ…」とか「え…」とか全部の言葉の間合い、唇や指をなめる、噛むしぐさも、全部が全部カールという人のくせに見える。

 

マルギットを相手取る言葉もしみるけど、別れた相手への心配りの仕方が見えるという意味で、アンゼリカとの場面もたまらない。「おれはもう行くよ」というカールから、夫がいるのに昔の男に会いに来てしまった彼女の、いまの状況を彼なりに慮る様子が伝わる。そういうかっこつけしか出来ない人なんだろう、かってだな、という解釈もあるかなと初めて気づく私は見終わってルサンクで台本を読んでいる私で、見ているときはいっさいさめなかったのは役者の熱量や劇場の空間に飲み込まれていたんだろうか。

かっこつけという言葉とはまったくそりが合わない、酒場でヴェロニカの膝にすがりつくカールの背中をみながら「幸せになれよ!」をあんなに自分への酔いを面に出さずに切実さを讃えた言葉として口に出来るものなんだろうかとも思った。心の中に豊かな相手への思いがあふれているから、その奔流を注ぎ込むことができるんだろうに、その大元をはいどうぞここにありますよと相手に差し示すのが苦手な人なのか。

 

最後にお金を返したら愛想尽かしが嘘だったってバレちゃわない?!とちょっと肩すかしを食らったようになるけど、そこで下司と思われ続けるのは自分が可哀想、っていう、自分に対して「可哀想」という突き放した表現をするおもしろさとかなしさが、真面目なことをへらへらと笑いながら言うカールの魅力なのかもしれない。素直じゃない人の素直じゃないところ、自分の横に立ってたらいらだってしまうかも知れない人を好感度を持って見つめられるのが舞台や物語の本当に面白いところだと思う。

しかし「こんな人だ」(指差し)のところを思い出すと、ねえそうやって真顔とおちゃらけを取り混ぜるのこっちの身がもたないからやめて!と心のなかで悲鳴をあげてしまう。その後の一度目の「ほんとだよ」も「呼吸を止めて一秒あなた~♪」って脳内でBGMが流れ出す錯覚が起こるほどにやさしく穏やかなのに、直後の茶化しとのギャップが浚われた心が迷子になるレベルのひどさで、お、おまえなァ~~!ってとっちめたくなる人間ジェットコースターぶり。

そもそも二人の出会い、酒場での粗野・穏やかさ・おもしろさetc.万華鏡のごとく変化する彼のたくさんの顔がもう、お嬢さんの心を掴んでしまうには十二分にじゅうぶんなのでは?!カールとマルギットが手のひらをそっと合わせたときのサイズ差に打ちのめされ、少しの間をおいてぐっ、と彼女の手をさらっていく様は”たとへば君がさっと落葉すくふように私をさらって行ってはくれぬか”を舞台上に起こした光景みたいだった。

 

一方フロリアンは、確かにこんなにおきれいな人いないとも一瞬思うけど、育ちと彼の性格上、しゃべり口調だけじゃなく感情の抱き方から他者への伝え方まで一貫してああいう表現しかできない、ある意味で不器用な人なのかもしれないと思った。「ほんとはカールのことなんてどうでもいい」からはじまる一連の言葉に、彼の本音がちょっと透けている。

自分がどうあってもいい、という自己犠牲精神からああいうふうにふるまっているのではなく、彼はマルギットにこうあってほしい、そしてそういう彼女を自分は愛していたい、という理想が高い人なんだろう(おそらく)。でもだからといって、相手に気持ちを押しつけていると一方的に糾弾するのも何か違う気もする。そこを追求するなら同時に、相手のことを考えた結論という蓑にくるんだカールの突き放し方も、マルギットの幸せの形を勝手に想定して狭めている、と指摘できてしまう。自分が思うような相手を愛したい、そういう人を愛している自分で居たい、という気持ちが自分の中に1ミリもない人だけが、彼らを笑うことができるんじゃないだろうか。肝心なのはさじ加減かもしれない。

同時に、彼らの選択、言動が正しい正しくないというよりは、ある角度から見たときにマルギットにフェアではない、と感じてしまうものはなにに根っこがあるんだろう。この時代においては、恋愛のみならず多くの場面で自分が導く側の性と背負い込まされているのは男性という、いまよりさらに縛りがきつい価値観に行き着くからかもしれない。

観ている人の心を動かす、という意味で現代での再演が可能というのは、上演されているという事実が何よりの証拠だと思う。でもそれがイコール、カールやフロリアンの巡り合わせのしんどさを物語として味わう意味や理由の内訳に今と昔で差がない、ということとは違うものなのかもしれない。

ふるい男や女の価値観の内面化をそういうルールと逆手取って、男役や娘役を崖っぷちに立たせることで魅力を引き出す宝塚の様式美があって、そこにぴたりとはまりこむという意味での作品の普遍性はある。

現実の男性のふるまいとしてはもはや滑稽に思える、かっこつけが肥大した姿は、男役の身体で過剰に表現したときに初めて「かっこいい、つらい」と思えるものになるねじれ。

 

身分の高さも職業の低さも、というようなことをあの場で言えるフロリアンは、やっぱりあらゆる意味で坊や育ちで、そういう違う階層の人と根本的に相容れない人の残酷さを一歩引いたところで観察して「残酷ね」って言えるのも舞台で物語を味わうことのおもしろさのひとつでもあると思った。「いつか僕も他の誰かを愛するかもしれない」という台詞は金色でジャーも言っていたなと思い出す。シュザンヌへの「君も誰かを愛したら」「いつか君を愛するかもしれない」も残酷なんだけど、完璧な人の落ち度にも思えて、外野としてはひどさと同時に憎めなさも感じてしまう。つっこみの余地がある、とも言い換えられる。

 

男が嘘の縁切りをした相手を想って、酒場にいる年かさの女の膝にすがりついてわんわん泣くのを見ながら一緒に涙が出てくるように仕向けられるのは、女が演じる男の仕業だからか、役者の力か、脚本と演出の巧みな運びゆえか、時代・場所の設定ゆえか、もうその全部なのでは?と思いつつも、やっぱりこんなの今の時代において宝塚以外のどこで望める光景なの?とも思ってしまった。鴎のように自由に飛んで、行く先々に女をつくるのが男の甲斐性とうたわれる設定を現代に生きる人たちが演じるということ。

 

カールという人のやり方の乱暴さ、あれをキャラクタの愛嬌と成り立たせられる、そこにつっこんだらやぼと思わせるような世界を紙一重で成り立たせられること。あれは、もうカール・シュナイダーってのはそういうひとだからさ!そこがいいんだから、って観客に納得させるのは、今新たにつくるお芝居や映像でできるんだろうか。そこにシスジェンダー男性がいたとしても?ということをいつもいつも考えてしまうけど、どうなんだろう。

こういうひとはいない、という共通認識をバネにしてとんでゆける物語の広がりに、そこにひととき身を預けることの心地よさを全身で味わって、頭のてっぺんからつまさきまですみずみまで満たされている。

 

 

 

エストレージャスについて(箇条書き)

お正月にテレビ放送を見たときはあまりぴんときていなかったショーは、生で観たら身体の炎がごうごうと燃えた。結局家に帰って録画を再生してしまったのですでに生で見たものと記憶があいまいになってきているかなしみ。

・「ピリピリしてる」でべにさんが銀橋で手を払う、腕の長さが映えるしぐさが好き。

・エルベの水夫たちの酒場ダンスを見ながら、星組男役の荒くれ者ども最高だなと思ったけど、ショー冒頭でステップ踏んでるだけでもめちゃめちゃぐっとくるし、もう舞台上のすべてのタカラジェンヌその場でステップ踏んでるだけでいいです、となるときも多い。こんなに身体能力高い人たちを連れてきてこれだけの動き…という考えはおまえがあんなふうに美しくステップを踏めると思うかい??と自分に問いかけてからにする。

・POP STARは、あんなにめろめろな人に「もっと夢中にさせるからね」と歌われる友人の気持ちになってしまった。下手花道での投げキッスは「客席の片すみの愛しい君のために」との近しさをかってに感じ取っている。

・一番高いところからぽんと現れる赤いドレスのくらっちがステップを踏む姿も華やかで魅力的だなあと思う。心の持っていき方とか漠然としたものだけじゃなくて、娘役さんとしてかわいく見せる技術を積んでいる人の舞台上でのあり方に思いを馳せる。技術を積まないとできないのにうまれたまんまでかわいいです!みたいなふるまいが求められる場面もあるから、想像だけで頭が痛い。でも彼女らは見ているときにこちらにそんなことをほとんど思わせない。得がたいものを見せていただいている・・・。

 

・聞き覚えありまくりなTDVでも使われていたあのロックナンバー、ダイナミックなダンスはもちろん、めいめい黒ずくめファッションに工夫を凝らしているのが絵的にたまらない。はるこちゃんのレースのトップス×黒ワンピース×レースレギンスに黒髪ストレート前髪ぱっつんwith小さい黒ハット、ゴス雑誌のモデルさんのようなスタイルで立っているだけでもいいのに踊るんですか?えっ踊ってくれるの??って身を乗り出したくなる(気持ちだけ)。盆でまわってくるキメッキメべにさんのくわえ煙草からの投げ捨てはこう、最近のあのアイテムの扱い的にギリギリアウトな気がするんだけど、あんまりにも格好いいからオペラグラスを下げられない。幻の男が投げ捨てる吸い殻の軌跡を追う。

 

・A先生は80年代洋楽ロックの趣味がミキティショー(花NWとファンシーガイの恩)と近い気がして、アスタリスクメドレー頭からの3曲、特にHot stuffにはすみませんこういうの大好きなんです!!!と心が五体投地してしまった・・・・・・。男役がアップテンポで振り数多い振りをこなす→世界一かっこいい決めポーズ(おのおの)を繰り返しながらきりりとした真顔と好戦的・誘い顔(とは・・・)を交互に繰り出すのを観ていると、脳内からどばどばとやばいなにかが出てくる。快楽に命を捧げるのだ!(ドンジュアン)マサツカ芝居冒頭のスーツ男役総踊りぽさ(ケイレブ)もある。てんじゅさんを主に見ていた。

・これだけでも最高なのに、直後にあーちゃんがセンターを張って娘役をぞろりと好戦的に引き連れてくるから、気の強い娘役きらいじゃないよ!!!って拳を握ってしまった。あーちゃんの低い歌声から醸し出される色気がとても好み。指さし確認のその先に座りたい。あんなにかわいいのに格好いいお姉さまも様になる不思議。さらさらロング・おでこ全開ヘアの似合いぶりよ・・・!はるこちゃんの髪型もまたまた似合っているけどなにをどうやっているのかまったく分からなくて(あのタッセルみたいな髪の束は)でも似合っている。

・そしてすでに感情の上限目盛りを超えているのに次がことちゃんのSUNNYってもういいかげんにして!? STARLIGHT PARADEのさらりとくせなく聴かせる歌声もすてきだと思うけど、個人的によりぐっとくるのはこのくどいしつこい歌い方だなと思った(眉間のしわ込み)。もっと聴かせてくれ・・・。後ろで抱き寄せ重なる恋人たちのポージングも、それぞれに寄って見ても引いても絵として好き。

・中詰めのオレンジレンジ、これを成り立たせられるのべにさんだけでは!?わりとそれ以外の人に任せたら大事故になるよね?!(各組トップさんを思い浮かべながら)というくったくなさがあますことなく発揮されたナンバーだった。肩を組んで笑い合うタカラジェンヌを見ると泣けてくる、団体行動が死ぬほど嫌いorウェイウェイするのがにがてなヅカオタは多分多い。

・織り姫と彦星と白い鳥たちの、出た~~~宝塚!場面も、この鳥の羽が額飾りからはえてる宝塚歌劇衣装の系譜おもしろいよね、というところから好き・・・!になるまでのスパンがだいぶ短くなった。フォーメーションが美しくて見入ってしまうのは、Mr.Swing!のエトランゼを2階から見るのが好きだったのと同じ感覚かも。あの場面のような妖しさは成分はなくて、こちらはもっと清く美しい宝塚空間、流れている空気が澄んでいそう。森で道に迷ってうっかり木の影からのぞき見た景色みたいな。

・ショートカットの強気な小娘あーちゃんも堪能。やわらかそうな背中に渡ったレースの、挑発的な目つきの色っぽさったら!

・デュエダン、これが宝塚がおくる幸せのかたちですよと誰かに指し示したくなる。おまえはいったい誰なんだと揺さぶられても、私はこういう表現のために宝塚を観に行くんですと言いたくなるような、多幸感で充ち満ちた光景だった。あーちゃんが大階段に斜めに走る光の道を下手から降りてくる途中で、銀橋のべにさんが背中にその姿を感じながら後ろを向いたままほほえむ表情や、銀橋に出る直前、上手花道で笑い合うふたりのぎゅっとした表情にわしづかみにされる!!いま得がたいものを見ているのよ、とドンドン心をノックされる。男役娘役問わず、相手役さんを一心に見つめる姿、横顔に、見つめ合う二人に、横入りする余地がいっさいない関係性を感じ取って、見ているだけで幸せ!と腹の底から思うこの心のありかたの不思議さ。